2009-10-10

日曜日のための祈り

今日は明日に備えて早く休みます。
次の更新は・・・うーん、明日の朝のプリンストンの礼拝、
JCCNJの2回の礼拝、そして、役員会・・・とありますので、
元気が残っていれば、明日の夜、まあ、たぶんあさってでしょう。

明日の一日があなたを中心とした一日となりますように。
明日も、主があがめられ、
わたしたちの歩みの中で、神様が中心でありますように。

では、皆さんお祈りで支えてください。

2009-10-09

共有するもの。

今日はまたすさまじい試合でしたが、
またまた無事ヤンキースが勝ちましたねえ。


夕方から夜にかけてNYの予定でしたが、
2つの予定のうち1つがキャンセルになったので、
9時には帰宅して途中からTV観戦。
9回のA-Rodといい、11回のTeixeira(読み方がよくわからない、反対に発音を聞いて、綴りを書けといわれても書けない)といいあそこで一発が出るんだから・・・まったくすごい。
まあ、豊かな経済力で、すごい選手をそろえているからねえ。
マツイなんかを含めて、野手もピッチャーもかなりの選手が
「たたき上げ」じゃなくて、どこかで活躍していた選手を引っ張ってきているんだから、ちょっと複雑ですけどね。


自分もあのマツイのバットの縁がなければ、たぶん今でもBRAVESびいきだったかなあと思う・・・。


今日の雨も大したことはありませんでした。
夜になっても今日は冷えません。


そして明日はまだ20度くらいまで上がりそうですが、
明日の夜からは冷え込んできます。
朝は一ケタの日が続きそうです。


今日の朝、ちょっとこちらも縁あって、
Iowaにおられる方に電話をしました。
初めて掛ける電話、というか、アイオワ州に電話すること自体初めてかも・・・。


でも、話しているうちにそちらの方がEvangelicalのborn-againクリスチャン(つまり、聖書を神の言葉として受け取り、自覚的な回心の経験を持っているクリスチャン)だということがわかって、ホントに意気投合。英語だったのですが、最後は電話で共に祈りました。


本当に顔も見たことがない、初めて電話で話す方なのですが、
そして、私の不十分な英語だったのですが、
本当に同じ神を信じて、同じ方向を向いている方との
共有するものの大きさを感じました。


今度の日曜日の午前中は、何年かぶりにプリンストンの教会での礼拝説教。
そこでも皆さんと同じものを共有している幸いを経験出来ますように。
楽しみです。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ17:1-11を読みました。


「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」5-8節。

人を頼るのか、神を頼るのか、
問われていることを感じました。

人も神様が与えてくださるもの、
でも、いつの間にか、その人の方が神様ご自身よりも大切になってしまう。

お金、仕事、健康、家族、すべてそうですよね。
神様が与えてくださるものであるのに、
神様以上にあてにして、
神様以上に頼りにして、
それが取り去られると、とてもあわてる。

でも、すべては主の御手の中にある。
主が許されなければ何も起こらない。

そう思うと、本当に心配しなくていいんだと思う。

主を見上げて、主を信頼して、
主との関係の中に答えを頂いて、
歩んでいきたいと思う。

主よ、
あなたを信頼します。
他のもの、すべてあなたが与えてくださっているもの、
それをあなたより大切にすることがありませんように。
それをあなたよりもあてにすることがありませんように。
あなたご自身の守りと導きを信頼します。

2009-10-08

あそびといのり

さて、今日も暖かかったですね。
スカッと晴れて、いい天気でした。
夜になってやっぱり冷えてきています。


今夜は10度くらい。
そして、明日はまた雨だそうです。
そして、気温も高め。


日曜日くらいまではまだまだ高めで推移するようです。


今日は10月のJOYJOYキッズクラブ。
25人くらいの元気なみんなが集りました。
楽しかったです。
でも、もっともっと聖書の話をちゃんと気合いを入れてやりたいです。
どうしても、いろいろなプログラムで、時間がいっぱいいっぱいになってしまって、
子供の集中力もそろそろ限界かなあ、みたいな感じもあって、
こちらの準備不足もあって、
終わる直前に、ばたばたと話をする、という感じになってしまいます。


もうちょっと、計画性を立てて、しっかりやりたいです。


でも、その一方で、やっぱり遊びの大切さを思います。
遊びと祈りはわたしたちの生活の中で、とても大切な要素。
それを実践したのがあのカルバンだといいます。


カルバンといえば、固~くて、まじ~め、なイメージがあるのですが、
日曜日の朝は礼拝をして、午後は町の人々と遊びで過ごしたといいます。


どこで遊ぶのよりも楽しく、
どこで聞く話よりも心に残る、
本当に遊びと祈りが一緒になったそんなキッズクラブとなりますように。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ書の16:14-21。



