2010-12-16

使命。

毎日寒いです。
でも、一昨日は最高が-4.7度、昨日は-2度。そして、今日はとうとうプラスになって、0.7度C。でも、午後4時にはまた氷点下に戻ってしまっています。
明日の朝も、また-6度とか7度まで下がります。


そして、週末のstormですが、
うーん、ビミョウです。
というか、可能性低いと見ているのですが、
なんだかわかりません。


勝手な祈りかもしれませんが、
東にそれて欲しいです。


さて、昨日はブラジルから日本に行かれている
日系ブラジル人の宣教師の方が、
ブラジルに一時帰国される途中に、
NYに立ち寄られて、ちょうど、NYCで毎月もたれている集会に来られました。


そこでお証を伺ったのですが、
本当に楽しかったです。
愉快!という感じでもありました。


そのなかで、心に留まったのが、
15歳の時にクリスチャンになって、
でも、その後日本に行って、教会に行けなくなってしまって、
その時に、感じた思い。
「教会に行きたい!」


その後、教会に戻っても、
何度も挫けそうになった。


だから、「教会に行っていた、でも行かなくなった、やっぱり行きたい、でも行けない」という人のために働きたい。そのような自分の気持ちを分かってくれる人がいなかった、だから、私はそういう人のために働きたい、という思い。


大切な働き人だと思いました。


今、日本でポルトガル語での日系ブラジル人のための働きから、日本語での、その周りにいる人々への働き、教区での若い世代の人々への日本語での働きへと広がりが出てきているそうです。


それぞれ、通ってきた道が違う。
私は子供の頃から教会で育ってきて、
何も問題がないかのように教会から離れないで育ってきて、
でも、そこに決して複雑な思いがなかったわけではない。
だから、同じような中で歩んできた人々と、「恵みと痛みを分かち合う」働きもしたいと願っている。
この宣教師は「自分が教会から離れて、帰ってきた者として、そのような人たちへの働きがしたい」と思っておられる。


神様によっては、どんな経験も無駄になることはない、そう思わされました。
神さまは一人ひとり、違う使命に立たせてくださっている、そのように思わされました。


さて、火曜日の聖書から。
ヘブル人への手紙6:9−20でした。


「また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」19節。

幕の内とは、神との親しい関係の象徴的な言葉。
旧約聖書の時代のユダヤの文化の中で、
神の臨在される場所として描かれています。

そこに私たちはイエスによって招かれている。
神との近い関係、親しい関係に招き入れられている。

そんな中で、私はその「特権」を十分に使っているだろうか、

そのことを問われているように思った。

この特権を使わない手はない、ですね。

「今日一日のためにあなたが私の心の王座に座ってください」と祈りました。

雅歌1章12節の「王がその席につかれた時、私のナルドはそのかおりを放った」という言葉を心に思いながら。

主よ、
王であるあなたが、私をあなたとの親しい関係に招き入れてくださってありがとうございます。その特権を無駄にしないで、あなたの招きに応じて、進みゆかせてください。あなたが、私の心を支配してくださいますように。私の心があなたの香りを放つようになりますように。

2010-12-14

期待して祈ること。

今日は本当に寒い一日でした。
最高気温が-4.7度C。
風が強くて、体感気温はもっと低かったです。


今夜は-10度Cくらいまで下がって、
明日ももう一日氷点下のようです。


またWeekend Stormの可能性が出てきています。
今週末はクリスマス礼拝とJOYJOYクリスマスですから、
おもいっきり外れて欲しいです。


「祈り」について、いろいろ考えさせられ、
実際に祈らされている中で、
なんども読み直す本がありますが、
その中でも、Jim Symbaraの"Fresh Wind, Fresh Fire"、加藤常昭の「祈りへの道」、そして、最近ではBill Hybelsの「祈れないほど忙しい?」の3冊は自分を支えてくれる本です。


三者三様ですよね。
日本の神学者、説教者で、本当に深い心の動きを明かしながら、一緒に祈りへの道を歩んでいこう、と招く加藤先生と、とにかく共に祈って神さまの奇跡を見よう、とブルックリンの貧しい地域(今はずいぶん周りがキレイになってきましたが)で伝道をしてきたシンバラ先生と、時代の先端を走る人々にどのように福音を伝えるかを考えながら挑戦をしてきて、ミドルクラスのアメリカ人の心を掴んできたハイベルス先生、みんな違うんですが、祈りの大切さを伝える思いは共通しています。


先週から、今週にかけて、「祈れないほど忙しい?」と「祈りへの道」を読んでていて、その両方に出てきた聖書箇所に心が留まりました。
それはルカ18章1−8節のイエスの譬え話です。

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。


実は最近ある「聖書を読む会」で学んだところでもあります。


どの注解書でも出てくるのですが、
「神さまがこの裁判官みたいな方であると勘違いしてはならない」んですよね。「まして神は・・・」なんだから。


そんな訳はない、わたしはそんな勘違いするわけがないと思いながら、でも、いつの間にか、神さまをなかなか祈りを聞いてくださらない、いじわるな方だ、とか、そこまで行かなくても、「自分の祈りの熱心さは足りないから、聞いてくれないだろうな」とか、「他の人の祈りは聞いてくれるけど、わたしのは半端な祈りだからダメだよなあ」とか、「もっと何回も祈らなきゃ、長い時間祈らなきゃ、聞いてくれないよな」思っていることないだろうか、と思わされたんですよね。


