2010-02-26

誰のための礼拝?

今日は一日雪が降ったりやんだり。
でも、それほど積もるような雪はありませんでした。
明日も同じように雪が降ったりやんだりみたいですが、
もう、積もることはないと思います。


でも、今、夜の11時前ですが、-2度くらい。
路面は凍っていますから、注意が必要です。


昨日のPurpose Driven Lifeから。
昨日は8日目。
礼拝についてのところです。
礼拝こそが、私たちの喜びであり、
神の喜びだという話です。


その中のこの一文には考えさせられました。
今日は英語で行きますが、


If you have ever said, "I didn't get anything out of worship today," you worshiped for the wrong reason. Worship isn't for you. It's for God.


礼拝が自分中心になってしまっている、
自分が何かを得ることが中心になってしまっている。
高揚感とか、「恵まれる話を聞いた」とか。


礼拝を何だと思うかが問われていると思います。


礼拝は主を崇めること。
牧師のすべきことは、神の前に人々をお連れすること。
自分が何かを語ろうとか、思ってはいけないんですよね。


礼拝について考えさせられているところでしたので、
主が大切なことを教えて下さったように感じます。


さて、2月21日、日曜日の聖書。
マタイ18:11−20。


「行って、ふたりだけのところで責めなさい。」15節。

これが本当に難しいんですよね。
これができるかできないかが、
教会として正しく機能しているかどうかの分かれ目だという話を聞いたことがある。
確かに、これは教会のことだ。

教会が問題を持っている人とちゃんと向きあって、
悔い改めに導いたり、
悔い改めようとしない人を除名したりすることができるかどうか、
それは愛の問題だと思う。

愛はごまかしたり、逃げたりしない。

自分にはもっともっと愛が必要だと思った。
愛によって、ちゃんと人と向き合うことのできる者でありたいし、
教会としても、そのような愛を持って行きたい。

主よ、
逃げる者ではなくて、
愛する者とならせて下さい。
それが一時的には悲しませることだったり、
機嫌を損なうことであったとしても、
逃げることがありませんように。

一夜開けて。

やはり1996年の大雪みたいなことはありませんでしたが、よく降りました。

全部で45センチくらいでしょうか。今回の大雪普通じゃないのは、峠を越したあとも、まだまだ降り続くこと。明日の昼頃まで続くようです。



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2010-02-25

吹雪@9:15pm。

slush stormとかバカにしていましたが、
夜になって、気温も氷点下に下がり、
9時頃から吹雪になっています。
どんどん気温が下がってきています。
今は-0.8度。
一晩で30センチの積雪が予想されています。


さっきは、一瞬テレビの画像が乱れて、
「あ、停電来るかな」と思いました。
こんな夜に停電が来たらもう寝るしかありませんね。


夜まで仕事をされて、これから帰宅の方々は大変だろうなと思い、主の守りを祈っています。


さて、昨日のPurpose Driven Life。
昨日は1章のまとめ、そして、全体の序章、
また、信仰の決心の促しの章でした。


「すべてのものの存在目的は神の栄光をあわらすこと」


カルバン主義の第1命題みたいな感じですが、
この感覚が、正直なところ、すっきり心に入りません。
いえ、本当にそうなんです。
そうなんですが、もっとなにか言い方ないのかなあと。
「私たちが神様と共に歩むことが、本当の自分に戻ることなんだ」とか、


神様の喜びと私たちの喜びが一つになるとか。
決して自分の為に生きるわけではないんだけれども、
それが自分の祝福にもなる、っていう感じですよね。


でも、そこに受け入れられるためにも、
イエスの十字架があったことを忘れないでいたいと思います。
それがこの本ではあまり掘り下げられていないことが残念です。


さて、2月20日土曜日の聖書。
マタイ18:1−10でした。


「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」4節。

子どものようにとはどういう事なのか。
低いことを認めること、
自分の弱さ、小ささを自覚すること、
なんだろうか。

そして、神様を信頼すること、
神の力を信頼して生きること、
そういうことなのか。

自分を低くするということは、
責任ある立場を与えられようとしたときに、
「私は器ではありません」と逃げることではないだろう。

責任ある立場を逃げることではない。
主から与えれる使命であれば、それを引き受けながら、
でも、主のもとに自分の低さを認めて、
主を信頼して、歩んで行くことだろう。

