2009-11-13

忍耐と信頼。

今日はNorth Carolina沖の低気圧の影響で、
風が強くて、時々雨の降る肌寒い一日でした。


この低気圧、元々はカリブ海からメキシコ湾へ進んできたハリケーン・アイダです。
フロリダに上陸した後、大西洋に抜けてから、停滞して、昨日は、NCから、バージニアにかけて、かなりひどい天気だったようです。


明日はだんだんこの低気圧が東に進んでいくので、天気はだんだん回復傾向だと思います。


今朝はまた祈りに導かれて、幸いな時を持ちましたが、
またその話はもう少しこの先展望が見えてきてから・・・。


さて、11/10(火)の聖書。
ヤコブ5:7-12。


「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。」8節。

忍耐・・・本当に自分に必要なものだと思う。
でも、何で忍耐出来るかというと、信頼しているからなんだと思う。
人を信じているから。

でも、人の弱さも知っている。
「あの人が・・・どうして?」ということもしばしば経験してきた。
そのなかでそれでも忍耐出来るかというと、
それはもう神様しかいない。
神様を信頼するしかない。

というか、神様をもっともっと信頼したら、
もっともっと忍耐を持って歩めるのに・・・と思う。

ある友人は言った。
「人を信じるのではなくて、その人の中に注がれる神の恵みを信じる」と。

そして、「信じてよかった」という経験をしたと。

自分もそういう経験をしてきたのだと思う。
主の恵みをもっともっと信頼して、
その信頼故に、人を信頼して、
忍耐をもって歩んでいこうと思う。

無責任な信頼ではなくて、
信頼して無関心になってしまうのではなくて、
真剣に神の奇跡を祈って、求めて、
それ故に信じて忍耐していく、そのような者になりたい。

主よ、
あなたを信頼します。
でも、忍耐がないのは本当の意味で信頼していないのかも知れません。
信頼することを、その喜びを、そして、忍耐することの幸いを経験させてください。

2009-11-12

まだまだ知らないNY。

いやあ、昨日はVeterans Dayで図書館が休みで、
別にいくらでも生き延びる方法はあるんでしょうが、
いつもと違うのが、こんなに戸惑うことなのか、と思いました。


意外と(?)柔軟性がないんだと思わされました。


昨日の写真にあったように、
図書館の前の通りはパレード。


仕事が休みだった方々は少なかったと思うのですが、
たくさんの方々が沿道で声援を送っていました。


そして、昨日ある方から伺った、
NYの楽しみ方、一つ。


NYのオペラと言えば、メット。
昔は、スカラ座とメット、そして、ウィーンの国立歌劇場が世界を代表するオペラハウスだったとおもいますが、今はどうなんでしょう。


日本で公演をすると何万円もするんでしょうが、
20ドルで、オーケストラ席(1階席)が買えるというのです。
rush-ticketというプログラム
篤志家のお金持ちの方が、月曜日から木曜日まで、
一部の例外の日があるようですが、
200枚20ドルで買えるようにしてくださっているそうです。


実は、というか、もう何回も書いていますが、
高校時代はオペラを毎年やってました。(オケの方)


ですから、オペラは好きなんですが、
メットはこの15年でまだ1回。
でも、20ドルだったらちょくちょく行けそうですね。
問題は早い時間から並ばなければいけないことですが、
それでも、年に1回か、2回かは何とかなるかも・・・。


さて、昨日もある方とお話ししながら思わされました。
自分がどれほど神様に愛されているか。
それを覚えること、思い出すことが、どれほど自分に力を与えるか?


教会の人はもう暗唱出来るくらい聞いておられると思いますが、
リンクを貼っておきます。


証の
第8章
第9章
第10章


さて、11月9日(月)の聖書。
ヤコブ4:13-5:6。


「主のみこころなら・・・」4章15節。

わたしたちはいろいろ自分の考えで、計画を立てます。
でも、わたしたちの人生は主の支配の中にある。
ある時には神様がわたしたちの生活に介入されて、
本当の主人は誰なのか、わかるようにして下さる。

礼拝でもお話ししました。

無理矢理でも十字架を背負わされることがある。

それと共に、自分から「神こそ、私の人生の主である」と宣言することもできる。
宣言した生き方をすることもできる。

「主のみこころなら・・・」ということは、
それを宣言すること。それを認めてスタートすることです。

主が主であることを宣言すること。
信頼しているが故に、主を主として生きることです。

主よ、
あなたを主として歩んでいきます。
言葉だけで終わるのではなく、
あなたが私の主であることを、宣言する生き方をさせてください。

2009-11-11

久々の沈没

今日は図書館がしまっていたので、ちょっと疲れたかな。

おとなしく寝ます。

では。


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知らなかった。

今日は、ベテランズデー。
退役軍人の日。


NYで一日過ごしていますが、
図書館は休み。

定位置なんですなんですがね。

パレードやっていました。



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2009-11-10

求めることと受け入れること。

今日も暖かかったです。
でも天気は曇りがち。
雨が降ると言っていたのですが、
降らないですみそうですね。


この間の日曜日、
朝教会に行って、礼拝のために祈りながら、
「知恵のない者は、惜しまず与える神に祈りなさい」
という、ヤコブの手紙の1章の御言葉が心に響いてきました。


