2006-04-15

目が開かれますように

昨日はよく雨が降りましたね。
おかげで芝生に蒔いた種も目を出し始めました。
今日はまたいい天気で、
暖かくなりそうです。
朝は12度、深い霧でした。

そして、今は11時21分、21.6度です。

今日は教会のある方のために、
みんなで祈る日です。
病気の癒しのために、
朝6時から夜12時までみんな20分ずつ手分けして、
一日中誰かが祈っている日です。
「連鎖祈祷」と呼んでいます。

本当は私は夕方の4時20分からと40分からの2ユニットだったのですが、
4時40分からの20分は家に泊まっている高校生に譲って、
そして、朝11時からの方から「代って欲しい」と連絡があったので、
交代したので、11時から先ほどまでお祈りしていました。
賛美を歌ったり、聖書を読んだり、お祈りしたり、
その中で、お祈りしたのは、
その方の病が癒されることと、このことを通して、
神様がその方の心にもっともっと深く触れてくださること。


そんなことを祈っている中で、
その方のことを祈りながら、
また自分自身のことも思わされました。
「私のspiritualなvisionは見えているだろうか?」と。
ある人が、北アメリカの教会の牧師の多くが、
あまりに「企業経営者」「商店経営者」になっている、と書いていた。
どうしたら、顧客が喜ぶパッケージを提供できるか、
顧客を競争相手の店から自分の店に引き寄せるか、

そんなことに心を奪われている、と。

自分はそんなことに支配されていない、
と自分では思っている。
でも、本当にそうだろうか?と思った。
数日前に毎月500人の子供達に神様の話をしたい、
とうことを書いた。
祈り始めた時は、本当にそんなにたくさんの子供達がいるんだから、
という思いで祈り始めた。
JOYJOYキャンプに迎えられるのはせいぜい50人。

こんなにたくさん、「キャンプに送りたい」という声がありながら、
「ごめんなさい、もういっぱいです」と言わなければいけない。
ならば、そのプログラムを少しでも、多くの子ども達にと思って、
キッズクラブを始めた。

でも、毎月のプログラムを持ちながら、
またいつの間にか、人数に捕らわれていないだろうか?と反省させられた。

もう20年前になる。
聖書学院に入って、最初の派遣教会が、
東京の山の手にある立地も抜群、建物も立派な教会。
でも、教会学校には2人の子どもが、
ちょこんと座っていただけだった。
それもミッションスクールの課題で「出なければいけない」
子ども達。
別に楽しそうでもない。
そこで、「何とかして欲しい」と頼まれて、
必死に子ども達に接した。
「あやしいお兄ちゃん」と思われたらどうしよう、なんてそんなことも考えずに、
街に、公園に、出ていって教会の案内をした。
そして、楽しい子供会を何回もやった。
スタッフの皆さんと祈りあい、励まし合い、
1年終わる頃には20人の子ども達が毎週集うようになっていた。

その最後に、
元々来ていた、2人の子ども達に話しかけた。
「たくさんの友達が来るようになってよかったね」
もちろん、「うん!」という元気な答えが返ってくることを期待して・・・。
でも、その子達の反応は意外なものだった。
「前の方がよかった・・・今は、多すぎて、先生も遊んでくれない・・・」
自分は何にもわかっていなかった。

今、自分は同じ過ちを繰り返しているのではないかと思わされた。
年齢がほぼ2倍になっているのに、何にも変わってやしない。

人数を求めるのをやめよう。
ただ、ただ、神様に聞き、神様の声に耳を傾けよう。
子どもたち、一人一人を愛して、その声に耳を傾けよう。
数はその結果だけでいい。

さあ、明日はイースター。
イエスの復活の力に満たされる礼拝となりますように。

で、我が家のチューリップ1号
黄色でした。
アスパラ君達も順調に成長。
この暖かさだと月曜日には初収穫かな。
キュウリ、レタス、さやえんどう、ブロッコリー発芽。
なすはやっぱりもっと暖かくなければダメなのかな。
家の中で20度はキープしていたと思うのですが、
25度くらいをキープしなければいけないのでしょうか、発芽せず。
日本のなすの苗は結構高いからねえ。
もしも、どこかでお買い得の苗があったら教えてください。

