日本は土曜日の朝です。
昨日の夜、大阪について、
今日は大阪からまた東京です。
今日もまた雨。
結構雨が強く降っているので、足下が悪くて、外に出るのがおっくうになる方も多いと思うのですが、
私の場合は助かります。
さて、昨日、金曜日の聖書。
金曜日はヨハネによる福音書11章17-27節。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」25節。
イエスはいのちの源。
いのちの主。
この方がおられるから、
この方が導き手であられるから。
死を打ち破った方。
死をも支配しておられる方。
だから、
主の御手の中に生かされ、
主の御手の中に主に召される。
だから、そこに信頼して歩んでいこう。
そこに信頼して前進していこう。
そして、生きている時も、
ただ生きているのではなく、
主にあって、「生きて」いきたいと思う。
今、生かされている喜びを感じています。
これからも、日々、
生かされていることに感謝して歩むものでい続けることができますように。
主よ、
私はいつまで生かされるのでしょうか?
それもあなたの御手の中にあることを信頼します。
あなたがいのちであってくださるから感謝します。
それが今日までであっても、
10年後までであっても、30年後まで、40年後までであっても、
その時に、あなたを喜んで受け入れて、
次の世界に歩み続けていくことができますように。
2009-03-13
2009-03-12
主の栄光。
6軒の方々と、2つの教会のご訪問でしたが、
一つ一つが主にあって守られました。
山形南部教会のご訪問。
祈り会に伺い、メッセージをさせて頂きました。
その様子が先方の教会のHP に写真入りで紹介されています。
主のお計らい・・・とありますが、本当にそうだなあと思わされました。
本当にお世話になりました。
ありがとうございます。
感謝。
今日は東海地方に行きますが、
花粉は関東ではひどいようですが、
東海地方では昼頃から雨で、
花粉は落ち着くようです。
もう、神さまの特別なお計らいに心から感謝。
さて、昨日、木曜日の聖書。
ヨハネ11章1-16節。
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」4節。
神さまの栄光、それは何だろうかと思います。
癒されることだろうか?
主が癒し主であることが顕わされることだろうか?
主がわたしたちの命を御手の中に置いてくださっていることだろうか?
イエスが死に勝利する方であることだろうか?
一般論と共に、
一つ一つの病の中に、思わされる。
お一人一人の病を思わされて、
主が栄光を顕わされる、
それはどのように表されるのだろうかと、思わされる。
わからない時もある。
でも、主の約束だから、
信頼して、主を見上げる。
主よ、あなたが栄光を表してくださることに感謝します。
あなたの栄光を見せてください、と。
ひとりの方に思いを寄せる。
その方の病も主の栄光があらわれるためだ、という主の約束を信頼して。
主よ、
あなたを見上げます。
あなたが栄光を表してくださる、
それを信頼します。
その栄光を私の目にもわかるようにしてください。
2009-03-10
神さまのユーモア。
続けて、水曜日の朝。
外が明るくなってきましたが、
がんがん雪が降っています。
昨日は全く雪のなかった函館の街も一面の銀世界です。
無事に山形まで行けますように。
神さまってユーモアのある方だと思います。
去年の日本訪問。
その中である方を訪問する時に、
神さまに祈りました。
今日は聖書のどこを開きましょうか?と。
その中で心に浮かんできたのが、
ヨハネによる福音書4章のサマリヤの女の記事です。
サマリヤの井戸のところでイエスは休んでおられました。
そこに真っ昼間から水をくみにきた女の人が一人いました。
その女の人にイエスは話しかけて、
こんな話をしました。
「この水を飲む者はまた渇く、でも、私が与える水を飲む者は決して渇かない。
そして、その水はその人のうちで泉になり、永遠の命に至る水がわき上がる」
その聖書箇所を開きながら、
わたしたちのいろんな問題の中で、
自分の外側に自分を満たしてくれるものを求めると、
また渇いてしまいます。
でも、わたしたちの内側に泉を持つならば、
わたしたちは渇かない。
その泉をイエスは与えてくださるのです、
そんなお話しをしたのです。
お会いした方は、その泉を頂きたいと、それから教会の集まりに顔を出されました。
ちょうど時を前後して、「おいでになりませんか?」と誘われていた集会です。
その集会の名前が「泉」だったことを知ったのは、
そのあと何回かその集まりに集うようになった時だそうです。
そこに「ああ、神さまが導いてくださったんだ」と感じられて、喜んで集っておられます。
私も今回その集まりの皆さんとお会いすることができて、
共に主に感謝しました。
でも、今回の訪問でわかったもう一つの神さまのユーモア。
その集会をしているお宅の名前が「井端」さん。
わかります?