「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。」21節。

これは直接的には、ユダヤ人達の姿を見て、
異邦人が神の御業を見る、ということらしい。

でも、今朝は、本当に私の人生に起こる預言として語られた。
神様の力を見せていただける。
神様の御業がなされるのを見せていただける。
それを目の当たりにすることができる、
その約束を頂いたように思わされた。
励まされた。

主がどんなに素晴らしいことをなさるのか、
主がどれほど大きなことをなさろうとしているのか、
ただただ、待ち望むのみ。

昨日祈ったことも、
主が素晴らしいことをしてくださることを、
信じました。

主よ、
あなたは私の主です。
あなたがいてくださるから感謝します。
どうか、私の歩みの中に、
私の人生の中に、あなたの御業がなされますように。
あなたの御手にゆだねます。
あなたに信頼し、期待します。
大いなる御業をなしてください。



2009-10-07

とにかく願い事を主の前に。

今日は雨は朝のうちだけだったのですが、
風がすごかったです。
木が倒れたり、電線に枝が引っかかったりで、
あちらこちらで通行止め。


そして、停電もありました。


日本は台風が通過中のようですね。
予想の紀伊半島上陸ではありませんでしたが、
やはり紀伊半島の東側では雨量が300ミリを超えた、とありました。
もうしばらく警戒が必要だと思います。


明日は、また晴れ、
朝は冷えて、昼間は暖かい、例のパターンです。
でも、来週は昼間も寒くなりそうですから、
今のうちにこの陽気をエンジョイしておかないと、です。


今日は無事にヤンキースがプレーオフの初戦に勝ちましたが、
その後、祈りの課題を持っての訪問者。


「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」ピリピ4章6-7節の言葉を開いて、共に祈る時を持ちました。


わたし自身が実行していることなんですが、
まず、とにかく、自分の願いを祈る。
自分の願いがわからない時は、コイントスをして、
表が出たらA、裏が出たらBと決める。
表が出た時に、自分がどう思うか、もしも、「ああ、そうか(ちょっとがっかり)」だったら、自分はBを願っている。もしも、「ああ、よかった(ホッ)」だったら、自分はAを願っている。
そして、自分の心の願いをそのまま、神様に祈る。
というか、文字通り「知っていただく」。


その時に、今まで見えていなかった、自分の心の本質、
見えてくることがある。
ある時には「ああ、自分のわがままだったんだなあ」とわかる。
またある時には「ああ、これは神様が与えてくださった思いなんだ」とわかる。


だから、とにかく、いろいろ考えないで、祈ること。
とにかく、いい子チャンにならないで、自分の願いを神様にぶつけること、
それが本当に大切だと思わされました。


また、朝にはご主人のお母さんが危篤になられて、飛行機で飛ばれた方もおられました。
祈らされます。主がすべてを守ってくださいますように。


さて、今日、10月7日の聖書。
エレミヤ16:1-13。


「あなたがた自身、あなたがたの先祖以上に悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、わたしに聞き従わないので・・・」12節。

今朝は「かたくなな心」という言葉に心が留まり、
思いめぐらされました。

かたくなな心って、「頑固」なこと?
神に聞こうとしない心、
神によって御言葉によって、取り扱われようとしない心。
自分は変わらなくていい、という心。
プライド。

自分はどうだろうかとまた思わされました。
自分は「かたくなな心」を持っていないだろうか?
神に教えられ、取り扱われ、
変わることを受け入れているだろうか?

人に言われることを受け入れ、
それに聞く耳を持っているだろうか?

「あんたに言われたくない」みたいな気持ちはないだろうか?

