2006-11-11

主の栄光のために


久しぶりの野菜ネタです。
ブロッコリー、春まきと夏蒔きがあるのですが、
春まきで夏に花が咲いたのは余りかっこよくできませんでした。
そして、最後はグランドホッグに食い荒らされて、無惨なことになりました。

その時に、今ひとつ成長がよろしくなかったモノを、
あまり大きくない植木鉢に入れてデッキのテーブルの上に置いておきました。
これだとさすがのグランドホッグも何もできません。
そのままほおって置いて、余り気にもしていなかったのですが、
夏蒔きのように秋に収穫、となりました。
これ結構立派に見えるかもしれませんが、
ピンポン球よりも大きいのですが、野球のボールより小さいです。

さっき茹でて食べました。
緑色が鮮やかに出て、おいしかったです。

いいかも、夏蒔きのブロッコリー。
他の植物が霜にあたって枯れてしまう中で、コイツは大丈夫です。

あと6日に書いたタッチパッドへの挑戦。
何とか慣れようと思ったのですが、
1週間ももたずに降参。
また、マウスに戻ってしまいました。

何でみんなタッチパッドになってしまったんでしょう。
スペースの問題なんでしょうかね、トラックボールがダメなのは。
あのスティックポイントもよかったのになぁ。

さて、今日の聖書。
今日はローマ人への手紙の9章です。

「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。」(23節)

私たちは神様の栄光のための器。
私たちを通して、主は栄光を表そうとされている。
私たちの努力や願いではなく、
主の憐れみによって・・・(16節)

神様、
あなたはどのような方法で私を通して、
私たちを通して、
教会のひとりひとりを通して、
あなたの栄光を表そうとしておられるのですか?
私の思いを超えているのだと思います。
私の考えを超えているのだと思います。
でも、どうか、教えてください。
あのモーセに教えられたように、
またイザヤに教えられたように、
あなたがどのようにあなたのご栄光を表そうとしておられるのか、
私にも教えてください。
あなたの栄光を表す器としてくださっていること自体に、
まず感謝します。

どんな苦しみや痛みの中にも、
あなたのご栄光が表されることを信じる信仰を与えて下さい。

御霊によって

朝になりました。
かなり遅い朝ですが・・・。

今日までは暖かい様です。
明日は雨。それもかなりまとまった雨になりそうです。
たくさん落ち葉がたまっていますから、
スリップや水たまりには要注意です。

Thanksgivingのころには、
お約束通り寒くなるようですね。
Accuweather.comのThanksgiving明けの金曜日の
夜の予報にはs-wordが入っていました。
いよいよ、その季節です。
わくわく、です。

木曜日の夜のニュースでは
Rutgers(ニュージャージーの州立大)のフットボールチームが、
大健闘しているのが話題になっていましたね。
弱小チームが今全米ランクで15位。
そして木曜日の夜の対戦相手が全米3位のLouisville。
前半が終わって25対7で負けていたのに、
後半の猛追い上げ。
なかなかフットボールをゆっくり見ることはできないのですが
この日は、夜出かけた帰りに車の中で、ラジオのニュースで
「同点に追いついた」という速報を聞いて、ちょっと興奮。
そして、夜のニュースで逆転勝ちを見て、
ちょっとこの後(3試合かな)注目してしまうかもしれません。

さて、昨日の聖書。
昨日はローマ人への手紙8章を読みました。
よく読むところで、好きな言葉がたくさんあるのですが、
昨日は新しく目に留った言葉がありました。

「しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
13節の言葉です。

昨日のことなので、もっとフレッシュな時にメモしておけばよかったと後悔しているのですが、
いつも「殺す?」と何だかストンと来ない言葉なのですが、
昨日は「そうだよなあ」と思わされたのです。
「からだのおこない」というのは、その前に出てくる「肉の思い」ということだと思います。
「肉の思い」それは自己中心であり、神様を必要としない思いです。
その思いは「聖霊によって」つぶされなければいけない、
そして、その聖霊様を受け入れて、自己中心を処理して頂くのは私たち自身の責任なんだ、
と思わされたのです。

5節には「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」とあります。

自分の心が今何によって占められているか?
聖霊様に満たされて歩んでいきたい。
聖霊様私を満たしてくださいと思わされました。

主よ、
昨日も支えて下さってありがとうございます。
出会ったお一人ひとりに今も語ってくださいますように。
私が個人的にお会いしてお話しすること以上に、
あなたご自身がお一人ひとりの心に語り、
ひとりひとりの心に触れてくださいますように。

