2008-11-07

小春びよらなかった。

いやあ、今日は小春びよらかなったですね。
晴れませんでした。ほとんど一日どんより。
気温も朝から16度くらいあったのですが、
20度直前でストップ。


夜には雨が降ってきました。


明日は雨が降ったり止んだり。
気温はもう一日高め。


でも、夜には風が南から北西に変わって、
日曜日から火曜日まで、昼間は10度くらい、夜は0-3度くらいの、
11月らしい寒さになるようです。


そして、来週一週間は何となくそんな感じですが、
その次の週はぐっと冷え込むと思います。
MY初雪もそこらへんに期待できそうです。


今日は早速聖書。
夜更かしをしないように・・・。


ピリピ人への手紙3章1-14節でした。


「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」9節。

神さまからの義。
自分の力、自分の信仰深さ、
そういうことではなくて、
神さまの恵みによって、義とされる、
それなくしては生きられないことをもう一度覚えました。

パウロも自分が誇りたいものをたくさん持っていた。
でも、それがイエスを知った時に、
必要ないものであると共に、
邪魔なモノでさえあることを、感じたのでした。

わたしもそうです。
だから、主から力をいただくことだけ、
主の恵みによって赦されていることを覚えることだけ、
その大切さを覚えたいです。

そして、もう一度、主とつながるこの祈りの場が、
わたしと教会にとって生命線であることを感じました。

今朝も書いたように、
聖霊様の導きに敏感であること、
従順であることの、大切さを覚えます。

主よ、
あなたと共に歩めることに感謝します。
あなたがもう一度わたしを招いてくださったこと、
受け入れてくださったことに感謝します。
どうか、あなたとの交わりの中に生かしてください。




聖霊さまに聞く。

昨日は夕方NYに行きましたが、
早く帰ってきました。
ダウンタウンを8時半すぎに出て、
家に着いたのが9時45分。
地下鉄も、バスもちょうどいいタイミングできてくれて、
とても効率のいい時間の流れで
とても気持ちが良かったです。


でも、裏を返せば、時間がうまくつながらないと、
イライラしてしまう自分がいます。
人とお会いしたりして、有意義な時を過ごすならば、
遅くなることはそんなに苦にはならないのですが、
乗り継ぎとかの時間がつながらないのは苦手。
未熟ですよねえ。
乗り継ぎがうまくいかない時も、
それは神さまの御手の中にあること、
忘れないでいたいと思います。


読むものとか、ちゃんと持って歩かないとダメですよね。


そう、寝過ごした時も、乗り過ごした時も、
忘れ物をした時も、
主の御手の中にある。
雨の日にも、嵐の日にも、風の日にも、雪の日にも・・・。

で、早く帰ったのですが、
いろいろあって、更新は遅れました。
なんとしてでも夜更かしはやめようということで。


今日は暖かくなる予報が出ています。
20度くらいまで上がるんだそうで。
まさに小春日和、でしょうか。


でも、明日は雨で、日月は秋らしい冷え込みになるようです。


昨日の夜、
日本のある方とのコミュニケーションの中で、
聖霊様の声を聞くことの大切さを再確認させられました。


何か耳に聞こえてくるわけでもなく、
幻が見えるわけでもありません。


あ、でも、先日、ゲストの先生にお伺いしたのですが、
その先生の恩師の牧師さんは、
どちらかというと学者肌、社会運動とかに関わる方で、
「聖霊さま」のことなんてあまり考えていなかったそうですが、
ある日、車の中で、聖霊様の炎に包まれてしまったそうです。
そして、がらっと変わってしまったそうです。
だから、そういうこともあるようです。聖霊様の勝手です。


でも、多くの場合、内なる声が聞こえてきます。
それに対して、「いいえ、わたしはこれをしたいのです」と拒否をしていると、
いつの間にか、その声が聞こえなくなってしまう。


聖霊様は悲しまれて、身を引かれるのだと思います。


わたしもそれを自覚していました。
だから、昨日の夜、そして今朝の祈りの中で、
聖霊様の内なる静かな声に従っていこうと思いました。


さて、昨日、11月6日の聖書。
昨日はピリピ人への手紙2章19-30節。


「 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」20-21節。

自分は何を一番心配しているだろうかと思いました。
人々のことに心を配っているだろうか?
自分のことで精一杯になっていないだろうか。
愛を与えて頂きたいと思いました。

