2009-04-04

こっちの都合。

今日はすごい雨でした。
何回か雷を伴って激しく降りました。

春ですね。

明日はJOYJOYイースターの日ですが、
はれるかなあ、と思っていたのですが、
今、予報を一通りチェックしたら、
曇りがちのようです。
風も強く、肌寒い日になりそうです。
とにかく雨が降らないでいてほしいです。
外でエッグハントしますから。
中じゃあ、隠すところないですから・・・。

で、何だか今年は時差ぼけがまだひどいです。
朝はスッキリ目覚めるのですが、
夕方は眠いです。
思考能力が停止します。
会話も弾みません。

でも、あるが言っておられたのですが、
元々時差ぼけなんて、人間が造り出したもの、こっちの都合。
カラダの方は普通にそのままリズムを刻もうとしているだけ。
だから無理をしなくていい。

ですよね~。
神様が造られた秩序をちょっと人間が乱しているだけ。
こっちの都合を押しつけてはいけません。
勇気百倍もらって、時差ぼけをもうしばらくEnjoyしようと思います。

今夜は中高生がうちの子たちを入れて(あと大学生も一人入れて)8人お泊まりです。
明日のJOYJOYイースターの準備だそうで、
まだしばらく起きているみたいなので、
わたしも礼拝の準備をしつつ、もう少し時差ぼけを楽しもうと思います。

さて、日曜日、29日の聖書。
29日はヨハネ15:18-27

「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。」19節。
イエスによって呼び出された者。
世の中にどっぷりつかるのではなくて、
そこから選び出されている。
違う者としてこの世に遣わされている。
世から浮いてしまうのではなくて、
世の中に遣わされている。
だから、いつもいつも主につながっていよう。
そして、いつもいつも主から知恵と力を頂こう。
世に生きるために。
主よ、
どうか、わたしを守ってください。
そして、わたしをこの世に生かしてください。
あなたの証人として生かしてください。
そして、あなたの祝福が流れるポイントとして用いてください。


2009-04-02

互いに愛し合いなさい。

木曜日の夜です。
今日は予報通り、本当に春らしい日になりました。
でも、この天気も今日一日だけ。
明日はまた雨です。
決して冷たい雨ではないのですが、
今日みたいな日の翌日の雨は、
底冷えがしそうです。


今日は我が家での家庭集会の初日。
小さな集まりでしたが、
とても幸いな一時を過ごしました。
人数は決して多くなくていい、
本当に幸いな一時が持てるようにと願っていましたので、
もちろん、一人でも多くの方に聖書の言葉を知って頂きたいのですが、
いいスタートを切ることができたと思います。
毎月第1週と第3週の木曜日です。


それから、ハジの大学の結果が出そろいました。
すべて合格とはいきませんでしたが、
複数の大学から合格を頂きました。
お祈りありがとうございます。


願い通りに行かなかった部分もあるのですが、
(寮費も含めて全額出すから来い!という学校が与えられる・・・という大胆な願い)
親も子も、それも神様からのチャレンジと受け止めて、
歩んでいければと思います。


なんだか、遠いところの大学になりそうです。
今月中に決断をしなければなりませんが、
主が答えを与えてくださいますように。
わたしの大学院の時みたいに一つしか合格がもらえなければ、
もう、どんなに不本意でもそこに進んでいけばいいのですが、
今回、祈らされます。
でも、本人の人生。
本人が神様から答えを頂けるように、祈ります。


さて、3月28日(土)の聖書。
やっとNJに帰ってきてからの分です。
ヨハネ15:9-17。


「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」12節。

何日か前のところにもありましたね。
愛し合うこと。それがイエスの命令。

でも、愛し合うってどういうことなんでしょう。
あのイエスをためそうとした律法学者は、自分の立場を弁護しようとして
「誰が愛すべき相手ですか?」と聞きました。
でも、わたしはためそうなんて考えはないですし、
自分の立場を弁護しようとも思いませんが、
やっぱり純粋に聞きたいです。
「愛する、ってどういうことですか?」

考えることじゃなくて、行動だよ、
と思います。
でも、愛することだと自分で思ったことが、
言ったことが、起こした行動が、
愛として伝わらない時もあります。
反対に怒りを買う時もあります。
誤解を受けることもあります。

それでもいいのでしょうか。

愛だと思って許したことが、
裏目に出ることもあります。

一生求めていくのでしょうか、
一生試行錯誤なのでしょうか?