また、朝に更新

今、1時前ですが、
夜集会が2つあったので、
もう休んで、朝にでも更新します。

ではでは。

2006-11-09

キリストと結ばれて

今日は本当に暖かい日でした。
20度超えました。
でも、一度パッチを履くことになれてしまったら、
もう多少暖かくても、
やっぱりパッチが快適です。
オヤジですから・・・。

明日も今日ほどではありませんが、mildな日になりそうです。
mildでもパッチは必要です。

今日は午前中、キッズクラブの準備をしていて、
4時からキッズクラブ、
今中高生が誰かの送別会をしています。
「タコ八」で遊んでます。
この後、ちょっと彼らにお話をして、
そして、その後、夜はまた人に会う約束があります。
遅くなるかも・・・です。

ですから今日は早めにアップ。

今日のキッズクラブは学校が休みだったのが悪かったのか、
ちょっと前回よりも少なかったですね。
たぶん20人くらい。

でも、みんな楽しみにしてきてくれるので、
とても励まされます。

そして、今日の朝、何を話そうかなあ、と準備していたことを
話しました。
神様がこの世界を造られたこと、
そして、みんなを造られたこと、
お母さんのお腹の中で、大切に大切に守られて、
神様がそのお腹の中で私たちを形作って下さって、
それによって私たちが生まれたこと。

子供たちにはどのように伝わったか、
分かりませんが、
何度も何度も同じメッセージ、
神様の愛と守りの中にいること、
神様に頂いた人生であることを、
語り続けること、

そして、イエスの十字架の愛を伝えることを、

していきたいと思います。

今日の朝はローマ人への手紙の7章を読みました。
ここの後半は、パウロが「自分はしたいと思うよいことはできなくて、
したくないと思う悪いことをしてしまう」と独白しているところです。

それに自分自身の思いが重なるところでもありますが、
今日はそれ以上にもっと前の方にある、

「それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」
という4節の言葉が心に留りました。

私たちはキリストと結ばれた存在。
この言葉をずっと味わっている中に、
ものすごいありがたい、という思いが湧いてきました。

私たちはキリストの花嫁。
人間の夫婦でも、本当に幸せを感じる時があります。
一つとされた幸いを感じる時があります。

それが、イエスと一つにされている、という幸い。
そして、実を結ぶ人生、それも自分のためにではなく、
主のために実を結ぶことができる人生を与えられている。

もっともっとイエスに結ばれたことの幸いを味わっていきたいと思います。

主よ、
私をあなたのものとしてくださったことに心から感謝します。
どうかもっともっとその幸いを味わい生きるものとしてください。
今日も教会のお一人ひとりが、そのことを経験できますように。
神様と共に歩む幸いに生きる方々が起こされていきますように。

2006-11-08

神の奴隷

今日は一日よく雨が降りました。
場所によっては川があふれたようですが、
家の周辺は、大丈夫です。

明日は穏やかな暖かい日になりそうです。

20度以上に上がりそうだという予報も出ています。

土曜日までは暖かいようですが、
その後はまた坂道を転げ落ちるみたいです。

今日は集会はありませんでしたが
何人かの方々とお会いしたり、またお電話でおはなししたり・・・。
一人ひとりのかかえておられる問題、それぞれ大きな闘いです。
主が答えを与えて下さいますように。

今日の聖書。
今日はローマ人への手紙6章でした。
朝早く、5時頃には目が覚めたので、ゆっくり読み、祈りました。
こういう時が自分には必要なんだと思います。

心に留ったのは、
「 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。」
という22節の言葉です。

「神の奴隷」という言葉が目をひきました。
私は「神の奴隷」。
「神の僕」という言葉よりも強烈に響きます。

自分の人生全体を主におささげしようと思います。
自分の夢も、自分のビジョンも、自分の時間も・・・主の御手に。

主が用いたいという方法で、
用いたいという場所で用いて頂きたいと思いました。

それが一番の喜びです。
自分の願いとは違うかもしれない。
でも、それでいい。
いや、それがいい。
主が導かれるところであるならば、
主が用いて下さるところであるならば。
主がご計画しておられるところであるならば。

