2009-08-01

晴れの8月スタート。

今日は気持ちよく晴れました。
気温もずいぶん上がったと思います。
でも、夜には涼しくなってきました。
さわやかな夏の日です。


朝はハドソン川沿いの公園で、
また月に1度の朝の祈祷会。


気持ちのいい天気の中で、共に主に祈りを捧げて、
8月をスタートしました。
貴重な週末の晴れとあって、
ご家族や友人と出かけた方も多かったのではないでしょうか。


でも、明日はまた雷雨。
そして、来週の後半にはもう秋の気配・・・でしょう。


きっと。


今日、JOYJOYキャンプのための準備の中で、
成功していたように見えていたけれども、
実際は本当にむなしかったのだ、Hungryだったのだ、
Emptyだったんだ、その中で、キリストに出会ったという証を見ました。


見ながら、涙が出てきました。
あ、私はモデルをやったことはありませんが・・・念のため。
あ、心配いらない?・・・あ、そう。








さて、8月に入って、第2コリントスタートです。
今日は第2コリントの1章1-11節。


「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」9節。

苦しみの中で、それが自分が自分の力ではなくて、
イエスを死者の中からよみがえらせた神の力に頼るために、
与えられたのだ、というパウロの信仰。

死者をよみがえらせた神の力というのは、
それはそれはすごいものですよね。

もう絶望の中で、それが絶望ではなくなる、ということですから。

その力が今も私に注がれている、
その力を信じるように招かれている。

主から力を頂ける。
復活の力を。
だから心配しないで、
だから恐れないで歩んでいこう。

神様、
どうか、わたしにあなたの復活の力を注いでください。
死者をよみがえらせるあなたの力を。
私を生かし、私を満たしてください。
明日の礼拝を祝福してください。


明日は午前中はコネチカットのグリニッチの日本語教会での礼拝説教。
午後はいつものようにNJの教会で2回の説教。
礼拝後は初心者クラスとJOYJOYキャンプの準備。
すべてが守られますようにお祈りください。

2009-07-31

7月も終わり。

今日も雷雨がありました。
でも、昨日予想していたほど悪い天気ではなくて、
午後3時頃までは雨もほとんど降りませんでした。
3-7時頃が雨で、もう夜には上がっています。


今夜はこのまま晴れてきて、
明日は一日晴れそうです。
暑い夏らしい日になりそうです。


明日は朝6時半からの祈り会があるので、
今夜は早々に休みます。


もうあと3時間ほどで7月が終わります。
もう今年も後5ヶ月ですね。
早いような、早くないような。


でも、昨日、気がついたのですが、
ハジの出発日まで後3週間になりました。
昨日は注文していたPCも届き、
(何と発送元は中国・・・アメリカのメーカーなんですが・・・)
全部自分で手続きと設定をさせて、
もう、本当に自分の手を離れていくんだなあ、
ということを実感しています。


18歳になっているので、大学に持っていく、
Medical Formも、学生ローンの申し込みも、
親のサインはいりません。
本人のサインだけです。
え~っと思ってしまいました。


これからしばらく、やはり親の方が、
子離れの苦闘をしそうです。


さて、今日の聖書。
今日は7月の最後、詩篇の73篇の17-28節でした。


「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」21-23節。

この詩人の苦しみ、わかります。
いや、わかるなんておこがましいかもしれませんが、
本当に苦しいとき、神様の前に獣のような状態になってしまう、
それはわかるような気がします。
でも、獣のようになっても何でも、
神様の前にいること、
神の前に出ること、
その大切さを思わされました。

主と共に歩むこと、
何がなくても、
どんな心の状態でも、
何だかもやもやしたものがあっても、
怒りが湧いてくるときでも、
納得がいかないときでも、
何でもとにかくいつでも、
神様の前に歩む、
その大切さを思わされます。

主よ、
あなたと共に歩ませてください。
あなたの前に歩ませてください。
どんな心の状態でも、
いつもあなたと共に歩むことができますように。

2009-07-30

不思議。

今日はとってもいい天気でした。
ソコソコ蒸し暑くはありましたが、
汗をかきながらも、スカッと晴れるのは
気持ちがいいですね。


でも、明日は一日雷雨。
夜まで続きそうです。
また落雷や雹、突風、洪水などに注意が必要です。


さて、昨日思いっきり文句を言わせていただいた、
こちらの町役場ですが、
コメント欄にも書きましたが、
皆さんのお祈りが答えられて、
今朝1番で行ったら、担当の方が、笑顔で迎えてくださいました。
ちょっと「えっ」と思うくらい、の変わりよう。
その後も、終始笑顔で、10分ほどで許可証を出してくださり、
最後は「Enjoyしてね」とまで言われて、
ちょっと「きつねにつままれた」状態です。