そこで、自分の「ないもの」を求めようと思いました。
その時に心に一番先に浮かんだのは、
「人の顔を覚えられない」というほとんど病気じゃないかとおもうほどの、
弱さです。
一番、自分でショックだったのは、
このドラマの主人公と、
このドラマの主人公が同一人物だとわからなかったこと。


「ピュア」の方を見ていたときに、
のんちに「絶対『夏子』と同じ人だよ」と言われても、
「いいや、あり得ない、全然違うじゃん!」と言い張っていたのですが、
キャストのテロップを見て、愕然。


髪型とか、変わるとホントにわからなくなってしまうんですよね。


時々、「何百人教会にメンバーがいても、名前と顔が一致する」という方の話や、
「赴任前に写真を見て、顔と名前を一致させて初めての日曜日に臨んだ」という話をお伺いすると、
自分はなんてダメなんだと落ち込みます。


JOYJOYキャンプの子供たちやご父兄の方々に
他のところで会うと、「えっと、お名前は・・・」なんて失態もあります。


で、ある意味、あきらめていました。
でも、「知恵の足りない者は祈って求めよ」という聖書の言葉を読んで、
求めようと思いました。
主が助けてくださいますように。


現状を「受け入れる」ことの大切さも思わされますが、
それ以上に「祈り求める」ことを大切にしていこうと思います。


さて、11月8日の聖書。
ヤコブ4:1-12。


「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」2-3節。

本当に求めることの大切さを思います。
そう、日曜日、ここを読んで祈っていたので、
上に書いたようなことを思わされていました。

自分はちゃんと求めているんだろうか?
そして、何を求めているんだろうか、
どんな動機で求めているのだろうか、
心が探られるような思いでした。

「神の国と神の義とをまず求めなさい」
それを本当に生きる者でありたいです。

主よ、
あなたが与えてくださる祝福に感謝します。
もっともっと求めて、
あなたに豊かに与えられる者でありますように。

2009-11-09

「いやし」か「リフレッシュ」か。

このあいだの「ためしてガッテン」
録画して今日見ました。
テーマは「疲労」でした


で、上のリンクで読んで頂けるといいのですが、
お風呂に入ったり、運動をしたり、そして、栄養ドリンクを飲んだりするのは
そういうことは、疲れを取るのではなくて、
疲れを「感じなくさせている」だけなのだということです。


つまり疲労を「いやしている」のではなくて、
気分を「リフレッシュ」して、疲れを感じなくしているだけと。


だから、そこで疲れが取れたと勘違いをして、
「リフレッシュ」したからがんばろうと、がんばってばかりいると、
疲れがたまって、倒れてしまう・・・と。


教会のあり方を考えさせれました。
「元気が出る」ことも大切なことです。
でも、それ以上に「疲れがいやされる」ということが本当に大切なんだと思わされました。


教会という場で、
疲れたのに、疲れを感じさせないように、カンフル剤を打って、
そして、「やるぞ~」と思わせて、疲れを感じさせないようにしていることがあるのではないかと思います。


疲れてもいいんですよね。
なんか、教会で疲れることの恐怖症みたいな、
疲れていることを認めることは敗北であるかのような、
そんなことがあるのかもしれません。


イエスは「疲れている者は私の元で休みなさい」と言われました。


私自身、主の御許で休むことができますように。
そして、見せかけの元気ではなくて、本当の元気を頂いて、
歩んでいくことができますように。




さて、あとすこしですが、
11月7日(土)の聖書。
ヤコブ3:13-18。


「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」17節。

本当の知恵って何だろう?
上からの知恵。

でも、わたしたちは日常的に、
この上からの知恵ではなくて、地上の知恵、
世の知恵、神なき知恵、神を排除した知恵にどっぷりつかっている。

だから、わたしたちは気をつけていないと、
世の知恵を神様からの知恵と思い込んでしまって、
それにちょっと信仰のスパイスだか、ふりかけだか、フレーバーだかを、
足して、「上からの知恵」と呼んだりしていないだろうか?

本当にまるまま、主からの知恵に満たされて歩もう。
その知恵に動かされて歩もう。
主が与えて下さる知恵を待ち望もう。
祈っていこう、知恵を与えて下さい、と。

主よ、
私に、あなたからの知恵を与えて下さい。
その知恵をもって、人々に仕え、
それを通して、人々を導いていくことができますように。

これも情熱・・・かな。

月曜日は休日を頂いているので、
こういうのもたまにはいいでしょう。





すごいですね~このお店のおじさん。
めちゃくちゃいい味出しています。


でも、やっぱり半端じゃない情熱ですよね。
すごい情熱なんでしょうけど、
とぼけた雰囲気がすごい。


何事も情熱。


神様がわたしたちに注いでくださっている情熱。
ある時には熱く、ある時にはいい味出してくださっています。


そこに敏感に答える感性を持たせて頂きたいと思います。


さて、今日2回目の更新。
11/6(金)の聖書。
ヤコブの3:1-12。


「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」11節。

舌の問題、つまり口から出る言葉の問題を取り扱っているのですが、
やはり舌の問題は心の問題ですよね。
やっぱり、いざというときには本当のことが出てくる。

だから、「言葉だけ気をつけていよう」じゃないんです。

いったい、自分は自分の言葉の重さがわかっているだろうか?
そして、自分の取る態度の重さも。
そう、言葉よりも、言葉以外の表情だとか、仕草だとか、声色だとか、
そういうものによって伝わるもののほうが、圧倒的に多いと言います。

