2009-07-11

Fellowshipの喜び。

夜の11時過ぎです。
先ほどから予報通りに雷鳴が聞こえています。
雨も降ってきました。


でも、明日は雨もすっかり上がって、夏の日になるようです。


今日の午後は、ある方のお宅にお伺いして、
しばらくFellowshipの一時。
最後は讃美歌で終わるというとてもいいFellowshipでした。


でも一緒に食事をして、
その後ピアノを聞いて、それから、みんなで賛美なんて、
かきごおり的には夢のようです。
高校の時にピアノが弾けるスポーツマンとか、羨ましく思いましたし、
家族でピアノの周りに集って、娘が弾くピアノで、家族が讃美歌を歌う、とか、
めちゃくちゃあこがれましたが、今日は、ちょっと娘に期待しよう、
というよりも、50の手習いで(未だ早い)、ピアノをやろうかなあ、と半マジで思いました。


最近、ピアノだけじゃなく、
英語をもっとちゃんと話せるようになろう、
コンピューターのプログラムの勉強をしよう、
いやいや、牧師なんだから、もっとすらすらとギリシャ語、ヘブル語が読めるようになろう。
いや、弟子訓練の勉強をもっとしよう、とか、
なんだか、わき出てきてしまっています。
ちゃんと優先順位を決めて、できないことはあきらめる、勇気が必要ですね。
与えられた限られた時間を何に使うか、ちょっと楽しみです。


そして、夜には明日の礼拝説教をしてくださる先生とのFellowship。
アジアに広く目を向けておられる先生のお話は、
とても興味深いものでした。


明日の礼拝がまた楽しみです。


さて、7月7日(火)の聖書。
7/7は哀歌3:40-54。


「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」41節。

手も心も・・・ということは、
手だけになってしまう・・・形だけ。
心だけになってしまう・・・ホントは何もしてない。
ということの両方に陥らないようにする、ということ。

形だけの礼拝、ただ、形だけ、手を挙げて主に祈っている、主を賛美していることの愚かさをも感じます。でも、反対に、「気持ちはあるんですけど・・・」って言い訳は、例外もあるでしょうが、ほとんどは、気持ちがないことの証拠。気持ちがあるならば、どうしても形に表せないということもあるでしょうが、でも、多くの場合、当然、形に表れてくるべき。当然形に表れる。

だから、本当に言葉だけではなく、
また形だけではなく、
そして、心だけではなく、
具体的に、
主を礼拝し、主を賛美し、主にささげて歩んでいくことの大切さを思わされます。

主よ、
あなたへの礼拝が、
明日のJCCNJの礼拝が、
心からあなたをあがめるものとなりますように。
心からあなたを賛美するものとなりますように。
心も、そして形も、両方とも、主に向かいますように。
明日、この聖書の箇所を思い出させてください。





イエスはパンくずも集められたから・・・。

今日は昨日までよりはちょっと夏らしいでしょうか?
今は午後1時過ぎですが、外は29度。
夜には雷雨の予報ですが、
今、雷雲はペンシルベニア州の一番西の方。
昼間の間は持ちそうです。


土曜日の午前中にほぼ毎週ある「弟子訓練」の集まりがお休みで、
JOYJOYシンガーズも7-8月はお休みで、
明日の礼拝はゲストの先生で・・・ということで、
朝7時半にタイヤ交換に行った後は、
皆さんに連絡をしたり、
いろいろたまっていることをぼちぼち片づけたりしております。


一ヶ月ほど前になるんですが、
1年2ヶ月ぶりに小銭貯金箱がいっぱいになりました。
1年2ヶ月前の記事はこちら。


で、今回もまた会堂献金だ、と思って、小銭を数える機械にもってきました。
あんなに重かったのに、本当に小さな小さな金額でした。


前も書きましたが、
何だか余り物をささげているようで、
ちょっと違うのかなあ、と思いつつ、
でも、5つのパンと2匹の魚で5000人の人々を養われた主は、
少しでも無駄にしないようにとパンくずを集められた、と聖書は記しています。