主よ、
あなたを信頼します。
あなたを信頼して歩みます。
幼子のようにあなたを信頼することを学ばせて下さい。

訓練。

その後1時間余りで、また2インチくらい降りました。
でも、これがから本番。
明日の朝は全く風景が変わっているかと思い、
取りあえず、5時15分現在の様子を記録。





ここで町から電話が入り、
Paramusの学校は明日は休みだそうだ。

そして、すでにこの雪で犠牲者も出ています。
NYのセントラルパークで、今日の午後、
雪の重みで枝が折れて、50代の男性が亡くなっています。
悲しい事故です。
この雪は特別に重いですから、本当にこれから、このような事故が多発することが予想されます。互いに気を付けましょう。



さて、今日は午前中の祈祷会は普通どおりに守ることができました。
もちろん、この天気でほとんどの皆さんは来られなかったのだが・・・。


今日読んだのは創世記の24章。
アブラハムのしもべの祈りに注目しました。


この人の祈りは「まだ言い終わらないうちに」聞かれました。
こういう事があるのか、羨ましいなあ、と思いました。


でも、考えてみると、この人の信仰は本当によちよち歩き、
自分の信仰というよりも、主人であるアブラハムにくっついて持っていた信仰。
ですから、祈りの中でも、「主人の神」とか「主人を恵んで下さい」ということばばかりが出てきます。その主人のアブラハムは「神はあなたの前に御使いを遣わしてくださるから大丈夫」というのですが、このしもべは大役を預かりながら、不安でしょうがありません。それで、「こういう娘がいたら、あなたの導きだということにして下さい」なんて、かなり身勝手なお願いをしているわけですよね。でも、神様はそれを聞いて下さった。


経験を通して、時々感じます。
神様は、生まれたばかりのベビークリスチャンだったり、よちよち歩きの信仰だったり、まだ、神様を試している段階の方の祈りを不思議と聞いてくださる。そして、信仰の人の祈りの答えは不思議と待たせられることがある。


でも、人間は時間の軸の中で自由がないから、自分の時間でしか物事が見えないから、自分の祈りがすぐに聞かれると、「わたしの信仰だ」と思い、祈りがなかなか聞かれないと「わたしの信仰は駄目だ」と思う。


先日のリック・ウォレンの話を思い出しました。
「数あるテストの中でも特に大切なテストがあります。それは、人生において神の臨在が感じられなくなったとき、どうするかというテストです。」
そのように、神様が「この人は大丈夫」と思われる人に、あえて「神様がわからなくなる」ような試練をお与えになるのかな、と思うのです。


そして、その中で、苦しむ中で、「どうしてですか?」と、神と格闘するような苦しみの中で、「見ないで信じる信仰」を持つようにと導かれるのです。自分の感覚である「実感」を信じるのではなくて、神様の約束である「御言葉」を信じるようにと導かれるのです。


そして、このアブラハムのしもべの方は、この「祈りが聞かれる」という経験を通して、神様との関係が確立してきます。主がわたしに幸いを与えられた、わたしを導かれた・・・という思いが与えられるのです。主人にくっついていた依存的な信仰から、自分と神様との関係に生きる自立的な信仰へと導かれて行くのです。


神様の深いお考えを感じました。


さて、2月19日金曜日の聖書。
マタイ17:14−27。


「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。」20節。


上の話の続きみたいですが、こういう聖書の箇所を読んで、
「ああ、わたしの信仰が問題だから、祈りが聞かれないんだ」と思うんですよね。


でも、「からし種でいい」と言われるのですから、
それでいいんですよね。
単純に主を信頼すればいい。
どんな山でも動くことを信頼すればいい。


山というものはじゃまになるもの、問題、動かないもの、そういうものの象徴。


主が山を移してくださることを、本気で信頼して歩んで行くものでありたいと思う。
それが時間がかかっても、すぐに聞かれなくても、
主の約束を信頼して、歩んで行こうと思う。


