2007-01-27

どこに投資するか

今日はずっと暖かくなりました。
朝起きたら-3度まで上がっていて、
一日中曇っていましたが、気温は2.3度まで上がりました。
今、夜の11時半ですが、気温はまだ1.8度もあります。
レーダーには何か降っているエコーが出ていますが、
実際には、家のあたりでは何も降っていません。
上空で何かが降っていても、下に届くまでに蒸発してしまう場合があります。

今も多分そうなのでしょう。

12時45分アップデート・・・外はみぞれが降っています。でも、プラスの1.9度。

明日も、今日同様、どんよりとあまり寒すぎない日でしょう。
月曜日はまた寒くなります。

「証し」の第3章。
私がイエス・キリストを救い主と信じたのは小学校2年生の時でした。
私の記憶によると・・・。

3年生から東村山の聖書学院で持たれていた
2泊3日の「小学生キャンプ」に行けるのですが、
特別にスタッフの一人であった父について、行きました。
夜の集会で、先生がお話をされていたのですが、
内容は何にも覚えていません。
で、最後にみんなが「・・・立って下さい」と言われて、
立ったんですよね。それで私も立ちました。
1年生の弟と一緒に・・・。

それに気がついた父が「どうして立ったんだ?」と聞いたのですが、
「みんなが立ったから、どうしたのかな?と思って」と答えたのだと思います。
でも、その時、私は父の口から、びっくりすることを聞きました。

「罪があったら、天国に行けない」
もうびっくりです。
教会で育って、神様のことを知っていました。
イエスさまのことも知っていました。
天国のことも・・・そして、当然、自分は行けるものだと思っていました。
でも、初めて「罪があったら天国に行けない」というのです。
それは困ったと思いました。
昨日も書いたのですが、
いつも弟をいじめていたからです。
だから、罪があることはよくわかっていました。

その時に、イエスさまが十字架にかかって下さったこと、
ゴメンナサイとお祈りすべきことを知りました。

私は単純に、というか、素直にと言うか、ほんとうに
それしかないと思って、泣きながら、ゴメンナサイと神様にお祈りしました。

1971年7月21日だったかな?
2年生の夏休みの最初の方の出来事でした。

「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ヨハネ第1の手紙1章9節

これが私にとっての「救い」の経験です。
でも、これはほんとうに始まりの始まりでした。

ですから今でも私は信じています。
どんなに幼い罪意識でも、
どんなに小さな罪意識でも、
軽く見てはいけないこと。

ちゃんとイエスさまの十字架の赦しを語ることの大切さ。
決して、「そんなことは気にしなくていい」と言ってはいけないこと。

そして、どんな薄っぺらな罪意識でも、
それを悔い改めたときに、神様に受け入れられること、救われること。
「救いの経験」はその時に与えられること。

そして、それはそれが「始まりの始まり」でだんだん深められていくこと。

さて、今日の聖書です。
今日はピレモンへの手紙です。

「その請求は私にしてください。」18節。

1章だけの短い手紙。
でも、その背後にあるドラマはどれほどのものだったかと思います。
ピレモンの奴隷でありながら、主人を裏切り、主人に損害を与え、
逃げ出したオネシモ。
しかし、彼はその後パウロに出会い、
悔い改めて新しい出発をします。

そのオネシモをピレモンの元に送り返すときに、
その手に持たせたのが、この手紙です。

「私がそれをかぶる」とパウロは言ったのです。
オネシモのために自分の持てるものを差し出したのです。

私はどうだろうかと思いました。
このようにできるだろうかと。

神様が私に託して下さったもの。
それは神様の許しの中で、神様の喜ばれるように使うことを前提に、
私たちに任されているもの。
それをどのように使うのか、問われているように思いました。

