2010-02-05

日本の新常識。

関西最後の日です。
ここまでひとつひとつのことが守られて、
幸いな時を過ごさせていただいています。
今日、お会いする方々のためにも、
主の恵みが注がれますように、
リバイバルの御業がなされますように、
電話でお話するだけの方々にも祝福が注がれますように祈らされます。


明日の朝早く出て、
礼拝は豊橋ホサナキリスト教会の第2礼拝に出席。
帰国された方や、昨秋の「家の教会セミナー」でお会いした牧師もおられる教会です。
元気な楽しそうな教会ですね。
一礼拝者として主の前に出られる貴重な機会です。楽しみにしています。
夜までに東京に戻ります。


今日も寒くなりそうです。
大阪、神戸でも小雪が舞うこともあるかも、と、
ニュースでは言っています。


NJ北部の雪は5-10センチ、と言っていますが、
ワシントンDCでは「歴史的大雪」になると予報されています。


子供の頃、電話に出る時には
「はい、かきごおりです!」「もしもし、かきごおりです!」とハッキリと言いなさい、
うちは教会だったので、「もしもし、教会のかきごりです!」と言いなさい、
そんなふうに言われていました。


留守番電話が入っても、
「はい、かきごおりです、只今留守にしております!」みたいな調子でした。


でも、今は名前は言わないんですね。
学校の「連絡網」に電話番号が載らなくなったとか、
プライバシーの保護のためにいろんな努力がされているようです。


でも、考えてみたら、
アメリカでも、「ハロー」としか言わないですよね。
留守番電話でも確かにあんまりないですね。


まあ、うちの電話は相変わらず「もしもし、ニュージャージー日本語キリスト教会のかきごおりです」って感じです。まあ、電話番号もWEB上で公開中ですから、今更名前を言わないからってねえ・・・。


さて、なかなか追いつけないですが、
2月3日(水)の聖書。
マタイ13:1-17。


「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。まことにあなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」16-17節。


そうですよね。
旧約聖書の時代の人々は、
この福音を知ることができなかった。
でも、私たちは福音を知っている。
イエスの十字架による救いを知っている。

本当にもっともっとその素晴らしさを味わうことができるようにと、
そして、それを伝えることの大切さを思わされました。

まず、自分はそれを本当に十分に味わっているか、
本当に福音に生きているか、
喜びにあふれて歩んでいるか、
こんなにもしてくださった主の恵みを前にして、
どんな歩みをしているか、
もっともっと主の恵みの豊かさ、深さを教えて欲しい、
そして、味わっていきたい、
そして生きていきたい、

そして、それを余す所なく伝えていきたい。
今回の日本訪問でも、もっともっと福音を伝えるチャンスを与えて頂きたいと思わされた。

主よ、
あなたの恵みを感謝します。
どうか、あなたの恵みをいっぱいに経験して、
あなたの恵みを一杯に伝えさせてください。
今日の一つ一つの出会いの中で、あなたご自身があなたご自身の御業をなしてください。
そのために、主よ、用いてください。

2010-02-04

節分から立春へ。

アメリカではThe First Day of Springは春分の日で、
それまでは「冬」なのですが、
日本では2月4日、昨日が立春でした。
春が始まったんですねえ。
でも、今日5日の朝、大阪で迎えていますが、寒いです。


来週は暖かくなるみたいなので、ちょっと楽しみにしています。


NJは金曜日の夜から土曜日の朝にかけて雪の可能性が高くなってきました。
要注意です。ワシントンDCあたりが中心のようですが・・・。


その立春の前の日は節分。
一昨年日本で節分を過ごしたときは気がつかなかったのですが、
今年は関東でも「恵方巻き」プッシュしてましたねえ。
はい、特にファミマ。
でも、ファミマに限らず、アチラコチラの店先に
「やってます」「あります」の看板が出ていました。


NJで、初めてその話を聞いたとき、
「ありえない・・・」と爆笑してしまった(失礼!)のですが、
関西の方の習慣だそうで・・・。


でも、今年、関西に昭和30年代から40年代はじめまで住んでいた両親に聞いても、
「そんなのなかった・・・」と言っていたので、
ちょっと調べてしまいましたよ。


1970年代に海苔屋さんとかスーパーとかで
プッシュし始めた習慣だそうですね。
昔あった習慣を掘り起こしたのでしょう。


バレンタインデーもそうですが、
年末と入学シーズンの狭間の
この時期、どうしても消費がスローになるので、
なんとかテコ入れ・・・で、
今後もいろんな習慣の掘り起こし、進むのかもしれません。


