2011-04-29

どんなときでも!

・・・とは思うのですが、やはり今日は花粉症の症状がきついです。
今朝、教会に行こうと思って車を見たら、昨日の夕方まで乗っていた車がまっ黄色。

昨日までよりもぐっと気温は下がりましたし、
湿度も下がってさわやかな一日でしたが、
さすがにこの花粉の中では外に出られません。

最低限の用事以外はおとなしく過ごしていました。

目をこすらないようにと思うのですが・・・
もう、まぶたが腫れ上がってしまっています。

ですから、今日の聖書箇所で心に留まった言葉だけ。

「御前の破れに立つ」23節。

おやすみなさい。

2011-04-28

主のしもべ。

昨日の嵐は本当にひどくて、
南部を中心に200人以上300人に迫る人々が亡くなっています。
写真を見ると、「風だけで、ここまでひどいことになるとは・・・」という感じです。ものすごい破壊力です。でも、普通は100メートル離れると無傷です。今回の大きな竜巻は1000メートルの幅があったと言われていますから、大変なことでしょうが、それでも、少し離れれば無傷な地域が広がっています。今回の日本の津波の被害の問題は、被災地域をサポートできる地域が限られている、ということでしょう。ある程度遠くに行かないと、被災地をサポートできる力を持っていないんですね。


来週からのんちが入る山元町は下水の整備のめどが全然立たないそうです。
水道も人々が生活しているところは100パーセント出るようになったようですが、
全体の60パーセントとあります。つまり残り40パーセントは水道の栓自体が失われているということなんでしょうね。


半分の地域が残りの半分の地域を支えている。
その支えている方も、下水道は使えない。


被災地はどこもそのような問題を抱えておられます。
支える側の方々も支えられることがどれほど必要であるかを思わされます。


今日も支えておられる方々も支えられますように。


今日の夕方、Paramus High Schoolにかかった虹。




ユキの大学進学のために最近真剣にいろいろ考えさせられています。
今日は全米から大学が集まって、ブースを出して、PRする日。
本人も、ちょっとは真剣に考え始めた、かな。


昨日の夜、真夜中にtwitterで歌手のMichael W. Smithのtweetで、
ディビッド・ウィルカーソン師が交通事故でなくなられたことを知りました。
ペンシルベニアの田舎の牧師であった師が、
NYで殺人事件を起こしたギャングの若者たちのために立ち上がるようにと、
神様からの迫りを受けて、いきなりNYに出てきて、
「狂信的な牧師」と新聞沙汰になるような中で、
ギャングの伝道のために尽くして、Teen Challengeを立ち上げ、
その後、Times Square Churchを始められた方です。




もう既に引退されてはいますが、
本当にすばらしい働きをして来られた先生が、
昨日の午後、テキサスで
ご自分の運転される車で反対車線にはみ出し、
大型トレーラーと衝突、亡くなられたそうです。
ご遺族に、教会に主の慰めを祈ります。


でも、どのように召されるのか、わからないですね。
誰でも、いつかはこの世を去るならば、
畳の上で・・・というか、みんなの賛美の中で、
主の御許に・・・と思いますが、
本当にいつどんなことで、召されても大丈夫なように、
心の備えをしなければ。



先生のギャング伝道の証しは「十字架と飛び出しナイフ」という本になっています。
この本は、中学生くらいの時にもらったのですが、
それをちゃんと読んだのは大人になってから。

本当に心動かされました。
主に従うってことはどういうことなのか、
真剣に考えたいと思いました。
今、もう一度、主に従う者として歩みたいと思います。
主に従う、という点で、
周りの反応に動かされないものを持ちたいです。



いつもいつも主のしもべとして歩めますように。

2011-04-27

嵐の夜。

今日も暖かい日でしたが、
南部や中西部では歴史的な嵐になったようです。
アラバマやミシシッピ、テネシー州にはいくつもの竜巻が発生して、
大きな被害が出ています。


Weather Channelのビデオを二つ。
本当に大きな自然の力を感じさせられます。










夜はどうしても被害が大きくなると言います。
明日にかけて、こちらは竜巻はなくても、大雨の可能性はあります。


これ以上被害が大きくなりませんように。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇の105篇の後半、 24-45節でした。


「主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。これは主が、そのしもべアブラハムへの聖なることばを、覚えておられたからである。」41-42節。

砂漠に水が流れる。
それが、アブラハムの子孫であるイスラエルの人々に与えられた祝福だ。
そして、それが新約時代に新しいイスラエルとしてその約束を受け継ぐ教会に与えられた祝福だ。