何に投資するのか、問われているように感じました。

最近、「次の世代のために何ができるか」と言うことをよく考えます。
自分が先輩達に与えられたように、私も次の世代にのために投資できるだろうかと。

神様から託されているものを、
喜んで与える、喜んでささげるものでありたいと思います。
次の世代のために。

主よ、
私に愛を与えて下さい。
あなたに対する愛を、
次の世代に対する愛を与えて下さい。

そのために、
いつもいつも、あなたからどんなに大きな愛を与えられているか、
忘れることがありませんように。
どんなに大きな愛を与えられているか、見つめ続けることができますように。

明日の日曜日に祝福を満たして下さい。

2007-01-26

良いわざに励む

今日は寒かったですねえ。
朝の気温は-14度C。
そして、昼間も-6度C。おまけに風もありました。
夜になって一度-8度まで下がった気温が、
今は-7度。
あまりこれ以上下がらないようです。

明日あさっては気温がプラスに上がって、
ちょっと楽になるようです。

そして、月曜日の朝には金曜日と同じようにちょっと雪が降って、また寒くなるみたいです。

今日は、「証し」の第2章。

今日の信徒勉強会では「証し」について学んだんですが、
その基準からすると神様を指し示す「証し」というより、
spiritual autobiography(自分の霊的な足跡をたどる作業)なのですが、
でも、その中でも、神様が私の人生にどんなことをして下さったか、
それが伝わったらいいなあ、と思います。

そう、自分の子供時代の中で大きな存在だったのは、
両親もでしたが、
正直言うと、兄弟の存在は大きかったです。
男ばかりの4人兄弟の2番目なのですが、
上の3人は年齢が近かったので、ほんとうに兄と弟の存在が自分にはものすごい、
影響がありました。

2つ上の兄はリーダーシップもあるし、
優しいし、
ちょっと変わっているところもあるけれども、
兄弟のまとめ役。
頼りにしていました。
私も生意気だったと思いますが、
かわいがってもらいました。
そして、兄の後をついていくのが、常になりました。
「お兄ちゃんがいくならボクもいく」
「お兄ちゃんがするなら、ボクもする」
それで交通事故にもあったのですが・・・。
中学でトロンボーンを始めたのも、
牧師になりたいと思い始めたのも(最終的には自分の決断でしたが・・・)、
兄の存在によるものでした。

弟は元気で楽しいヤツでした。
でも、1才違いの兄の私にとっては
また「生意気なヤツ」でもありました。
言葉では勝てない無口で内気な私にとって(ホント)、
どうやって弟を打ちのめしてやるか、
ぐうの音も出ないほどにしてやるか、
それが課題でした。

きつい目つきでにらみつけたり、
手を出したり足を出したり、
とにかくケンカをしたら、泣かさなければいけません。

でも、その後、必ず親に叱られて、自分も泣くことになるのですが・・・。

そう、いつも弟をいじめていたことが、
子供時代の「罪意識」の中心でした。
初めて「君にも罪がある」という話を聞いたときに、
何の抵抗もなくそれを「ほんとうにそうだ」と感じることができたのは、
そういう自分がイヤでしょうがなかったからです。

それが私に「救いの経験」を与えてくれました。

今日の聖書。
今日はテトスへの手紙の3章です。
「神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」
8節の言葉です。

今日、日曜日の礼拝説教の準備をしながら、
ほんとうに「福音」の大切さを感じていました。

私たちは良い行いによって救われるのではない。
立派な人間になったら神様に受け入れられるのではない。
私たちは罪人なのに、神様は私たちを愛して下さって、
私たちのためにイエスを与え、
イエスが十字架の上で私たちの罪のために身代わりの死を経験して下さることによって、
私たちが赦される、というその福音です。

良い行いによって救われるのではないのです。
でも、良い行いをするようにと、
私たちは生かされているのです。

ただ、キリストの福音に感謝しながら、
愛されている喜びに満たされながら、
そのパワーを「良い行い」に向けていく、
そのように私たちは使命を与えられているんだと思います。