主よ、
あなたの力を信じます。
単純に信頼します。
あなたの最善を信頼します。
すぐに祈りが聞かれなくても、
あなたの約束を信頼します。
感謝します。



ありえないslush storm @3:45pm

モンスターストームが来るか、と思っていたら、ものすごいslush storm です。今、1.2度で激しく降っています。キッズクラブはお休みにしました。

郵便局に行ったら、こんな感じ。


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ぼたん雪@8:30am

朝起きたときは雨でしたが、
7時には雪になってきました。


今は大きなぼたん雪が降っています。
1.3度。


今日はずっとこんな感じで、
あまり積もらない雪・・・なのかと思います。
そして、夜になってから積もり始めるみたいです。


でも、油断は禁物。
旧ジャージーさんの1時間で5インチ、は想像できませんが、
急に天気が変わるかもしれません。


要注意です。

2010-02-24

さて、始まります。

今日は、日本から戻って初めてのNY DAYでしたが、
穏やかな一日でした。
気温もそれほど低くなく、
嵐の前の静けさです。


10時半頃、帰ってきたときは、
3度くらいで霧雨が降っていました。


明日は雪で一日で30センチ、明後日までで60センチの予報から、
明日はみぞれでほとんど積もらず、明日の夜から明後日に15センチ、の予報まで、いろいろです。



でも、今回の雪の特徴は時間が長いこと。
金曜日の午後まで続く予報が出ています。
最終的に上がるのは土曜日になってから、という話もあります。


NYはほとんど積もらない可能性もありますが、NJは大雪の可能性の方が高いです。


でも、今のところ(夜の11時半)、子どもたちの学校も休みのお知らせはありません。本当に、今回のStormは予想が難しいです。


今日の夜はNYでの祈り会、
本当に幸いな一時となりました。
主がそこにおられて、導いておられることを
感じて、あっという間に時間が経っていました。


一つ一つのこのような経験が、
宝物になっていくことを感じます。


多くの方々とこの味わいを分かち合うことができますように。


さて、2月18日木曜日の聖書。なかなか追いつけません。
マタイ17:1−13。


「彼の言う事を聞きなさい」5節。

イエスの言うことを聞く。
私たちはこのペテロのように、いろいろイエスに言いたくなる。
でも、私たちのすることは、この方に聞いていくこと。
この方にいうことに耳をかたむけること。

その従順さが私たちに求められていることを感じます。

ここでも、あまり理屈をこねることではなく、
従うことが大切ですね。

主よ、
あなたに従います。
あなたのみ声に従います。
どうか、み声をきかせて下さい。
聖書を通して、今日も語り、
従う喜びを経験させて下さい。

2010-02-23

注目するもの。

もう一日分行きます。
今日のPurpose Driven Lifeは、第6日目。
「人生は一時的な務めである」


これはもうすでに出てきたテーマであるように思うのですが、
私たちがこの世でどのような評価を受けるか、ということに
目が行くのではなくて、主の目からどう見えるか、魂のふるさとでどのように受けいれられるか、それに目が行くように、ということが言われていると思います。


何を見るかですよね。


何に心がとらわれ、何に支配されているかです。


永遠の世界を見据えて歩むものでありたいと思います。


さて、2月17日水曜日の聖書。
マタイ16:21−28。


「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」23節。

これもドキッとしますね。
あなたは人の事を思っている、と。

本当に神の声を聞こうとしているか、
そこに集中しているか、
問われていると思いました。

いつもいつも主に聞きながら、
歩ませていただきたいと思います。
人の言葉に動かされない、
自分の主義にこだわらない、
自分のプライドにとらわれない、
主のみ声に従順に歩む者でありたいです。

主よ、
どうか、私が人の事を考えるのではなくて、
あなたのことを考える者でありますように。
あなたに聞きながら歩む者でありますように。

Historic or Not?