いろんなささげものがある。


もちろん、いつもいつも最高のものを、まず最初に、
主のもとにもっていくことが大切だと思う。


でも、それと共に、主が示されたときに、主が示されたものを、
それが小さいからって、怖じけることなく、恥ずかしがらず、
もっていくことの大切さを思う。


そして、何よりも大切なのは喜び。
ささげることができる、そこまで与えられているって感謝すべきことですよね。
主にささげることのできる喜びを心から感じながら。


さて、7月5日(日)の聖書。
7/5は哀歌3:1-18でした。


「私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者。」1節。

私が使っている「日々のみことば」には、
「創造主はどのようなお方ですか」という質問に毎日答える欄があります。

5日のところ、それを書いていたら、

怒りのむちを与える
闇を歩ませる
攻める
骨を砕く
苦みと苦難を与える
囲いに入れる
通り道をふさぐ
矢で腎臓を射る

などが出てきました。

怖いなあと思いました。
闇の中を歩まされていることを感じました。

でも・・・

次の7/6(月)は哀歌3:19-39。


「主の救いを黙って待つのは良い。」26節。
「主は、いつまでも見放してはおられない。」31節。
「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」33節。

18節までをずっと思いめぐらし、その闇の中を歩まされることの意味を思いめぐらした後であったからこそ、この御言葉が心に深く深く響いてきました。ものすごい、励ましになり、ああ、「主の救いを黙って待っていよう」という思いが湧いてきました。

主の救いを待とう。
騒がず、静かに主がなしてくださることを待ち望もう。

主よ、
あなたを待ち望みます。
あなたが私に苦しみを味わわせられるときに、
それはあなたのお考えがあることを信頼します。
そして、あなたを待ち望みます。
あなたの救いに感謝します。



2009-07-10

無事に帰着。

今日もさわやかな気持ちのいい一日でした。
明日はちょっと久しぶりの雨。
ずっと雨が続いたので、まだまだ晴れてくれても大丈夫なんですが、
3日おきの雨、くらいがちょうどいいです。

そんないい天気にも守られて、
ユースのキャンプが無事終わりました。
とてもすばらしい一時だったようです。

神様が続けて一人一人の心に語り続けてくださいますように。

ところで、今日は朝9時に出発してLancasterのキャンプ場まで迎えに出ました。
そして、帰宅は6時半。

全部で9時間半だったのですが、どうしてそんなに時間がかかったのかというと、
子供たちがお互い名残惜しくてなかなか出発出来なかったことと、
もう一つ、ちょっとした出来事が・・・。

この写真、わかります?

問題の部分だけを拡大してみると・・・。


はい、スペアタイヤです。
車の大きさに比べてやたら小さいです。
下は取り替えたタイヤ。


帰り道、7人の子供たちと、
その一人4泊分+寝袋という大荷物を満載して走っていたら、
半分くらい走って、高速道路に入ったところで、
何だか大きな音が・・・。


「ああ、これ、周りの他の車じゃなくて、この車から出ているよねえ・・・」
と言うことで路肩に寄って止ってみたら、後の右側のタイヤがパンクしていました。


早速スペアタイヤを引っ張り出して・・・と思ったら、
これがなかなか出てこない。後ろの方の車体の下に取り付けられているので、
冬の融雪剤等のおかげで、金具がさびているようで動かない。


車の下に潜り込んで何とか外そうとしますが、
ここで、お約束の「マフラーに触れてやけどする」ということもやってしまいます。
親子で・・・ハイ。


ちょうどそんな悪戦苦闘をしている時に、
故障車のヘルプのためにパトロールしている人がやってきて、
助けてくださいました。
本格的な工具で、piece of cakeって感じでやってくださいました。


その方も、そのスペアタイヤを取り出すのには苦労しておられましたが・・・。


「このタイヤじゃ50マイルだね。それ以上出して、このタイヤがダメになっちゃったら、目も当てられないからねえ・・・」とおっさんに言われ(もちろん、英語・・・意訳)、その後2時間はみんな70マイルくらい出すところを、50マイルでちんたらちんたら・・・。でも、祈られていたのでしょう。守られました。無事、うちに着いたときには心から感謝しました。


明日、タイヤ交換、いってきます。


また本題以外のことで長くなってしまいましたね。
でも、本当に守られて感謝。

では、先週土曜日、7/4の聖書。


7/4は哀歌2:11-22。


「あなたの預言者たちは、あなたのために、むなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの繁栄を元どおりにするために、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わすことばを預言した。」14節。