もっともっと人々を愛し、
人々の必要を覚え、
人々が神さまに近づいて、
祝福をいただいて、
喜びにあふれて歩むことができるようにと、
そのことを求めて、そのことを第一に求めて
歩んでいきたいと思います。

主よ、
どうか、自分のことでいっぱいいっぱいにならないで、
人々を愛し、仕える者となることができますように。
あなたの愛を与えてください。
テモテに与えてくださった愛の心を、
わたしにも与えてください。

2008-11-05

ハジ、新聞に写真が載る(ちょっと)。

今日は夕方から暖かい雨。
明日も雨が残ると思います。
そして、金曜日は晴れて暖かくなるでしょう。
土曜日にはまた雨。
日曜日からはまた冷えます。


晩秋ですね。


さて、表題の件ですが、
おとといの朝、ハジが新聞のスポーツ欄を見て、
「お、俺出てるじゃん。」


地元紙Bergen Recordの高校スポーツ欄の表紙に載っていたんですねえ。
それが、オンライン版でも・・・。


これがスクリーンショット。






こちらがその写真の部分。




主役は敵のチームの子で、ハジは背景の一部です。
ピントもちゃんと前の二人に合っていて、
ハジはめちゃぼけています。
でも、はっきり本人だと確認できますし、
泥まみれの青春をしていることがわかりますよね。


実はこの試合のあった日、帰りの車の中で、機嫌が悪いこと悪いこと。
大切な試合に惜敗して、ホント悔しかったようです。
まあ、実質的に、これで高校サッカーは終わり。
明日がホントの最終戦になるようです。


小学校の頃から、楽しんできたサッカー。
つい、2-3年前までは、親もよく応援に行っていたものです。
たくさんの気持ちいいプレーと、もっとたくさんの悔しい経験。
これからの歩みの中で、きっと大切な宝物になっていくことでしょう。


さて、今日の聖書。
今日はピリピ人への手紙2:12-18。


「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(15-16節)

「日々の御言葉」で、救いの達成の目標は、
1.非難されるところのない純真な者となる。
2.世の光として輝く。
とありましたが、そういわれるとそうなんですね。
あまり、今まで意識したことがありませんでした。

何となく「信仰の成長」と漠然と受け止めていたと思います。
でも、それは具体的には、
上の二つのことなのだと受け止めると、
もっと焦点が絞られていくように思いました。

純真な者になる。
そして世の光として輝く。

大きな課題ですね。
でも、このことを実現に至らせるのは神さま、
というのが、また大きな励ましです。

主よ、
あなたが与えてくださっている、
わたしの信仰の目標の故に感謝します。
純真なものにならせてください。
世の光とならせてください。
あなたの御手の業を信頼します。

「あなたはわたしの子だ!」

昨日はまた帰りが遅くなったので、
更新が遅れました。


で、昨日は、お客さんのご希望で、Brooklyn Tabernacleの祈り会。
折しも、大統領選挙の日。
開票作業が始まる中での祈り会、
家にいたら、テレビの前にいるだろうなあ、と思いながら、
主の前に出る一時となりました。


最初から、「だれが大統領に選ばれようとも、私たちの主はイエスです。」と
当然のことなのですが、浮ついた心が引き戻される思いになる言葉で、
祈り会が導かれていきます。


投票権がない私にとっては、
どっちがいいのかなあ、とはっきりしない態度でも赦されるこの日。
もしも投票権があったら、もっと真剣に考え、聞き、祈っていたかなあと思い、
自分の無責任さに恥じる思いもあります。


最近の民主党の同性愛結婚や妊娠中絶に対する容認の姿勢は行き過ぎていると思うし、
かといって、共和党の外交や経済の政策に賛成できるかというと、
ちょとなあ、と思うし、もっともっと知らなければ決断できないことが多いと思います。

「だれが大統領になっても、私の主はイエスです」というのは、
確かで間違いはないのですが、
それと共にもっともっと関心をもって知るべきものがあると思わされました。


そして、昨日はCymbala牧師が不在で、ゲストスピーカーが来られました。
Long Island でTeen ChallengeというプログラムをしているJimmy Jack師 。
薬物中毒やアルコール中毒の子供たちの救出のプログラムです。