で、聖書。
今日はイザヤ書の29-33章を読みました。
心に留ったのは30章15節。
「安らかに信頼していることにこそ力がある」
主を信頼していく中にこそ私たちの力がある。
あわてるんだよね。
昨日の聖書の箇所にもあったけど。
あわてて、どうしよう、どうしようと走り回るんだよね。
でも、主を信頼して、どっしり構えていること、
なすべきことはなすべきだけど、
神様に祈りつつ、答えをもらいつつ進んでいく、
それが大切なんだろう。
今日も祈りつつ、静まりつつ過ごしたい。
主が与えてくださった時を、大切に使いながら。

主よ、
この日をありがとうございます。
とてもいい天気をありがとうございます。
あなたを信頼して、
私の人生をあなたの御手におゆだねして
歩みます。
導いてください。
平安と喜びを日々満たしてください。
今日の夜の祈り会。
そして、明日のイースターの礼拝とその後のパーティーを祝福してください。



2006-04-14

あわてることはない

今朝は6時前に起きて、
ちょっと庭に出ました。
キツツキが木をつつく音。
何種類もの野鳥の声。
7度というちょっとひんやりした気温。
ちょうど日の出の頃で、
高原のキャンプ場にでもいるかのようでした。
静かな、朝の一時でした。
これからの季節、ちょっと着込んで、
時には朝の祈りを外でするのもいいかも、と思いました。

今日はGood Friday。
イエスが十字架にかけられた日です。
朝9時に十字架にかけられたといいますから、
ちょうど今頃です。
イエスの十字架に思いを馳せながら、
でも、夜は牧師館で集会ですから、
片づけも視野に入れつつ、
一日を過ごしていきたいと思います。

ところで、昨日はMaundy Thursdayでした。
ついこのあいだ、この言葉について、質問されたのですが、
その時は知りませんでした。
アメリカで迎える14回目のMaundy Thursdayなのでしたが、
始めて辞書を開いて意味を調べました。
そしたら、Maundyとは最後の晩餐の時に
イエスが弟子たちの足を洗った出来事のことを指すんですね。
ですから、直訳すると「洗足の木曜日」。

足を洗い合う日。
最後の晩餐の時にイエスが無言で立ち上がり、
弟子たちの足を一つ一つ洗われました。
一人一人への愛を込めて、
もうその段階で裏切っていたユダの足も。
でも、そこで、「イエスさま、私の足は洗わないで下さい」と
申し訳ない思いで満たされて、言った男がいました。
私の好きなペテロです。
いろんな失敗をしますが、失敗を通して、神の愛、イエスの力を経験していく男です。
そのペテロに、イエスは
「もしもわたしがあなたを洗わなければあなたはわたしと何の関わりもなくなる」
と言うのです。
「足を洗う」
「足を洗ってもらう」
このことの意味の深さを思わされます。

もしも、今晩の集まりで、「じゃあ、ここでお互いの足を洗いましょう」
と私が言い出したらどうでしょうか?
「そんな集まりには行けない」
「きれいにしておけば良かった」
「私は日頃手入れしているから大丈夫」

私たちの心もそうなんですよね。
きれいな部分だけ見せてもいい。
もう少しきれいになったら、もう少し立派になったら教会にも行けるけど・・・。
ここまでは見られたくない・・・。

本当のことを言うと、
「足を洗う」ことよりも、「足を洗ってもらう」ことの方が、ずっと勇気がいって、
ずっと相手に対する信頼がいるかって思います。

だから、私たちはイエスに「足を洗ってもらう」ことが大切なんではないかと。
足を洗い合うことのできるような友がいたらどんなに支えられるかと。

さて、今日の聖書。
今日はイザヤ書13章から28章まで一気に行ってしまいました。
あんまり引っかからなかったから、ここまで行ったと言うこともできるでしょう。
そして、最後に心に留ったのは、28章の16節。
「信じる者はあわてることはない」
最近、自分の怠慢で押せ押せになっていることがあって、
そして、あてにしていた当てが外れて、
「ああ、神様には他の計画があったんだなあ」と思っていることがあるのですが、
ちょっと焦ってはおります。
でも、今日、この聖書の言葉を読んで、
神様が他の計画をお持ちならば、必ずいいタイミングで道が開かれる、
そのように感じました。
信じる者はあわてることがない。
もちろん、自分の怠慢は反省しますし、
恥じておるのですが、
あわてなくても大丈夫。神様が必ず最善の道を備えて下さるから・・・。
そのように信じています。