今日は一日中、雨やSleetが降っていました。
氷点下にはなりませんでしたが、とても寒く感じる一日でした。


でも、問題はこれからです。
明日は小康状態ですが、
明後日、木曜日は、
積雪60センチレベルの歴史に残る猛吹雪になるか、
それとも、風雨が強い一日なるか、
紙一重です。


昨日の御言葉に支えられて、
天気よりも大切な主のみ声を聞こうと思っていますが、
本当に注意が必要です。
明日は天気予報を聞いて、
必要ならば、薪や電池、懐中電灯、ろうそく、その他、
停電対策や2日間外に出られないことの備えも必要かもしれません。


昨日のPurpose Driven Lifeですが、
「神の視点から人生を見る」というテーマで、
3つのポイントの中の最初の二つ。
「人生はテスト」「人生は預かりもの」


最初の方の「人生はテストである」ということの中に、
このようなことが書いてあって、心に留まりました。


「数あるテストの中でも特に大切なテストがあります。それは、人生において神の臨在が感じられなくなったとき、どうするかというテストです。」


神様が感じられないときに、それでも、神様を信頼すること、
なるほど・・・と思いました。
確かにきついテストですよね。
どんな中にも神様がおられると思うから、
乗り越えられるわけで、
それが実感できないときにどうするか、
確かに自分も弱いところだと思います。


でも、大切なのは、自分の感覚を信じることではなくて、
神様の約束を信じることですよね。
あてにならない、自分の実感よりも、
確かな、神様の約束を信頼することですよね。


ものすごく、目が開かれたように感じました。
自分もいつの間にか、聖書の言葉よりも
自分の実感の方をあてにしているのかもしれない、
そう思いました。


さて、2月16日火曜日の聖書。
マタイ16:13−20。


「私はこの岩の上に私の教会を建てます。」18節。

イエスは私たちの信仰告白の上に教会を建てると言われました。
他のものではなくて、私たちが「イエスは神の子です、救い主です」と告白するところに建てられるのです。

私たちがいろいろなことを考えている中で、
いつの間にか、組織だとか、やり方だとか、
そこに活路を見出そうとしている時があります。

でも、主はいつもこの原点に帰るように求めておられるように感じました。
ハッキリとイエスを主として告白する群れ、
それを主は求めておられる。

それも、そこに、「私が私の教会を建てる」と言われるのです。

その主の御業を信頼して歩んで行こうと思います。

主よ、
あなたの教会を建てて下さい。
あなたの方法で、あなたのみ力で。
人の力ではなくて、あなたの導きの中で、御業をなして下さい。

2010-02-22

イエスは光だからね。

今、夜の11時半ですが、
外は2.4度でみぞれが降っています。
今週はずっと、雨か雪。


こーんな感じで、ずっと天気が悪い予報です。


特に木曜日から金曜にかけては雪の可能性が高いです。


でも、きっときっと、この肌寒い日々を過ぎたら、
春がやってくる。そう思います。
これは天気予報の話じゃなくて、期待の話ですが・・・。


今日も、Imari Tones の皆さんといろいろお話をしました。
リーダーの方にクリスチャンになった経緯を伺ったところ、
こんな感じのお話をして下さいました。


自分は音楽をやっている中で、
自分がやりたい、ということ以上に、何かに動かされているような、
自分の意志を超えて、何かに、このことをやらされているような感じがあった。
それが、クリスチャンアーティストの方々と出会う中で、
その自分を動かしているものは、これだったんだ、
イエス・キリストだったんだ、そう思った。
真っ暗な部屋にもういろんなものがあったんだけれども、
それが見えなかった。イエスを信じたことは、その部屋で、電気をつけたら、
全部が見えるようになった、そんな感じです、と。


