2006-09-30

勇敢でありなさい

9月最後の日ですね。
ものすごい勢いで9月が駆け抜けていきました。
このまま、気がついたら、「ああ、もうクリスマスか!」なんてことになっているかと思って、
恐くなります。

ちなみに今年は「クリスマス・イブ」が日曜日。
さて、どんなプログラムになるのでしょう・・・。早く英語の先生と打ち合わせしとかなきゃ。

昨日の夜は、「時差ぼけなんて関係ない!」と豪語していたのですが、
その後夜の1時半にに寝たのに、目が覚めたのは午前3時。
そして、午後やたら眠い。

うーん、完璧昼夜逆転ではありませんか・・・。

今朝はとても寒くなりました。
予想の7度Cをさらに下回って、家の温度計では5.5度Cまで下がりました。

どんよりと曇って途中から小雨も降る一日でした。

うーん、雨男かな。

明日の日曜日も雨の予報が出ています。
それもかなり本降りのようです。

昨日、かなり気合いが入って長くなってしまったので、
今日はあっさりと・・・

今日の聖書はヨハネによる福音書16章でした。
「最後の晩餐」でのイエスの話のまとめの部分です。

「私が去っていっても、別の助け主、すなわち、聖霊を送るから、心配するな」という話です。

その中で、今日一番心に響いたのが、
最後の聖書の言葉です。
「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」33節。

この「勇敢でありなさい」という言葉に励まされました。
私は本当に小心者だと思います。
臆病だと思います。
だから、このような言葉が必要なんだろうと思います。

「勇敢でありなさい」

恐れなくていい。
おもいわずらわなくていい。
勇敢に進んで行きなさい。
その様に語られたように感じました。

いろんな苦しいことや、
悩むこともあるかもしれない、
でも、そんな中でも、「私はもう勝っているから」という方がおられるから、
そうなんだよね。
もう勝負はついている。
だから、心配しなくていい。

大胆に進んでいこうと思います。

主よ、
あなたと共に過ごす時の幸いを感じます。
いろんなことで心が乱れます。
あなたの御声をいつもいつも聞きながら、
進んでいくことができますように。
他の雑音に捕らわれてしまうことがありませんように。
みことばにいつもいつも聞いていくことができますように。

2006-09-29

友と呼ばれて

NJに戻ってきてから30時間くらい経ちました。

昨日は12時に寝て気がついたら9時でした。ちょっと寝坊。
でも、おかげで時差ぼけは軽くて済みそうです。

日本にいた時には、「NJに帰るのかぁ」って感じでしたが、
今は、もう2週間あまりの日本での滞在の現実感が薄れ始めています。
「2日前には日本にいたんだよねえ・・・」という感じです。

日本では、コンビニだけじゃなくて、100円ショップも行きなよ・・・と言われたのですが、
一歩も足を踏み入れられずに終わってしまいました。

ちょっとだけ、残念。

コンビニは初日に行ってから、なかなか行く用事もチャンスもなかったのですが、
最終日の前の日、ちょっとだけ立ち寄りました。

そしてちょっと捜したのが、男物のパンツ。

そう、パンツ。

英語のpantsではなくて、日本語の「パンツ」。

やっぱりちゃんとありましたよ。

そう、確か日本のコンビニにはあるよなあ、と思っていました。

実は・・・

9月2-4日のファミリーキャンプ、1日早く行っていたのですが、着く前に気がついたことがありました。

英語のpants、日本語の「ズボン」の替えを持ってこなかったことに・・・。
ヤバイ、3泊だもんなあ・・・すぐ食べ物こぼすしなあと思いつつ、ホテルに向かいました。

そして、カバンを開けて、「やっぱりないよなあ・・・」と思いつつ調べて、
もっとすごいことに気がつきました。
日本語の「パンツ」の替えを忘れたのです!

これはヤバイ!

話には、「2日目には裏返して、3日目には前後ろを逆さまにして、4日目には・・・」と言いますが、
さすがにそれは無理でしょう・・・。

・・・

うーん、やっぱり、さすがにね。(おい、考えるな!)


