2012-07-26

「あなたの若い日に造り主を覚えよ」

昨日はこんな夕日。
ウチの庭からだとあまり空が大きく見えないので、小さく切り取った空ですが。




そして、夜になると星が瞬いていました。






でも、今日は朝から「夕方にはdangerousなstormが来ますよ!」と予報が出ていました。
そして、6時半頃には空が暗くなってきて、不気味な雲が流れてきます。


「強い風で、いろんなものが飛んできますから、窓から離れてください」とラジオやテレビでは繰り返していたのですが、その雲の写真を撮らないではいられなくて、様子を見ながら、写真を撮っていました。




雲は左から右に流れていました。
よく見ると嵐を予感してか、鳥が飛び回っているのが見えます。
この後、風が強くなって、雷雨になりました。
今は夜の10時。すっかり雷は収まりましたが、ちょっと雨が降っているようです。
ウチのあたりは、恐れていたよりは、マシだったようですが、幾つか竜巻も発生したようです。


でも、同じ空でも、本当にいろんな表情があるんですね。


人間の小ささを感じます。


そんなこの世界を造られた神様の大きさを知ってもらおうと、教会に来ている子向けのミニキャンプを7月の初めにやりました。楽しかった〜。場所は牧師館。ハイ、我が家です。




聖書を読んだり。
遊んだり。

遊んだり、

遊んだり、

遊んだり、



遊んだり、





ごはんを自分たちで作って食べたり。
のり巻食べたり、






おいなりさん、食べたり、






すいか、食べたり、






バームクーヘン、食べたり、






ながしそうめん、食べたり、






パンケーキ焼いて食べたり






スイカの皮で顔作ったり、






工作したり、



カタツムリ作ったり、





もう、ホントに「やばたのしい」3日間でした。


教会にいつも来ている子たちのプログラムなので、ホントに少人数なんですが、小さいがゆえに楽しめるプログラム、小さいがゆえに話せる話、楽しくやりました。
そして、もちろん、お泊まりも。
楽しくて楽しくて、泊まる予定じゃなかった子たちも、そのままお泊まり。


ただただ、この子供たちに神様のみ思いが届きますように!と祈りながら・・・。

2012-07-25

牧師のなすべきことは何?

暑い日と涼しい日が何日か交代でやってくるNJの夏らしい日が続いています。
いつもよりも暑く感じますが、今日などは、夜9時で24.5度ですから、快適です。


明日はまた暑くて午後からは雷雨がありそうです。






7月の初めに、アメリカに来て20年になりました。
そして、もうすぐ、NJの教会の牧師になって15年になります。
いつも祈りながら、主に聞きながら、牧師のなすべきことを求めています。


今年の春に「Emotionally Healthy Leadership Conference」というのに出席してきました。
ピーター・スキャゼロという人の「情緒的に健康な教会を目指して」という本を読んで、彼が主宰するセミナーに出たいと思ったのでした。


その中で学んだことの一つに、「応えられない期待は怒りになる」というものがありました。
・・・だから期待に応えましょう・・・という話ではなくて、「その期待は言葉にしていないことが多いので、伝わっていないことがある」「伝わっていないのに、その期待を『当然の期待』として押し付けるのは不当」(日本では「それ読むのがプロ」みたいな風潮がありますよね)「期待を伝えられた方は、それに応えられるかどうかを、はっきりと答えるべき」という話でした。


そんな学びをした後、役員会でみなさんに牧師に何を期待しているかを言葉にしていただきました。


本当に愛にあふれた皆さんの言葉をいただいたのですが、今度はその「期待」に対して、私がそれに応えられるかどうかをお答えすべき番で、それを反芻しながら、過ごしてきました。


その中で、ずっと心に留まっていて、また読み返そうと思っていたのが「牧会者の神学」という名前のユージン・ピーターソンの本。ずっとずっとここに戻らなければ、と思っていました。


久しぶりにその表紙を開いたら、その裏にこんなことが書かれていました。


「本書は牧師の本来の働きは『聞くこと』であり、また『神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、人々がその御言葉を聞きとる援助をすること』であると定義することによって、牧師の召命を教会運営という宗教的事業経営のごときものに歪小化しようとする強い圧力に対する解毒剤を提供する。」


牧師の働きで本当に大切なのは教会運営ではなくて、自分が神に聞いて応えて行く、そして、人々が同じように神に聞いて応えて行くサポートをする働きなんだと、もう一度引き戻されたような気がします。


そして、原題はこのようにありました。



Working the Angles: The Shape of Pastoral Integrity




「Integrity」・・・日本語にはしにくい言葉ですね。首尾一貫していること、表裏がないこと、一つの人格として統一がとれていることを表す言葉です。


いろいろなすべきこと、そして、「このような必要がある」という声、でも、与えられた時間や能力は限られている、そんな中で、自分が引き裂かれてしまわないために、自分のなすべきことは何なのかを、しっかりともって歩ませていただくことの大切さを思います。


さて、「日々のみことば」から。
今日はコリント第一の手紙13章。
これは「愛の章」と言われるところです。


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。・・・」4-7節


正直な反応は、自分には愛がないなあということであり、ではどうすればいいの?ということでした。その前には「こんなことをしても、こんなことができても、愛がなければ、すべてはむなしい」と書かれています。絶望的な気持ちになります。


12章の最後には「さらにまさる道を示してあげましょう」と書かれているのですから、この道を求めるべきなんでしょうね。


本当に祈るしかありません。「私に愛を与えてください。私に愛することを教えてください」と。


よくいわれることではありますが、この「愛」の部分に自分の名前を入れて読んでごらん、「・・・は寛容であり、・・・は親切です。またひとをねたみません。・・・は自慢せず、高慢になりません。」と読んでいると、恥ずかしくなって、すぐに詰まってしまう。でも、そこに「キリストは」とか「神は」と入れるならば、どうだろうか、と。


本当に愛の源である方に愛することを教えていただきたいと思います。


主よ、
私の中に愛のないことを感じます。
愛することを教えてください。
これはもうあなたに頼るしかありません。
愛のなんたるかを教え、愛することをさせてください。


PS. ちなみに、このブログの題の「日々の祈りと日々の遊び」という言葉もこのピーターソンの本からアイディアをもらっています。「祈りと遊びは、その深い部分において、互いに一致するものを持ち、広い内的関連性を持つものであって・・・」99ページ。