誰かの罪を指摘するのは楽なことではない。
できるなら避けたい。というか、逃げたい。

「あなたは私を裁くのか?」と言われ、
「あの人は人を裁いている」と言われ、
雰囲気も難しくなり、人間関係もぎくしゃくする。
空気はぴりぴり、関係はぎすぎす。

もちろん、そういうときばかりではありません。
本当に神様が働いてくださった、勇気を出してはっきりと言って良かった、
そんな場面もありました。

でも、どちらかというと、うまくいかないことが多いです。

でも、たとえそうであったとしても、
たとえうまくいかなかったとしても、
恐れないで、使命を果たす者でありたいと思います。

主よ、
預言者の働きをさせてください。
あなたの使命を果たさせてください。
罪を罪としてはっきりと語る勇気と確信を与えてください。
第一とすべきものを第一とさせてください。










2009-07-09

待った待った。

今日もまた涼しかったです。
朝はお約束の14度。
昼間も25度までいきませんでした。
そして、夜になってまた冷えてきて、
今、夜の11時半頃ですが、
もう既に16度まで下がっています。
明日の朝はお約束の14度を下回って、12度くらいまで下がるでしょうか。
もう秋みたいですねえ。


さて、今日は夕方5時に出てNYへ。
でも、バスが来ない来ない。
1時間以上待って、6時25分にやっとバスが来ました。
それも2台まとめて。
2台もいらないよ~、と思っていたのですが、
でも、2台で抜きつ抜かれつで、バス停を一個交代で止まるので、
結構早くつきました。
NYについたのは、7時20分過ぎ。
いつもは5時20分のバスで、7時15分前くらいに着くので、
それを考えると、まあ、早く着いたかな、という感じでしたが、
まあ、長く待たされました。1時間以上とは参りました。


でも、NYからJCCNJに通っておられる方の中には、
それと似たような経験をした方々もおられます。
それも、冬の寒い中。
一人一人が教会を愛し、主を愛しておられる姿に励まされます。


帰りは10時20分のバスで、教会に着いたのが30分後。
さすがに夜は早いです。


さて、明日は往復6時間の運転なので、早く休むようにします。


ということで、7月3日(金)の聖書。
7月3日は、哀歌2:1-10


「預言者にも、主からの幻がない。」9節。

預言者に幻が与えられなかったら、何が残るのだろうか?
預言者に必要なのは豊富な聖書知識ではなくて、
神からの語りかけ。
私自身の働きもそうだ。
もちろん、聖書を誰よりもよく知っていることの大切さも思わされる。
でも、それだけではダメだ。
主からの語りかけを頂いていく、ということが、
今の私の働きのために必要なことだ。
単なる知識、単なる聖書知識ではない。

「主を畏れることが知識のはじめである」
との箴言の言葉をもう一度思い出す。

主よ、
今日も私に語ってください。
あなたのみ声を聞きながら歩ませてください。
あなたが私に語ってください。
そして、語られた喜びと感謝をもって、
あなたと共に歩ませてください。

2009-07-08

母語。

今日はいい天気でした。
でも、7月とは思えない朝晩の涼しさです。
今朝も14度くらい。
今も夜の11時前ですが、18.5度。
明日の朝も14度の予報です。


明日もカラッとよく晴れそうです。


昨日はLancasterの帰りに、
Philadelphia郊外に引っ越された方をご訪問。
Assisted Living Homeに住んでおられるので、
いつもは英語の環境です。


ですから、日本語で話せる一時はどんなに幸いなことでしょう。
自分もそうですからねえ。
英語もコミュニケーションができないわけではないですが、
やっぱり、自由だったり、ほっとするのは、母語。


ちなみに「母語」ってのは「母国語」を間違って書いているんじゃないですよ。
一つの国に一つの言葉だなんて考えるのは偏見です。
一つの国の中でも生まれ育った言葉が違う場合がある。
だから「母国語」じゃなくて、「母語」です。
英語でも「mother tongue」でしょ。
直訳して「母舌」じゃなくて「母語」です。


でも、その母語で、
満州からの引き上げの時の混乱の様子とか
アメリカに来られて、どんな思いで歩んでこられたかとか、
今、どんなことを感じる、とか、
お話を伺って、大切なことを聞いたなあ、と思います。
特に前の戦争の話は、これからますます貴重になってくる生き証人です。