彼がどのように救われたのか、メッセージの中でも語ってくださいましたが、
ここにもっと詳しく書かれています。 (英語ですが・・・)


彼自身の経験もすごいインパクトがあったのですが、
私自身が語られたのは、彼が開いた聖書の言葉です。


「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」
ルカによる福音書の15章の「放蕩息子のたとえ」で、
弟息子が父親に遺産を分けてもらうところです。


これはお父さんに「あなたの存在はいらないけれども、あなたがくれる財産は欲しい」と言っているようなものだと。


夫が妻に「あなたはいらないけれども、あなたの稼ぎは欲しい」と言われたらどうでしょうか?
妻が夫に「あなたの存在はいらないけれども、家事はやって欲しい」とか、
「あなたはいらないけれども、あなたのカラダは欲しい」と言われたら、どうでしょうか?


でも、私たちはそれと同じことを神さまにしていないだろうかと、問われたのです。


経済的安定、健康、家庭、仕事、・・・
そのようなものを求めていながら、神さまご自身を求めていなかったら・・・。


だから、弟息子がすべてを失って、
お父さんのところに帰ろう、使用人でもいいから・・・、と帰っていく時に、
まさに「ほんとうの自分に戻った」のです。


そして、「自分には息子と呼ばれる資格はない」と思っていた息子に、
父は、「いや、おまえは私の息子だ!」と言ってくれる。


Jimmy師自身がそうですし、また彼が出会う多くの子供たちが、
「おまえはわたしの子どもだ!」と愛をもって受け入れられた経験がありません。
もっと恵まれているように見える日本の子供たちの中にも、同じことが言えます。
もしかしたら、NY・NJにおられる日本の方々の中には、
そのような痛みがあるからこそ、ここにおられる方々、
そのような痛みがなかったら、ここには来なかったのではないか、という方々が、
たくさんおられるのかもしれません。


そんな私たちに対して、
「おまえはわたしの子どもだ!」と語ってくださる神。
その声を聞くことの大切さ、
また語り続けること、伝え続けることの大切さを思わされます。


神は、ご自身の元に帰ってきた者たちを迎えます。
「おまえはわたしの子どもだ!」と。


さて、昨日の聖書。
昨日はピリピ2章5-11節。


「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・」7節。

教会の一致のことを思わされている時に、
この言葉が心に響いてきました。
主がそうしてくださったように、
仕えること。仕える者として歩むこと。

そして、このイエスを主とすること。
この方の前にひざまずくこと。

月曜日に思わされたことにあわせて、
主が歩まれたように、わたし自身も歩むこと、
その歩みに教会の一人一人を招くこと、
その大切さを思わされます。

主よ、
あなたが仕えてくださったように。
わたしも仕えることができますように。
仕える者とならせてください。

2008-11-03

2つの大切な言葉。

夜になりました。
今は9時すぎですが、10度以上あります。
今夜はあまり冷えないようです。


明日からも気温は高めなのですが、
天気はちょっとどんよりで、水曜日の夜からは雨が降るようです。

1年限定で無料で見れるTV Japanですが、
1ヶ月が経ちました。
やっぱり見ちゃいますよね。
1年後、すぱっとやめるのは難しいかも・・・。
だから、プロモーションなんですよね。


相手の作戦がわかっていながら、それにまんまと引っかかってしまう自分がコワイ。


で、最近ここでやっている「斎藤さん」。
1年くらい前に日本テレビでやったドラマみたいですが、
第4回を見ました。


空気を読んでものを言う、のを期待されることに
最近めちゃくちゃ反発を覚えていましたから、
このドラマは痛快です。
でも、コワイ。
ママたちの陰口もコワイし、「そんなことして気持ちが良かった?」と聞くママさんたちののリーダー格の人の言葉もコワイ。