いやあ、昨日、あんな事書いて申し訳なかったなあ、
もう町の名前まで出して、世界に発信してしまって、
当事者はたぶん、読んでいないだろうけれども、
何か申し訳ない気持ちになるくらい、今日はすばらしい対応でした。


でも、それでこっちの気持ちも、全然違うんですから、
自分も気をつけなければなあ、と思いました。


笑顔は周りの人を元気にする・・・。
周りの人の一日をHappyにする。
大切なことですね。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇の73:1-16でした。


「見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。」12節。

これだけ読むと、へえ~、聖書にはそんなこと書いてあるの?と思われるでしょうが、この詩人は苦しみの中で、自分を苦しめる人々が社会的にも成功しているように見えることを、嘆いているのです。

これはまたきついだろうなあと思います。
こんなことがあると、
間違っているのは向こうではなくて、自分なのではないかと思ってしまいます。

でも、主は真実な方、慈しみ深い方、
そのようなときは長くは続かないのです。

でも、わたしたちは近視眼的にしかものが見えません。
なかなか、長い目で物事を見ることができないのです。

だから、主を見上げて、主を信じて歩むのです。
主がいてくださる、主がすべてを見ていてくださる。
だから、主がいつも最善のことをしてくださるから、
そのことを信頼して、歩んでいこうと思います。

私の身にも同じことが起るのではないかと思います。
でも、そんな時にも動かされない、振り回されない、
不安になったりしないで、まっすぐに進んでいく、
そのために、みことばを信頼し、主を信頼して歩んでいきたいと思いました。

主よ、
状況に振り回されない強さをください。
落ち込んだり、不安になったりすることがありませんように。
いつもあなたを見上げて、あなたを信頼して歩んでいけますように。

2009-07-29

こっちのお役所は・・・

今日は朝から、エアコンのあるところ(たとえば車)から外に出ると、
めがねが曇る、蒸し風呂状態。
本当に何度も何度も大粒の雨が降り、
何度も何度も、雷がゴロゴロしていました。


今は夜の10時半で、ちょっと雨の止み間に入っています。
でも、また12時過ぎから降り出すでしょう。
明日の朝までゴロゴロしていると思います。


そして明日の昼頃からは晴れ間も出て、
夏らしい暑い日になりそうです。


ここ2週間以上悩まされているのは、
Maywoodの町役場の、公園の使用許可を出す係の人。
JOYJOYキャンプのサッカーのために、公園のサッカーフィールドを貸してくれ、
と申し込んでいるのです。
年によっては、誰も使っていないし、勝手に使っているらしい人もいるし、
誰もチェックに来ないし、別にいいのかも、と思うのですが、
トラブルはまずいので、必ず許可を取るようにしています。


例年、余り問題なく、書類を出して、すぐ許可が出ていたのですが、
去年は場所が空いていない・・・と却下。
急遽、私の住んでいる町の学校を貸してもらいました。
で、今年は早め早めに準備を進めているつもりだったのですが、
大体この人オフィスにいないし、メッセージを残しても、電話してこない。
更に、書類を出す前から、「この日空いていますか?可能性はありますか?」と聞いても、
「そんなの書類書いてもらわなければ、わからない」とにべもない。
書類の書き方も、今までとは何だかいろいろ違って、こうしないとダメを小出しに出してくる。
何度足を運んだことだろうか。


先週水曜日にやっと書類をそろえて出したら、
金曜日になって、「保険の限度額が小さい」と言ってこられた。
2日間、机の上に置きっぱなしだったんでしょうね。
そして、この週末、保険の限度額を上げて、今日、持っていったら、
「もう帰った・・・」と。午後3時半ですよ。マジかい!


明日は8時半には出勤しているそうなんで、
明日、朝一で提出して、許可をもらわないと・・・。
ってか、普通、今日、窓口で、「あずかっておきますよ」とか言わないのかな。


最後に日本の役場に行ったのは、もう13年前かな。
東京都江東区役所。
あまりの丁寧さに感涙にむせんだ覚えがあります。
「お役所仕事」などと融通が利かないと、
悪く言われることもありますが、とんでもない話。
こっちのお役所に比べれば、もう、天地の差ですよ。
融通以前の、頼むからちゃんと仕事をしてください、って感じ。


いや、みんながみんなそういうわけではないのでしょうが、
大体、日本のサービスはすごい。


さて、昨日と今日は2日間に渡って、
詩篇の72篇を読みました。(やっと追いついた!)


「ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。」18-19節。

この詩は王のための詩、
王のために祈る詩でありながら、
やはり最後は、神様のことがほめたたえられている。

わたしたちも互いのために祈る。
互いのことを祈る。
でも、やはり、それは最終的には、
神がほめたたえられることを求める祈り。

私の祈りの姿勢はどうだろうかと思わされた。
神様を自分の願ったように動いてもらおうとしている祈りになっていないだろうか?

ただただ、主の栄光を求める生き方、
主がほめたたえられることを願う生き方、
させて頂きたいと思った。

主よ、
あなたをほめたたえます。
あなたの栄光を求めます。
あなたをほめたたえる人々がこの地に満ちますように。
そのために私もあなたの力になれるでしょうか。
そんなことを考えるのは傲慢でしょうか。
あなたのみ思いのままに生かしてください。




2009-07-28

宇治金時。

はい、見事に逆光ですが、
暑いので、夕食後はかきごおり宇治金時です。


7月26日(日)ー27日(月)は2日に渡って、詩篇71篇です。


「あなたこそ私の巌、私のとりでです。」3節。
「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。」5節。
「あなたが、私の力強い避け所だからです。」7節。
「神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。」12節。
「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」20節。

この詩人は、いろいろな苦しみの中でも、
どこまでも、神様に目を注いで、神に助けを求めて、
神を避け所として歩んでいる。
これもまた、一つ一つ私の祈り。
神こそが、とりで。
神こそが避け所。

そういいながら、自分は何を頼り、どこを避け所としているだろうか?

もう一度、焦点を合わせ、
もう一度、主にチューニングを合わせたい。

主よ、
あなたが私の避け所です。
あなたこそが、私の砦です。
今日も、私を守ってください。

赦す・・・こと・・・。

今日もまた本当に蒸し暑かったです。
夜になって気温は25度を切っていますが、
湿度は相変わらず高いです。


東京の夜はこれで30度近くありましたから、
どうしていたんだろうか、と思わされます。


今日もちょっと雷雨がありましたが、
明日はもっと雷雨がありそうです。


もう何週間か前のTV JapanのProfessional枠で、
番組変更で、ルワンダの再建の一つの取り組みが紹介されている番組が録画されていました。


http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/081127.html


日本ではもう一年近く前の放送ですが、
ものすごい衝撃を受けました。


家族がみんな目の前で虐殺された人々が、
加害者を赦せるか、
赦せた人の解放された姿、
赦せない人の苦しみ。
「赦せない自分が罪人であるように感じる」という
家族を虐殺された人。


「赦す」ということを、
簡単に口にできない、
ましてや「赦しなさい」となんていうことは
とてもとても口にできない、
そう思いました。


でも、あえてそれを言う人がいる。
聖書がそういっているから・・・ということで、
あえてそれを言う人がいる。


被害者は、言われて、初めて、「赦せない」ということに悩む。
そして、何とか、和解の道を造ろうという人がいる。
そして、そこで何かが変わっていく。
もちろん、加害者も変わっていく。
何もしなかったときとは確かに違う、何かが起っていく。


自分自身に対する神様からのチャレンジを感じました。


7月25日(土)の聖書。
テトスへの手紙が終わって、この日から詩篇に戻って70篇。


「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう』と、いつも言いますように。」4節。

これは私の祈りでもあります。
主に従う者がバカを見ることがありませんように。
主に従う者たちが、喜び楽しみますように。

牧師になったばかりの頃、
私は大きな教会の副牧師として奉仕をしていましたが、
その教会の主任牧師はいつも、社会で働く人々のために、
そのように祈っていました。

「主に従う者たちが、社会の中でも、決して『バカを見る』ようなことがありませんように」と。

今、私も祈ります。
主を主としない、人々が我が物顔に社会を支配することがありませんように。
主に従う者たちが、喜びと感謝にあふれて、歩むことができますように。
教会という場においても、社会という場においても。

主よ、
どうか、あわれんでください。
あなたを慕い求める人たちが、みな、
あなたにあった楽しみ、喜びますように。

2009-07-27

福音から出るよいわざ

今日は、お天気ネタで大きなのを書いたので、こっち↓
ここでは、おとなしく、早速「日々のみことば」

7月24日(金)の聖書。
テトスの3:8-15でした。


「それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」8節。


その前の日のところとセットで読むべきですね。
福音のことが書かれていて、
それによって、良い業に励むことを心がけるようになる、
のだというのです。

福音は福音だけでは終わらない。
福音があるから、別に何をしてもかまわない、
というのではなくて、
福音があるから、
神の愛があるから、
わたしたちは良い業に励む。