神様、
あなたを信頼します。
あなたがすべてを御手の中に収めておられること、
あなたの御許しの中に、
すべてがあること、
どうして・・・と思うようなことさえ、
あなたのみ許しなしにはあり得ないこと、覚えます。
ですから、信頼します。
あなたがすべてを最善に導いて下さいますように。
すべてをお守り下さいますように。
道を開いて下さいますように。



2006-04-13

何を頼るか・・・

今日は暖かな日だった。
最高気温が26.6度。
朝も10度以上あった。
いやあ、こんな日が続くといいなあ、
と思う一日。
夕方には一雨あって、
芝生に水をやらなくてもいいし。

昨日、妻が店(某チャイニーズのお店)で買い物をしている間に、

右のサイドミラーが割れていた・・・と。
そんなのあり?

ありえなくない?
だって、右のミラーを他の車でぶつけるなんてないでしょう。
その車にとっては左のミラーなんだぜ。

だから、いたずらかな?
ということで、

自分で交換。
近くのホンダのディーラーでパーツを18ドルで買って、
交換。パーツって、鏡だけ。
交換の仕方知らなかったから、って、普通換えないよね。
それで、悪戦苦闘30分。
でも、無事完了。工賃節約。
ホント言うと、ちょっと失敗して、部品の一部が欠けてしまって、

もしかしたら頼んだ方が安かったかも・・・ということになりそうだったけれども、
なんとかOK。よかったよかった。

で、午後はJOYJOYキッズクラブ in Maywood.
Maywood史上最高の27名かな。
30枚あった御言葉カードが3枚しか残らなかったから。

たくさん来たよー。

目標は毎月全部で500人の子供達に神様の話をする、っていうのだから、
この調子で行けば、今3カ所だから、目標の15パーセントくらいクリアかな。

で、先週の今頃芽が出始めたアスパラガス。
少しずつ大きくなって、今5センチくらい。写真のは4センチ足らず。
色もほんのり緑になってきて、
グリーンアスパラっぽくなってきました。
ちなみにここには最初はイチゴが植わっていました。
その後、トマトが植わったこともありました。
でも、今やイチゴも、トマトも、アレルギーでのどがかゆくなるようになってしまって、
食べられません。両方好きだったのになあ。
アスパラガスはさすがに大丈夫だろうと思っておりますが・・・。

さあ、そろそろ本題の聖書です。
今日はイザヤ書の7-12章を読みました。
心に残ったのは8章の5節からの預言の言葉です。
その中に「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない」
という言葉があります。
他の国と同盟を結んでそれで的から身を守ろうと思ってはいけない、
ただ、神を信頼しなさい。
他の国を信頼するより、
神を信頼しなさい、
そのようにイザヤは神からメッセージを聞いて、語っているのです。

今朝は私はこの言葉を教会堂のことと重ね合わせて読みました。
本当にこのことにおいて私たちは神様を第一としているだろうか、
神様に本気で求め、神様を本気で信頼しているだろうか、
それが問われているような気がしました。
一つ一つ祈って進んでいきたいと思います。
一つ一つ確認しながら前に進みたいと思います。
神様の願われる道、認めてくださる道、
それを歩んでいきたいと思います。

主よ、
あなたは、私たちの教会にどんなことを願っておられるのでしょうか?
会堂について、どんな道を備えておられるのでしょうか?
どうか、私たちがあなたを信頼して、あなただけを信頼して、
歩んでいくことができますように。
求めていくことができますように。
いつでもあなたを中心にして、
あなたを第一にして、
教会堂を求めていくことができますように。
先ず、外側の教会堂の前に、
内側の教会自体を建て上げさせて下さい。


2006-04-12

わたしがここにおります

今日も暖かい日。
朝は5度くらい。午後は22.5度まで行った。
でもだんだん曇ってきましたね。
今夜から明日の朝にかけては一時雨。
土曜日にみぞれが降ってから降っていないので、ちょうどいいでしょう。
そして、明日は西風なのでもっと暖かくなると思います。
西風はここら辺では山を降ってくる風。
どこでもそうなんですが、山を風が降ってくる時に、
空気は暖かくなります。
断熱膨張の反対なので、断熱圧縮?
標高が低くなると気圧が上がるので、
その空気は圧縮されるので、温度は上がる。
いわゆるフェーン現象です。

日本で有名なフェーン現象は、
夏とか秋に強い低気圧や台風が日本海にはいると、
その低気圧に向かって南から風が入って、
フェーン現象が日本海側で起って気温が上がります。

新潟や山形で40度近くまで行くのは、この場合が多いようです。

で、聖書。
今日からイザヤ書です。
今朝はイザヤ書1-6章を読みました。
心に留ったのはやはり6章。今回は8節の「ここにわたしがおります」
というイザヤの言葉。
すごいなあ、と思う。
尻込みしなかったのだろうか、
自分で大丈夫だろうかと思わなかったのだろうか?