主よ、
私の心はかたくなでしょうか?
かたくなな時はないでしょうか?
主よ、どうか、柔らかい心で、
あなたの御言葉を聞き、また人の言葉を聞くことができますように。

2009-10-06

人を受け入れること。

今朝は寒かったです。
というか、昼間暖かい分だけ、朝の冷え込みが身にしみるというか、
朝は7.5度、昼間は20.2度。
今夜はこれから雨みたいです。
明日も雨。


でも、気温はほどほどに暖かいようです。


日本は強い台風が上陸しそうです。
特に南東の風がもろに当る紀伊半島東側は
大雨や高潮、暴風みんな心配です。
那智勝浦に帰られたご一家もあり、
「自然が豊かで海の幸山の幸いろいろいいじゃないですか」とお送りしたのですが、
このような時にはまた慣れない地で大変だと思います。


伊勢湾台風との比較があちらこちらでされていますが、
確かに伊勢湾台風は猛烈な台風だったようで、
今回の台風はそこまでは行かないと思いますが、
大きな被害にならないように祈らされます。


先日の英語の礼拝。
メッセージでは直接の言及はなかったと思うのですが、
聖書朗読の中で「夫婦についての教え」の聖書箇所が2カ所読まれました。


それを聞いている中で、


結構「自分の心の中だけにいる妻」「自分の心の中の理想の夫」に恋をしている、という段階ってあるよなあ、と思わされていました。つまり、相手を自分の心の中で理想化して、その心の中の相手と結婚してしまって、ホントの相手をそのまま受け入れられない、という感覚。


だいたいの場合は、結婚前とか、最初の何ヶ月かかもしれませんが、ホントのその人に向き合うことができなくて、心の中で感じている、というか、勝手に思い込んでいる「この人はこういう人だから好き」とか、そういうものに恋をしてしまう。本当のその人を受け入れられない。本当はそれからが本番なのに・・・。
不倫などを繰り返す人は、たぶん、そういう幻想を一生追い続けているんでしょうか。自分の心の中で理想化した愛人を好きになって、それこそが「夫婦という制度に縛られたところにはない本当の愛」だなんてトンデモな勘違いをしている。あ、たぶんもちろん、単なる肉欲に振り回されているレベルのお方もおられるとは思いますが・・・。


本当はホントの相手を受け入れていく。「え~?こんな人だったの?」みたいな人を愛していく、受け入れていく、そこに結婚の醍醐味があるはず、そこからが夫婦になっていく歩みを始めるはずなんですが、やはりエネルギーはいりますからね。神様と「制度」そして「誓い」の助けが必要なんだと思います。


(あ、でも、これは決して夫婦関係だけじゃなくて、すべての人間関係にあてはまるのかも・・・。牧師である私も、教会の方々との関係の中で、「この人はこういう方だ」と勝手に思い込んで、その方の心の叫びを聞こうとしないで、私の心の中のその方と対話しているだけなのに、その方自身と対話しているつもりになって満足している・・・みたいな)


結婚してからも、魅力的な人はいくらでも現われてくるでしょうし、相性の合う人もいるかもしれない。自分の「愛」なんて、そんなもの(っていうか、素晴らしいもんなんですが、感情的な「愛」って感覚)に土台をおいていたら、とっかえひっかえ・・・となってしまうと思います。でも、私は妻との間に、誰も入り込ませない、それを神と人との前に誓って、そこから出発する。その大切さを思わされています。


私自身の、教会の皆さんの、一つ一つの結婚が祝福されますように。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ15:10-21。


「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私にはあなたの名がつけられているからです。」16節。

そう、御言葉が与えられるって嬉しいですよね。
本当に自分に語られた、という経験。

それは楽しいし、喜び。
もっともっとそれを求めていきたいと思いました。
毎日毎日、語られて、ここに書くことが与えられることは
喜びです。
でも、もっともっと強烈に、
「私にこの言葉が与えられて、支えられている」という思い。
それを求めていきたいと思いました。

それは私にも神様の名前が付けられているから。
私の魂に神様の形が刻みつけられているから。
私は神様によってしか満たされない空洞を心に持っているから。

主よ、
あなたがいてくださるからありがとうございます。
あなたが私に語ってくださるからありがとうございます。
どうか、御言葉を語ってください。
しもべは聞きます。
どうか、私の心を御言葉によって揺り動かし、
あなたに従って生きる者としてください。

2009-10-05

ダメ押し。

今日も朝は10度を切ったのですが、
昼間はまた暖かくなりました。
明日も同じような天気です。


暖かくなりそうです。


さて、今日は私一人が休日で、
子供たちは学校、のんちは仕事の月曜日だったので、
久しぶりにクッキングデーになりました。


最近すっかり定番になった「チキン南蛮」と、
秋になって久しぶりに挑戦の「ビーフカレー」。
いつもはどっちかですが、
今日は来客があったので、2品に挑戦。


喜んでいただきました。


で、今日、夕食に来てくださった方々の中の一人はスペイン語圏から来られた方。
話の中で、今、サキもユキもスペイン語をやっているということで、
ひとしきりスペイン語講座。