でも、この第4回。ほんとうに心が動かされました。
「悪いことをした時に、心が痛いでしょ、コワイでしょ、それを忘れないで。」と子どもに教えるところ。


私たちは子供たちがあんまり心が痛む経験をして欲しくなくて、
大切なところを子供たちが通ることを邪魔してきているのではないかと思いました。


私もJOYJOYに来る子供たちに、2つの大切な言葉、という話を時々します。


「ありがとう」


そして、


「ごめんなさい」


これが言える人がほんとうに勇気のある人。


でも、「ごめんなさい」も時にはインフレを起こして、
安っぽい言葉に成り下がってしまう時があります。


悪いことをした時に、
嘘をついた時に、
心が痛くなる、怖くなる、
それを深く深く感じることがなくて、
ただ、「怒られるから」だけで「ごめんなさい」を言う、
そんな子供たちになって欲しくない。
そんな大人になって欲しくない。


そして、何よりも、自分もそんな大人になっていないだろうか、
そう思います。
そして、「悔い改めるなら赦される」というのが単なる甘えになってしまって
「心が痛くなる」ということを経ないで安易に解決していることがないだろうかと、
思わされます。


イエスが十字架にかかるほどの大きな犠牲が払われた、
という事実を忘れないように・・・と思います。


さて、今日の聖書。
今日はピリピ人への手紙1章27節~2章4節。


「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」2章2節。

人が集まっている教会が一つになるってどういうことなんでしょうか?

いつの間にか考え方が同じになっている?
小さなところでは違いがあっても、大きなところでは一致できる?
適当に距離をとりながら、上手にやっていく?
誰かが強力なリーダーシップを取って、みんなが「あの人が言うなら」と思って進んでいく?
違った考え方を持った人がいなくなって、同じ考えの人だけが残る?

主の前にひれ伏して、神さまをほんとうに主として歩んでいく、
そこで、「私の夢」「私のビジョン」ではなくて、
主に従う者たちの集まりとして、一つになっていく、
それが主にある一致なんだろうなあと思います。

だから、一人一人が主の前にひれ伏しているか、
心砕かれて、自分が主人じゃなくて、神さまが主人、と言う歩みをしているか、
そこが問われているんだろうと思います。

主よ、
私はあなたを主としているでしょうか?
私が自分を主人とする時があるならば、
あなたがそれを示してください。
教えてください。
そして、あなたを主として歩んでいくことができますように。


そのような者たちの集まりである教会が、
一つになる、という奇跡を見せてください。

「しまじろう」その後。

今朝起きたら、雨が降ったみたいですね。
気温は昨日寝る時は1-2度まで下がっていましたが、
朝起きたら6度くらいありました。


今日も暖かかったですし、
今週はずっと暖かいようです。


TOYOTAのしまじろうCMの話、
書き込みコメントはいただけませんでしたが、
実は大反響で、週末いろんな反応をいただきました。
投票結果は「だよね~」「聞こえる、聞こえる」「英語の方もそう言われれば・・・」が主流で、
「一発で聞こえた」が2票でしたが、
日曜日も「私も『しまじろう』派です」という方、
「英語一発だよ」という方、
それぞれでした。


でも、私が話題にする前に、
こんな記事が出ていました。
http://ameblo.jp/k2at/day-20081013.html
これはもうオバマ氏もびっくり、全米的な現象です。


きっと、きっと、
「隠れ『しまじろう』派」もたくさんおられると思いますよ。


分析してみると、
「しまじろう」の子音は s-m-j-r
「saved by zero」の子音は s-v-d-b-z-r

「同じなのは最初と最後だけじゃん!」と思われるかもしれませんが、
jとzはかなりにていますし、(日本語の「じ」は原則「ji」ですけど「zi」にもなりますよね)
そして、「vdb」をいっぺんに言うと「m」に聞こえるんですねこれが・・・


というのはちょっと無理がありますが、
v,dには母音がつかないので、聞こえなくなり、
たぶん、「b」も「m」もくちびるを閉じて発音するので、
兄弟みたいな関係で、似たような音になることがあります。


個人的には、「ママ」(mama)が年を取ると「ババ」(baba)になるのも同じ系列だと思っています。


まあ、もっと広い視野で物事を見るならば、
英語のwaterが「ウォーター」よりも「わら」の方が通じるという現象も、
「What time is it now?」が「ほったいもいじるな」だったり、
「どういたしまして」が「Don't touch my mustache.」だったりする現象と
共通するものがありますよね。