でも、神様の前に立って、
自分の姿を見せつけられて、
それで、神様に触れてもらったイザヤ。
どんなにありがたいなあ、うれしいなあ、
と思っただろうかと思う。
だから、すぐに「私がここにおります」と言えたのだろうか?

私もこのように言いたいと思った。
誰がじゃなくて、神様が声をかけてくださる時に、
「私がここにおります」
と言いたいと思った。

神様が声をかけてくださるから、
イエスが私たちのために命を投げ出してくださったら、
「私がここにおります」そのように言いたいと思った。
受難週。明日が、いよいよ洗足の夜。
晩餐の夜。
ゲッセマネの夜。
イエスがどのような思いで迎えられたか、思いながら過ごそう。

主よ、
あなたが私にも声をかけてくださって、
あなたのものとしてくださったことを心から感謝します。
どうか私を用いてください。
私のようなものもあなたのために用いてください。
あなたの栄光のために、
ただ、あなたの栄光のために用いてください。

2006-04-11

愛を支配するなんて

何か最近、夜の更新が当たり前になってしまいました。
でも、夜が一番時間がゆっくり取れるというのは確かですね。
聖書を読むのは朝なんですが、
ここにそれをアップするのは、夜の方が落ち着きます。

今朝は1.6度Cまで下がりましたが、
昼間は久しぶりの20度以上。
22.3度まで上がりました。
暖かな一日でした。

午後集会があったので、午前中は聖書を読んで、
集会の準備、日曜日の残務、
午後、集会で、帰ってきてから、もの探しと、
夕方は庭掃除・・・。
あっという間の一日でした。
明日も多分あっという間でしょう。
でも、こんな天気の時は本当に気持ちがいいですね。
なんだか、今日も花粉は大丈夫。
このまま一気に花粉の季節が終わって、
「いい天気でいいなあ」という気持ちに影を落とすものが、
なくなってくれればいいと思います。

でも、ホント、人間、つらい時の気持ちは、
つらくない時にはわからない。忘れている。
天気のことで一喜一憂するなんて、
脳天気な日々を送っている、ということなんだろうか・・・。
それとも、本当は悩むべきことを、
神様が忘れさせてくださっているのか・・・。

いずれにせよ、今日の日を感謝して過ごしたいと思いました。
与えられているものに感謝して歩みたいと思いました。
体が動くこと自体、すごい特権なんだなあ、と思います。
そんな今だからできることをしたい、させて頂きたいと思います。

今日読んだのは雅歌5-8章でした。
とっても熱い恋歌ですね。
その最後の8章7節にはこのようにあります。
「愛を支配しようと財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる」
「愛を支配する」・・・そんなことを考えること自体、
おかしなことです。
愛が私たちを支配するならわかります。
でも、私たちが愛を支配しようなんて、
それもお金や財産で支配しようなんて。
それでなんか心に引っかかりました。
愛を支配する、
うーん、やっぱりなんだかよくわかりません。
でも、愛に支配される、
うん、これはしっくり来る、と思います。
それでいいんだな、と。
そう、この「愛」は神様の愛。
神様の愛に支配されている、
そうだな、と。
でも、本当にそうか?と自分の心に聞いてみたくなりました。
それこそ、自分の心、状況や環境や、
人の言葉や、人の反応にどんなに簡単に反応するか、
そう思うと、本当に自分は神様の愛に支配されているか?
それが問われているような感じがしました。

パウロはピリピ人への手紙の中で、
「私はキリストに捕らえられているから・・・」と言っています。
そう、イエスさまの愛を思うと、十字架を思うと、
ああ、そうだなあ、と思わされます。
そう、今週は受難週。
イエスの十字架の愛を思いながら、
愛に支配されているってこういうことなんだなあ、と思いながら過ごしたい、と思います。

神様、
愛を支配しようというのではなく、
愛に支配されたい、と思えることに感謝します。
あなたの愛に満たされたいです。
あなたに愛されている喜びに溢れて、
それが私の行動を支配している、
そんな日々を送りたいです。
どうか、あなたの愛を日ごとに、より深く、
今日より明日の方が、もうちょっと深く、
感じることができますように。


