2006-10-14

器と中身

今朝はまた寒かったですねえ。
って、昨日深夜祈祷会だったので、
今朝は寝坊したから、知りませんでしたが、
うちの温度計の最低気温は0.9度Cでしたよ。

霜とか降りたんでしょうかねえ。
西のWyckoffとか、北のMahwahとか、氷点下だったんでしょうかねえ。

今夜も冷え込むようです。
予想はまた2度C。
今は11時半を回ったところで、5.9度Cです。

秋はあっという間に過ぎていって、
もう冬支度ですね。
今年は日本に行っていたので、よけい短いです。

今日は、近所にある韓国の教会を訪問して、そこの教会の方とちょっとお話ししました。
オフィスビルを教会に変えて、使っているところです。
5年前に300人くらいで、300万ドルで2階建てのビルを買って、
今は1000人位の方々が集まっているそうです。
いい買い物したなあ、と思います。

オフィスビル街の教会なので、
日曜日には周りのオフィスにお願いして、
車を停めることを許してもらっているそうです。

Zoningの問題もなく、
何の困難もなかったそうです。

神さまに祈っていきたいと思いました。
本当に大きく主に期待して行きたいと思います。

「神様は私たちを助けることがおできになるだけでなく、
助けたいとしきりに願っておられる。」
ビル・ハイベルズ

今日読んだのは使徒の働きの9章でした。
ここは迫害の先頭に立っていたサウロ(のちのパウロ)がキリストを信じる者とされたところです。

その中で2つの聖書の言葉が心に留りました。

神さまがアナニヤにパウロのことを語った、
「あの人は・・・わたしの選びの器です。」

そして、そのアナニヤがパウロに語った
「あなたが・・・聖霊に満たされるためです。」

パウロは神の器だった。
そこに神は聖霊を満たした。

神の器だったパウロに、

聖霊が満たされなければならなかった。

私たちは土の器。
弱く小さな、もろい、価値もない存在。

でも、その内側に宝がある。
キリストという宝。

そして、そこにいのちが注ぎ込まれている。
聖霊様が満たされる。

私を満たして頂きたいと思いました。
私も聖霊様に満たされて、歩みたいと思いました。

パウロをパウロたらしめた聖霊様を、
同じ聖霊様を、
私のうちにも満たして頂きたいと思いました。

主よ、
聖霊様を私のうちに満たしてください。
私を御霊で満たし、喜びを与え、力を与えて下さい。
あのペンテコステの弟子たちのように、
神さまの大きな御業をほめたたえて歌う者としてください。
人々が「ここではいったい何が起っているんだろう?」と驚いて集まってくるような、
そんな御業をなしてください。

2006-10-13

神の導きに従って

今日は深夜祈祷会の日なので、
帰ってきてからではしんどいので、
今のうちに更新。

今朝の我が家の最低気温は2度C。
冷えましたねえ。
今夜は「霜注意報」が出ています。
早くも初霜でしょうか?

そして、驚いたのはBuffalo, NY。
55センチも雪が積ったそうです。
昼過ぎで30万戸が停電。
びっくりです。
雪の多いところではありますが、
もちろん10月としては記録破り、だそうです。

今日の午前中は新しいところでの聖書を読む会。
この集会は前に場所を提供しておられた方が帰国されて、こちらに変わりました。
でも、その前はまた他の方が場所を提供されていて、その方が帰国されたので、
次の方になったんですよね。

ですから3箇所目。
このチェーンがずっと続いたらいいですね、という話をしていました。
そうですね。最初に始められた方の思いが受け継がれて、受け継がれて、
うれしく思いました。

今日の聖書は使徒の働きの8章です。
ステパノの殉教をきっかけにして起った迫害によって
散らされ行った人々、特にその中でピリポの働きが記されています。

その中で今日心に留ったのは、
「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」という神の御使いの言葉です。
26節にあります。

ピリポは伝道の成功していたサマリヤを去って、
寂しい道に行くようにと導かれました。
そして、そこではエチオピアの女王の宦官にキリストを伝えるのです。

ただそれだけのために、

この1人のために、

神さまはピリポをこの道に導かれました。

そして、その1人が救われた時に、
また神さまは違う道へとピリポを導かれました。

そこに従ったピリポもすごいと思います。

私たちはどうだろうか?
いや、私自身はどうだろうかと思いました。

神さまが示されるところ、導かれるところに、
いつでも喜んで従っていくことのできる覚悟はできているだろうかと。

もちろん、まだ、ここに使命があると思っています。

でも、いつ主が新しい道を示されても、
それに従っていくことができるか?