砂漠に水が流れる。
それが、神と共に歩むということだ。

砂漠が砂漠でなくなってしまうことではない。

砂漠に水が流れる。
涙の谷も泉湧くところとなる。

今日の自分について言うなら、花粉症の中でも、
平和と喜びの中で歩むことができる、ということかな。

でも、それをがんばりでやろうとすると、
つかれるんだろうな、やっぱり花粉症はしんどい。

だから、自分のがんばりじゃない。
主が私の内側に働いて、元気を与えてくださる。
力を与えてくださる。

祈って力をいただきたい。
主よ助けてください。

主よ、
砂漠に水が流れる奇跡をなしてください。
あなたのアブラハムへの約束を、今の私の人生にもなしてください。

2011-04-26

花粉飛びまくり。

日曜日からの暖かさ、というか暑いくらいの陽気で、
今日はとうとう我が家の前のoak treeも開花。
今年はまだまだだろうと思っていた花粉症がいきなり全開です。


明日も気温が25度以上に上がりそうです。


そして木曜日の雷雨で、ちょっと落ち着きそうですが、
そのあとも割合気温は高め。


一気に花粉の季節には駆け抜けてもらいましょう。


のんちは、もうしばらく東京ですが、
火曜日は看護学校時代の友達と埼玉県の避難所に行ってきたとか。
まあ、じっとしておられないようです。


来週から2週間、宮城県の山元町になりそうだそうです。
私も言われて初めて調べたところですが、
福島県との県境の海沿いの町。
やはり大きな被害があったところであり、
救援も遅れがちのところのようです。
教会もないようですが、先日は森祐理さんがコンサートをされたとか。


どうか、お祈りの応援をよろしくお願いします。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇105:1-23。


「彼のことばがそのとおりになるまで、主のことばが彼をためした。」19節。

主のことばがためす。
共同訳では「火で練り清める」とあります。
そういうことなんでしょう。

ヨセフはたくさんのひどい目に遭っていますよね。
でも、その中で、彼はととのえられてきたのだと思います。

兄弟に捨てられたこと。
そのあと、奴隷として売られて、
一生懸命仕えて主人から信頼されていたのに、
その奥さんに言いよられて、断ったら、
逆にあの男に襲われそうになったなんて嘘つかれて、
それで、あんなに尽くした主人に、
一発で捨てられて、
忠実に仕えてきた主人に不信の目で見られたこと。

また忠実に仕えて、牢獄の中でも
人々に信頼されて、
そして、夢の意味を説いてあげた王の給仕頭にも忘れられたこと。

本当にいろんな闘い、がっかりすることを、経験したのに、
彼はその中で、神様を信頼して、忠実に仕えていった。

この愚直な忠実さを持たせていただきたい。
神様を見上げ、見つめて歩んで行きたい。

かみさま、
花粉症、きついです。
なんとか、取り去ってほしいです。
でも、これも、あなたが私を練り清めるために使われるのでしょうか。
ただ、どんな状況の中でも、あなたに従う者、あなたを信頼する者とならせてください。

2011-04-25

復活のいのち。

昨日は、暑いくらいだったので、
今日は普通に暖かいという感じでした。


でも、それは主観的な話で、
また教会でネクタイをしていたので、
かなり堪えましたが、
休養日で、しっかり休ませていただいたので、
昨日の方がめちゃくちゃ暑くて、大変だったという印象が残っているだけなのかもしれません。


いずれにせよ、この暖かさで、裏庭にはタンポポが咲き誇り、
ほったらかし畑にはアスパラが生い茂り、
ニラがにょきにょき生えてきています。


今日はアスパラを18本収穫して、
アスパラのベーコン巻きを
リクエストしてきたサキに自分で作らせました。


そして新芽の柔らかいニラをニラ玉豆腐にして、
「今日は冷蔵庫の中の残ったものゴハンだ!」という感じだったのですが、結構立派な食事になりました。


春の恵みに感謝。


昨日の朝。
ちょっと疲れていたのか、花粉症の薬でぼーっとしているのか、震災のことで心が重くなっていたのか、男の更年期なのか、ミッドライフクライシスなのか、とにかく、気持ちが重くて、「朝起きるのがつらい〜」という日曜日の朝でした。


毎朝6時には教会に行って45分まで祈りのときを持っていますが、
昨日の朝も、教会に行って、祈っていました。
でも、重い気持ちを引きずっていました。
「イースターなのに」「牧師なのに」という思いで、
「ダメだなあ」「なんでだろうなあ」と落ち込みながら、
「こんな自分の心、みんなが知ったらがっかりだろうなあ」とどう思われるかを気にしたり、
「隣の○○牧師とか、Twitterでいつも元気な○○牧師とかは、こういうことはないんだろうなあ」と比べてみたり、
ドツボにはまっておりました。


で、なんでか覚えていないのですが、
いつもより早く30分頃にはふらふら〜と立ち上がって、
車に乗って、走り出していました。
最初の信号のところで、「あれ、まだこんな時間だ。教会のニュースレターにも『45分前で毎朝祈っています』と書いてあるので、誰か来るかもしれない・・・」と思って、教会に戻りました。そう、今日に限って、誰かが来られるような気がしたのです。