intentionさえ良いものだったら、
結果はどうなろうとも、それはいいのでしょうか。

うーん、やっぱり考えすぎなのかなあ。
主が教えてくださいますように。

主よ、
愛することを教えてください。
愛を行動にすることができますように。
信じて、行う者とならせてください。

生活を取り戻す。

木曜日の早朝。
昨日の午後からの雨、
結構降りましたね。


今日は朝のうち霧や弱い雨がありますが、
午後には晴れ間も出てくる、暖かい日になりそうです。
でも、この後もちょっと天気はぐずつき気味。
本格的な春はもうちょっと先のようです。


昨日はそれまでの反省で、
早かったですが、最初に眠くなった時に、
眠くなるアレルギーの薬を飲んで寝ました。
そしたら、まあ、眠れました。
早く寝た分、早く起きましたが、
これは計算に入っていたので、爽快です。


もう明日で1週間になりますから、
そろそろ普通の生活に戻したいと思います。


そんなことを考えていたら、
高校時代に初めてスキーをした時に、
教会でスキーのインストラクターをされていた方に、
「スキーに乗られるんじゃなくて、乗るんだぞ」と言われたこと、
車の教習所でL字走行、S字走行に苦労していた時に、
教官に「車をコントロールするんだ、おまえは車に振り回されている」と言われこと、
思い出しました。


私の生活も、生活の中の一つ一つの出来事に振り回され、
それを何とかこなしている、という時もあるように思います。
どんどんスピードが出てしまうスキーの板に
へっぴり腰で何とかついて行っているような、
あっちにぶつかりそうになり、こっちにぶつかりそうになり、
あわててハンドルを切って何とかしのいだと思ったら、
次の縁石に乗り上げそうになって・・・みたいな、そんな感じ。


勿論、神様の御手の中で、ということを忘れてはいけないのでしょうが、
あの教習所の教官が続けて言ってくれたこと「とにかくスピードを落とせ」、
その大切さを思わされます。


さて、先週金曜日、3月27日の聖書。
ヨハネ15章1-8節でした。


「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」2節

わたしたちは刈り込みをされる時に、
悲鳴を上げます。

「どうして?」
「痛い!」

どうしてこんなことになってしまったんだろう。
ある時は、自分を責めます。
あれがまずかった、これがまずかった、と。
ある時は神様にたてつきます。
「あなたに従ってきたのに・・・」

でも、それはわたしたちがもっと豊かに実を結ぶためだった。
もっともっと豊かに実を結ぶために、わたしたちを主は刈り込まれる。

・・・そうだったんだ。


神様の愛とめぐみを思いました。
神様がわたしたち、わたしを整えて、
豊かに実を結ばせようと期待しておられる。


主の祝福を見ました。


主の祝福が見えてきました。


主よ、
ありがとうございます。
わたしを愛し、わたしたちに期待しておられることに感謝します。
刈り込みを感謝します。
どうか、実を結ぶまで、導いてください。
あなたにつながって実を結ぶ働きをさせてください。

2009-04-01

世が与えるのと異なる。

何だか、調子が出てきたので、
(やっぱり時差ぼけか・・・今2時前)
もう一回分更新。


でも、ここら辺で、眠くなるアレルギーの薬でも飲んでおいて、
眠れるようにしておきます。


さて、3月26日(木)の聖書。
ヨハネ14章25-31節でした。


「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」27節。

イエスが与えてくださる平安は世の中が与えてくれる平安とは違うという。
イエスがみことばによって、語りかけによって、
与えてくれる平安、確信、喜びは、
確かに誰かの励ましとか、状況の好転とか、
そういうものによって与えられる平安とは
質的に違う。

今まで、「もっと大きい平安」と思っていたけれども、
量的な違いではないような気がする。
質的な違い。

勿論、私は状況も良くなるように祈る。
病は癒されるように必死になって祈るし、
必要は満たされるように祈る。

でも、それがその通りになった時の喜び、平安と、
それは願ったとおりにならないんだけれども、
神様から答えを頂くことによって与えられる平安とは、
質的に全く違うもののように思える。

今日もある方と話していて、
お証しさせて頂いたけれども、
自分が聖書学院にはいる時に、
「君は牧師に向いていない」と言われて、
ものすごい不安になった。やめようかとさえ思った。
自分が向いていないことは誰よりも知っていたから。