その神さまの御声を聞く敏感な耳と、
それに応答する素直な心とを与えて欲しいと思いました。

神さま
私たちの幸せは、
いつもいつもあなたの導かれる道に行くことです。
どうか教えて下さい。
どうか導いて下さい。
いつも従うことができますように。
従っていくことができますように。

2006-10-12

キッズクラブin Maywood

今日のJOYJOYキッズクラブは盛会でした。
9月休んだから、JOYJOYキャンプの勢いそのままに・・・というわけにはいかない、
と思っていたのですが、
4時をちょっと過ぎるあたりからたくさんの仲間が集まってきました。
全部で30人くらいかな。

4ヶ月ぶりの懐かしい顔、
キャンプ以来の顔、
いつも教会でみる顔、
そして初めての顔、

いやあ、止められません。

みんな期待して来てくれるので、
その期待を裏切らないような、
思いっきり楽しくて、
絶対また来る!っていうプログラムをしよう!と、
また燃えてきてしまいました。

会場的にはあと50人は大丈夫でしょうから、
まだまだこれからが楽しみです。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14)

子ども達に大切なメッセージをとにかく伝えていって、
10年後にそのメッセージを胸に旅立つ若者に育って欲しい、そう願います。

天を見上げて

今日の聖書は使徒の働き7章。
ステパノが説教をするのですが、
それが人々の怒りを買い、彼は最初の殉教者となるのです。

心に留ったのは、
ステパノの言葉。

「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」56節。

この「見なさい」という言葉が今日は特に心に留りました。

いつも読んでいる口語訳聖書では、「ああ」、新共同訳では訳出されていません。
でも、新改訳とNIVでは「見なさい」「Look!」です。

天を見上げなさい、といわれたように感じました。
そして、彼には見えた。
人々には見えなかったけれども、
彼には見えた。

私は見ているだろうか?
天を見上げて歩んでいるだろうか?
そして、見るべきモノを見ているだろうか?

心の目を、
霊的な目を開いて頂きたいと思いました。

神さま、
今日の一日を、
教会の1人1人の一日を守って下さい。
私が、
私たちが、
あなたを見上げていくことができますように。
あなたのことを見つめていくことができますように。
あなたから目をそらせようとする、
すべての力から
私を、
私たちを守って下さい。

今日のキッズクラブに神さまの守りと、祝福がありますように。
子ども達に最高のものを手渡しすることができますように。

2006-10-11

祈りに励む

これ日本語でももちろん大丈夫だよね。
Google Docs。

こうやって、便利なモノをどんどん作っていって、
世界を支配していくんだろうなあ。
だって、この文章だって、Googleのサーバーの中に入っているんだもんねえ。

ちょっと恐いような、でも、とても便利。
出先のコンピューターでも日本語が使えるようになってさえいれば、
編集できちゃうんだもんねえ。

こうやってメモを作っておいて、
また後で、ブログに上げたり、することもできるんだろうなあ。
と思う。

でも、印刷した時の体裁とかは?

んんん、分からない。
どうやってやるんだろう。
Word形式で保存してからワードで開くしかないのかな。

何かなあ。

でもこれ、他の人とチャットしながら編集する人とかいいのかもね。


自分はちょっとそこまでやるかどうかは分からないけど・・・。

ワードのソフトが必要なくなる訳でもないみたいだし・・・。

というのが、今日の昼間、Google Docs & Spreadsheetsを使っての感想。
そのまま、それを使って文章を最後まで書いてみます。

で、今日のニュースにはどきっとしました。
夕方出かけるために車のラジオをつけたら、
アッパーイーストでビルに飛行機が突っ込んだと・・・。

夜になってテレビをつけたら、ものすごい炎と煙だったんですね。
犠牲になったのが乗っておられた方々だけだったということが不思議なくらい。

NYの安全を祈りつつ。

今、JOYJOYキャンプのビデオのDVDを鋭意コピー中。
今年初めての試みですが、
お話が入って、テーマソングが入って、子ども達の様子が入って、
1時間半たっぷり。

今まで、スタッフの中には出回っていたのですが、
今年はご家族にもどんな話だったのか、もっと知って頂きたい。
+子ども達が何回も見ることで、聖書の話に親しんで頂きたい。
ということで、参加者には配布することになりました。

