2007-05-11

今日からretreat

今日から日曜日までRetreatです。

これは「退く」ことです。
退いて、神様の前に出て祈ることです。

イエスも何度かそのようにされました。

その間、更新はお休みします。
コメントもすぐには反映されないかも知れませんが、
私がコンピューターから離れているので、
あしからず。


2007-05-10

畏れと喜び

今日は暑かったです。
ちょっと蒸し暑くも感じました。
日本から来られている方にとっては、

こちらはからっとしているそうですが・・・。

今夜、雷雨とか言っていましたが、
大したことはないようですね。

明日も一時雨。

花粉症には、花粉を一気に流してしまうような雨が欲しいのですが・・・。

昨日のことですが、
午後、病床訪問で、Roosevelt Islandに行ってきました。

2回目なのですが、
前回は車で行ったので、楽だったのですが、
今回は地下鉄。

「迷わないで行けるかなあ」と思いましたが、
そこはマンハッタンの東を流れるEast Riverに浮かぶ細長い島。

幅が200メートルくらいしかないので、
迷うことはあり得ないくらいのところでした。

暑い中、コンピューターと、聖書と、本を詰めた鞄を持って、
30分はちょっときつかったですが、
無事、目的地に着きました。

しばらくお話をして、帰り道、

なにか、「いいなあ、ここ」と思いました。
ウォーターフロントで、なんか、自分の育った東京の下町と似ているんですよね。


高層アパートがあったり、
川が流れていたり。

高層アパートの中庭では子供たちが遊んでいたりして。

地下鉄に乗って、10分くらいで、ミッドタウンの、
「いかにもNY」って観光地かつビジネス街に出ちゃうんだから、またこれがすごい。

ちょっとあこがれてしまいました。

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の47篇を読みました。

「まことに、いと高き方主は、恐れられる方。
 全地の大いなる王。」
2節の言葉です。

神様は恐れられる方。
恐るべき方。

しかしまた、
「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、
 上って行かれた。」
5節にはあります。

神様は私たちの喜びの叫びの中を通って行かれる方。

畏れと共に喜びがある。

根底にあるのはやはり「畏れ」なんだろうなあと思います。
神様の前に出る権利も、資格もない。
そんな者が、おそれおおくも、
御子の十字架によって、
「神の子」とされている。

何ということかと思います。

そこに喜びがある、そのように思います。
恐れない喜びは、あまりに表面的で、
あまりに自己中心的な、喜びだと。

主よ、
あなたが私たちを受け入れてくださること、
神の子としてくださったことに感謝します。
あなたの前に出る資格もない者であることを、
今日も忘れないように、守ってください。
一瞬たりとも忘れないように、守ってください。


2007-05-09

静まれ

今日はNYの日で、
夜はもう更新の元気がないでしょうから、
NY のPublic Libraryから・・・。

今朝はもっと暖かいかと思って期待しましたが、
10度を切っていました。

そして、今日もすかっと晴れ。

暖かい一日になりそうです。
NYはさすがに花粉もそれほどひどくなく、
助かっています。

昨日、教会の用事で郵便局に行ったら、
rate change 5/14と掲示がしてあるではありませんか。
来週から封書が41セントになるんですね。
知りませんでした。

それからシステムががらっと変わるんですね。

重くなるのはあまり高くならないのですが、
大きな封筒の場合は高くなります。
なんだかUSPSのページを一生懸命読んでしまいましたが、
わかったようなわからないような・・・。
結局、機械化が進んでいるから、
機械に通りやすいのは安いけど、
そうじゃないのは高いですよ、ということかな。
郵便局行って聞かないと・・・です。

今日の聖書。
今日は詩篇の46篇でした。

「それゆえ、われらは恐れない。
 たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」
2節の言葉です。

これを読みながら思いました。
「本当だろうか」と。
本当にそんなことがあっても自分は恐れないだろうかと。
9/11の時、自分は本当に恐れました。
だったら、天変地異があったら、恐れないだろうか、
恐れるのではないだろうかと思いました。

そして、信仰を守る人もいれば、
いろんな理屈をつけて、
信仰を捨てたり、
骨抜きの信仰を提案する人も出てくるでしょう。

そんな中で自分は堅く立っていけるだろうかと思います。

そんなことを思いながら読んでいた時に、
心にとまったのが、
「やめよ。
 わたしこそ神であることを知れ。」
10節の言葉。

口語訳では
「静まって・・・」ですが、
そう、嵐の中でも天変地異の中でも、
この言葉をいただいていけば大丈夫だと思いました。
「静まって、私こそ神であることを知れ」です。