良い行いによって救われるのではなくて、
救われた喜びによって良い行いをするのです。

私の行いが人々を生かすものとなるようにと願います。

主よ、
御言葉によって生かしてください。
福音によって生かしてください。
喜びを満たして下さい。
あなたが与えて下さった大きな愛に感謝します。
どうか、その大きな愛に感謝して、
感謝と喜びを、「良い行い」に向けていくことができますように。

2007-01-25

威厳を保つ

いやあ、今日は寒いですねえ。
家の中にいても、冷たい空気がどこからか忍び込んできてるみたいです。
朝起きたら、外は雪化粧。
1-2センチくらい積っていましたね。

そして、今は夜の12時頃ですが、
外は-10.9度C。
今もまだまだ下がっています。
明日の朝は-13度くらいでしょうか?

大雪は降らないのですが、
時々小雪が舞う日がここ数日あるみたいですね。

昨日の夜、
日曜日に放送されていた「平成教育委員会」見ましたが、
その中で日本語の問題がいろいろ出ていました。
難しいですよね。

ATOK & 一太郎 第2回全国一斉日本語テスト

やってみましたが、
うーん、難しいもんですね。
平均は超えましたが、
言葉を使う仕事をしているのに、
こんなにもいい加減なのかと・・・。
特にマナーとか敬語の使い方とか・・・。

最近どうなのかなと思うのは、
「了解」と「了承」と「承知」の使い方。

「ご了承下さい」という言葉をよく聞きますが、
「承る」という言葉は「謙譲語」なのに、
それを使った「了承する」という言葉は「謙譲語」ではない、ってわけなんでしょうか。
「謙譲語」だと「承知する」?「承知致しました」とか。

でも、個人的には「ご了承下さい」って言葉も、何か、違和感あって、
いろいろ考えて今日も「ご了解下さい」という言葉を使いましたが、
それも、ちょっとおかしいなあ、と思い・・・、
何か難しいですね。
こういうとき、社会経験のなさが露呈してしまいます。
気にしすぎると、よけいおかしくなるけど、
最低限のことは身につけておきたいなあ、と思います。

同世代の中でも平均より下じゃないということは、
特別に無知なのではないかもしれませんが、
「牧師のための日本語講座」とか、どなたかにやって頂こうかな。

で、今日の聖書。
今日はテトスへの手紙2章でした。

最後の15節が心に留りました。
「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」

「権威をもって話す」「軽んじられないように」
どきっとします。
自分の権威ではなくて、
神様が与えて下さった権威、
それをほんとうに分っていない自分がいるような気がしたからです。

主の召しに対する確信、
主が与えて下さったこの教会の牧師としての使命、
そして権威。
それをしっかりと信じて、
信頼して、与えられたメッセージを語ることの責任を感じさせられています。

自分の能力とかを考えると、
権威とは無縁ですが、
主が与えて下さった権威を軽く見ないで、
また、人からも自分という人間ではなくて、
主が与えて下さっている権威を軽く見られることがないように、
堅く立っていくことが大切だと思わされました。

主よ、
あなたの使命、
あなたの与えて下さっている権威を感謝します。
その使命と権威を私自身が、
軽く見てしまうことがありませんように。
「謙虚でありたい」という言葉を、
自分の甘えの隠れ蓑にすることがありませんように。
また、あなたが与えて下さっている権威が
軽く見られているときに、それに甘んじることのない勇気を与えて下さい。
あなたの与えて下さっている権威にもっともっと信頼できますように。

2007-01-24

言葉と行動

今は夜の11時前。
9時過ぎにNYから無事帰還しました。
今日2回目の更新です。
これで「一日一章」が追いつきます。

気温は0.8度「も」あります。
「も」というのは、
明日あさってはここまで上がることはないだろうからです。

今北の方からどんどん冷たい空気が南に降りてきているみたいで、
今夜から明日にかけてにわか雪が降るみたいです。
軒並み60パーセントの雪の確率が出てきています。
うっすら雪化粧するかもしれません。