ヨハネによる福音書4章でイエスが「涸れることのない泉」の話をされたのも、
まさに「井戸端」だったんです。
ああ、神さまはここまで考えてくださったのか、と思うととても心が温かくなりました。
さて、今日、水曜日の聖書。
今日はヨハネによる福音書10章31-42節。
「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」31節。
イエスがご自分を神とされた時に、
人々はそれを受け入れられなかった。
ほどほどのことは人に受け入れられる。
でも、ホントのことはなかなか受け入れられない。
でも、イエスはほどほどのことを言って、
人とうまくやっていこうと思われなかった。
はっきりと自分の立場、自分の役割、
自分の存在について、主張した。
それが人々を怒らせ、自分の身を危うくすることであっても、
イエスはひるむことをなさらなかった。
はっきりと語って、人々に迫られた。
反対にそれによってあぶり出されたのは、
人々の無理解と、自己中心と、
神を神としない心だった。
恐れないで語る者でありたいと思いました。
人と調子を合わせて生きていくのではなくて、
世渡り上手になるのではなくて、
ぶつかってもいい、自分の身が危うくなってもいい、
はっきりと真理を語る者でありたいと思います。
主よ、
イエスが生きられたように生きることができますように。
いつもいつも真理を語り続ける者であることができますように。
外が明るくなってきましたが、
がんがん雪が降っています。
昨日は全く雪のなかった函館の街も一面の銀世界です。
無事に山形まで行けますように。
神さまってユーモアのある方だと思います。
去年の日本訪問。
その中である方を訪問する時に、
神さまに祈りました。
今日は聖書のどこを開きましょうか?と。
その中で心に浮かんできたのが、
ヨハネによる福音書4章のサマリヤの女の記事です。
サマリヤの井戸のところでイエスは休んでおられました。
そこに真っ昼間から水をくみにきた女の人が一人いました。
その女の人にイエスは話しかけて、
こんな話をしました。
「この水を飲む者はまた渇く、でも、私が与える水を飲む者は決して渇かない。
そして、その水はその人のうちで泉になり、永遠の命に至る水がわき上がる」
その聖書箇所を開きながら、
わたしたちのいろんな問題の中で、
自分の外側に自分を満たしてくれるものを求めると、
また渇いてしまいます。
でも、わたしたちの内側に泉を持つならば、
わたしたちは渇かない。
その泉をイエスは与えてくださるのです、
そんなお話しをしたのです。
お会いした方は、その泉を頂きたいと、それから教会の集まりに顔を出されました。
ちょうど時を前後して、「おいでになりませんか?」と誘われていた集会です。
その集会の名前が「泉」だったことを知ったのは、
そのあと何回かその集まりに集うようになった時だそうです。
そこに「ああ、神さまが導いてくださったんだ」と感じられて、喜んで集っておられます。
私も今回その集まりの皆さんとお会いすることができて、
共に主に感謝しました。
でも、今回の訪問でわかったもう一つの神さまのユーモア。
その集会をしているお宅の名前が「井端」さん。
わかります?