本当に静まることが大切だと思わされました。
そして、神を神とすること、
神様が答えを与えてくださること、
神様が解決を与えてくださること、
それを信頼していくことの大切さを思わされました。

恐れてしまうかもしれない。
たじろいでしまうかもしれない。

でも、その中で、「私こそ神であることを知れ」と
主が語ってくださったら、大丈夫だと思いました。

主よ、
今日私に語ってくださってありがとうございます。
「私こそ神であることを知れ」と。

恐れないで、
何ものにも恐れないで進んでいくことができますように。

2007-05-08

喜びと楽しみ

今日は昨日よりぐっと暖かくなりましたが、
明日はまたぐぐっと暖かくなるそうです。

予想は26度。
でも30度近くまであがるかもしれません。

今日、車で走っていたら、
前の車の後ろに、こんなステッカーが貼ってありました。

"God Wants Spiritual Fruits, Not Religious Nuts"

うーん、とうなってしまいました。
まず「うまい!」と。
そして、その後、「自分は大丈夫か、うちの教会は大丈夫か」と。

「神様は御霊の実を求めておられる、宗教的な変人を求めておられるのではない」
という意味なんですが、御霊の実の「実」がfruitsで、変人がnutsで、対応しているのがミソですよね。

本気で御霊の実を求めていきたい、と思いました。
変人になっちゃいけない。

聖霊様を求めていく。
宗教的なふりをするなんて意味がない。

御霊の実を求めよう。

今日の聖書。
今日は詩篇の45篇を読みました。

「喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、
 王の宮殿に入って行く。」
15節。

王様のための詩です。

もちろん、私たちは、ここで王様を、
イエス・キリストとして読みます。

イエスがおられるところに、
私たちは喜びと楽しみをもって入っていく。

なぜ?

私のためにすべてを投げ出すほどしてくださったから、
というのがやはり自分の答えだなと思います。

他の何ものでもなく、
主が私のためにすべてを投げ出してくださったが故に、
私の罪を赦すためにそこまでしてくださったが故に、
イエスの元に行くのが楽しみなんだと思いました。

感謝。

もっともっとこの感謝を自分の生活の中心にしていこう。
ここに歩んでいこう。

主よ、
あなたの愛の故に感謝します。
十字架の恵みを覚えて感謝します。
どうか、あなたの愛の中に喜びと楽しみの中に、
歩ませてください。

明日の一つ一つの出会いを祝福してください。


2007-05-07

弓に頼りません

あ、カラーが戻ってきました。
今朝は本当に冷えて、4度まで下がりました。

昼間も21度くらいで、
一度暖かいのを経験すると、
ちょっと肌寒く感じます。
それに、今はあまり外に出られないので、
家の中にいると余計、寒く感じます。

明日から、暖かくなるようです。
水、木は暑いくらいだそうです。

今日は月曜日でお休みをいただいているので、
夜はゆっくりテレビ観戦です。

9回に出てきたYankeesのRivera(HR打たれて負け投手になっちゃいましたがね)も、
明日先発予定のPettitteも熱心なクリスチャンです。

Cardinalsのソウ君もクリスチャンになったと聞きました。

アメリカではチームにチャプレンがいたり、
試合前に共に祈ったりすることもあるといいます。

日本では中学高校で日曜日に練習があったり、試合があったりするので、
スポーツをする→教会に行かなくなる
教会に行く→スポーツはできない
という感じになってしまって、もったいないなあ、と思います。
何とかならないのかと・・・。

自分が初めてグローブを手にした時のことを思い出していました。
2年生くらいだったでしょうか?
それまでは、カラーボールで「手打ち野球」をしていました。
でも、ある日、近所で屋台を引きながらおでん屋をしているおじさんが、
声をかけてくれました。

「練習しよう」

初めてのグローブ。
初めての軟球。
そして、そのおじさんのことはよく知っていましたが、
そんな風に遊ぶのは初めて。

そして、そのおじさんは一生懸命教えてくれました。
投げ方、ゴロの取り方、一つ一つ丁寧に教えてくれました。
空き地ではなくて、うちの前の路地で。
塀にぶつけて、取る練習を何十球もやりました。
でも、なかなかうまくいかなくて、
自分のオヤジに教えてもらっているわけでもないので、
なんだか、今ひとつ一生懸命になれなかった自分がいました。

「うちのヒデはもっと一生懸命やったぞ・・・」

励ましてくださったつもりだったかもしれませんが、
ちょっと気持ちが切れてしまいました。

自分もオヤジに教えてもらいたかった・・・。

親になった時、
下手でもいいから、
最初だけは自分の手で教えてやりたいと思いました。

Marianoはどんな風にして野球を始めたのでしょうか?
そんなことを思いながら、見ていました。

さて、今日の聖書。
今日は詩篇の44篇です。

「私は私の弓にたよりません。
 私の剣も私を救いません。」
6節。

弓に頼らない、剣に頼らない、
それはどういうことだろうかと思う。

気持ちの問題だけなのであろうか?
気持ち的に、あてにしないということなのだろうか?