で、何日か前に「ああ、消えたー」と落ち込んだのは、
どんなことを書いていたかというと、
「証し」の1章として、
「牧師の家庭に生まれたこと」でした。

「牧師の家庭」に生まれるということは、
日本ではほんとうに特別なことだと思います。
100人に1人のクリスチャンで、
そのうちの牧師のうちなんて。

だから「恵まれている」ことは確かです。

もしも、自分が牧師の家に生まれていなかったらクリスチャンになっていたか?
どうだっただろうか、と思います。
だから、私にとって、そこに生まれたことはとても良かったことなのです。
それなしに今の自分はあり得ません。

でも・・・

まさにそれがゆえにある「痛み」もあると思います。
少なくとも私の場合は。
勘違いしないでください。
別に何か特別なことがあったわけではありません。
やはり恵まれているんだと思います。

でも
「恵まれているんだよ」と言われれば言われるほど、
行き場がなくなってしまうのです。
自分でも自分にそういい聞かせます。
そして、自ら行き場をつぶしていくのです。

何か、「何があったんだろう?」と疑心暗鬼になる方がおられると困るので、
「何も特別なことはなかったんだよ」という意味で、ちょっと書きますと・・・。

何でしょうか、自分で自分にプレッシャーをかけていたのでしょうか、
「牧師の息子だからこうしなければいけない」という気持ちはいつもありました。
学校の友達にも「教会の子供がそんなことをしていいのか?」みたいな、言われ方もしましたしね。

教会も楽しかったです。別に嫌なことがあったわけではないです。
でも、自分たちの休みの日である日曜日は親は一番忙しい日。
自分たちの親ではなくなり、教会のみなさんのものになる日。
祝日も何かいろいろ教会行事が入ったものです。

小学校1年生の時に、
『開校記念日』で、日曜日でも祝日でも何でもない日が休みになったとき、
5月13日。絶対に忘れません。
父が潮干狩りに連れて行ってくれました。
それから、ずっと「また潮干狩りに行きたい」と37年間思い続けています。

というくらいなんです。

だから、特別に何かがあったわけではないのです。

書きながら、「自分の『痛み』ってそんなもんかい、やっぱりホントに恵まれているよなあ」と、また思いました。

うーん、まだ自分の中でどう受け取っていいのか分らないのかもしれません。
これは自分の人生の宿題ですね。

で、今日の聖書。
今日はテトスへの手紙に入って、1章。

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。」
16節

どきっとする言葉ですよね。
「言ってることとやってることが違うじゃないですか!」
なんて言葉を聞いたりします。

他人事とは思えない感じがしました。
自分はどんな生き方をしているだろうかと。

もう一つの聖書の言葉を思い出しました。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」ヤコブの手紙1章22-24節

神様を神様とする歩み。
それが信仰のキモなんでしょう。

自分を神様にするのではなくて、
神様を神様とする。

明日は今月最後のJOYJOYキッズクラブです。
神様のすばらしさが示されますように。

主よ、
どうか、御言葉を聞くだけ、語るだけのものではなく、
そこに生きる者としてください。
自分を神とするのではなく、
あなたを神として従っていくことができますように。

明日のキッズクラブも祝福して、
たくさんの子ども達との出会いが与えられますように。

時が良くても悪くても

今日はNYの日です。
昨日の夜よりも今朝の方がちょっと暖かくなったような気がします。
でも、だまされてはいけません。
これから寒くなるみたいですから、
明日は小雪やにわか雪が降るだろうということですから、
そしてあさっては昼間でも-5度以下だそうですから・・・。

月曜日に4年に一度の免許証の更新にLodiにいってきました。
厳しくなったという話も聞きますが、
逆にデジタル化されて、とても早くなったような気もします。

来られたばかりの方々はIDをそろえるのが大変なようですが、
14年もいると、その場で「これある?これは?じゃ、これは?」って聞かれるまま
出していったら、そろってしまいました。