なるほど・・・。
アーティストはやはり感性が豊かです。


"Jesus is the answer!" ですね。


さて、2月15日月曜日の聖書。
マタイ16:1-12。


「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか」3節。

これはお天気牧師にはきつーい一言です。
ノックアウトです。

まさに、わたしのために言われた言葉です。
霊的な感性、霊的なsensitivityを鋭く持たせていただきたいと思います。

人が心を開く瞬間、
聖霊様が触れてくださっている瞬間、
それを見逃すことがありませんように。

主が人々に語ろうとされていること、
主がわたしに語ろうとされていること、
それを見逃すことがありませんように。

本当に天気よりも、人の事に敏感になりますように。
単に人の気持ちというのではなくて、
本人の気持ちというのではなくて、
そんなものに振り回されるのではなくて、
その人に神様が何を望んでおられるのか、
神様の導きがどこにあるのか、
それを見極めることができますように。
主からのチャレンジです。

主よ、
何よりもあなたのメッセージに、
あなたがなそうとしておられることに、
あなたが導こうとされていることに、
敏感であることができますように。
それを見極める目を与えて下さい。
大切なものを見分ける目を与えて下さい。

ヘビメタバンド到着。

今夜(もう12時を過ぎましたが、21日の夜)は、
日本からツアー中のImari Tonesの3人が到着。
今日はLong Islandでコンサートがあって、
とても良かったようですよ。
いつか、ぜひ、我らの教会でも・・・。

遅くまで話をしていたので、更新はお休み。
Purpose Driven Lifeも一日お休み。

頑張りすぎない・・・で行きます。

2010-02-21

テントから大邸宅へ

来週の月曜日から水曜日にかけての天気、
雨か雪か、どれくらい降るか、全くわかりません。
でも、たぶん、雨や雪がたっぷり降るんだと思います。
天気予報の奥の深さを思わされます。


でも、その深みにはまって抜けれなくなってしまわないように、
気をつけようと思います。


さて、Purpose Driven Life の4日目「永遠に生きる存在として造られた」。
私たちの目的はこの世ではなくて、
永遠の世界なのだというところです。


心に留まったことばは、
「私たちが今住んでいるテント、私たちのこの地上の体、が壊れても、神は私たちの住む家、永遠に続く、神ご自身が造られた天国の家、を用意してくださっているのです。」


テントなんだ。
この地上での体は。
この地上での生命は、テントの中に住んでいるようなものなんだ。


そして、天国の家は、
他の聖書の箇所では、マンションという英語が使われています。
英語でいうマンションです。
日本語のマンションではなくて・・・。


英語のマンションは日本語では邸宅。
邸宅が準備されている。


この地上の歩みはテント生活。


だとすると、この地上の生涯にしがみつくのは、
滑稽なくらいだ。


そのことが、本当に単に頭の知識ではなくて、
本当なんだなあ、と、思わされたのが、今回、日本で出席した葬儀。
ハッキリと、主のところに迎え入れられたことを思わされました。


テントから邸宅へ。
そう思ったら、この世での歩みも変わってきますね。


さて、2月14日日曜日の聖書。
マタイ15:29-39


「こんなへんぴな所で、こんな大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょうか。」33節。

1回目ではない。
前にも同じことが起こっている。
でも、弟子たちは、やっぱり、「無理だ」と感じないではいられなかった。
「無理ですよ」とイエスに言わないではいられなかった。

不信仰だと責めるのは簡単だ。
でも、自分はどうだろうか?

主の御業を何回見ても、
毎回毎回、信仰が問われる。
「信じます、不信仰な私をお赦し下さい」と言わないではいられない。

主の「わたしを信頼しなさい」との語りかけをいただかないと、
堅く立っていけない。

オートマチックじゃない。
いつもいつも主に語っていただいて、
いつもいつもみ言葉に支えられて歩んで行く、
それしかないんだな、と思う。

主よ、
あなたのみ言葉を与えて下さい。
あなたのみ言葉によって生かして下さい。
不信仰なわたしにはあなたのみ言葉しかありません。