2012-12-22

かみさまのプレゼント:アドベント聖書日課12/22

今日は時々小雪の舞う風の強い寒い一日でした。
明日も寒さが続きそうです。
そして、クリスマスイブからクリスマスにかけての雪ですが、
降っても大したことはないのですが、
やっぱりホワイトクリスマスは楽しみですからね、
ちょっと注目です。

さて、今日は3日連続のクリスマス集会の初日。
中高生のクリスマス会でした。



歌を歌ったり(教会の歌も、そうじゃないのも)、
みんなでピザを焼いたり、
プレゼント交換をしたり・・・。

楽しく過ごしましたが、その中で、私も聖書の話をしました。
クリスマスと言えば「プレゼント」。
ワクワクしながら、いろいろ悩みながら、プレゼントを考える。
そして、もったいないと思わない。
喜んでくれる顔を思って、楽しみにする。

神様は私たちにイエスさまを与えてくださった時に、
どんな気持ちだったんだろうかと。
ワクワクしながら、喜びにあふれて、私たちのためにイエスを贈ってくださった。

それは私たちと神様との関係を回復するため。

中高生たちに話をしながら、自分の方が胸がいっぱいになってきました。
かみさまありがとう。

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」ヨハネ3:16

さて、今日のアドベント聖書日課
今日はマルコ14:3-9。

「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」8節。

イエスのもたらした喜び・・・今日の箇所で、他の人が「もったいない」と思うことをした、この女の人の愛について、いろいろ考えさせられた。今まで、この女の人の一途さ、一生懸命さ、犠牲を厭わない姿に目が留っていたが、今日は、この聖書の箇所から、この女の人は、単に一生懸命だっただけじゃなくて、イエスを良く見て、イエスにとっての一番ふさわしいことをしたんだなあと思いました。

私も自分のことではなく、相手のことを考えられる愛を持たせていただきたい、そのように思いました。ハイ、教会でも、家庭でも、その他の場所でも・・・。

主よ、
イエスによって救われて、イエスのことをいつも思っていたこの女の人、そのような愛を与えてくださいますように。自分のことで精一杯の私の心にあふれ流れ出る愛を、相手のことを考える愛を与えてください。




2012-12-21

話に聞いていたことが・・・:アドベント聖書日課12/21

今日は一日雨かと思っていたら、夜は雨風共に強かったですが、それも朝のうちに上がって、ちょっと晴れ間も出ました。
でも、あとはどんより。今は夜の11時半で、外は2.3度C。レーダーを見ていたら、これから小雪が舞いそうです。

今まで、日本時代を含めたら20年以上、そして、アメリカでも、15年以上、そしてポイント魔なので、10枚以上をジャグルして使っているクレジットカード。聞いたことはあったのですが、今日初めて、「不正使用」に出会いました。

それも、それほど遠くないお店で400ドルほど・・・。

すぐにカード会社の担当者から「怪しい使い方がありました」と連絡があって、ストップしたので良かったのですが、地球の反対側のアフリカとかじゃなくて、生活圏の地域で。ちなみにカードは紛失していません・・・。あるんですねえ。これ、30ドルとかだったら、なかなか気がつかないかもしれませんね。最近、あんまりちゃんとレシートとの付け合わせもちゃんとしていないし。(汗)

悪いヤツがいるもんだと思います。私たちは互いの善意を信じて生きたいのですが、そうとも限らないのが世の常。先日の銃乱射事件を挙げるまでもなく、悪意を持った人のいる世の中で、自分を守ることの大切さ、悪意を持った人もいることを前提にしたリスク管理、リスク回避の知恵の必要も感じました。

さて、今日のアドベント聖書日課。
今日はルカ19:1-10。イエスが与える喜び・・・ザアカイの救いのところでした。

「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。 」6節。

ザアカイは喜んで降りて来た。
そして、イエスを迎えた。
何が彼の喜びだったんだろうか?