でも、教会に帰って「何やってんだろう自分」と思ったとたんに、涙と一緒に、神様への祈りが出てきました。「自分はダメです。こんな調子です。イースターの朝なのに、こんな調子です。あと数時間で皆さんが来ます。何かを求めてきます。主にお会いすることを求めて来ます。なのに自分の心の状態はこんな調子です。助けてください。」と祈りました。


その時に、礼拝の中でお話をする内容が浮かんできました。
ルカによる福音書24章でイエスの復活の日の夕方、エルサレムからエマオという小さな村に歩いていたふたり。そこに復活されたイエスご自身が近づいて、聖書全体から、ご自身について書かれていることを解き明かした、その時、彼らの心が燃えた、というところです。イエスさまは聖書の御言葉を通して、私達の心を燃やし、私達の目を開いてくださるのです。そのことを語らせていただくことになっていました。


「さあ、あなたも聖書から聞きなさい」と言われているように思いました。
最近、自分は人の励ましや、超自然的な「聖霊の働き」による励ましを求めていたのかもしれません。


そこで、もう既に30分前に読んだところだったのですが、もう一度「日々のみことば」の4月24日のところを開きました。そしてゆっくり読んでいる中で、一つのことばが目に留りました。


「あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。」マルコ16:4。


私の「大きな石」も「あれほど大きな石」と言われるものであっても、復活のイエスの力はそれを動かしてしまう。いやも動いてしまっているのだ。


そのことを思わされた時に、本当にあのルカの24章のふたりのように、「ああ、イエスさまはおられたのに、私が気がつかなかったんだ」と思いました。目が閉ざされていたのだと。


昨日も書きましたが、それから一言祈って、立ち上がった時、教会の駐車場の風景が変わっていました。いや、大げさに聞こえるかもしれませんし、自分自身、こういう表現は好きではないのですが、事実だったのでしょうがありません、ホントに「キラキラ」していました。


復活の主に感謝します。


さて、それで今朝の聖書。
今朝はマルコ16:1-8を読みました。

「主は彼らと共に働き・・・」20節。
「イエスご自身、彼らによって・・・」(別の追加文)

原典主義(って言葉があるかわかりませんが、最初に著者が書いたものに権威があるという考え)なので、原典にはなく、後代の追加であることがわかっているこの部分は、私自身は飛ばしてしまってもいいのかと思っていて、「日々のみことば」誌で「神様によって追加された」と書かれているのにはちょっとびっくりしましたが、両方の追加文で共通しているメッセージに心が向きました。

そう、両方、主語は復活されたイエス。
弟子たちはイエスとともに働く存在です。

私たちにとって大切なのは、
主イエスに働いていただくこと。
私達が一生懸命働いて、神様を喜ばせようとするのではなく、
私達の存在を主の前に差し出して、主が私達を自由に用いてすばらしいことをしてくださることを待ち望むこと、なんですね。

主がなさることをもっともっと見せていただきたい。
そんな思いです。

主よ、
どうか、この地にあなたのリバイバルを。
日本の国にあなたが触れてください。
あなたの御業をなしてください。
そして、私達があなたのために用いられやすい、
あなたに従順に従う者でありますように。

2011-04-24

感謝しつつ・・・

暑い一日で疲れたので休みます。
今朝は本当に祈りの中で、主から御言葉によって励まされ、力をいただき、心燃える思いで、戻り、クッキングをして、教会の準備をして、礼拝でも、愛餐会でも汗がダラダラで。

本当に感謝にあふれる一日でしたが、さすがに体力的には、もう、ちょっと来てしまったので、早めに休みます。アレルギーの薬のせいもあるかなあ。

のんちが東京に戻ったので次々と写真が届きますが、
それはあまりにも・・・なので、ちょっと重いです。

わかってはいたのですが、ここに行っていたのか、と言葉を失います。

でも、本当に思わされるのは、復活祭のこの日のメッセージは、力つき、絶望の中で、朝起きる力さえも失った者たちへのメッセージだということです。

また、明日ゆっくり書きます。

あ、でももう一言。
礼拝のメッセージの中で分かち合ったのですが、
朝、6時半頃、もやもやした思いのままで教会をあとにしたのですが、
何か、まずい、いや、誰か来る、と思って、
教会に戻って、主に祈って、聖書を開いて、
語られて、立ち上がって、6時45分に教会を出る時、
まさに「世界が輝いていた」という経験をしました。

初めての経験でした。
時々、そういうことを言う人がいると、
「何を、大げさな」とか、「感覚的にすぎる」と思っていたのですが(失礼!)、そういうことってありますね。

感謝しつつ。