でも、主がみことばを与えてくださった。
主が確かに語ってくださった。
「私の力はあなたの弱いところに完全にあらわれる」と。

その時に与えられた平安は、
人の励ましや、「向いていない」発言を批判する言葉によって、
与えられる気持ちとは全然違う。

神の与えられる平安は違う。

だから、やはり、主の平安を頂きたい。
主の答えを頂いて、
平安の中に歩んでいきたい。

主よ、
あなたの平安を私にください。
状況の好転も求めます。
それも、確かに、欲しいです。
でも、それよりも、あなたの平安が与えられることが必要です。
どうか、あなたの平安で満たしてください。

あなたを捨てない。

日付は変わりました(4月1日!)が、
今は火曜日の夜(水曜日の未明)です。


また何とか挽回しようと、
もう一日分更新しておきます。


3月25日(水)の聖書。
ヨハネ14章15-24節。


「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」18節。

主は私のことを捨てることはない。
この時の弟子たちは、本当に不安だっただろうと思う。
イエスがいてこその自分たち。
なのに、そのイエスが、「私は去っていく、あなたがたは私の行くところにはいけない」というのですから。

捨てられたように感じる、そんな時があります。
これからも一緒に歩んでいくんだろうと、信頼していた誰かが、全く違った方向に歩み始める時。
でも、それは本当は「信頼」ではなくて、「自分勝手な期待」なんでしょうね。
一人一人、神様との関係の中で、決断をして歩んでいく。
本当は捨てたんでも何でもない。

以前、日本から来られた伝道者の方が、
「わたしたちの互いの関係はその間にいつも神様がおられないといけない」といわれていました。
その意味が、だんだん、わかるようになってきました。
一人一人神様との関係の中に生きていく、
その歩みが、同じところに導かれたり、
また別れたりする。
人が人を捨てたり、裏切ったりするのではない。
神様との関係の中に生かされていく。

弟子たちもイエスに対して自分勝手な期待をしていました。
自分たちのリーダー、政治的、軍事的なメシヤ像を期待していました。
でも、イエスは十字架の道を歩まれたのです。
聖霊様に弟子たちを任せて、天に帰って行かれたのです。

決して、捨てたのではない。
そして、今もわたしたちを捨てないで聖霊様を通して共にいてくださる。
世の終わりにはわたしたちのところへもう一度来てくださる。

感謝。

主よ、
あなたがわたしたちを捨てない方であることに、
わたしたちと共に歩んでくださる方であることに、
心から感謝します。
一つ一つの出会いを祝福し、
あなたが同じところに生きることを与えてくださった互いを、
受け入れ、仕えていくことができますように。

2009-03-31

やっぱりです。

今日は気持ちがいい春の日でした。
こちらも花粉の季節が始まったようですね。
私はまだ大丈夫なようですが、
いろんな花が咲き始めています。

明日は午後から雨。
土曜日くらいまでスッキリしない天気が続くようです。
土曜といえば午後3時半から
JOYJOYイースター
過去にはみぞれが降った時もありましたが、
今年はまずまずの天気みたいです。

いやあ、本当にやっぱりでした。
昨日の夜は1時頃に寝たのですが、
目が覚めたので、おそるおそる時計を見たら
3時半!
ばっちり時差ぼけになっているではないですか。
それも、気持ちよい目覚めでしたよ。

いやあ、参りました。
そして、昼頃から夕方がめっちゃねむい。
つまり日本時間の夜の時間帯ですよねえ。

何とか早くこの状況から脱しないといけませんね。

ということで先週火曜日の聖書。
24日(火)はヨハネによる福音書14章1-14節。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」12節。

イエスがこの地上でなさったことよりも大きなことをわたしたちがする。
そんなことはあり得るのだろうかと思いましたが、
それはまたすごいこと、すばらしい約束だとも思わされました。

わたしたちは胸を張って歩いていい。
イエスがこの地上でなさったことよりも、
もっと大きなことをさせて頂く。
そのように歩ませて頂く。
それは何という幸いだろうか、
何という大きなことだろうかと思います。

それは人々の救いのことであろうと思いますが、
私の人生を通して、多くの方々が、神様のところに導かれていく、
そのような歩みをさせて頂きたく、祈らされます。

主よ、
あなたが私を通して、
大きな御業をなしてくださることを、
心から感謝します。
どうか、教会に連なる一人一人も、
そのことを覚え、
そのことを感謝して歩むことができますように。
そして、それを現実のものとしてください。

2009-03-30

来ましたよ。

今日は朝からスカッと行きましたね。
でも風は強かったです。
今夜は霜が降りるくらい冷えそうです。


明日は晴れて風もおさまり、
暖かな春の日になりそうです。


今日更新をがんばろうと思っていたのですが、
ほぼ1ヶ月ぶりの休日となった今日、
子供たちを学校に送り出した後、
ちょっと昼頃まで横になるかなあ、と思ったら、
「迎えに来て!」という電話で目が覚めました。


5時間くらい寝てしまったようです。
ほっとかれたらどこまで寝ていたのでしょうか?