それは受け入れられたことだろう。
「あいつが?」と思われるような者が受け入れられたことだろう。

自分がそのような者であるのに受け入れられていること、
それを知ることが大切だと思った。
私も、ザアカイなのだ、私こそが、ザアカイなのだ、とわかると、
本当にうれしい。

そして、私も同じように人を受け入れる者とならせていただきたいと思った。

神様、
あなたが私を受け入れてくださったことに感謝します。
あなたに受け入れられなくて当然の者であったのに、受け入れてくださったから感謝します。どうか、私も同じように、人々を受け入れる者でありますように。

2012-12-20

受けるより与える方が:アドベント聖書日課12/20

今日は中西部は暴風雪に襲われたところもあるようですが、
こちらは今日も穏やかな一日でした。
朝はさすがに-3度Cまで下がり、車のフロントガラスをガリガリしましたが、午前中は晴れて、午後には曇り、夕方には雨が降り始めました。

明日も雨のようです。

来週はクリスマスの日にちょっと、
そして、27日はもっと、
雪が降るかもです。

今日はいつもお借りしているMaywoodの教会ではなくて、
LeoniaにあるPresbyterian Churchで、JOY JOY キッズクラブ。

またまた、楽しいひと時でした。



この中、私も入って、競争に参加しましたが、ホント、キツかったです。

そして、工作。キャンディーで作ったリース。


最近、ここのキッズクラブ、毎回のように新しい方が来られます。
どんどん盛り上がって来ています。

いつも礼拝や他の集会にも使わせていただているMaywoodの教会も本当にそうなんですが、このLeoniaの教会も、快く私たちのために場所を提供してくださいます。そして、時々、様子を見て、応援してくれます。

私たちも「自分たちの会堂を与えてください」と祈りつつ、献金を募り、積み立てていますが、もしも、私たちがやがて会堂をもてるようになった時には、それはそれは本当に大切な大切なものだと思うんですよね。ですから、他の方々にお貸しするのには、ちょっと勇気がいるんじゃないかと想像します。多くの祈りと多くの犠牲がささげられて、やっと建て上げられた教会堂、気持ちがこもっていればいるほど、いろいろなこだわりがあるんじゃないかと思います。それを貸していただける、愛に感謝します。

私たちもやがての日、会堂が与えられた時には、そのように「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスの言葉の通りにできますように。

さて、今日のアドベント聖書日課。
今日はマタイ13:44-46。

「喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。」44節

イエスを信じる喜びは、すべてを投げ出してもいい、と思えるような喜び。
本当だなあと思う。
これがあればいい、それだけでいい、と、今朝は思った。

そして、なによりも、まず第一に、イエスさまご自身が私たちを手に入れるために、すべてを投げ出してくださったんだなあ、と。もう一度そのことに感謝。

この喜びを原動力に歩ませていただけることに感謝。

主よ、
あなたの与えてくださる喜びのゆえに感謝します。
この喜びに生きる者とならせてください。

2012-12-19

夜は寝る:アドベント聖書日課12/19

今日はちょっと風があったので、肌寒かったですが、
まあ、12月のニュージャージーとしては、かなりマシな、冬の一日でした。
今は夜中の12時で1.2度Cなので、今夜はさすがに氷点下に下がると思いますが、本格的な冷え込みは土曜日の夜からになりそうです。その先はちょっと冬らしい天気になりそうです。

ここ数年、朝の目覚ましは携帯を使っていました。
特にこの4年間はiPhoneだったのですが、
最近気がついたのは、夜中に目が覚めると、どうしてもメールを見てしまう。
そして、場合によってはニュースまで見てしまう。
そうすると、なんだかちゃんと夜寝ていない・・・と気がつきました。

これはよくない、と一念発起。
ずっと電池が切れていた目覚ましの電池を替えて、
携帯は枕元におかない。
・・・ということにしました。

そしたら、今朝の気持ちのいいこと。

簡単なことなんですし、
多くの方々には当たり前のことなんですが、
夜はちゃんと寝る、って大切ですね。

「携帯があったら、もう目覚ましいらないじゃん」なんですが、
意外と落とし穴でしたね。反省して、今後目覚まし使います。

ということで、今日のアドベント聖書日課
今日はマタイ9:14-17。

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出る」17節。

イエスがもたらした喜び。
今日もそのテーマですぐに思いついたところです。
イエスの福音はまだ発酵中の生きている新しいぶどう酒のよう。

内側からあふれて外に流れ出る。

今日もある方とお話をしている中で、
本当にそうだと思わされていました。

その力はどこにあるんだろうなあと思いました。
聖霊様の力。十字架の愛の力。
神様と共に歩むという本当の人間のあり方に戻った時に内側からあふれてくる力。
そのどれもなんでしょうね。