だから、私の心が守られますように、
そのように祈らないではいられません。

そして、また、教会の一人一人の心が守られますようにと。

主よ、
どうか、私の心がきよめられ、整えられ、
愛に満たされますように。
心からの愛に満たされますように。
そして、私の心と態度と行動が、あなたの愛を表すものとなりますように。

豊作

庭掃除をやりましたが、
今年はどんぐりが豊作です。
かくのも大変ですが、
放っておくと、春に芽を出して大変なことになります。






食べられればいいんですがね。


今日は本当に暖かくなりました。
20度を超えました。


明日も、今日ほどではないと思いますが、暖かいでしょう。

礼拝のメッセージを語らせていただいたあと、一人一人にどのように届いたか、気にかかるものです。何の反応もないと、心配になるものです。つたわらなかったのだろうか、と。


でも、昨日の夜、ある方からメールをいただいて、本当に励まされました。主が確かに御業を進めておられました。


伝えることの大切さ、つくづく思わされます。自分は決していいコミュニケーターではないのですが、そこに甘えず、だからこそ心がけてコミュニケーションを持っていこうと思います。

11月5日木曜日の聖書。
ヤコブの手紙2:14-26


「彼の信仰は彼の行いと共に働きいた」22節

信仰は、思いだけではない。
心だけの問題ではない。

行動にならないと、それは信仰ではない。いや、信仰なんてもともとなかったのだ。

気持ちがあればいいなんて欺瞞だ。

自分はどうだろうか?

行動が伴っているだろうか。
思っていても、一歩踏み出すことができないこともある。
でも、それって、やはり信仰がない、ということなんだと思う。

み言葉に従う者になろう。


主よ、
信じたように行動する信仰をお与えください。
勇気をお与え下さい。
愛をお与え下さい。

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2009-11-08

「聖徒の交わりを信ず。」

この言葉を毎週の礼拝で、告白します。
教会によっては、新しい方に配慮して、
信仰告白を礼拝に入れない教会もあると思います。


でも、私はどうしても礼拝には信仰告白を入れなければ・・・とこだわっています。
教会はこの信仰を中心にして集っているからです。


その中に、「聖徒の交わりを信ず」という言葉があります。


いろんな解釈があると思います。
いろんな意味があると思います。


タダ祈っていれば、神様を通して、全時代、全世界のクリスチャンとつながる、それが「聖徒の交わり」だという人もいますし、昔のカトリックでは、「聖人の功徳」の余った分をもらうのが「聖徒の交わり」だと言っていました。


そんな中で、この間の日本で参加したセミナーでも、そうですが、
もっと前からも、本当に心が触れあうような語り合いや祈り合いの大切さを思わされています。
心を開いて、語り合い、祈り合う、そのようなものを求める心の叫びを、
自分の中にも、また教会の方々にも、見ます。


神様から、人はそのように作られたと信じていますし、
またヨハネがいっているように、「互いに愛し合う中に、神がおいでになる」というのも本当だと思います。


わたしたちが信じている「聖徒の交わり」のリアリティーが、
教会の中に実現しますように。
そのようなところに導かれる方々が更に起こされますように。
そのような渇きを覚えている方々に、満たされる経験が与えられますように。


今朝は冷え込みがゆるんで、昼間は暖かくなりました。
夜になっても、7度くらいあります。


明日もう一日暖かいようです。
貴重な暖かな日ですね。


皆さんはこの週末、落ち葉かきで大変だったようですが、
週末に落葉かきができない私は明日が勝負です。


さて、11月4日(水)の聖書。
ヤコブ2:1-13。


「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。」12節。

「自由の律法」。
それは内側からあふれてくる神様の従う思い。
神様に従いたくなって、従う思い。
「愛」ということもできるかもしれない。

「日々のみことば」では、
「キリストの贖いを受けた者が真の自由から、これを行おうとするものです。」とあります。

本当に救われた喜び、
イエスの愛を知った喜び、
それによって動かされて、主に従う者とされる。
そういうことなんだと思う。

だったら、やっぱりもっともっと神様の愛を知らなければ・・・。

もっともっと神様の愛されている喜びに満たされなければ・・・。

主よ、
もっともっと喜んで主に仕え、
もっともっと喜んで主に従う者となれますように。
そのために、もっともっとあなたの愛に目が開かれますように。
もっともっと、あなたの素晴らしさがわかりますように。
あなたが共にいて下さることがわかりますように。