2月2日(火)の聖書。
マタイ12:38−50。


「帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。」44−45節。

悪霊が追い出されても、
そこに住んでくださる方がいなかったら、
また元に戻ってしまう。

私たちの心が何かによって満たされていなければ、
いや、何かではない、本当の主人であるイエスによって支配していただいていなかったならば、そこは、もう一度サタンの支配におかれてしまう。

私の心はイエスによって支配されているだろうか?
私の心は何によって満たされているだろうか?

今回、このように日本を回っていて、
何かをしていることが、
誰かに会っていることが、
自分を満たしているかのように感じる時がある。

反対であるべきなのに。

神様によって満たされている、
イエスによって満たされている、
自分が誰かに会うことによって、
そのイエスの恵みが伝わっていく、
そのような働き人となりたい。

何かをしていることによって満たされるのではなく、
イエスの恵み自体が、神の存在自体が、
私を満たす、そのような歩みをさせていただきたい。

主よ、
あなたを見上げます。
あなたが私を満たしてくださいますように。
あなたの恵みに満たされて歩む私であることができますように。
そして、その私のうちにあふれたあなたの恵みが、
周りの人々に伝わっていきますように。


今日の一日の歩みを、
主にある交わりを祝福してください。

2010-02-03

一瞬の恵みとだんだんの恵み。

これは2月2日に書いたものを2月4日大阪からアップしています。


今、函館の帰り、東京に向かっているところです。


2年前の神様の御業を、思い出し、
そして、2年間神様が導いてくださっていることを心から感謝しました。

今回も祈りが聞かれた喜びを分かち合ってくださって、
とても励まされて、東京に戻ります。

まだ日本に来て1週間が経っていないのですが、
あまりに多くのことがあったので、
ずっと日本にいるかのような思いになっています。
時差ぼけはあるんだかないんだか、
列車の中では時々眠くなりますし、
明け方4時とか、5時とかに目がさめるのですが、
なんだか、パリっとしています。
2週間くらいというのは、いい緊張感があるんだと思います。

今日も天気が守られて、
予定が守られていることに感謝します。
今夜から明日にかけて北日本は荒れるみたいです。
月、火を東北・北海道へと導いてくださった神様に感謝しています。

さて、21日(月)の聖書。

「心に満ちていることを口が話すのです。」34節。

これはほんとにそうだよなあ、と思う。
心にもないことって、出てこない。
心にあることが、抑えようと思っていても、出てきてしまう。

だから、やっぱり心の中が、いいもので満たされないとダメ。
心の中が、喜びとか、愛とか、平和とかで満たされないと・・・。

今、自分の心の中は何で満たされているかなあ。
平和なときはいい。
何も無いときはいい。
でも、何かが起こったときに、
とっさに出てくるのはなんだろうか?
自分を守ろうという思いだろうか?
逃げの姿勢だろうか?
事なかれ主義だろうか?

本当に愛にあふれた者でありたい。

主よ、
あなたの愛に感謝します。
あなたの力に感謝します。
どうか、わたしの心をあなたの愛と力で満たしてください。
わたしの口から、心のなかにあるものが溢れてくるように。
どうか、わたしの心を満たしてください。

「聴く」ということ。


自分は親父とゆっくりじっくり話をするのは苦手だ。
親父の話をじっくりゆっくり聞くのが苦手だ。

照れくさい。

でも、父の世代のお父さんたちの話を聞くのはスゴク楽しい。
今回も何回かそういう機会がある。
で、おべっかでも社交辞令でも何でもなく、
わくわくしてくる。

親父となかなかそれができないからだろうか?