本当に本気でそう思う。

主よ、
私はあなたの奴隷です。
罪の支配から解放されて、あなたのものとされたのは、
大きな喜びです。
あなたのものですから、
あなたの願うところで、あなたが願うようにお用い下さい。
あなたのために用いて下さい。

2006-11-07

困難から生まれるもの

今朝は予想通り暖かい朝でした。
今夜も暖かいのですが、
雨です。
明日はちょっとまとまった雨になりそうです。
洪水注意報発令中。

今日は選挙の日です。
こんな日は開票速報見る、とかいう宿題があるんじゃないかなあ、
と思うんですが、子ども達は、
高校生も、中学生も、
はやばやと、寝る体勢に入っています。

早寝早起きはいいのですが、
大丈夫なんかなあ、この子達、と心配。

New Jerseyの上院選挙の共和党候補は、
NJで行っていた元学長の息子。
この元学長、元州知事。とても人気があったようです。
っていうことで、親の七光りかどうかは、
余りこちらの新聞も読んでいないので分かりませんが、
期待の星だったようですね。
元学長の息子ということで、密かに注目していました。
共和党は応援していませんでしたが、
この息子氏はちょっと応援していました。

負けちゃいましたがね。

でも、考えさせられました。
そんなもんなのかもしれませんね、
人の心は・・・。
考え方が同じかどうか、以上に、
ちょっと自分と関係があるだけで、
それも自分が行ってた学校の学長さんの息子だというだけで、
応援したくなってしまう・・・。

反対に、考え方自体には共感できるけれども、
ちょっとした言葉や、行動で、イヤになってしまう。

そうなんだろうな、と思います。

決して姑息にではなく、
真実を尽くして、接していくことの大切さを思わされます。

今日の聖書。
今日はローマ人への手紙5章を読みました。

「患難をも喜んでいる」という3-4節が心に留りました。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

困難がある時に、
わたしたちは逃げたくなります。
それを無理矢理にでも打ち壊そうと思います。
でも、それはわたしたちに忍耐を与え、
練られた品性を与えてくれるというのです。

この「練られた品性」はとても魅力的です。
あこがれます。

この「練られた品性」を与えて欲しいと思います。
でも、それは「患難」を通して与えられるかと思うと、
ちょっと恐いような気もします。

でも、この練られた品性が欲しいと思います。
困難をも喜ぶものとなりたいです。

主よ、
困難の中で、
忍耐を学べますように。
そして、私が練られた品性を自分のものとすることができますように。
主よ、あなたが練ってください。
困難から逃げない勇気をお与えて下さい。

2006-11-06

望み得ないのに

そして、こちらが今日、6日の分。

今朝は-0.8度。
この秋3度目のマイナスです。
この秋最低タイ記録。

でも、この先、しばらく、この記録は破れないでしょう。
どちらかというと例年よりも暖かな11月になるみたいです。
少なくともこの先2週間くらいは、冷え込みは弱そうです。

明日の朝も4度くらい。
朝7時に教会に行って祈り会があるので、
車の窓を「ガリガリ」やらなくていいのは助かります。

10月22日に書いた、
日本語でメールの送受信ができる携帯、
Nokia の6682ですが、
ですが、その後、普段使っているメールアドレスに、
Gmailからメールが来ると、これでは読めない、ことを発見。
「文字化け」するんですねえ。
うちに帰って、コンピューターで開くとちゃんと読めるんですが、
外出先、これ一本でOKとまではなかなか行きません。

でも、
今度はGmailを携帯から
直接読んだり、
書いたりする
ソフトがでました。
だから、もう、
Gmailをメインのアドレスにした方がいいのかも。
ホント便利だから。
これが、携帯の画面。




さて、今日の聖書です。
今日はローマ人への手紙4章。

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」
18節の言葉です。

今、教会では自分たちの会堂を持つことを、語り合ったり、
祈り合ったりしています。

その中で、「現実性」ということが時々話になります。

この聖書の言葉はどうなるんだろうかと、思います。

わたしたちは、いや、私は本気で聖書を信じているんだろうかと・・・。

そして、思いました。
本気で信じようと。
聖書の言葉を本気で信じて、
そこに自分の存在を、
自分のたった一回の人生をかけていこうと思いました。

そのかけに一緒に乗ってくれる人たちと一緒に歩んでいきたいと思いました。

だから、ここにも書き、
またこれからもアピールしていこうと思います。

1人で考えていなくていい。
聖書の言葉をマジで信じて、
キリストバカになって歩んでいく仲間達が与えられるように、
そのために人生使い切っちゃう同志が与えられるように、
祈っていこう。