私が一生懸命練習していたら、ユキがぼそっと一言。


「でも、まず英語やった方がいいんじゃない?」


・・・だよね~。


昨日の話のダメ押しをされてしまいました。


留学前は一生懸命勉強しましたし、
留学中は、話す方は別としても、
ペーパーを書く時には、必ず先輩や友人が英語を直してくれました。
そして、そうやって、英語を覚えていきました。


でも、今、そうやってチェックしてくれる人がいませんん。
「その言い方おかしい・・・」
「普通はこういう風に言うよ」
と、意見してくれる人が必要だなあと思います。


いや、でも、とにかくもっともっと大胆に、
もっともっと頻繁に英語の世界に入っていこうと思います。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ15:1-9


「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても・・・」1節。

今日の聖書箇所の中心テーマではないのですが、
モーセとサムエルと「かきごおり」とが・・・と言われたいなあと思いました。

私も時と場合によっては「私はこの人達の中には入れないなあ」感じることがあります。
たとえば、ハイソな方々の会話。あと、スポーツが得意な人たちの同好会。
あと、さっきの「英語が得意な人たち」の間のJOKE。などなど。
元々「絵の上手な人たちの輪」というのもありましたが、
こちらは絵の師匠のおかげで、ずいぶん、そういう気持ちがなくなってきました。

でも、時と場合によってはずうずうしく「この人達の中に入りたい」と思うのです。
それが今日の「モーセとサムエル」。
自分の名前もそこに並んで呼ばれないだろうか、
そのようなとりなし手にならせていただきたい。

そのように思わされたのです。

いやあ、書きながらずうずうしいと思います。
でも、今朝、この聖書を読みながら、本当にそう思わされたのです。

そのために、主ともっともっと親しい関係に入れていただきたいと思いました。
主と共に過ごす時間が祝福されますように、と祈らされました。
心がきよめられますように。
生活がきよめられますように、と祈らされました。

主よ、
モーセとあなたの関係、
サムエルとあなたの関係に、
私も導き入れてください。
そのために必要な訓練、必要な経験
あなたが与えてください。
モーセやサムエルと同じような、とりなし手とならせてください。

2009-10-04

英語ちゃんとしゃべれるように・・・。

今日もまた暖かかったです。
朝は霧も出ていました。
たぶん空気は暖かくてしめっていたのですが、
放射で熱が奪われて、霧になったのでは・・・と思います。


最高は24.2度まで上がりました。
そして、今は15.2度。
明日の朝は10度くらいまで下がる予報が出ています。


そして、明日も晴れで暖かい。
この後もこのパターンみたいですね。
朝晩はソコソコ冷える。
でも、昼間は暖かい。


助かります。


今日の朝は英語の教会の礼拝に出席。
礼拝のプログラムの違いに戸惑いながら、
「これが初めて教会に来る方々の気持ちなんだろうなあ」と思っておりました。
いつも来ている人には全然、普通なんでしょうが、
私のように何年かに1回参加する者にとっては、
わからないことだらけ・・・。


この気持ちを忘れないように・・・と思いました。


そして、その後のパーティーでは突然の指名でスピーチ。
いやあ、そういうこともあるかと思っておりましたが、
準備していませんでした。
で、日本語でお話しして、英語に通訳していただきましたが、
もう16年もいるんですから、
こういう時にちゃんと英語で話せるようにしておかないといけないですね。
先週のルーマニアの先生もちゃんとルーマニア語話せるし、
修養会の韓国人の先生も日本語ばっちりだし、
いろいろ刺激を受けて、ちゃんと英語が話せるようになろう、
とマジで考え始めています。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ14:13-22。


「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。」14節。

エレミヤも見抜けなかった、偽預言者の偽りの預言。
自分だったら見抜けるだろうかと思いました。

そのためにはエレミヤも最終的には神様からそれを教えていただいたように、
やっぱり神様との関係の中で、答えを頂いていくことの大切さを思わされます。

霊的な判断はやはり牧師の責任が大きいと思います。
どのように判断するのか、周りの人に大きな影響を与えることなのに、
私自身が神様との関係が確立していなくて、
ちゃんと判断出来なくて、
周りの声に振り回されたり、
他の人の判断に動かされたり、
そんなことにならないようにと、
ちゃんと神様との関係の中に歩ませていただくことの大切さを思います。

主よ、
どうか、私の霊の目を開いてください。
あなたのことを、あなたのなさることを、
見せてください。
そして、正しい判断をすることができますように。