救いは何もない砂漠のど真ん中、ではなかったことです。
車で10分走れば、ショッピングモールがある。
でも、2日の午後のプログラムが始まってしまったら、もう買い物になんか出る暇がない。
でも午前中も牧師の研修会があるし・・・

と思って思いついたのが、

普通のグローサリーストア(スーパーマーケット)にも、
ちょっとは置いてあるだろう・・・。
大体7時頃から開くだろうから・・・。

と朝早く行ってみました。

でも、ない。

靴下止まりです。

靴下はあるんだけどなあ・・・。

下着も、お店によっては、なぜか、女ものならあります。

・・・・

でも、それもヤバイよなあ・・・。
(だから、考えるな!って)
てゆうか、それは「履かない」よりももっとヤバイでしょう。

帰り道に目に留ったのは「7イレブン」。
開いてる。一応アメリカでも7時には開くみたいです。ハイ。

ちょっと期待して、入る。・・・だって、確か日本の「7イレブン」にはあったから・・・「パンツ」。

入ってすぐ、「あ、こりゃダメだ」と気がつく。

典型的なアメリカの「7イレブン」より、さらにモノがない。
なぜか軍手はあるが、「パンツ」はない。
ソーダマシンはでかいのがどーんとあるのですが、
肝心の「パンツ」はないんですねえ。

ちょっとでも期待した自分の愚かさを感じました。

結局、牧師研修会をちょっと中座して、10時から開く店で買ってきました。「パンツ」と「pants」。

うーん、最近、ちょっと忘れ物がひどすぎるかな。

でも、そんな時、日本のコンビニがこっちにあったら・・・とマジ思います。

今度近所に「日本のコンビニがオープン!」とかあったから、
今度調べてみよう。ちゃんと「パンツ」があるかどうか・・・。

今日の聖書はヨハネによる福音書15章でした。
最後の晩餐の中のイエスの言葉が続きます。
今日のところは「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝です」というところです。

その中で、イエスの次の言葉が心に留り、祈らされました。

「わたしはあなたがたを友と呼びました。」
15節の言葉です。

イエスさまが私のことを「友」と呼んでいてくださる。
友と呼んで親しく過ごそうとしておられる。
それなのに、私は神さまとの時をどれくらい楽しみにして毎日を送っているだろうか?

祈りの生活がもっともっと豊かなモノになるようにという熱い思いが与えられた。
もっともっと親しく神さまと時を過ごしたい。
もっともっと豊かな時を過ごしたい。
その様に思いました。

そして祈りました。
あなたとの交わりの時を、
あなたに祈る時を、もっとゆっくり、もっと豊かに持たせてください、と。

日本で教会図書用に買ってきた、
「祈れないほど忙しい?」という本、
まず、皆さんに回す前に最初に自分から読みたいと思い、読み始めました。
自分にこそ、本当にそれが必要だと思いました。

主よ、
私を祈りに導いてください。
あなたがせっかく「友」と呼んでくださったのですから、
あなたと共に時間を過ごさせてください。
あなたと共に歩む喜びに溢れさせてください。
霊的なものに、あなたの愛に、あなたの導きに私の焦点を合わせていくことができますように。

2006-09-28

ほんの一握りの人にでも

その3

半分くらいまで来ました。
NJ時間で木曜日の朝の9時半頃です。
今日は祈り会の日ですね。
皆さんが集まって祈って下さっていることに心から感謝します。

木場深川教会でも木曜日の朝に祈り会をしてから出てきました。
TCATまで車で10分くらいのところに実家(=教会)があるので、
4時過ぎの飛行機に乗るためには、11時半頃出ればいいのです。
そこで、「10時からの祈り会でメッセージをして行きなさい」ということになった訳です。