楽しいですよ。

もう、こうやって、JOYJOY後遺症から抜け出れなくなっちゃうんですよお。
明日からキッズクラブ始まるし・・・。

今日の聖書は使徒の働きの6章。
教会のなかで問題が起って、
執事が選ばれるところ。
その中で、やはり使徒達が言った次の言葉が心に留りました。

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

祈りとみことばの奉仕に励もうと思いました。
もっともっと祈りたいと思いました。

祈らなければ・・・みたいな義務感も、感じましたが、
それ以上に、祈りたいなあ、と思いました。

今日は早く休んで明日は早く起きようと思います。

もう時差がどうだなんて言ってられないですから・・・。

神さま、
またあなたが、私を祈りに招いてくださったことに感謝します。
どうか、祈ることのすばらしさ、
その味わいを、経験させてください。

明日のキッズクラブを守り、導いてください。
たくさんの元気な子ども達を送って下さい。
楽しい、そして、とっても、心に残る1時間として下さい。

2006-10-10

誰を欺くのか

数日ひいていた風邪も治って、体調もほぼ戻って、
日常生活に帰ってきたという感じです。
やはり帰米後10日くらいかかりました。

今日、3ヶ月ぶりに再開された集会もありました。
そして、いよいよあさってから、
JOYJOYキッズクラブが再開されます。

わくわくしてきます。

明日から金曜日の朝まで、雨模様になりそうです。
それで金曜日の夜は3度くらいまで下がります。

いよいよ秋が深まっていきますね。

でも、下の表を見ると、決して特別なことではないんですね。

これは、weather.comのこの地域の10月の平均、最高最低記録を表にしたモノです。

一番左の数字が日付。2番目が日の出時刻、3番目が日の入り時刻
4番目が平均最高気温、5番目が平均最低気温、6番目がその真ん中。
右から2番目が歴代最高気温、一番右が歴代最低気温です。


たとえば、明日の最低気温の記録、それは-2度Cです。
30度以上行った日も歴史のなかにはあるのですが。

今年は秋の深まりが早いような気がするんですが、決して特別ではないんですね。
いつも10月半ばになると、冷え込む日が増えてくるんですね。

月末には平均の最低気温が3度まで下がってしまいます。
このころには初霜とか初氷とかになるんでしょう。

今日の聖書。
今日は使徒の働き5章でした。
アナニヤとサッピラという夫婦が人々をだまし、
お金をごまかして、見栄を張った献金をするところです。

その中のペテロが彼らを責める言葉が心に留りました。

あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」4節。

実際は人をだましたのです。
神さまはだまされるような方ではありません。
すべてをお見通しです。

なのに、ペテロはそれを「神を欺くことだ」と言いました。

やはり、私のうちにも、「神さまは赦してくださるから・・・」という甘えがあるように思います。

人はなかなか赦してくれません。

でも、神さまは赦してくださる、と甘えた心を抱いているところがないだろうかと思います。

そして、人には何も分からないからいいだろう、
でも、すべてをお見通しの神さまには分かっているから、
ちゃんと悔い改めのお祈りをしておかなければ・・・。

でも、それは人を欺いているのではなくて、
神を欺いているのだというのです。

神さまが私を赦すためにはどれほどの大きな犠牲が払われているか、
どれほどの大きな犠牲によって、私が神さまに受け入れられているか、
忘れないでいたいと思います。

神さま、
私の心を探ってください。
神さま、
私の心を守ってください。
あなたがどんなに大きな愛を注いでおられるか、
忘れないようにしてください。思い出させてください。
いろいろな出来事のなかで、
私に気がつかせてください。
あなたを欺くことがありませんように。
それに気がついた時に、すぐにあなたの元に帰ってくることができますように。

2006-10-09

大胆に

とうとう北朝鮮は核実験をしました。
アメリカやロシアや中国、フランス、イギリス、インド、パキスタンそして、イスラエル、
これらの国が持っているモノを、北朝鮮は持ってはいけない、という理由がどこにあるか、
という素朴な疑問に対する答えは、何なのか、ということはありますが、

とりあえず、直近の問題としては、
これほどの国際世論の風当たりのなかで、
それを決行したことはどういうことなのかということですね。

日本では警察官や自衛隊の人
、狩猟のために登録した人以外は銃を持ってはいけない、
というかんじでしょうか?

そうする理由はいろいろあるでしょうが、
その理由に納得しようと納得しまいと、
そう決まっていることを守らないでいることの結果は引き受けなければいけません。

国際社会には、「国家」ほどの決まりはないでしょうが、
今は、ひとまず国連があり、国際世論があります。
それはあの国の指導者には関係ない、ことなんでしょうか?
それとも単なる自分たちの自由を縛る圧力なのでしょうか?

政治のことはよくわからないんですが、
何をしでかしてくれるか、かなりコワイです。
日本に生きることもまた勇気のいる時代になったということでしょうか?