ビル・ハイベルス先生は、若い時代に、お父さんからクレジットカードを一枚渡されて、世界中を旅するようにと言われたそうですが、その感覚が神さまとの関係にも生きているんでしょうか。ほんとに大胆に主に求め、期待する先生ですよね。自分はどうしても、育った環境から「どうしても必要なもの以上は求めてはいけない」って思いがあるんですよねえ。間違っているわけではないんでしょうが、「神さまのために冒険する」とか「神さまは豊かだから、大きく求めなさい」とか、御言葉からそうなんだ、と思うのですが、まだまだ「自分自身の感覚」になっていないんだと思います。


インドネシアに行っておられた先生も言っておられました。「日本人はどうしても神さまを小さく考えすぎる。この世界を造り、世界を支配しておられる大きな神さまを信じなさい」と。


そうですよね。お天気牧師として、いつも思わされる、この自然の大きさ、そして、最近は夜空見上げオヤジでもっと思い知らされるこの宇宙の大きさ。この宇宙を造られた神さまを信じているんだから、祈るときにも、その神さまの大きさを忘れないで祈りたいと思います。


その神さまが、私たちのことを心に留めてくださっていることを信頼しながら。


さて、昨日の聖書。
昨日はヘブル人への手紙5:11−6:8でした。


「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たち」5:14。

一昨日の夜、役員会で遅くなって帰ってきて、
さすがにすぐには眠れなかったので、
翌朝、さすがに早く起きるのはきつかったですが、
いつものように6時に教会に行って聖書を読んでいました。
そこで目に留まったのがこの言葉。

この言葉を思い巡らせながら、
前の晩もたれたミーティングのことを思わされたときに、
本当にこのような「感覚」を持っておられる方々が、
そこには導かれ、集められていたなあと思わされたのです。

その時、主がこのような同労者を与えてくださっていることに、
心から感謝が湧いてきました。
教会への愛をもって、そして、訓練されて、何が神に喜ばれることなのか、何を私たちは神さまから託されているのか、という感覚を与えられている人たち。
感謝の祈りに導かれました。
そうしたら、いつの間にか、疲れが癒されているんですね。
正確に言うと疲れを忘れさせられた、というか。

幸せな牧師だと思いました。

立派な会堂でもなく、メンバーの人数でもなく、
このような同労者に支えられていることに幸いを感じました。

主よ、
あなたの与えてくださっている訓練によって、
教会のひとりひとりも整えられていることに感謝します。
ものごとを見分けることができる「感覚」を持っておられる方々が与えられていることに感謝します。
あなたが私たちの感性をもっともっと整え、
私たちが、あなたの御思いを知っていくことができますように。

Snow Coating Town

朝、起きたら、辺りは薄ーく雪化粧。
積雪がほんの少しの時、
dustingとか、coatingとか言いますが、
今朝は、coating++くらいです。



-7度C。寒い朝です。
寒い一日になりそうです。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2010-12-13

アドベント第3週ですね。

うっかり、アドベント第三週目の聖書通読日課をアップするのを忘れていました。

こちらです。

アドベント聖書日課第3週。

楽しみにしてくださっている方もおられるのだと信じて・・・いますが、
忘れることもありますので、「楽しみにしてますからねえ」メッセージをください!!
(図々しく要求するようになった自分・・・)

主に目を上げて。

夜の更新を封印していたんだけど、
そうすると、ほんとに更新できない・・・。
日曜日、自分一人帰るのが遅くなったので、
興奮して眠れないので、ちょっと掟破りの更新。


夜中の12時43分。
外の気温は7.5度C。
昨日の日曜日の昼間は10度以上あったから、
それに比べると温度は下がってきたけれども、
まだ本格的に下がるのは今日の午後くらいから。


車はちょっと長期入院中。
ディーラーも理由が今ひとつわからないみたい。
また今週部品を取り替えてみるらしい。
今度こそ、解決して欲しい。


先週、いろんなコトを思わされてきた。
特に祈りについて・・・。


一つは自分は神さまよりも、
周りの人、聞いている人に、心が向いていることが、
どれだけあるだろうか、ということ。


そして、自分の心にむけて祈っていることがどれだけあることだろうかと、
主に向かって祈っていこうと思った。
主に祈りをささげ続けようと思った。


もう一つはどこまで自分が神さまを信頼して祈っているか、ということ。
もちろん、神さまのみこころを求めて祈っているんだけれども、
「どうせ、神さまには神さまのお考えがあって・・・」とちょっとひねくれて、祈っていることがあるだろうかと。ちょっといじけ気味に、というか。


自分が子供に「一応お願いするけど、どうせ、お父さんは自分の好きなようにするんでしょ」と言われたら、すごい嫌だろうなあと思いつつ、自分ってそういうふうに祈っていることはないだろうかと。


ほんとうに、わたしに最善をして下さり、わたしの祈りを聞こうとしておられる主を、信頼して、たくさんたくさん、祈っていこうと思う。
真実に祈り続ける者でありたい。


さて、最近の「日々のみことば」から。
先週の後半からヘブル人への手紙を読んでいます。
「造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」ヘブル4章13節。

神様の前にはすべて明らか。
でも、主は私たちに悔い改めを求められる。
告白を求められる。
それは、私たちが罪から解放されるため。

ただ、私たちを裁くために、私たちの罪を示すのではなくて、
私たちを自由にするために、
私たちをその罪から解放するために、
私たちに悔い改めを求められるのだ。

そう思うと、神さまにすべてさらけ出されている、って、
すごいことだなあと思う。
スゴイ安心感だなあと思う。

主よ、
あなたが全てを知っていてくださることに感謝します。
どうか、私たちを罪から解放し、痛みから自由にしてください。
あなたに見ていただいている幸いの中に、感謝しつつ歩む者でありますように。