そして、1/8に書いた臓器移植のこと、
ちゃんと書類に書く欄がありました。
そこにチェックを入れると、免許証にOrgan Donerと入ります。

そして写真も「今までの使う?」と聞かれて、Yesと答えたもんだから、
全部で15分くらいでしょうか?
家を出てから帰るまでで45分でした。

4年前は「郵送での更新OK」で
その後、厳しくなって、本人の出頭が必要で、
時間がかかるようになったみたいですが、
ちょうど今回の更新の時には迅速化されていて、ラッキーだったと言えましょう。

2週間後にはいよいよ息子が16歳になってLearner's Permitです。
「もうかい!?」って感じです。

で、昨日の聖書。
昨日はテモテ第2の手紙4章でした。

心に留ったのは
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」2節

2つのことを教えられました。
1つ目はいつでも伝道すること。
状況的に伝道に適しているとき、適していないとき、ということがやっぱりあるんですね。
でも、たとえ「適していない」時であったとしても、御言葉を伝える責任があるということ。
「とにかく伝道しなさい」ということ。
励まされました。

そして2つ目は「教えたり、責めたり、戒めたり、勧めたりすることの大切さ」です。
「責めたり、戒めたり」というのはやはりリスクが伴います。
「そんなこと言われたくない」とか「そっちだって・・・」というときもあるでしょう。
「わたしを裁くのか」と言われるかもしれません。
でも、それを恐れていてはいけないんですね。
責められたり、戒められたりすることによって、
主の前に出て、御言葉によって成長するチャンスもあるのに、
それをみすみす奪っているのかもしれません。

愛と誠実さを持って
「教え、責め、戒め、勧める」ことができますように。

主よ、
御言葉の力を信頼して、
伝道させて下さい。
御言葉の力を信頼して、
「教え、責め、戒め、勧める」ことができますように。
私自身、御言葉によって整えて下さい。
そして、大胆に語る者とならせてください。

2007-01-23

神の人を整えるため

今日も寒い日でした。
昨日の夜もちらほら小雪が舞っていましたが、
それだけです。

木曜日もそうみたいです。
Stormではなくて、小雪が舞うくらいみたいです。
そして、金曜日は今年一番の寒さになるようです。

どうやらこのまま雪かきをしないまま、2月を迎えることになりそうです。

今日も早速聖書に行きます。
昨日の聖書はテモテ第2の手紙3章でした。
その中で心に留った言葉は、

「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」17節の言葉です。

「十分に整えられた者」
これはまた大切な言葉ですね。
「奉仕のうちで整えられる」という面があると思います。
「十分に整えられるまで奉仕はできない」というのはまた違うかなあと思います。
でも、ほんとうに用いられるために「整えられる」ということがどれほど大切かと思います。

考えてみれば、
モーセも、情熱に燃えて、地位もあったときには用いられませんでした。
ペテロも、主のためにどこまでも!と情熱だけだったときには失敗だらけでした。

弱さを知り、砕かれたときに、用いられたのです。
主にとっては、この「整えられる」ということがどれほど大切なことかと思いました。

御言葉によって整えられて、用いて頂きたいと思いました。
御言葉がまた一人ひとりを整えてくださるのを見せて頂きたいと思いました。

人が救われることもほんとうに大きな喜びです。
でも、それだけではなくて、
キリストを信じた方が、
みことばに取り扱われて、
悔い改めに導かれて、
主によって整えられて、
主に用いられていくのを見るのは、
どれほど大きな喜びでしょうか?