「わたしが与える水を飲む者はいつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき上がる」ヨハネ4:14

その命の水が与えられていることに感謝。

主よ、
今晩ぐっすり眠れますように。
そして、あなたの命によって、明日も元気に歩むことができますように。


祈りと御言葉に:アドベント聖書日課12/18

今日は久しぶりに青空も見えた。
やっぱりうれしい。
雨も降ったし、夜になって冷え込んで来たけれども、
やはり、晴れるとうれしい。

今は真夜中の12時頃で5.9度C。思ったよりも高い。
明日の朝は0度くらいかな。

明日は一日晴れて、あさってはまた雨。(涙)

ここのところ、いろいろ大切な祈りの課題が寄せられて、祈らされています。
「祈っていますよ」とメッセージを書いて、直接話して、電話で話して、それだけにならないように、本当に祈ります。自分のことも「神様、どうしたらいいんでしょうかね。」「困っちゃいました」「わかりません」「なんとかしてください。信じています」と、祈るのですが、他の人のために祈る時には、もうちょっと集中して、手を合わせて、祈ります。いえ、聖書の中でイエスは「祈ることなんて見せるもんじゃない、戸を閉じて隠れたところを見ておられる神様に祈りなさい」と言われたので、「私はほんとに祈っているんですから」なんて言うのは違うんでしょうね。そりゃ自慢なんかするもんじゃない。

でも、なんで、そんなこと書くかというと、こんなことを感じたんですよ。
一つ一つ、丁寧に祈っていたら、すごい時間がかかるよなあ、でも、私はこのためにここにいるんだろうな、と。

牧師の働きも活動的な見える部分ではかられる時もあります。スケジュールが詰まっているとか、何件訪問したとか、何回集会があって、何人集まったかとか、何人洗礼を受けたかとか・・・。

でも、使徒行伝の中では伝道者の働きは「祈りと御言葉」なんだとあります。

だから、あんまり活動は見えないし、書斎に閉じこもっているかのように見えるかもしれないし、発信もちゃんとしていないように感じられるかもしれないけれども、もっともっと祈ることに、もっともっと聖書の御言葉に聞くことに時間を使っていく、それを大切にしていこうと思います。

明日は今のところ、3人の方に個別にお会いする予定がありますが、それも幸いな時となりますように。共に神様の前に出ることができますように。

さて、アドベントの聖書日課
ヨハネ2:1-11。

あんまりアドベントらしくないところですが、
イエスが私たちに与えてくださった喜び、ということを思う時に、真っ先に思い出すのがこの聖書の箇所です。

「それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」10節。


喜びの象徴としてのぶどう酒。
その最高のものを、神様はとっておかれた。
他のものによってはえられない喜び。
混ぜ物でごまかそうなんてのとは全然違うレベルの喜び。
それをイエスは与えてくださるのだとう。

イエスの喜び、もっともっと味わわせていただきたい。
イエスがくださると約束してくださっている喜びをもっと味わい、そして、まわりの人々にもそれを分かち合う者でありたい。

主よ、
あなたが私に与えてくださった祈るという使命に、もっともっと生かしてください。
あなたと共に歩む喜びに満たしてください。
そして、あなたのことを伝える者とならせてください。

2012-12-17

時を取り分ける:アドベント聖書日課12/17

今日の朝、ある方の葬儀に参列してきました。

最近、葬儀を司式することがしばらくないのですが、
自分が一参列者として参列することが今年になってから、確か3回目。

いつも思うのですが、このように参列して、そこで語られるメッセージからは本当に教えられることが多いです。今日もカトリックの教会だったのですが、とても明るい会堂で、音楽も、とても暖かい音楽を使っていました。賛美歌のリードを専門になさっているんだろう、という方がおられて、そのリードもすばらしかったです。その中で語られたメッセージの中に、このような言葉がありました。「姉妹の召天によって、私たちはこの忙しい、慌ただしい時間の中で、ひと時、このように集められて、愛し合い支え合うことの大切さを思い出させられています。」本当にそうだなあと思いました。あえて時をとり分けることの大切さ、無理やりにでも、そのような時をもつことがどれだけ大切だろうかと思わされます。私もそのようなところに導かれて感謝しました。