ヨハネによる福音書4章でイエスが「涸れることのない泉」の話をされたのも、
まさに「井戸端」だったんです。
ああ、神さまはここまで考えてくださったのか、と思うととても心が温かくなりました。
さて、今日、水曜日の聖書。
今日はヨハネによる福音書10章31-42節。
「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」31節。
イエスがご自分を神とされた時に、
人々はそれを受け入れられなかった。
ほどほどのことは人に受け入れられる。
でも、ホントのことはなかなか受け入れられない。
でも、イエスはほどほどのことを言って、
人とうまくやっていこうと思われなかった。
はっきりと自分の立場、自分の役割、
自分の存在について、主張した。
それが人々を怒らせ、自分の身を危うくすることであっても、
イエスはひるむことをなさらなかった。
はっきりと語って、人々に迫られた。
反対にそれによってあぶり出されたのは、
人々の無理解と、自己中心と、
神を神としない心だった。
恐れないで語る者でありたいと思いました。
人と調子を合わせて生きていくのではなくて、
世渡り上手になるのではなくて、
ぶつかってもいい、自分の身が危うくなってもいい、
はっきりと真理を語る者でありたいと思います。
主よ、
イエスが生きられたように生きることができますように。
いつもいつも真理を語り続ける者であることができますように。
キリストのからだ。
水曜日の朝になりました。
メールのチェックはしましたが、
ブログの更新はお預け。
昨日の午後遅くから
雪が降り始めました。
函館は地形の影響でしょうか、
それほどでもないようですが、
場所によっては暴風雪になっているようです。
今日は山形に向けて出発します。
列車が守られますように。
昨日の函館の教会訪問は幸いな一時なりました。
今年のJCCNJの主題聖句は「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」という第1コリント12章27節の言葉なのですが、まさにそのモデルを見せて頂きました。
リーダーが一人一人の賜物を知り、それを的確に指摘して、それをまたひとりひとりがそうだなあと受け取って、自覚している。牧師を始め、すべての人が、スーパーマンになろうとするのではなくて、手になること、足になることを自覚している。できないことはできない、と認める謙虚さを持っている。でも、それでひねくれることもない。サタンがつけいる隙を知っている。ひねくれたり、いじけたりすると、サタンが喜ぶことを知っている。
その場で一つ一つのことを書き留めておきたい、と思うほどでした。
今朝は早く目が覚めてしまったので、(何度も寝ようと思いましたが・・・)
今、NJ時間では火曜日の午後の3時半頃。
ダラスの学生たちは着いたでしょうか?
これからJOYJOYキッズクラブスペシャル。
そのことを祈りなさい、と主に起こされたような気がしています。
昨日、火曜日の聖書。
火曜日はヨハネ10章22-30節。
「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」28節。
主の御手の中に入れられたら、
わたしたちは安全。大丈夫。
誰も、わたしたちをイエスから、神さまから奪うことはできない。
大丈夫。
大丈夫。
主が守ってくださるから。
主が支えてくださるから。
恐れるな。
あなたは私のものだ、と言ってくださる。
恐れないで歩んでいこう。
恐れないで前進していこう。
主がわたしたちの神であられるから。
主よ、
あなたの守りを感謝します。
あなたが共にいてくださるから感謝します。
あなたが「これはわたしのものだ」と言ってくださるから感謝します。
平安を感謝します。
今、始まろうとしているキッズクラブに祝福がありますように。
メールのチェックはしましたが、
ブログの更新はお預け。
昨日の午後遅くから
雪が降り始めました。
函館は地形の影響でしょうか、
それほどでもないようですが、
場所によっては暴風雪になっているようです。
今日は山形に向けて出発します。
列車が守られますように。
昨日の函館の教会訪問は幸いな一時なりました。
今年のJCCNJの主題聖句は「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」という第1コリント12章27節の言葉なのですが、まさにそのモデルを見せて頂きました。
リーダーが一人一人の賜物を知り、それを的確に指摘して、それをまたひとりひとりがそうだなあと受け取って、自覚している。牧師を始め、すべての人が、スーパーマンになろうとするのではなくて、手になること、足になることを自覚している。できないことはできない、と認める謙虚さを持っている。でも、それでひねくれることもない。サタンがつけいる隙を知っている。ひねくれたり、いじけたりすると、サタンが喜ぶことを知っている。
その場で一つ一つのことを書き留めておきたい、と思うほどでした。
今朝は早く目が覚めてしまったので、(何度も寝ようと思いましたが・・・)
今、NJ時間では火曜日の午後の3時半頃。
ダラスの学生たちは着いたでしょうか?