10人くらいのご婦人方が集まっておられました。共に祈りました。
その輪に加えて頂けることはうれしいことです。
またご奉仕をさせて頂くこともうれしいことです。

教会の原動力は祈り。
何度も語ってきました。
でも、自分の祈りの生活はまだまだ貧しいなあと思います。

今回も日本に来て、皆さんにお会いしたり、お電話でお話しする中で、
「祈っていますよ」「祈りますからね」と言わないではいられない、
決して単なるご挨拶ではなくて、祈りたいと思わされる状況があります。
日々の祈りの中で、お一人ひとりのことを祈り続けたい。おぼえ続けたい、そのように思います。

今日のNJでの祈り会の祝福を祈りつつ。

やっと追いつきました。
木曜日、今日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書14章です。
ここも最後の晩餐でのイエスの言葉が書かれているところです

その中で、弟子のひとりが言った言葉が目に留りました。
22節です。

「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」

どうしてなんだろう?と思いました。
イエスはたくさんの人々に語られました。

でも、弟子たちには特別に語られました。
特別にご自身の深い思いを分ち合われました。

それがイエスの方法だったのだと思います。

私もそのようにさせて頂きたいなあ、と思いました。

一度にたくさんの方々に語ることも大切な働きだと思います。
たくさんの方々が神の愛を知り、イエスを「主」として従っていく歩みに導かれたらいいと思います。

でも、それと共に、ホンの一握りの人々だけかもしれない、でも、本当に深い深い神さまの愛を分ち合っていく、
そのような伝え方ができて、その聞いた人々がまたホンの一握りの人々かもしれない、でも、本当に深く深く、神さまの愛を分ち合っていく、
それが広がっていったらいいなあ、と思います。

有名な話です。

王様が3人の娘に何でも欲しいものを言いなさい、と言われました。
上の2人はたくさん求めました。何だったか忘れました。

でも、一番下の娘は1日目にはコインを1枚、2日目には2枚、3日目には4枚と毎日倍々に増やしていって、それを1ヶ月間続けて欲しいと言いました。
王様は、「何だそんなんでいいのか?」と思いました。
でも、1ヶ月経った時に、姫はコインを何枚もらっていたんでしょう?ちょっとエクセルで計算してみますね。

1073741823枚
10億7374万1823枚です!

すごい!

そのコインが1円玉でも10億円ですよ。
10円玉だったら100億円。
100円玉だったら1000億円です。

ネズミ講が禁止されているのは当然。
チェーンメールをやってはいけないのも当然ですね。

でも、すごいですね。
だから、一遍にたくさんの方々に語れなくてもいい。
確実に何人かの方々に伝えていけば・・・。そう思います。
そしてその何人かの方々が同じように、何人かの方々に語りたい!と思うように導かれていく。それが大切なんだなあ、と思います。

主よ、
どうかわたしを用いて下さい。
派手な働きはできなくてもいいです。
ホンの幾人かでも、確かに福音を伝えることができますように。
そしてそのひとりひとりが確かに福音を伝える器に整えられていきますように。

愛すること

飛行機の中その2。

今アラスカ上空にさしかかったところです。

アラスカと言えば思い出すことがあります。

今から11年前かな。
学生でNJに住んでいました。
このころはほとんど毎年、日本に帰ってアルバイトをして学費と生活費を稼いでいました。
といっても、国家資格を持っているカミさんの方がすぐ決まって、
私の方は日曜日の新聞に折り込まれる求人情報から短期バイトを探したり、
お中元バイトをしたりしていました。
翻訳の仕事もちょっと・・・。

そんなんだったので、
一度、なるたけ安く帰ろうと、Korean Airのソウル経由便というのを使いました。

直行便より、ひとり100ドルくらい安くて、4人で400ドルくらい。バカにできません。

でも、1歳と4歳を連れて、さすがにきつかったですね。
九州の方とか、成田経由もソウル経由も変わらないでしょうが、
どうせ成田に行くのに、何でソウル経由?って感じでした。