原動力は福音と聖霊様によってあたえられているのですから、
方向性が整えられることが大切。
みことばにいつも聞きながら、
みことばによって、歩ませて頂こう。

主よ、
福音が与えられていること、
イエスの福音が私に与えられていることに感謝します。
どうか、この福音に立って、
感謝して、良き業に励むことができますように。
明日の集会にもあなたの祝福を与えてください。
あたらしい地に進んでいく方々を守ってください。
弱さを覚えておられる方々に、慰めと癒しを与えてください。

なぜ、夏に氷が降るのか?

昨日の雷雨なんですが、6時頃にも一回大きな雷雲が通っていきました。
そのころにNYに帰って行かれた方から、
雹が降っていましたよ。でも、どうして、夏に氷が降るんだろう?
というコメントを昨夜の記事に頂きました。


そこで、お天気キチガイ魂に火がついて、
知っていることと、想像で思うことと、調べたこととをまとめて、
かきごおり版、どうして夏に氷・・・雹・・・が降るんだろう、
ということを書いてみようと思います。想像も少しはありますが、
大筋間違っていないと思います。
何か間違いがあったことに気が付いたお天気フリークの方、
専門家の方は、コメント欄に書き込んでください。


雷雨や雹をもたらす雲は「積乱雲」といいます。
積乱雲ができる原因は上昇気流です。
上昇気流が起る理由は、
いろいろありますが、
夏に多いのは地面が太陽に熱せられて、
地表付近の空気の温度が上がることによります。
温度が高い空気は軽い。そして空に高く上がっていく。
それを利用するのが「熱気球」ですよね。


上昇気流が起るときには、断熱膨張が起こります。


ここで、断熱膨張を説明しましょう。
普通空気が膨張するのは、空気を暖めたときです。
でも、もう一つ、気圧が下がったときです。
熱を加えないのに空気が膨張するのが、
「断熱膨張」です。


「上昇気流」で、高いところに空気が昇っていったときに、
気圧が下がるのです。
その時に、「断熱膨張」で空気の温度が下がるのですが、
そして、空気の温度が下がると、保てる水分が減ってしまって、
限界を超えた水分が水滴になるのです。それが雲です。


雲の中には水滴がたくさんあります。
大きな水滴、小さな水滴。
水滴は重力に引っ張られて落ちようとします。
しかし、上昇気流に押し戻されて、
落ちてきません。
または下に落ちてくるときに、
温度が高くなったり、
乾燥した空気の中を通って、
蒸発してしまうこともあります。


しかし、水滴が大きくなると、重さに耐えられなくなって、
雨となって降ってきます。


でも、その水滴の重さよりも、上昇気流が強いと、
雨粒は雲の中で上の方に押し戻されてしまいます。


そんな上昇気流の強い夏の積乱雲から降る雨は、
大粒の雨だったりするのです。


で、その積乱雲の中で、雨粒が落ちたり上がったりする中で、
ぶつかり合ったりする時に起きる静電気で雷が起きます。


そして、本題の雹ですが、
地表から1万メートルくらいまでは、
気温は1000メートル上がるたびに6.5度下がります。


地表が25度くらいの夏でも、
標高3776メートルの富士山で冬に雪が降るのも、
決して不思議なことではありません。


積乱雲は上昇気流が強いときは、
10000メートルくらいまで成長します。
単純計算して、積乱雲のてっぺんは地表よりも、
65度も低いことになります。


そのそこで冷やされた氷の粒が降ってくるのです。
もちろん、まっすぐ落ちてくるのではなくて、
途中で他の氷の粒とくっついたり、
また上昇気流で上の方に押し戻されたり、
だんだん大きくなって、だんだん重くなって、
とうとうその上昇気流よりも重力が勝ったときに、
雹となって降ってくるのです。


だから、上昇気流の強くなりやすい夏の方が大きな粒が降りやすいのです。
時々、Baseballサイズとか、Softballサイズとか、ニュースで聞きます。
それほど上昇気流が強くない冬は、降っても、5mm以下の「あられ」になります。


何だか長くなってしまいましたね。
最後の「本題の雹ですが・・・」からでも良かったかも。
でも、書いていてエキサイティングでした。


自分も子どもの頃から、
どうして夏に氷が降るんだろう、
どうして夏の方が大きな粒になりやすいんだろう、
と思っていたことに答えが出たみたいで。


また、懲りずに質問してください!

