2008-08-01

このからだ。

今日は昨日と暑さは同じくらいでしたが、
湿度が低く、夜になるとぐっと涼しくなりました。

でも、夜半頃からはあまり下がらないようです。
湿度も上がってきて、
明日は雷雨。

明日は暑さも一服です。

そして、後1週間あまりに迫ったJOYJOYキャンプですが、
なんか、そのころから涼しくなる予報が出てきています。
おおお!
昼間でも25度くらい、
朝晩は10度台に下がるという、 
秋の気配を感じさせる一週間になるかもです!
体力的にはめちゃくちゃ楽です。
助かります。


今日は明日に備えて、早速聖書。


コリント第一の手紙15章35-49節。
「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ・・・」43節。

このじぶんのからだ、十分立派だと思うんですが・・・。
いえいえ、自分の体型が立派だというのではなくて、
この体自体が、神様の傑作だということ。

そりゃ40代も半ばになると、
昔のように行かないことがだんだん出てきます。
ああ、坂道を越えたんだなあ、と思いますね。
でも、それにしても、この体だって、捨てたもんじゃないと思います。

でも、聖書の中では、
このからだは朽ちる、弱い、卑しいもので、
それに対照的に言われている「復活のからだ」は
栄光にあふれた、強い、朽ちない体だというのだ。

それはどんなにすごいだろうかと思います。
私が肉の体に感動しているのに、
天国の体はどんなにすばらしいのだろうかと。

楽しみになってきました。
天国がどんなにすばらしいところなのか。

でも、そうやって天国を見つめながら歩んでいくんですね。

主よ、
あなたのくださったこのからだの故に感謝します。
でも、天国のからだ、復活のからだはもっとすごいんですね。
そのことを楽しみに待たせてください。
いつもいつも天国を見つめながら、楽しみにしながら、歩むものでありたいです。 

2008-07-31

11年・・・そしてこれから。

今日も暑かったです。
昨日よりも暑かったように感じました。
そして夜になっても、まだまだ。
9時をすぎて、26.6度。


明日はちょっと湿度が下がって、
朝も今朝よりは涼しいと思いますが、
昼間の気温は32度くらい。
暑い一日になりそうです。

今日は7月の最後の日。
1997年7月にJCCNJの牧師に就任して、
11年がたちました。

一区切りです。

何日か前にも書きましたが、
「今の自分がいるのは主の恵みによる」って、
牧師としての歩みを振り返ってもそうです。

やっぱり、かなり最近まで、
「自分のやったこと」「成果」にこだわっていたと思います。
それで、他の人と比べて落ち込んだり、
何か数字が出ると、傲慢になったり、
今になってみると、何を見てきたんだろうなあと思います。

子供の頃から数学が好きで、
数字で表されることの方が絶対わかりやすい、
というタイプの人間。


国語が苦手、英語が苦手、
答えが一つじゃないのが、とっても、嫌でした。
だから、国語や英語でも三択問題とかは何とか・・・という感じ。


だから、数字になって出るものがほしかったんですね。
でも、今は本当に、今ここにいること自体が、感謝。
ここに置いて頂けることが感謝。
人と出会えること、
語り合えることが感謝。


もちろん、人が目の前で、イエス様に導かれるのも感謝。
目が開かれて、「すごいですね」と感謝して歩み始めるのもうれしい。


でも、それだけじゃなくて、
私たちが痛みを覚えるときに、
それを分かち合って、共に祈り、共に歩むことができるのも感謝。
答えが出なくてもいい。
いや、答えが出てから、「実は・・・」と話してくださるのもいいけれども、
答えが出る前から、共に祈れる「兄弟姉妹」が感謝。