行きは、JFK→ソウル→成田だったのですが、
帰りは、成田→ソウル→アンカレッジ→JFKだったんです。

それで、アンカレッジの空港内でぶらぶらした、それが唯一のアラスカ経験です。

これからはオーロラの季節でいいんでしょうが・・・いつか見てみたいです。オーロラ。

本題はこれから・・・

この時、チケットを買ったのが、
新聞に載っていた無名の旅行会社。
それもクレジットカードは取り扱わない、と言います。
あやしい。
そんなの絶対にやめたほうがいい・・・と今では思います。
でも、このころ、やっぱり400ドルに目がくらんでしまったんですね。
3000ドルか2600ドルかって感じなんですが、2600ドルを取ってしまったんです。

チェックを送ったのですが、
チケットが待てど暮らせど送ってこない。
電話をすると、「明日送るから・・・」
3日経っても送ってこないから、もう一度電話すると「明日送るから・・・」
そば屋の出前状態・・・(おそば屋さんゴメンナサイ、本気ではないですよ。慣用句です。)
もうそれからは毎日電話しましたよ。「今日送ったか?」「明日送る・・・」「今日は送っただろうねえ」「明日送るから・・・」
これ以上待ったらヤバイ、というか、もう飛行機まで何日もない・・・
とうとう、「いいから、取りに行くから・・・」とNorth Bruinswickのオフィスまで取りに行きましたヨ。

ところが受け取ったチケットは見たこともない、「手書きのチケット」。
「ホントに大丈夫かい?」と飛行機に乗るまでハラハラしました。
無事に乗れた時、どんなにうれしかったことか。

でも、話はそれでは終わりませんでした。

8月の終わりにNJに帰ってきたのですが、
10月か11月か、警察から手紙が来ました。

「North Buinswickの××旅行会社を営業していた○○は、詐欺容疑で摘発された。オフィスを捜索したところ、あなたの名前が顧客リストにあったけれども、あなたは被害に遭わなかったか?」

ぞっとしましたねえ。

そして、しつこく「まだか」と電話し続けてよかったと思います。

それから、新聞広告は信じません。どんなに安いチケットが出ていても、信じません。
「クレジットカードは取り扱わない」という旅行社は決して使いません。ってゆうか、今は日系しか使っていません。

長くなりました。

水曜日の聖書。
ヨハネによる福音書13章を読みました。
最後の晩餐に入りました。
イエスが弟子たちの足を洗って、そして語られるところです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

この34-35節のイエスの言葉が心に留りました。

愛し合うこと。
それがイエスの弟子のしるし。
まず、夫婦のことを考えました。
愛することを教えてください。と主に祈りました。

そして、教会の皆さんのことを考えました。
自分のことで精一杯になりやすい自分。
本当に人を愛することを教えてください、と主に祈りました。

そして、NJに住む日本語を使う方々のことを思いました。
もっともっと神さまの愛を伝えたい、出会いの場を与えて欲しいと祈りました。
日本の方々のことを思いました。
祈ること、声をかけること、お便りをすること、お電話をすること、
具体的に何かをすることの大切さを思わされます。

主よ、
愛することを教えてください。
あなたが私を愛してくださったその愛で、
人を愛することができますように。
あなたが愛してくださったような愛し方を私にもさせてください。
自己中心な者です。
自分を与える愛を与えて下さい。

神の御心を求めて

日本での2週間を終えて、
飛行機の中です。

更新はNJに着いてからですが、
できる限り追いついていたい+例によって飛行機の中ではほとんど眠れないので、
今のうちに書いておきます。

今日の成田は混んでました。
今まで経験のない様な混み方。
特に乗った飛行機会社が、10分間隔で、ヒューストン便、グアム便、ニューアーク便と連続していたからでしょうか。

チェックインまでに1時間はたっぷりかかりました。

今回ばかりは「3時間前までに空港へ」というPRはまんざらでたらめでもないなあ、と思いました。

火曜日の聖書。
ヨハネによる福音書12章です。

イエスがいよいよ十字架に向かって進んでいくところです。

その中で心に留ったのはこの言葉。

「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」

これは、イエスを心では信じたのに、周りの人々を恐れてそれを公に言い表すことのできなかった役人達のことを指してヨハネが記した言葉です。

神からどう思われるかよりも、人からどう思われるかを第一に考えてしまう私たちの弱さ。甘え。
神さまは目に見える訳でもなく、耳に語りかける訳でもない。
でも、人の言葉は耳に響く、人の顔色はよくわかる。