そのような御業を日々の歩みの中で見せて頂きたいと思いました。

主よ、
あなたのみことばに感謝します。
どうか、わたしに日々に御言葉を与えて下さい。
ただ「いいなあ」というレベルではなく、
魂を探られるような、魂が砕かれるような、
魂がゆさぶられるような御言葉を与えて下さい。

2007-01-22

主にとって有益なもの

ああ、どういう訳か、
結構たくさん書いたものが消えてしまったので、
がっくりきてしまいました。

うーん、それはまた気を取り直して明日書くとして、
今日はさっそく聖書に行きましょう。

昨日の聖書ですね。
昨日はテモテへの第2の手紙の2章を読みました。
その中で心に留ったのが次の聖書の言葉です。

「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」21節。

主にとって有益な者。
そのようになりたいと心から思う。
そのためには不純なもの、主が喜ばれないものを取り除くこと、
主に取り除いて頂くこと、
こだわっていないで、
しがみついていないで、
主の許にお委ねして、
手放してしまうこと。

ほんとうに主に用いられるもの、
主にとって有益な者となりたいと思った。

昨日、教会の総会で今年の方針を語りつつ、
野心とか、野望とか、そんなものとは無縁なことを感じた。
ただ、この主を知って頂きたい。
この主の愛を多くの人に知って頂きたい。
そんな思い。

それだけでいい、と単純に思わされました。

どう思われようとも、そんなことも気になりません。
ただ、一人ひとりが主の前に整えられて、
主の前にへりくだらされて、
喜びのあふれて・・・
自分が何かができた喜びではなくて、
主に愛されている喜びにあふれて歩んでいくことができるように、
それだけを願います。

主よ、
もっともっと私の心を探って下さい。
そして、あなたの喜ばれないものがあったら、
それを示して下さい。
わたしはそれを手放しますから、
教えて下さい。
そして、それをきよめて下さい。
取り除いて下さい。
あなたにとって有益な者とならせてください。

2007-01-21

福音のために苦しむ

遅くなりましたが、
昨日の分です。

でも、天気予報は今日の分。
今日も一日寒かったのですが、
何と返ってきて天気予報を見たら、
Freezing Rain注意報がでているではないですか!

いつも書きますが、Freezing Rainは一番コワイですから、
明日の朝、気をつけてくださいねえ。
大したことはなくても、つるっと滑ることがあります。
車もそうですが、歩いててもこけることがあります。
いや、こけたこともあります。

「証し」のこと。
ここに来てくださるクリスチャン以外の方々もおられるので、
ちょっと説明すると、
神様が私たちの人生にどんなすばらしいことをしてくださったかを語ることを、
「証し」といいます。「神様の御業を証言する」という感じかな。

で、イ・チソンさんの「証し」についての言葉が心に留っているので、
それを紹介します。本人の許可いただいていませんが、本に載っているので、本の引用という形で・・・。

「信仰の証としてどのような話をすればよいのか悩んでいたとき、『信仰の証-testimony』というのは『わたしが何をした』ということを話すのではなく、『神さまがわたしにこうしてくださいました』と伝えることだと気づきました。だからわたしは人々の前で、これまで神様が示してくれた恵みについて話すことにしました。」(「今日も幸せです」106ページ)

そんな「神様がわたしにこうしてくださいました」という証し、今度書きたいと思います。JCCNJの皆さんには、15分バージョンの「キリストに出会ったときの証し」を書いてもらうことになっています。だから、私自身ももう一度書いてみたいと思います。1-2月の宿題です。

昨日の聖書。
昨日はテモテへの第2の手紙の1章を読みました。
「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」8節の言葉です。

「福音のために苦しむ」って分るだろうか?
こんな恵まれた環境に生きていて、
「福音のために苦しむ」なんて経験できるのだろうか?

何かぬるま湯の中にいるかのような感じもする。
何でもできて、堂々と語れて、
こんな中で、「福音のために苦しむ」ことはできるのだろうか?

「福音のために苦しむこと」次の課題のような気がする。
楽しい教会生活、楽しい伝道を求めてきたような気がする。
神様に求めながら歩んでいきたいと思う。

主よ、
「福音のために苦しむこと」とは何でしょうか?
教えてください。
そして、それを避けることがないように。
それを手にとって進んでいくことができますように。