金、土、日、と夜ちゃんと寝ていたと思うのですが、
まあ1日2-3時間でしたから
カラダは正直です。


今夜ランランと目が覚めないように祈るのみです。


さて、先週の月曜日の聖書。
23日(月)はヨハネ13:31-38でした。


「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」34節。

この、互いに愛し合う、ってどういうことなんでしょうねえ。
だんだん難しいなあって思うようになって来ました。
そんな難しくない、と思っていたころは、
きっとナイーブだったんでしょうねえ。

それも、イエスがわたしたちを愛したように、
ですからね。

でも、頭で「難しいからな」とか、
口で「難しいですよねえ」と言ってばかりいてもしょうがない。
そんなのは逃げでしかない。

これはイエスさまの命令ですから。
だから、難しいけど、「愛する」ということをさせて頂こうと思う。
主の愛を頂いて、主の愛に満たされて、
人を愛する者とならせて頂きたい。

愛することをもっともっと学ばせて頂きたい。

主よ、
愛することを教えてください。
何が人を愛することなのか、
経験させてください。
そして、人々がそれを見て、
「ここに神がおられる」ということがわかるように、
あなたの御業をなしてください。


私のうちに愛を与えてください。
愛することを教えてください。

2009-03-29

4週間ぶり。

今日は一日雨模様でしたが、
特に8時半頃は雷も鳴っていました。
今は11時前ですが、すっかり雨も上がりました。


明日はまだ雲が多いという予報が出ています。


今日は4週間ぶりのNJでの礼拝。
「ああ、帰ってきたなあ」って感じです。


いいですねえ、日本に行っても、「帰ってきたなあ」
NJに戻っても、「帰ってきたなあ」です。


まあ、調子のいいヤツなんでしょう。


今日は金土にお会いしなかった方々は4週間ぶり以上。
本当に久しぶりの方や、
初めて教会に来られた方々もおられて、
たくさんの出会いが与えられていることに感謝する幸いな礼拝となりました。


礼拝後は教会の臨時総会があったので、
ゆっくりお話しする時は持てなかったのは残念ですが、
またこれから、共に祈りながら、歩んでいこうと思います。


そしてその後は、JOYJOYキャンプのテーマ考え大会。
いよいよ、今年もJOYJOYキャンプに向けて走り出します。
今年は8月10-14日。
子供たちの元気な声が教会にあふれますように。


さて、先週の日曜日(!)の聖書。
ああ、もう1週間たまってしまいましたねえ。
今日のところまで読んではいるのですが、
ここにアップするにはそれなりのエネルギーがいります。
明日、がんばらなければ・・・。

先週の日曜日、22日にはヨハネ13:21-30を読みました。


「そのとき、サタンが彼に入った。」27節。

サタンはそれまではユダに影響を与え、
いろんな考えを吹き込んでいたけれども、
ここに来て、ユダの中に入ってしまったという。

恐ろしいことだと思いました。

サタンの考えに迎合していると、
それを受け止めていると、
サタンはやがてわたしたちの中に入ってくるというのです。

自分は大丈夫だろうかと思いました。
また教会は大丈夫だろうか、
教会に連なる一人一人は大丈夫だろうかと思いました。

サタンの攻撃に備えることの大切さ、
サタンが攻めてきたときに、
誘惑してきた時に、
乗っ取ろうとしてきた時に、
それを敏感に感じて、
対策を警戒をする、対策を取る、
サタンを退けることの大切さを思わされました。

主よ、
あなたの守りの中に置いてください。
私の霊的な感性を磨いてください。
サタンの巧妙な誘いや攻撃に対して、
「これはダメだ!」とはっきりとした対策が取れるように。
私個人の生活においても、
教会という神様の与えてくださった集まりにおいても、
サタンのつけいる隙を与えることがありませんように。