だから、

「神さまは赦してくださるよ」と勝手に考えて、言い訳をして、
人にどう思われるかの方を優先していないだろうかと思わされた。

神さまを求めながら、
神さまがどう思われているかを聖書に求めながら、
歩んでいきたいと思う。

神様の喜ばれることを求めていきたいと思う。
それも、また「自分勝手」になりやすいことも思わされる。

自分の願いを神さまの御思いに押しつけて、
人の声を聞こうとしない。

ああ、自分はどこまで身勝手で、どこまで人を恐れる人間かと思う。

本当に純粋な気持ちを与えて欲しい。
人を恐れない勇気を。
そして、自分のわがままに陥らない謙虚さを。

主よ、
助けてください。
私はいつも「自分勝手」と「人の顔色を恐れる」ことの狭間に揺れていないでしょうか?
「人のことを考える」と思っている時も、結局人のことを考えているのではなくて、
「自分がどう思われるか」を第一に考えて、逃げている時があります。
どうか、あなたの御心を純粋に求めるものとしてください。
あなたのみ声を聞かせてください。

2006-09-27

「死」への勝利

いよいよ今日、NJに戻ります。
24時間後にはNJの地を踏んでる訳です。
今回の日本、2週間余りでしたが、
かなり短く感じました。

お会いできた関係者は60人くらい。
お会いできなかった方々もたくさんおられるので、もっともっと長い期間いたいとも思わされます。
でも、今は電話もメールもいろいろあって、
もっともっと日常的に、日本の方々といつも連絡を取っていたい、
いつも励まし合っていきたいと思わされる2週間でした。


その一方で、日本に来る前に、NJでは、
「最近NJ(NY)に引っ越してきました」という方々が何人かおられました。
そして、私がこちらにいる間にもそういう方々がおられたと連絡が入っています。

帰ったらどんなことが待っているかと思うと、ちょっとこわく、また楽しみ。
書きながら、今、私が与えられているフィールドはNJなんだなあということを、もう一度思わされています。

今日の東京は最高気温の予想が28度C。
NJに着いた日はまだいいようですが、金曜日の夜の気温は7度Cまで下がるようですね。
ガソリンも下がっているようですが、温度も下がっていますね。
さ、覚悟していこうっと!

では、月曜日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書11章でした。

「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて・・・」
と33節にあります。

この章は、わたしたちにとっての「死」の絶対性、その絶望感、
それに対してイエスが、チャレンジをなさって、
死を打ち破る方としてそこに立っておられることを示しています。

そして、イエスは周りの人たちの「もっと早く来て下さったら・・・」という思いに反して、
「あえて、ゆっくりしていた」と語られます。
そして、人々が嘆き悲しんでいる姿に怒りと動揺をおぼえられるのです。

「罪」が人に対して与えた悲劇、
「死」が人に与えた悲劇、を目の当たりにして、
怒りをおぼえられたのです。

そして死を打ち破る方として、ご自分を表されました。

先日も、キリストを信じる者たちが持っている特権として、
「死への恐れからの解放」ということを感じさせられました。

主が共にいて下さる。
主が迎えて下さる。
その希望のゆえに感謝します。

主よ、
2週間を感謝します。
どうか、あなたが、私と共にいて下さるのと同じように、
日本におられる多くの兄弟姉妹と共にいて下さい。
そして、ひとりひとりを縛っているものから、解放してくださいますように。

私を知っている方

すっかり秋になった東京。
でも、まだ私は半袖で十分です。
歩き回っていると、汗ばむくらいです。

そんな東京ですが、もう、ブーツを履いているご婦人方が時々おられます。

ずっと気になっていたのですが、
今日は雨だったせいもあるのか、
地下鉄に乗った時に、車両の中に3人ものブーツを履いたうら若き女性が・・・。

今年の秋のトレンドは「ブーツ」なのでしょうか?