主よ、
「信仰」って何かと考える時を与えて下さってありがとうございます。
「信仰告白に同意すること」
「人を愛して生きていくこと」
「人に仕えて生きていくこと」
でも、それだけではなくて、
「望み得ないのに望みつつ信じる」
「神の全能と神の最善を信じる」
「人生を神様にかける」
そういうことですよね。
ハンパだった私を赦してください。
マジで信じて歩んでいきます。
あなたの御業を見せてください。
「みんなの協力による成功」ではなく、
「神の奇跡」を見せてください。

誇るものはなくていい

回復しました。
昨日、5日の分です。

昨日の日曜日、朝も午後もミーティングが続いたので、
ちょっときつかったですが、
礼拝は幸いな時となりました。
多くの方々が集まられました。

礼拝後皆さんとゆっくりお話ができなかったのが残念でしたが・・・。

このところ、いつも使っているマウスが調子が悪いので、
思い切って、「タッチパッド」(フラットパッド?)に慣れてやろうと思うのですが、
なかなか慣れません。
マウスを持ち歩くのも、何だか「せっかくノートブックなのに・・・」というのもあり、
少しでも「節約生活」をしようということもあり、
挑戦中。

触ったつもりがないのに触ったことになってしまったり、
触っているのに、読みとってくれなかったり、
感度を調節するのですが、まだまだダメですねえ。

14年前、アメリカに来た時は、MacのPowerbookを買いました。
来たばっかりの時は、ちょっと貯めたお金があったので、思い切って買いました。
あのころで1500ドルとか?もっとかな?
「トラックボール」というのが真ん中についていて、とても使いやすかったです。
そして2代目、3代目と、Toshibaで、「スティックポイント」?だったか
何だったか、あんまり最近見ない、短い棒みたいなのがキーボードの真ん中にあって、
それも使いやすかったです。
最近見ない、と言うことは、たぶん、「使いにくい!」って人が多かったのでしょう。
今回買う時も、その棒がついているヤツがいいなあ、と思ったのですが、
余りないんですね。結局、その他のところを見て、「お買い得かな」というのを選んだら、
「タッチパッド」のヤツだったんですね。まあ、そのうち慣れるだろう、と思って・・・。
でも、それから間もなく2年。ずっとマウスを繋いできていたんです。

ま、何事も挑戦。
勝手に触ったと判断されるのがイヤで、
「タップ」といって、パッドを叩いたら、「クリック」したと同じことになる機能は、
OFFにしてしまいました。
それでずいぶんよくなりました。
でも、まだ「ドラッグ」はダメです。

まあ、焦らず、ボチボチ慣れていこうと思います。

ということで、昨日の聖書。
ローマ人への手紙3章を読みました。
わたしたちが罪人であって、自分の力で救われることはできない。そこで、神様が救いの道を開いて下さった、というところです。

27節の言葉が心に留りました。
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」

自分の誇りはどこにあるんだろうなあ?
自分は何を誇りとしているんだろうか?

でも、それは取り除かれたのだというのです。
「自分はこんなにやっている」とか、
「自分にはこれがある」とか、
「こんな実績がある」とか。

そういうものは取り除かれた、というのです。

でも、人は誇りを持たずに生きていくことはできるのでしょうか?

私の結論は、「神の愛を知った時に、『私にはこれがある』という誇りがなくても、
『こんなわたしが愛されている』という安心感に支えられて、生きていくことができる」
でした。

そう思います。

誇る必要がなくなる、

極端に自信がない人で、
自分の過去の業績とか、才能を得意げに話す人に閉口することがありますが、
ちょうどそれと反対に、愛されている故の安定感で、
何も誇りにする必要がなくなるのではないかと思います。

いずれにしても誇るものはないんです。
「取り除かれた」のですから・・・。

主よ、
ただただ、あなたに感謝します。
あなたが私に「誇る必要のない」歩みを与えて下さっていることを。
あなたに出会わなければ、私は自分を誇らないでは生きていけなかったんだと思います。
あなたに会えてよかった。
ありがとうございます。

2006-11-05

今日はお休みです。

うーん、今日はちょっとお休みかな。
「たっぷり眠ると、すっきり目覚める! 」
を期待して、早く休みます。

ではでは。