でも、やはり、ご遺族の方々の痛みや寂しさは、喪失感はこれからも引いては押し寄せ襲ってくると思います。主の慰めがありますように。


今日のアドベント聖書日課
ピリピ2:1-11。

「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」7-8節。
(プリント版、PDF版では「1:8」と書かれていますが、これは「2:8」の誤りです。

イエスがこの世に来られた。その喜びは、一つはやはり、昨日の記事のところに書いたように、私たちと共に歩まれた、それも、私たちの成功の場所を歩まれたのではなく、失敗と見えるような、軽く見られるような、侮辱されるようなところを歩まれた、ということ。

そして、なによりも、イエスが私たちのために十字架の上で罪を背負ってくださったこと。それによって私たちは罪赦され、義と認められること。

もう一度イエスのしてくださったことを思わされました。

今回の銃乱射事件で、命を失った先生方は、自分の命をもって、子供たちを守ろうとしました。自分はできるだろうかと思わされました。イエスはそれをもっと大きなレベルでしてくださったのです。軽く喜べることではなく、感謝をもって受け取ることだと思います。

主よ、
イエスが今日も、そして、明日も、私と共に歩んでくださることに、感謝します。


JOY JOY クリスマス:アドベント聖書日課12/16

昨日は子供たちのためのJOY JOY クリスマスでした。
もっともっとたくさんのみんなに来てほしかったですが、
それでも、初めての子や、楽しみにして来た子達が何人もいて、うれしかったです。
ゲームも楽しかったし、サンタもよかったし。
シンガーズもがんばりました。



今回、ちょっと準備不足でフルで劇をするのもなあ、ということで、この人形を使って、少しずつ人形を動かして、ビデオを作りました。

ちょっとだけ紹介すると、こんなの。5秒のクリップですが。




何人か登場人物は人間に登場いただいて、劇をしました。
準備をしている私は楽しかったのですが、見ていた子供にはどうだったんでしょう?
子供たちの心に、イエス様を私たちのために与えてくださった神様の愛が届きますように。

さて、昨日、12月16日のアドベント聖書日課。
ヨハネ1:1-18。
礼拝の中でも、この箇所からお話ししました。
礼拝の説教はこちらから。
http://www.jccofnj.org/main/message/message.html

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。」14節。


暗闇の中に輝く光。
本当に絶望的な闇の力。
私は先週、何かに取り憑かれたかのように、
過去のいくつかの凶悪事件の記事を読んでいました。
その中で、本当に心の闇を見せつけられるような思いがしました。

そのタイミングで起こった今回の銃乱射事件。

闇の深さを見せつけられました。

そして、その中で輝く光として来られたイエス。
それは決して、私たちの苦しみや悩みとは無縁の超越した光として来られたのではなく、私たちと共に歩むことによって、私たちの重荷を担うことによって、私たちの罪を身代わりに背負うことによって、私たちの光となられたのです。

だからこそ、光なのです。

主よ、
あなたの光を私に照らしてください。
私のうちにあなたの光を与え、私も光として輝かせてください。

アドベント聖書日課12/15:自分の使命への徹底

今日は月曜日。雨が一日降ったりやんだり。
明日にはこの雨も上がるようです。
なかなか雪にならないですね。
金曜日も雨のようです。

さて、おととい、12月15日のアドベント聖書日課
ヨハネ1:19-28。

「彼は告白して否まず・・・」20節。

バプテスマのヨハネが、「あなたはキリストか」と聞かれた時のこの姿勢は、本当にはっきりしていた。つまり「私はキリストではなく、キリストを紹介する、指し示す者だ」と。

私達の使命も同じだ。

自分ではなく、イエスを証しすること。
自分の名前がどうこうではなく、
イエスが崇められること、それが私たちの願い、私たちの使命。
そこにはっきり立っていくことができればと思う。

ヨハネと同じ明確な使命感をもって、歩みたいと思う。

2012-12-16

今日はちょっとお休み。

昨日も、遅くまで準備をしていて、
今日も一日だったので、ちょっと、2日連続のお休み。

今日のJOY JOY クリスマスにおいで下さったみなさんと、
表で裏で、奉仕してくださったみなさんと、
お祈り下さったみなさんと、
神様の祝福に感謝しつつ。