これからJOYJOYキッズクラブスペシャル。
そのことを祈りなさい、と主に起こされたような気がしています。
昨日、火曜日の聖書。
火曜日はヨハネ10章22-30節。
「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」28節。
主の御手の中に入れられたら、
わたしたちは安全。大丈夫。
誰も、わたしたちをイエスから、神さまから奪うことはできない。
大丈夫。
大丈夫。
主が守ってくださるから。
主が支えてくださるから。
恐れるな。
あなたは私のものだ、と言ってくださる。
恐れないで歩んでいこう。
恐れないで前進していこう。
主がわたしたちの神であられるから。
主よ、
あなたの守りを感謝します。
あなたが共にいてくださるから感謝します。
あなたが「これはわたしのものだ」と言ってくださるから感謝します。
平安を感謝します。
今、始まろうとしているキッズクラブに祝福がありますように。
雇い人か?羊飼いか?
(火曜日の朝に記録。水曜日の昼にアップ)
もうすぐ青函トンネルの出口です。
もう、勢いで追いついてしまいましょう。
・・・と書いていたら、トンネルから出ました。
北海道です。
こちらもまだ晴れています。
昨日、月曜日の聖書。
昨日はヨハネ10章7-21節。
「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」12-13節。
究極的な羊飼いとしてのイエスさまが、わたしたちを捨てない、
決して捨てない、というメッセージを受け取ると共に、
昨日はもう一つのレベルのことを考えさせられました。
それは私は牧師として雇い人になってはいけない、ということです。
サタンが攻撃してきます。
オオカミがやってきます。
「でも、おまえ、羊を置き去りにして逃げるなよ」
と主がお語りくださいました。
究極的な羊飼いとしてイエスさまがいてくださる、
それに対して、牧師はどのような立場なんだろうか?
「羊の中の一匹」「小牧者」「シェパード犬」・・・いろんなことが言われます。
でも、いずれにせよ、「雇い人」になってはならないんでしょうね。
羊のことを心にかけていない、
そうなってはいけない、と思います。
主が私のことを心にかけていてくださるのだから、
主があなたのことをも心にかけておられる・・・ということを伝えながら、
私自身も一人一人のことを、不十分であっても、
不完全であっても、心にかけていく、者でありたいと思います。
サタンの攻撃に対して、必死で羊を守り、
置き去りにして逃げたりしない、そのような働き人でありたいと思います。
主よ、
あなたが私をいつもいつも心にかけてくださっていることに感謝します。
どうか、私も人々のことを、もっともっと心にかけて、
もっともっと愛することができますように。
もうすぐ青函トンネルの出口です。
もう、勢いで追いついてしまいましょう。
・・・と書いていたら、トンネルから出ました。
北海道です。
こちらもまだ晴れています。
昨日、月曜日の聖書。
昨日はヨハネ10章7-21節。
「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」12-13節。
究極的な羊飼いとしてのイエスさまが、わたしたちを捨てない、
決して捨てない、というメッセージを受け取ると共に、
昨日はもう一つのレベルのことを考えさせられました。
それは私は牧師として雇い人になってはいけない、ということです。
サタンが攻撃してきます。
オオカミがやってきます。
「でも、おまえ、羊を置き去りにして逃げるなよ」
と主がお語りくださいました。
究極的な羊飼いとしてイエスさまがいてくださる、
それに対して、牧師はどのような立場なんだろうか?