2006-04-10

主を慕って

今日は月曜日。
毎週月曜日は原則お休みをいただいております。
時々返上するんですが、まあ、それはどんなお仕事でもそうでしょうが、
今日は、しっかり、ゆっくり過ごさせて頂きました。
返事すべきメールにもろくに返事せずに、
あれー?と思っておられる方もいるかも・・・。

でも、本当に暖かな日でした。
穏やかな日でした。
朝は0.8度C。
午後は18.5度C。
一日の温度差が本当に大きいです。
でも、本当に春らしくなって、
花盛りです。
全く手入れしていない庭のチューリップ、
4年くらい前に植えて、そのままのチューリップが
つぼみをふくらませています。
あさってくらいには咲くでしょう。

植えた年は、植えたそばからリスにほじくり返されて、
頭に来たものです。
で、翌年からは、新しく植えてもまたほじくり返されるのは
頭に来るので、ストレスになるので、
もう、そのまま放ったままです。
どんどん分球するので立派な花は咲かないのですが、
それでも、ストレスも感じさせずに花を咲かせてくれるので、
ありがたく感じています。

ガンガン花が咲いていますが、
今年はまだ花粉症はひどくなっていません。
このまま5月までいってくれるといいのですが・・・。

今日は、雅歌の1-4章を読みました。
新共同訳になって、雅歌がますますなまめかしくなって、
こまるかなあ、と思いましたが、どうしてどうして、
自分と神様の関係に置き換えてみると、ああそうだなあ、という感じがします。
特に心に留ったのは、最初の言葉。
「どうかあの方が、その口のくちづけをもって、わたしにくちづけしてくださるように」
この言葉を読んだ時に、心の底から、
ああ、神様に対して、自分もこんな思いを持っている、と感じました。
共感するものが心の中にありました。
神様に近くありたい。
神様に触れて頂きたい。
そのように思います。
包まれて、守られて、いたい。
そのように感じました。
語って頂いて、手を取って頂いて、
抱きしめて頂きたい。
そう思いました。

神様、
あなたが愛してくださっていること、
イエスを与えるほど愛してくださっていること、
心から感謝します。
どうか、あなたの愛をもっともっと感じる、
そういう経験をお与え下さい。
あなたの愛の中に包まれる、
語られて、平安をいただいて、立ち上がる、
そういう経験を与えてください。

2006-04-09

神を畏れ、その戒めを守れ

今日は朝から役員会、午後も役員会。
そして、帰ってきて、ちょっとTV観て、
その後うっかり娘を寝かしながら寝てしまいそうになったけど、
ちょっとやることがあって、
やっていたら、
あ、更新忘れてる!
みたいな感じで、2日連続夜の更新です。
娘?もう一人で寝てしまいました。

聖書は朝読んで、祈ったのですが、
ここにアップするのには気持ちの余裕がありませんでした。
それでいいのだと思っています。
先ず、神様の前に出る。
神様に祈る。
アップするのはまた時間が与えられた時。
それでいいんだと思っています。

今日の朝は1.2度C。昼間は15度まで上がりました。
今は夜の10時で8.4度Cです。
いよいよ、今度こそ春です。
明日から、この先しばらく毎日15度以上まで上がります。
20度以上の日もあるでしょう。

今日読んだのは旧約聖書・コヘレトの言葉7-12章です。
心に留ったのは最後の言葉「神を畏れ、そのすべての戒めを守れ」です。
とにかく、神を畏れること、
神の前に出ること、
それが今日、自分に与えられていることだと信じました。
人の声を聞くことと、
自分が神の前に出て感じた、聞いたことを重んじること、
その狭間で、揺れることがたくさんあります。
決して、「自分は神にこれを語られた」と人の声を聞かない人間にはなりたくないと思います。
でも、また、決して、人の顔色を見て、人の意見に振り回される人間にはなりたくないと思います。
自分はわがままかな、それとも自分は優柔不断なのかな、と思います。
だから、一つ一つの聖書の言葉が毎日毎日意味があるんだと思います。

主よ、あなたに感謝します。
あなたが語ってくださっていることに感謝します。
どうか、御言葉によって生かされ、支えられていることを
実感出来ますように。

あなたの前に静まります。
あなたご自身が私を導いてください。