一歩一歩、この「兄弟姉妹」が広がって、深まっていきますように。


さて、今日の聖書。
今日はコリント人への第一の手紙15章12-34節。


「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。」31節。

復活の意味を語る中で、
パウロが自らの命がけの歩みを思いながら、言っている言葉です。
復活があるから、命もかけられる、という感じで読みました。



自分はいったい本当にこのように感じているだろうかと、思います。
命かけているだろうかと。



ホント「死」から逃げている。
元々、イエスに従う歩みは命がけだった。
今でも命がけの人々がいる。


でも、今、自分は、命かけなくても「クリスチャン」でいられる、
そんな自分たちは、大切なものを見失っていないだろうかと。

いや、命を奪われることは私たちはないかもしれない、
だから、もっと難しい。
だから、もっと妥協してしまう。

いつもいつも地上では旅人であることを忘れないで、
天を見上げながら歩むものでありたいと思います。

神様、
パウロが「私はいつも死に直面している」と言った時の信仰と、
私の今の信仰は同じでしょうか?
パウロの信仰がわかる者にしてください。
この地上ではいつもいつも旅人であることを、
忘れることがありませんように。

「単なる希望」じゃあない。

さて、昨夜の続き。
昨日の聖書箇所は、コリント人への第一の手紙15章12-19節。


「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」19節。

単なる希望をキリストに置いているだけだったら、
それは哀れだ、なんてどういうことなんだろうかと思いました。
キリストに希望を置いていいじゃないかと思いました。

どうしてあわれなの?と。

でも、味わっているうちに、
これは自分の「希望」という言葉の意味が、
「キリストにある希望」という意味で使う場合に、
もはや、他の時に「希望」とは異質なものになってしまっている、
キリストにある希望、はもはや、「まれなのぞみ」ではなくて、
「平安と確信を与える土台」になっているんだとわかったのです。

そうですね、「単なる希望」じゃない。
「希望を捨てないでがんばる」というのではなくて、
「イエス様がいるから、大丈夫じゃん」という、
平安になっているんですね。

それをいただいている。
その確信をいただいている。
その根拠が、イエスが死をも打ち破って、今も生きておられる、
人間の最後の敵である死をも打ち破ってくださったんだから、
大丈夫なんだと。

与えられているモノの大きさを再認識しました。

主よ、
与えられているモノがものすごい、すばらしいものなのに、
なかなか気がつかないでいる者です。
ありがとうございます。
あなたにあって抱いている希望が、
ものすごい平安と確信、心の安定を与えてくれています。
感謝します。
その平安が周りの人々をも生かすものとなりますように。

2008-07-30

昔の情熱。

今日は蒸し暑かったです。
雷雨の予報が出ていましたが、
今のところは、ここら辺は素通り。

でも、今夜これから、やってくるでしょう、たぶん。

今、夜中の12時ですが、25度以上あります。
ここ数日の中で、一番蒸し暑い夜です。

明日はまた暑い一日になりそうです。


今日、郵便で荷物が届いていたので、
何だろうと思ったら、先日来られた、シカゴのぼぼるさん
いや、リンクはこっち(University of Chicagoのスタッフの紹介)を貼るべきなのかも。 