「羊の中の一匹」「小牧者」「シェパード犬」・・・いろんなことが言われます。
でも、いずれにせよ、「雇い人」になってはならないんでしょうね。
羊のことを心にかけていない、
そうなってはいけない、と思います。
主が私のことを心にかけていてくださるのだから、
主があなたのことをも心にかけておられる・・・ということを伝えながら、
私自身も一人一人のことを、不十分であっても、
不完全であっても、心にかけていく、者でありたいと思います。
サタンの攻撃に対して、必死で羊を守り、
置き去りにして逃げたりしない、そのような働き人でありたいと思います。
主よ、
あなたが私をいつもいつも心にかけてくださっていることに感謝します。
どうか、私も人々のことを、もっともっと心にかけて、
もっともっと愛することができますように。
聞き分ける耳。見分ける目。
(火曜日の午前中に記録、水曜日の昼にアップ)
スーパー白鳥、空いていて、周りに人もおらず、
とても快適なので、もう一回分更新。
今、青函トンネルの手前なのですが、
たくさんトンネルがあります。
これかな、これかな、と思うのですが、
「あ、まだ違う」「あ、まだ違う」の連続。
なんか楽しいです。鉄道ファンの気持ちがちょっとわかったかも。
でも、携帯を使おうと思ったら、圏外の連続。
ああ、もうすぐ青函トンネルです。
このあと30分間圏外・・・。
一度、コンピューターなし、携帯なしの旅をすべきだなあ、と思いました。
さて、日曜日の聖書。
日曜日からヨハネによる福音書に戻ります。
10章の1-6節。
「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」4-5節。
主の声を知っていることの大切さを思わされました。
自分はいったい、主の声を聞き分けているだろうか?
自分はいったい主の声と他の声をしっかり聞き分けているあろうか?
そして、それを教会の人たちにもちゃんと受け継いでいるだろうか?
主の声をちゃんと聞くように導いているだろうか?
考えさせられました。
ちゃんと主の導きに従っていく、
主の御声を聞いていくことが、どういうことなのか、
その知識と感性を伝えていっていれば、
それを受け継いでいれば、
起らなかっただろうなあということもありました。
サタンはわたしたちが用いられそうになるならば、
激しく攻撃してきます。
今が大切な時だと思います。
これからの自分自身の歩みの中でも、
また教会の歩みの中でも、
主のみ声を聞いていく、
自分自身がそうあると共に、
それをしっかりと受け継いでいく者でありたいと思います。
主よ、
どうか、聞き分ける耳を与えてください。
見分ける目を与えてください。
私自身にその感性を与え、
また教会の一人一人にそれをしっかりと受け継いでいくことができますように。
それを伝えていくことができますように。
スーパー白鳥、空いていて、周りに人もおらず、
とても快適なので、もう一回分更新。
今、青函トンネルの手前なのですが、
たくさんトンネルがあります。
これかな、これかな、と思うのですが、
「あ、まだ違う」「あ、まだ違う」の連続。
なんか楽しいです。鉄道ファンの気持ちがちょっとわかったかも。
でも、携帯を使おうと思ったら、圏外の連続。
ああ、もうすぐ青函トンネルです。
このあと30分間圏外・・・。
一度、コンピューターなし、携帯なしの旅をすべきだなあ、と思いました。
さて、日曜日の聖書。
日曜日からヨハネによる福音書に戻ります。
10章の1-6節。
「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」4-5節。
主の声を知っていることの大切さを思わされました。
自分はいったい、主の声を聞き分けているだろうか?
自分はいったい主の声と他の声をしっかり聞き分けているあろうか?
そして、それを教会の人たちにもちゃんと受け継いでいるだろうか?
主の声をちゃんと聞くように導いているだろうか?