語ったことが問われる。

昨夜の雨がウソのように、
今日は朝からいい天気です。
昨日ほどは蒸し暑くもないのでしょうか?


でも、少し歩き回ると汗が噴き出しそうです。


外では、少し蝉も鳴いています。


NJでは17年ゼミ以外は、それほど蝉はいないので、
日本のように毎年蝉時雨の中で夏を過ごすと言うことはないのですが、
やっぱり、夏は蝉が鳴くべきですよね。


今日も、午後には雷雨があるかもしれません。


いつものことですが、
日曜日、礼拝で語ったことはすぐに自分に問われてきます。
もちろん、準備している間にも、
自分はどうだろうかと思わされるのですが、
終わってからの方が、「問われる」という感じがします。


余ったものを主のもとに持っていくのではなくて、
生活全体を主の支配にゆだねる。


昨日の夜の時間、
今日の朝の時間、
主の支配の中に生かされていることを覚えていただろうか、
主に愛されている喜びの中に歩んでいただろうか、


礼拝後の勉強会の中でも、
「夫の体は妻のもの、妻の体は夫のもの」という言葉を引きながら、
こういうみことばは要求するために用いるのではなくて、
与えるために用いるのだ、と言いながら、
自分はどのように歩んでいるか、問われていることを感じました。


今日は週に一度の休日。
本当に休日も主のもとで休むことを経験させて頂きたいと思いました。


さて、7月23日(木)の聖書。
23日はテトス3:1-7でした。


「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」5-6節。

テトスの手紙の中には、
いろいろなアドバイスが書かれています。
人々の模範になりなさいとか、
このように生活しなさいとか、
下手をすると「律法的な生き方」、
つまり、外側ばかり、気にする生き方に陥ってしまう、
という危険性があります。

でも、やっぱり、ここを見ると、
わたしたちが救われたのは、
神の恵みであり、わたしたちの行いではないんだ、
決してわたしたちの行いによるのではないんだ、
ということを思わされます。

そのことをいつもいつも忘れないで、
主の恵みの中に生きる、福音に生きる、
赦されている恵みにあふれて生きる、
そのように歩みたいと思います。

主よ、
赦されている恵み、
愛されている喜び、
そこに生きる者とならせてください。
律法ではなく、恵みに生きるものとしてください。


2009-07-26

雷雨の夜。

昨日の夜も、その前もそうでしたが、
今日の夜も雷雨です。

夜10時前のレーダーの図を二つ並べます。
左側が9時25分。右側が9時50分です。
大きな雨雲の固まりがうちの町(緑の矢印)に向かって、
進んできているのがわかります。
もっと大きな範囲のレーダーを見ると、
その南西にもう一つ雷雲が映っています。
しばらくは雷雨が続きそうです。

今日はずっと教会を支えてこられたご夫妻が最後の礼拝。
ハワイに引っ越されます。
個人的には明日もお会いする用事があるのですが、
最後の礼拝ということで、いろんなことを考えさせられました。
大切な方々が移られるのは痛みですが、
それと共に、あたらし地で用いられることも、すばらしいこと。
また自分のことを言えば、「頼りになる方々」が取り去られるのは、
神様だけを頼りにして、祈っていくきっかけになります。
(もちろん、これ以上また取り去られたらどうしよう・・・とは思いますが・・・)

祈りの中でリスクを負って、主の栄光を拝していくことができますように。

7月22日(水)の聖書。
22日はテトスの手紙の2:1-15。

「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」15節。

いま、すごいのきました。雷。10時43分頃・・・。
一瞬電気消えました。
雷鳴が花火みたいに、何発も連続して聞こえました。

権威って、振り回すもんじゃないですよね。
権威って、「権威を持って」って持てるかというとそうじゃないですよね。
嫌われるだけだったり。
でも、権威のある人っている。
やっぱり内側からあふれてくるものだろうか。

イエスもそうだったと言うことが聖書のに書かれていますが、
内側にあふれる自信と平安故に、
柔和になることができるような、
謙遜になれるような、権威。

権威を持って、神の僕としての権威を持って、
語れる者とならせて頂きたい。
内側から、そのような者とならせて頂きたい。

主よ、
あなたの僕としての権威を与えてください。
振り回す権威ではなく、内側からあふれ出る権威。
謙虚に歩む者とならせてください。