わたしは伝道者であることを忘れて、
一人の人間として、一人の若者(ずうずうしい?)として、
その世代の人達の話に耳を傾け、
もっともだなあ、と思いながら、時を過ごす。

もちろん、時々、聖霊様の導きをいただいて
聖書の話をしたり、自分の証をしたり。
でも、そんなのは時間としたら5分の1くらい。
人生の重みも何倍も向こうがあるんだから。

でも、伝道ってすべてそうなのかもしれない。

いつもは「伝道するぞ!」と肩に力が入りすぎているのかもしれない。
46歳の平凡な男として、
自分の2倍近い人生経験を積んできた方々の言葉に耳を傾け、
その人生の重みに触れて行く中で、
主に信頼して、用いていただくのを待ち望んでいく、
それが伝道なのかもしれない。

いや、人生経験も何も関係なく、
そのひとつの大切な人生に寄り添っていく、
それが大切なのだ、

そう思った。

131日日曜日。
マタイ12:22-30

「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」24節。

この人々の愚かさ。
素直に神様の御業を認めようとしない愚かさ。
明らかにイエスが神の力によって悪霊を追い出しているのに、
それを悪霊の頭の力によっているのだと、
そう思い込んでいる。
いや、彼らもどうしても認めたくなくて、
悪霊の力だとと言わないでいられなかったのだと思う。

自分はどうだろうかと思わされた。
自分はそのようなことはしていないだろうかと思わされた。

「どうしても認めたくないこと」あるのではないだろうか?

何が邪魔をしているのだろうか?
霊的なプライド?
傲慢さ?

本当に謙遜なものでありたいと思う。
霊的なことについて、
知らないことを知らない、
知りたいことを知りたい、
そのように謙虚に言える者となりたい。

主よ、
あなたの御業を見逃すことがありませんように。
今回の日本訪問においても、
主よ、あなたの御業を見逃すことがありませんように。
そして、あなたのなそうとしておられることを、
敏感に知る者とならせてください。
そして、そこに従っていくことができますように。
謙遜にあなたの御業に驚く者でありますように。

福音と人。

人を見ていると失敗することがある。
神様を信じているこの人がこんなことをするなら、
神様も信じられない、と思うこともあるが、
そういうことに振り回されない強さが必要だと思う。
「人を見ないで神を見なさい」と言われることもある。

でも・・・

神様はどうやら、人を用いて神様のことを伝えようとされているらしい。

「あなたは祝福の基となる」「地のすべての民は、あなたによって祝福される」

神との関係が大切なのではあるが、
それが築かれるもの、人との関係の中でだったりするし、
人から影響をうけることが沢山ある。

キリストのセールスマン、という言葉がよく使われたことがあったが、
福音は商品ではないのだ。

いや、商品を売る時も、
やはり商品だけではなく、
人が問われるように、
商品の良さが伝わるまでは
人との関係で商売が進んで行くように、
やはり、人が大切なんだと思う。

私自身の「人」が整えられますように。
教会の中の「人」が整えられますように。

130日土曜日の聖書。
マタイ12:14-21

「彼はいたんだ葦を折ることなく・・・」20節。

主はわたしをダメ人間だと切り捨てることはなさらない。
本当だったら主の目にかなうことなんてありえない。
ひとたまりもない。
メッタ切りに気られて、
切り捨てられて、
おかしくもないのに、
主はわたしをお見捨てにならない。

それなのに、
自分はどれだけ、judgementalになれるのだろうか?
冷たい態度を取ってきたことがあっただろうか。

自分は弱い。
弱いから、人を裁き、
小さいから、人を捨てる。

主の強さを頂きたい。
主の大きさを頂きたい。
主の愛を頂きたい。
主の愛に満たされて、
主の愛を流し出す存在とならせていただきたい。

主よ、
あなたの愛を与えてください。
あなたが歩まれたように歩ませてください。

勇士。

(この文章は函館に向かう列車の中で文章を打ったのですが、アップロードは日本時間の2月4日朝、大阪からです)