それとも、東京は「9月になったら、とにかくブーツ!」なんでしょうか?
近所の「イトー○ーカドー」の靴売り場でも、ブーツをtryしている方々が何人もおられました。

それだけではなく、日本の方々、とってもファッショナブルだと思いました。

あ、もちろん、NJの皆さんもとってもすてきですよ。ハイ。

日曜日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書10章でした。

イエスが「わたしはよい羊飼いである」と言われたところです。

その中の一番心に留った言葉、

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」

すごくうれしく思います。
わたしのことを知っていて下さる。
困ったなあ、と思ったこともありましたが、
今は、本当にそうか、知っていて下さるのか、と思うと、
ほっとしますし、勇気が出ます。

わたしの弱さを、わたしの愚かさを、知っていて下さる。

知っておられるのに、赦し、生かしてくださっている。

赦されて、許されて、今あるんだなあ、と思います。

そして、私たちもイエスを知る。と。

もっと知りたいと思いました。
もっと近くありたいと思いました。
もっと深く深く、主のことを知りたいと思いました。

主よ、
あなたがわたしのことを知っていてくださることに心から感謝します。
わたしももっともっとあなたのことを知りたいと思います。
主よ、あのアブラハムに、モーセに、ご自分の思いを分ち合われたように、
わたしにも分ち合ってください。
あなたの思いをわたしにも、「腹を割って話す」ように、教えてください。


2006-09-26

見える?

月曜日は初仙台。
東北の他の地のもお伺いしたくて、いろいろ方法を探ったのですが、
日曜日の夕方と火曜日の朝の集会に挟まれた隙間を使っての訪問だったので、今回は断念。

ご訪問と交わりの一時を持たせて頂きました。

そして、ちょっと街中も案内して頂きました。

そしてこの石碑。


広瀬川にかかる橋のたもとにある殉教者の碑です。
江戸時代のキリシタン弾圧の中で、
2月の川で水責めにあって殉教した信仰の先輩達を記念して建てられたものだそうです。
真ん中がポルトガル人の宣教師、右が農民、左がお侍さんです。
十数名の方々が殉教したそうです。

ちょうど前の晩、横浜での小さな集まりの中で、
「殉教者って私たちは長崎とか、九州の方を想像するけど、江戸でもたくさんの方々が殉教したんですよね。そういうところを巡るツアーに参加してきたんですよ」という話をお伺いしたばかりだったので、かなり感動。

自分だったらどうするかなあ、ということを考えさせられます。
一本筋の通った信仰者でありたいと思いました。

土曜日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書9章でした。

心に留ったのはその最後のところ、41節の
「しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」というイエスの言葉でした。

「もうわかっている」という思い、
「自分は大丈夫だ」という思い、
それが問題だとイエスは言われるのです。

自分はどうだろうかと思いました。
自分はわかったつもりになっていないだろうかと思いました。

いつもいつも主に求めて、
いつもいつも主に聞いて、
語って頂いて、感動して、感謝して、
その上で語る者となりたいと思います。

主よ、
あなたの語りかけを求めます。
あなたが私の目を開いて下さることを求めます。
どうかわたしの目を開き、あなたの言葉を語ってください。
私の心にあなたの満たしを与え、
感謝に満たしてお用い下さい。

2006-09-24

自由

今気がついたのですが、
これって、日付とか調整できるんですね。
知りませんでした。

今までずっと、投稿を書き始めた時間で、日付が付くと思って、
一生懸命その日のうちにコンピューターに向かっていました。
まあ、これからもそれでいいと思うのですが、
ちょっと時間が過ぎてしまっても、前の日の日付で出るようになるんですね。
9ヶ月も知らないで来ていました。

木曜日の朝には、
奈良に帰国されたご婦人とご一緒に、
明石に帰国されたご婦人をご訪問しました。
奈良と明石は関西でも西から東へとちょっと離れていますが、
大きーく考えると、やはり同じ文化圏。