考えさせられました。
ちゃんと主の導きに従っていく、
主の御声を聞いていくことが、どういうことなのか、
その知識と感性を伝えていっていれば、
それを受け継いでいれば、
起らなかっただろうなあということもありました。
サタンはわたしたちが用いられそうになるならば、
激しく攻撃してきます。
今が大切な時だと思います。
これからの自分自身の歩みの中でも、
また教会の歩みの中でも、
主のみ声を聞いていく、
自分自身がそうあると共に、
それをしっかりと受け継いでいく者でありたいと思います。
主よ、
どうか、聞き分ける耳を与えてください。
見分ける目を与えてください。
私自身にその感性を与え、
また教会の一人一人にそれをしっかりと受け継いでいくことができますように。
それを伝えていくことができますように。
傷もしみもない者として。
(水曜日の昼にアップ)
火曜日の朝、列車の中でこれを打っています。
スーパー白鳥という名前の特急に乗っていますが、
パソコン用のコンセントがあるのにうれしくなって、
早速利用させてもらっています。
月曜日から東北・北海道を回っています。
郡山→弘前→函館→山形→仙台→東京で、
6軒のお宅と2つの教会を訪問します。
木曜日の夜には東京に戻ります。
月曜日の朝、東京を出てからほとんどインターネットから離れています。
途中の駅で一瞬つながったので、メールのチェックをしましたが、
それから18時間くらい経っています。
大切なメールとか入っていないだろうなあと思いますが、
まあ、どうしようもありません。
またどこかの駅でつながったらラッキーということで・・・。
その時にこの文章もアップできたらまたラッキーということで。
月曜日は天気に恵まれて、
火曜日も、さっき青森駅では雨が降ってきましたが、
今青函トンネルの手前で、晴れています。
でも、これから雪みたいですね。
大雪にならないことを祈ります。
さて、土曜日の聖書。
土曜日はペテロ第2の手紙3章14-18節。
「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」14節。
わたしたちが救われるのは行いじゃなくて恵みだから・・・ということばかりが強調されて、
もしかしたら見失われていることなのかもしれません。
しみも傷もない者として、主の前に出ることができるように励む。
それが聖書の中で何度も命じられていることです。
自分は果たして「励んで」いるだろうか?
ただ、主の前に立つことを目指して励んでいるだろうか?
そのように反省させられました。
しみも傷もない者とならせて頂きたい、
そのために励んでいきたい、と思いました。
主よ、
どうか、私の内側をきよめてください。
傷もしみもない者としてあなたの前に出ることができますように。
そのために励みます。
火曜日の朝、列車の中でこれを打っています。
スーパー白鳥という名前の特急に乗っていますが、
パソコン用のコンセントがあるのにうれしくなって、
早速利用させてもらっています。
月曜日から東北・北海道を回っています。
郡山→弘前→函館→山形→仙台→東京で、
6軒のお宅と2つの教会を訪問します。
木曜日の夜には東京に戻ります。
月曜日の朝、東京を出てからほとんどインターネットから離れています。
途中の駅で一瞬つながったので、メールのチェックをしましたが、
それから18時間くらい経っています。
大切なメールとか入っていないだろうなあと思いますが、
まあ、どうしようもありません。
またどこかの駅でつながったらラッキーということで・・・。
その時にこの文章もアップできたらまたラッキーということで。
月曜日は天気に恵まれて、
火曜日も、さっき青森駅では雨が降ってきましたが、
今青函トンネルの手前で、晴れています。
でも、これから雪みたいですね。
大雪にならないことを祈ります。
さて、土曜日の聖書。
土曜日はペテロ第2の手紙3章14-18節。
「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」14節。
わたしたちが救われるのは行いじゃなくて恵みだから・・・ということばかりが強調されて、
もしかしたら見失われていることなのかもしれません。
しみも傷もない者として、主の前に出ることができるように励む。
それが聖書の中で何度も命じられていることです。
自分は果たして「励んで」いるだろうか?
ただ、主の前に立つことを目指して励んでいるだろうか?