で、何だろうかと思って、見てみたら、
気象学の教科書。
Atmospheric Scienceという本

いやあ、難しそう。


こんな式も出てきます。
何のことか全然わからない。


でも、わからなくても、というか、わからないから、
刺激を受けました。


昔の情熱がよみがえってきます。

ゆっくり勉強してみたいです。
高校の時、もっとちゃんと勉強しておくべきでした・・・。

思わず「気象予報士」の試験の日程とか、確認してしまいました。
やっぱり、NYで受けるとか、できないんですねえ。



ちなみに、このぼぼる先生、アーティストでもあったりします。
で、この表紙の真ん中のイラストはアーティスト・ぼぼるの作品です。



ちゃんと中をめくると
目次の前のページに、
「Cover Photo Credits」のところにお名前が出てきます。


いつの日にか、この本の「中身」について、
議論ができる日が来ることを願います。

感謝。



すみません、
ここまで書いて、ものすごい睡魔が今襲って来ています。
素直に飲み込まれようと思います。

みことばはまた明日の朝にでも・・・。

2008-07-29

恵みによって今がある。

今日もまた暑かったです。
昨日よりも一段階蒸し暑さがアップして、
ちょっとしんどかったですよね。

今日は昼間に車に乗ることが何回かあったのですが、
毎回、車があつーくなっているのに閉口しました。

アトランタにいた頃なんか、
フロントガラス(ウィンドシールド)のところに、
反射板みたいなのを置いて、ハンドルが熱くならないようにしないと
とてもじゃないけど運転できなかったことを思い出します。

それに比べるとまあ、たいしたことはないのでしょうが、
まあ、熱かったです。

明日はもうワンランク蒸し暑くなって、
雷雨もあるでしょう。


さて、今日は早速聖書。
今日はコリント人への第一の手紙15章1-11節。


「神の恵みによって、私は今の私になりました。」10節。

パウロは、

イエスの十字架と復活こそが福音の中心であることを語るのですが、
その中で、自分が今の自分になったことは、
神様の恵みによるのだ、ということを
本当に心から語っているところを読んだときに、
「私もそうだ!」と心から思いました。

今の私があるのは、
私が今の自分となったのは、
本当に神様の愛であり、
神様の恵みであることを思わされました。

ありがたいと思いましたし、
また本当に原点に引き戻されたような気持ちがしました。
今あるのはただ恵みによる。


自分の力ではなく、
自分の決心ではなく、
ただ、神様に愛されている喜びと、
ありがたさ。


自分のために
命まで捨てた方がおられるという、
そのかたじけなさ。

主よ、

あなたの恵みに感謝します。
また原点に引き戻されました。
あなたは私の弱さや愚かさをご存じで、
自分の偽善性に苦しんでいた私を救ってくださいました。
私のために、一番嫌いなタイプのはずの私のために、
十字架にかかってくださったイエスの愛に感謝します。

どうか、この喜びに生かしてください。

2008-07-28

あたりまえ!ですか?

今日は朝18度くらい。
そこそこ涼しくて、昼間も、まあ、30度は超えましたが、
それほど暑く感じませんでした。

そして、夜はまた涼しくなって、
夜の12時で22度。

明日もいい天気になりそうです。

今晩ゲストがあって、楽しく話をしたのですが、
小学生のお子さんに、「夏休みはどうよ」とか、
「宿題やった?」「野球はどこが好き?」とか聞いて、
話をするのですが、
いつの間にか、お子さんから話を取り上げて、
自分の子供の頃の話になっていく、
(って、絶対、すぐ自分の子供時代の話に持っていくのは自分。)

そして、いつの間にか、大人が昭和の話で盛り上がる、
いやあ、楽しかったです。


昔の話をやたら思い出すのはそういう年になってきたのかと思います。
ヤバイですね。


で、夏休みの登校日といえば、
「どじょうつかみ」でしょう。ね。


消防署からポンプ車が来て、
プールの水(たぶん)をくみ取って、校庭にまく。
その中にみんなはいっていく。
そしてそこには生きたドジョウがまかれていて、
それを素手でつかみ取る、という毎年恒例の行事でした。


確か、8月20日頃。


私はかなり下手で、
獲れても1匹。
獲れる子は5匹くらい捕まえたりもします。

もちろん、獲れない子もいます。
獲れなかったら、1匹もらえる。残念賞です。
結果は同じなんですが、
やっぱり「残念賞」でもらえる1匹と、
自分で捕まえた1匹では、
全然価値が違います。

1匹でも獲れた年は、

周りのみんなに自慢して回りたい、そんな気持ちでした。
何でか、上手じゃないのですが、好きでした。


で、ためしに「ドジョウつかみ」でググると結構東京下町系の町や小学校の名前が出てきます。
やっぱり、あれは東京下町系の行事だったのでしょうか?