いやあ、関西のご婦人方が言葉を掛け合うのって、
いいですよね。ほほえましいというか。
NJにおられた頃は、かなり押さえていたんでしょうか。
優しい、暖かい、そして、調子のいい関西弁がコロコロ転がるってかんじ。
テレビで見る芸人さんの関西弁とは違って、
本当にここちよいものでした。

電車に乗っていても、
ご婦人方がお話ししている言葉は、とってもきれい+暖かい、と感じました。

関東の人間(・・・ある関西人には「先生は結構関西のにおいがする・・・」と言われましたが・・・それって、ほめ言葉ですよネ?それとも歓迎のご挨拶?)にとって、
テレビで見たり、聞いたりするアクの強い芸人さんのイメージが強すぎで、
ちょっと誤解している部分もあったかなあ、と思います。

私が関西に行っている間、東京も天気がよかったようですが、
こちらに帰ってきたとたんに、
今夜からまた雨だそうで・・・。

帰る木曜日には晴れるそうで・・・。

やっぱり雨男?

金曜日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書8章でした。
32節の言葉が心に留りました。

「真理はあなたがたを自由にします。」

自由っていい言葉です。

でも、難しいことです。
「わがままが通る」ということとはき違えてしまうことになりかねない。
自分も本当に気をつけなければいけないと思っています。

でも、主が与えて下さる自由、それはやはり「解放」ということだと思います。

苦しんでいること、
こだわっていること、
恐れていること、
わかっちゃいるけど止められない罪。

そのようなものから解放されて生きること、
それを主は約束されるのです。

私も自由を与えて欲しいと思います。

主よ、
あなたの自由をお与え下さい。
生き生きとした解放された自由をお与え下さい。
自由の中で生きることができますように、
私を縛っているすべてのものを明らかにして、
それからの解放をお与え下さいますように。

東京到着

火曜日に出発して関西に行っておりましたが、
日曜日の夜にようやく東京帰還です。

ほっとするような、「ああ、帰ってきちゃったなあ」という感じがするような、です


火曜日、関西に着いた日、

泊めて頂いた先生に、昔ながらの銭湯に連れて行って頂きました。
近頃はやりのスーパー銭湯ではなく、
単純な「銭湯」です。



こんな感じの銭湯です。
懐かしいですよね。
番台は入り口の方向いているし、
コーヒー牛乳やジュースを売っているケースは
「自動販売機」に変わってしまっていましたが、

その他は昔ながらの銭湯です。


ほーら、中はこんな感じですよー。

そしてこのお湯と水が出てくる蛇口。


余り鮮明に写ってはおりませんが、左の上の方がお湯。右下の方が水でございます。

上から押すとお湯や水が出ます。

使いながら思い出しました。
決してお湯を先に出してはいけない、ということ。

お湯を先に出すと、結構熱湯っぽいので、
後から水を足す時に、桶にたまっていたお湯が飛び散って、思いっきり熱いです。

だから、必ず水を先に桶に十分張ってから、お湯を足す方がいいのです。

それだけとっても、懐かしさに心がジーンとする銭湯でした。

ジーンとするのは、銭湯の熱いお湯だけではなく、
聖書のみことばもです。

今回は木曜日の聖書。
ヨハネによる福音書7章でした。

心に留ったのは、私の好きな言葉ですが、
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
37節から38節のイエスの言葉です。

心から生ける川の水が流れ出る。

単純に心から、そのような心の状態を求めています。
私の心から、喜びの川の流れ、いのちの川の流れが、流れ出て、
周りの人々のことを満たしていく、潤していく、
そのような歩みをさせて頂きたいと思います。

そのためには、主からいのちを頂いていくこと、
主から見たしを頂いていくことの大切さを思わされます。

主に満たして頂きたい、
主にいのちの泉を頂きたい、
そのように思います。

自分のうちの泉が枯れる時に、
人々にも通じるのものです。

満たされている時に、
人々にも通じるものです。

いつもいつも主によって満たして頂きたいです。

主よ、
どうかあなたの泉を下さい。
あなたのいのちの水を下さい。
私のうちから水が流れ出て、
周りの人々のことを潤すような、
そのような者にしてください。