よく、朝日新聞のBe on Sturdayを読むのですが、
特にその「フロントランナー」にははっとさせられる言葉が時々あります。

リンクは貼りませんが、
10月7日号の松崎さんという自費出版で本を出す出版社の社長さんの言葉に、
はっとさせられました。

それは
「『一発当ててやろう』なんて気持ちで書いた人の思いは濁っているような気がします。」
という言葉です。

牧師が語るメッセージはある意味、コミュニケーションです。
伝わらない言葉なら意味がない。
伝わる言葉で伝えたい。
自分のなかだけで分かる言葉ではなく、
また、クリスチャンの間だけで分かる言葉ではなく、
人々に伝わる言葉で話したい。

でも、その気持ちが強すぎて、
時に、それこそ「うけをねらう」こともあるでしょう。

そこに濁りが生まれる。

とてもきつい一言だと思います。

メッセージでも月報でも週報でも、そしてこのページでも、
とにかく神さまが自分に語ってくださったこと、
そこに集中していきたいと思いました。
その思いを一番大切にしていきたいと思いました。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの4章でした。

今日心に留った言葉は、
29節の使徒達の祈りの言葉です。

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」

これ、すごいですよね。

いえ、皆さんが同意しなくても、私はすごいと思いました。

脅かされて、「もうキリストの名で語ってはならない」と言われたのに、
「もっと大胆に語らせてください」って言うんだから。

祈りだったら、普通、
「彼らを黙らせてください」とか、
「困難がなくなりますように」とかじゃないのか?

ああ、自分は何年聖書読んでいるんだろう。
何年読んだら、この聖書のように考えられるようになるんだろう。

どこかの迫害されていたクリスチャンがこのような祈りの課題を挙げられた、
という話を聞いたか、読んだか、そういう記憶がある。
「迫害がなくなるように祈らないでください。迫害のなかで信仰に堅く立つことができるように祈ってください」と。
それは何てことはない、聖書の世界観なんだな。
それがクリスチャンにとって「常識」でなければいけないのに、

「すごいな」と思うのは、
やはり自分たちが甘やかされているからではないだろうか?

生ぬるい信仰でいるなら吐き出されてしまう。

主よ、
私も、大胆に語る者としてください。
どんな反対があっても、
どんな迫害がこれからの人生のなかに起っても、
大胆に語らせてください。
試練を取り去るよりも、
信仰を増してください。

2006-10-08

さんび

今日はまたたくさんの方々が教会に来られました。
とてもにぎやかでした。
子ども達もたくさんで、うれしいですね。

そして、とても幸いな礼拝となりました。
歌手の方も心からの賛美をしてくださり、
教会のみんなも心を合わせて賛美をしました。

























こんなことをしたらいけないのかもしれませんが、これは、weather.comのこの地域の今週の予報です。


金曜日の最高気温が11度C。
最低気温が3度C。

東京だったらもう12月ですよね。

冬支度を急がなければ・・・。

わくわく、ぞくぞくしてきます。

自分は寒いのは大の苦手で、
足元が冷えるのが堪えるのですが、
何でか、冬の天気には興奮します。

雪が好きなんでしょう。

水、木あたり、ミネソタ、ウィスコンシン、そしてシカゴからインディアナの北の方くらいまで
雨が雪に変わる予報が出ていますね。

これからお天気ネタが増えることでしょう。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの第3章でした。

足の不自由な男の人がペテロによって癒やされて、
歩き出すところですが、
その中で、彼が賛美を捧げている様子が書かれているところに目が留りました。

「人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」(9-10)

人々を驚かせるような賛美。
その様な賛美を自分は捧げているだろうか、
神さまにふさわしい賛美を捧げているだろうか?

ただ、自己満足のために、
自分が大きい声を出して気持ちがいい、というためだけに、
歌を歌っていないだろうか?

歌はいい。

でも、賛美は神さまにささげるもの。

カラオケで発散させるのはいい。

でも、いつだったかな。とても虚しいものを感じたことがある。
日本で高校生の付き添いをねだられて、行った時かな。
カラオケボックスで歌いながら、
なんだろうなあ、と思ったことを思い出した。
歌詞と心が一つになっていなかったんだね。
好きな歌だったのに、どうしてか、自分の気持ちとぴったり行かなかった。

やっぱり賛美はいい。

心から捧げられるからいい。

心から溢れる賛美を捧げたい。

そう思いました。

神さま、
今日の一日を感謝します。
あなたと共に歩んだ一日に感謝します。
教会で過ごした一日に感謝します。
これからの歩みの中で、
日々、心に賛美がわき上がってくるような、
人々が驚くような、
その様な賛美をさせてください。
必要な休息を与えて下さい。