お伺い出来ることはどこまでもお伺いして起きたい、そう思いました。


うちに着いてから、「先生、時計忘れましたよ」とお電話が・・・。


8月のハジのアトランタ行の時に、お寄りすること決定!
ま、通り道ですよね。


さて、7月2日(木)の聖書。
7/2は哀歌1:12-22。


「私が逆らい続けたからです。」20節。

主の裁きを見ながら、エレミヤは背いた人々のことを責めるだけではなくて、
それを自分の罪として受け取った。
ただ、自分だけを正しい者とするのではなくて、
それを預言者である自分の罪として受け取った。

私はどうだろうかと思わされた。
子どもの頃から、何度、自分の責任を認めないで、
逃げてきたことだろうか。

それを大人になってもしてこなかっただろうか。
人の罪も、自分の罪として負う。
自分の罪として責任を認める。
そのような大きさ、そのような強さ、そのような愛を、
与えて頂きたいと思いました。

主よ、
私は何と愛のない者でしょうか?
何と逃げる姿勢の強い人間でしょうか?
逃げないで、人の罪さえも背負う強さ、
大きさを与えてください。

2009-07-07

17年。

今日は午後から雷雨。
でも、たいしたことなかったところも多かったようです。
でも、今頃(夜11時)になって、また雷雲が近づいてきました。


雷雨警報が出ています。


明日はまたスカッと晴れそうです。
いいですね、昼間はそこそこ暑くなって、
でも、朝晩は涼しいって。


このまま猛暑にならないで快適な夏が続いてほしいです。


ずっと、今日だと思っていたのですが、
実は昨日、アメリカに来て17年がたちました。
18年目に突入。


いやあ、いろいろあったような気もするし、
あっという間だったような気もします。
とにかく抱っこして入ったハジが大学行くわけですから、
やっぱりいろいろあったのでしょう。


思いがけず長くなってしまいました。
人生何があるかわかりませんね。


でも、ここまで守られたことに感謝。

今、Lancasterのキャンプ場では、
ユースのキャンプが続いています。
私は今日の昼前に出てきましたが、
熱い先生と、スタッフの皆さんに迎えられて、
本当にこの中高生たちは幸せだと思います。


金曜日まで続きます。
祈って支えてください。


雷が聞こえてきました。
雷雲の本体は北をかすっていきそうです。


一週間分たまってしまいましたね。
さて、先週の水曜日、7月1日の聖書。
7月1日から哀歌です。


哀歌1:1-11を読みました。
「彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。」2節。

エルサレムの陥落の様子を嘆いている詩です。
周りの国々を当てにし、頼りにしていたのに、
いざとなったとき、すべての国々が裏切り、敵になったのです。

私も何を頼りにしているだろうかと問われます。
人を頼りにしていることがどれだけあるだろうか。
本当に頼りにすべきなのは神様なのに、
神様だけを頼りにすべきなのに、
それ以外のものを頼りにしていることがどれだけあるでしょうか?

もちろん、人も信じたい。
でも、頼りにするのは、本当に頼りにするのは、

神様。

主を見上げて、歩んで行こうと思いました。

主よ、
あなたを信頼して歩みます。
その中で、あなたが与えてくださる仲間、人々、
信じる心を育ててください。
いつもいつもあなたを中心として歩むことができますように。
17年の歩みを感謝します。
これからの道もあなたが支えてください。

2009-07-05

かぎや~

これはイチゴかい?

ああ、今日も遅くなってしまいましたが、
まあ、1回分は更新しておきましょう。
6月30日(火)の聖書。


出エジプト記の最後40章17-38節


「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。」36-37節。

主の導きにどこまでもついていく。
進むべきときに進むのも、勇気がいることがあるだろうけれども、
気がせいているときに、どうしても雲が上らないときは、
どんな思いだっただろうかと思う。

でも、それも含めて、主に従っていく、
そこに私たちは招かれている。

とどまることのほうが勇気がいることがどれほどあるだろうか。
ただ、主に従って歩んでいくものでありたい。

主よ、
私にも見せてください。
雲の柱と火の柱。
そして、進むべきときも、
とどまるべきときも、
見分けることができますように。


明日は中高生をキャンプ場まで連れて行って、
一泊して、火曜日の朝にメッセージ。
その後、お一人、ご訪問して、
夕方には帰ってきます。
中高生はそのまま金曜日まで。
うちの中高生どもも、金曜日まで留守。
ちょっとゆっくりすごせるでしょうか・・・。

たまや〜

時間が進んでいたので、近くには近づけず、
何年ぶりかに、遠くから見ました。
今年はちょっと不景気の影響もあり、
おとなしめだったように思います。