そのように反省させられました。
しみも傷もない者とならせて頂きたい、
そのために励んでいきたい、と思いました。
主よ、
どうか、私の内側をきよめてください。
傷もしみもない者としてあなたの前に出ることができますように。
そのために励みます。
2009-03-08
つながっている。
日曜日の夜、11時頃です。
今日は午後から雨、という予報が出ていましたが、
大丈夫でした。
明日も同じような予報です。
でも、明日から私は東北、北海道を回るので、
そちらの方の天気が気になりますが、
明日は晴れるようですが、
あさっては雪の降るところも多いようです。
大したことがないことを願います。
今日は1年ぶりの出身教会(母教会と呼ぶことが多いです)の礼拝。
大好きな東京の下町の教会です。
そこで最初の讃美歌を歌っている時に、
このたくさんのお寺や神社に囲まれた小さな教会に、
神さまの目が注がれて、
神さまの愛がここからこの地域に、この社会に注がれようとしている、
そのことを思うだけで、心の中にこみ上げてくるものがありました。
アメリカのおおきな教会にも、
日本の小さな教会にも、
同じように神さまの目が注がれ、
同じように神さまの臨在が与えられている、
感動を覚えます。
そして、その一つ一つの礼拝が主にあって、
つながっていることを感じました。
間もなく、NJの教会でも礼拝が始まります。
神さまの祝福のあふれる礼拝となりますように。
さて、金曜日の聖書。
金曜日は第2ペテロ3章8-13節。
「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」9節。
イエスの再臨のことが書かれているところ。
主が「忍耐しておられる」ということに心が留まりました。
自分の生きている間に再臨があるかどうかはわからない。
2000年間なかったのが、この数十年の中にあるかどうかはわからない。
でも、必ず来ること、それは私自身の死。
再臨であれ、自分自身の死であれ、
今までの歩みが止められるその日、
その日を喜んで迎えられるように、
その日を感謝して受け止めることができるように、
歩んでいく者でありたいと思いました。
主よ、
今日も生かされていることに感謝します。
この世での歩みがいつ止められたとしても、
それを受け止める、感謝して受け入れる、
備えをさせてください。
今日は午後から雨、という予報が出ていましたが、
大丈夫でした。
明日も同じような予報です。
でも、明日から私は東北、北海道を回るので、
そちらの方の天気が気になりますが、
明日は晴れるようですが、
あさっては雪の降るところも多いようです。
大したことがないことを願います。
今日は1年ぶりの出身教会(母教会と呼ぶことが多いです)の礼拝。
大好きな東京の下町の教会です。
そこで最初の讃美歌を歌っている時に、
このたくさんのお寺や神社に囲まれた小さな教会に、
神さまの目が注がれて、
神さまの愛がここからこの地域に、この社会に注がれようとしている、
そのことを思うだけで、心の中にこみ上げてくるものがありました。
アメリカのおおきな教会にも、
日本の小さな教会にも、
同じように神さまの目が注がれ、
同じように神さまの臨在が与えられている、
感動を覚えます。
そして、その一つ一つの礼拝が主にあって、
つながっていることを感じました。
間もなく、NJの教会でも礼拝が始まります。
神さまの祝福のあふれる礼拝となりますように。
さて、金曜日の聖書。
金曜日は第2ペテロ3章8-13節。
「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」9節。
イエスの再臨のことが書かれているところ。
主が「忍耐しておられる」ということに心が留まりました。
自分の生きている間に再臨があるかどうかはわからない。
2000年間なかったのが、この数十年の中にあるかどうかはわからない。
でも、必ず来ること、それは私自身の死。
再臨であれ、自分自身の死であれ、
今までの歩みが止められるその日、
その日を喜んで迎えられるように、
その日を感謝して受け止めることができるように、
歩んでいく者でありたいと思いました。
主よ、
今日も生かされていることに感謝します。
この世での歩みがいつ止められたとしても、
それを受け止める、感謝して受け入れる、
備えをさせてください。
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