もっと広く考えれば、江戸っ子は「ひ」と「し」の区別ないし。


もう、収拾がつかなくなりそうなので、今日はこれくらいで・・・。

さて、昨日の聖書。
昨日(11/2)はピリピ人への手紙1章12-26節。


「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」20節。

「キリストがあがめられるため」
いつもいつも「私たちの生きることの目的はこれです」と言われることですが、
昨日はこの言葉がほんとうにそのように生きたいと思いました。
私の人生の目的は神さまの栄光が表れること。

神さまのすばらしさが人々にあがめられること、
人々に伝わることが私の願いです。

ほんとうにそのように思いました。
もちろん、うっかりしていると、自分が目立とうとしたり、
自分を喜ばせることを考えてしまう場面もあります。
そんな自分もまたほんとうです。

でも、神さまのすばらしさを知る人が起こされることが、
また喜びです。

昨日も、井上先生のお話をお伺いしながら、
先生をとおして、神さまのすばらしさを感じていました。

もっともっと神さまのすばらしさがあがめられますように。

主よ、
私の人生を通して、
一瞬一瞬を通して、
あなたのすばらしさを表してください。
それを喜ぶ自分でいられますように。

2008-11-02

南の方は大雪だったらしい。

今夜は一時間長いんですよね。
今、2日の12時45分なんですが、
あと1時間ほどしたら、時計が1時間前に戻ります。
つまり1時59分の次は2時じゃなくて、1時になるわけ。
何とか、その瞬間を見る前に夢の国に旅立ちたいと思いますが、
とにかく、1時間得をするのは助かります。


だからといってゆっくり起きていたら元も子もないのですが・・・。


で、土曜日も暖かい一日でした。
でも、夜になってちょっと冷えてきていると思います。
今7.7度。明日の朝は1度くらいまで下がるようです。


あ、それで今日、明日の礼拝でお話ししてくださる井上先生が来られたのですが、
送ってこられたプリンストンの先生によると、
あっちの方は結構降ったみたい。
井上先生が泊まられた、North Brunswickでは、
まだ葉っぱが落ちていなかった木の枝に雪が積もり、
その重みで枝があちらこちら折れていたそうです。


不思議ですね。こちらは降ったか降らなかったか、なのに、
南の方が結構大雪だったなんて。


うらやましい・・・。


土曜日は待ちに待ったJOYJOYシンガーズのスタートの日。
元気なみんなが8人集まりました。
まるで初めてじゃないかのように元気に歌ってくれました。
これはいける!って感じ。


でも、もっともっと団員募集です。
ファーストステージはJOYJOYクリスマス。のつもり。
たぶん、12月21日。
集中して練習して、元気な楽しい賛美があふれるようにと祈ります。


夕方には元ヤクザの井上先生ご夫妻が来られて、
夕食をご一緒しながら、楽しい一時を持ちました。
ホント楽しいご夫妻です。
時間を忘れて、そして、今夜が1時間長いと言うことでゆっくりと時間を過ごさせて頂きました。先生方にとっては時差ぼけの中で、1時間長かろうが短かろうがあまり関係ないかもしれませんが・・・。


明日の礼拝では、ご自身がそのようなところから救われた喜びを語ってくださいます。
明日の礼拝が楽しみです。


さて、1日の聖書。
1日からはピリピ人への手紙の1章に入りました。
1章1-11節。


「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」6節。

神さまが、私たちを完成へと導いてくださる。
なぜなら、主は私のうちに良い業を始めてくださったから。
神さまが救いの御業をなしてくださったのだから。
完成のためにも力を注いでくださる。

主は私たちのことをそのままにはしておかれない。
私たちはありのままで主の前に行く、
でも、主は私たちをそのままにはしておかれない。

完成に向けて、私たちを導いてくださる。

だから、そこに身を委ねていこう。
神さまが私を作りかえようとなさるならば、
喜んで作りかえて頂こう。

そして、その御業が教会の一人一人のうちに実現することを
本気で祈っていこう。主はそれを約束しておられるのだから。

主よ、
あなたは私のうちに救いの御業なし、
そのままにしておかれないで、
私を完成に向けて、導いてくださる。
感謝します。
これからも、あなたの御手の中で歩みたいです。
完成へと導いてください。
私をあなたの御心のままに「完成」させてください。