まさかそうではないだろう。

本当に主を信頼して、
主が働いてくださること、
主が御業をなしてくださることを、
教えて頂きたいと思いました。

本当は何をあてにしているのか、
本当はどうやって事態を打開しようとしているのか、
現実の出来事の中で問われてくるのではないでしょうか?

自分は単純に祈りつつ主を信じて歩む者でありたいと思います。
「エリヤのカラスは今も生きている」と口癖のように言われていた、
信仰の先輩の姿に習いながら歩んでいきたいと思います。

主よ、
あなたを頼ります。
あなたを信頼します。
あなたがすべてを満たし、
すべてを導き、
一人一人に語ってくださいますように。


2007-05-06

光を送ってください

なんだか、今朝から文字に色を入れられません。
で、ベタでいきますが、

今日もさわやかな一日でしたが、
夜はかなり冷え込むようです。

朝の最低の予想が3度。

場所によっては霜も降りるかもです。

花粉症が本格的になってきましたが、
ここ4-5年、フルーツでのどや耳の中がかゆくなるようになりました。
調べてみると、シラカバ系の花粉症の人は、フルーツにも来る場合が多いみたいです。

家の前の通りの街路樹に使われているoak treeもシラカバ系です。

イチゴやリンゴ、ナシやサクランボ、モモ、プラム、軒並みダメです。
フルーツは元々大好きなので、とても悔しいです。
すべて火を通してあるものや、缶詰などは大丈夫ですが、
いつだったか、うっかりストロベリーアイスを食べたら、
かゆくなりましたねえ。凍らしてあるやつは生と同じなんでしょうね。

そして、今朝、生のニンジンを食べていたら、なんだかのどがどんどんかゆくなってきて、
もしかして・・・と思って調べたら、シラカバ系の花粉症は
ニンジンにもアレルギーが出ることがあるようです。

アレルギーって現代病といわれますが、
やっぱシチーボーイだからねえ・・・。

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の43篇でした。

「どうか、あなたの光とまことを送り、
 私を導いてください。
あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって
 それらが、私を連れて行きますように。」
3節です。

主の光が与えられると、
それに導かれて歩むことができる。

そうか、と思いました。
光を見ながら歩んでいたら、
光の方を見ていたら、
神様の喜ばれる方向に進んでいくことができる。
主が導いておられる方向を知ることができる。

大切なのは「光を見ていくこと」
光を見つめていくこと。

いかに正反対に
いろんなことに心をとられて、
正しい判断ができなくなっていることが多いかと思います。
光を見つめていくこと、
主を求めていくこと、
それがいまの自分にとって一番大切なことだと思わされます。

主よ、
どうか私の行く道を導いてください。
あなたの願われるところに行かせてください。
あなたの光を見つめて歩むことができますように。

主を求める

日曜日の朝になりました。
今朝もさわやかな朝です。

個人的には、さすがに朝起きても花粉症が残っている、
というのがきつくなってきました。
日本で「俺花粉症かな?」と思い始めた24歳くらいの頃、
何も考えないで、布団を干して、気持ちよく寝た翌朝、
鼻で息ができなくなったことがありました。

さすがに最近はそこまではしませんが、
うっかり外に長い時間いると、大変なことになってしまいます。

さて、昨日土曜日の聖書。
昨日は詩篇の42篇を読みました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
 神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて
 渇いています。
 いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」
1-2節。

カルフォルニアにいたときに、
砂漠の中に「鹿注意」の看板があることがありました。
東海岸にいると、鹿は森の動物、という感じがしますが、
乾燥地帯にも鹿はいて、
「谷川の流れをしたいあえぐ」という言葉がぴったり来るようなことがあるんだろうと思います。

渇きの中で、どうしようもない渇きの中で、
満たしてくださるのは、
私を満たしてくださるのは、
本当に主だろうか、
私は本気で主の満たしを求めているのだろうか、
問われるような気がしました。

他の何ものかで心を満たそうとしていることはないだろうかと。


ただ、主を求めて、
主から答えをもらって、
主に力を満たして頂いて、
歩む者でありたいと思いました。

主よ、あなたを求めます。
あなた以外のもので、
私が満たされることを求めることがありませんように。
あなたに満たして頂けることの、
渇きをいやして頂けることの、
慰めをいただけることの、
解決をいただけることの、
すばらしさを経験させてください。