そして、もひとつためしに、母校の名前を入れて、「ドジョウつかみ、数矢」で入れると、
5件くらいヒットします。
今でも町内会主催等でやっているのが区内にもあるようですが、
母校のドジョウつかみ、なぜか、PTAにとって大切な「行事」だったようで、
昭和45年から52年までの間、46年を除いて、毎年行われていたようです。

ん・・・?


自分の入学が、昭和45年で、卒業が51年ですから、
なんてことはない、自分がいたときしかやっていなかったんですね。


でも、自分が毎年のように経験していると、
「ふつうやるでしょ!」と思ってしまう。
「やるのが小学校というものでしょう。」
「昭和の頃はいつもやっていた。」と言いたくなります。



いやあ、昨日の説教でもお話ししましたが、
自分の「あたりまえ」に閉じこもっていちゃいけませんね。


さて、今日の聖書。
今日はコリント第一の手紙14章26-40節。


「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」33節。

神様は、平和(秩序)をもたらそうとされている。
それにほっとさせられました。


神様は教会に秩序を与えようとされている。
ならば、その神様に従って、
秩序を確立して頂こうと思わされました。
神様がなさることを見せて頂きたい。
神様がなさろうとすることを、信頼して歩んでいきたいです。

混乱ではなくて、
熱心な人たちによる混乱ではなくて、
表面的にはそれほど熱心には見られないような人々による秩序。
それを与えて頂きたいです。


主よ、
あなたに感謝します。
あなたが秩序を愛される方であることに感謝します。
どうか、あなたの作られた秩序に従っていく者でありますように。
あなたが作ろうとされている秩序に敏感で、
あえて、自分を捨てて、それに従っていくことができますように。

2008-07-27

祈りの長さ。

今日は雷の音で目が覚めました。
朝5時頃、雷が鳴っていました。
そして、6時に教会に行くときには雨。

でも、45分に教会を出るときには雨はすっかり上がっていました。

教会にいるときにも雨は降ったようですが、
中にいると、よくわかりません。

夜にはすっかり上がっています。
外は湿度はそこそこありますが、
涼しいです。

11時前で21度。
でも、この後はあまり下がらないみたいですね。

明日は30度を超える暑さになりそうです。
この先を見ても、なかなか30度を切る日はなさそうです。

日本の話を伺うたびに、
こちらはましなんだよなあ、と思いますが、
ちょっと涼しくなってほしいなあと思います。


さて、今日はまた一家族、日本にお送りしました。
今年はこれで何家族目でしょうか?


寂しくもありますが、
また日本で豊かに用いられるようにと祈らされます。


さて、今日の聖書。
今日はコリント人への第1の手紙14:13-25


「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。」15節。

知性で祈る。
祈りは心のありのままをささげるときだから、
知性で祈るという感覚は私にもあまりありませんでした。


でも、「霊で祈る」というのも、
ちょっと違うかなと。


でも、頭を使って祈っていいんだと、
今日は思いました。


そして、時々、「異言で祈ると2時間でも3時間でも祈れる」という人の言葉を聞くと、
それが自分の経験の中ではないことがとてもコンプレックスでした。
でも、きょう、このみことばによって、吹っ切れたように思います。


いいんだと。何時間祈ったかは、神様にとっては問題ではない。
知性において15分祈ったら、30分祈ったら、それでいいじゃないかと。


そして、神に祈れることを心から感謝しました。
そうしたら、本当に元気が出てきました。
とってもいい気分で教会を後にしました。


これからも5分でもいいから、15分でもいいから、ただ、主を愛して、
人々を愛して祈るものでありたいと思いました。


主よ、
今日、あなたが目を開いてくださってありがとうございます。
時間の長さが問題なのではない。
時間の長さが、神に祈っているかどうかのものさしではない。
心から、一つ一つの課題について、
心を注ぎだして、
愛を持ってあなたの前に祈っていく者とならせてください。