2月2日函館に向かっている特急の中ですが、青森県に入ってからまた雪が降っています。

2月1日の夜は仙台で、NJの教会の方のお父様の前夜式(通夜)。
お父様もクリスチャンだったのですが、本当に素晴らしい式でした。

「生きるにしても、死ぬにしても、キリストがほめたたえられるため。」(ピリピ1:20)との御言葉通りの生涯であり、その最期だったことが、人々の口によって証されました。最後の10日間は神様に感謝、そして、出会いに感謝、皆さんへの感謝で溢れていたそうです。そして、最後の時、腕に着いていたセンサー類をすべて取りは外して、酸素マスクを自分でしっかりと取り外して、「私は主の御許に行くのだ」という気迫に、周りの人々は敬意を感じて何もできない、決して止めることなどできない瞬間だったそうです。そして、主の許に召されて行かれたそうです。異常に気がついた若い研修医が「どうして酸素マスクを外しているんですか?」と慌てていたそうですが、それが周りにいた人々にはとても場違いに聞こえていたということでした。聖なる瞬間だったんですね。「聖徒の死は主の目に尊い」(詩篇

たくさんたくさんのことを伺いました。

教会の次の時代を担う若い世代への思い、子どもたち、孫たちへの思い、愛と信仰にあふれた勇者でした。

このように生き、このように走り抜きたい、と思わされた夜でした。

129日金曜日の聖書。
マタイ12:1-13

「わたしが好むのはあわれみであって、いけにえではない」6節。

わたしは何を伝えてきただろうか?
神様が求められる献身よりも、
神様の愛を語ってきただろうか?

献身も神様の愛を土台にすることを語ってきただろうか?

そして、そのように生き、
そのように教会を形成してきただろうか。

語っているメッセージでは確かに、
いつでもいつでも、
「恵みは信仰に先立つ」
「献身は恵みの結果、救いの結果」
と語ってきたけれども、
そのように自分も生きてきただろうか?

言っていることとやっていることがぜんぜん違う、
言葉では恵みを語りながら、
態度では恵みのない献身を要求している、
そうなってしまってはいなかっただろうか?

神の恵み、神の憐れみを徹底的に語る者とならせていただきたい。
そして、そのように生きる者とならせていただきたい。

主よ、
あなたの恵みをもっともっと経験させてください。
そして、その恵みによって生きる者とならせてください。
恵みに徹底する者とならせてください。
献身もいつもいつも恵みへの感謝となりますように。

世の中は狭いというか、不思議な導きというか。

先週土曜日は横浜と鎌倉の境目の辺りで家庭集会。
帰国者と関係者全部で17人が集まり、
証をし、賛美をし、楽しいひとときを持ちました。
その後、その集会の場所を提供してくださった方(Aさん)と一緒に、
近くの施設に入所しておられる方(Bさん)をご訪問したのですが、
その話の中で、Aさんのご主人のご両親とお兄さんご夫妻と、
Bさんご一家はすごいご近所で、親しく近所づきあいをしておられたことが判明。

Bさんは、直前にNJに住む息子さん(Pさん)と、
Bさん「Aさんてまさか、近所に住んでいた『A』ってご家族と名前が同じだけど、親戚な何かかねえ。」
B息子「いやあ、まさか。『A』さんだって、たくさんいるでしょう。」
Bさん「そうかねえ」
なんて話をしていたそうです。

スゴーく盛り上がっていました。
一緒に聖書を開いて、お祈りして、帰りました。

2月1日の仙台の夜は雪。
翌朝、道路は凍っていました。
東京も雪が降ったみたいですね。

しっかりコケました。
コケそうになって、慌てて体勢を立てなおそうとして、さらに滑る、という感じ。
NJでも雪には慣れているはずなんですが、かなりビショビショの雪で、勝手が違ったみたいです。

手首が痛いです。折れていることはないとは思いますが・・・。


写真は2月2日仙台の朝。





128日木曜日の聖書。
マタイ11:20-30

「誰でも疲れている者は・・・」28-30節。

いやあ、疲れているか、いないか、と言えば、疲れています。
でも、主の許にいられるのは力ですし、
主の素晴らしい御業を見せていただけると元気が出ます。
ほんとに主に休ませていただいているし、
主から力をいただいて生きるのは楽しいですね。
出会いも、神様から与えられているのだと思います。

正直なところ、私はこれがなかったら、どうやって生きていけるのだろうかと思います。
主の許で休んで、主から力をいただいて歩んで行く、
これからもそこに歩んで生きたいと思います。

主よ、
あなたの許に私の力があります。
あなたの力をください。
あなたの許で休ませてください。
今日もあなたの命に満たしてください。

2010-02-01

凱旋。

主の僕が御許に召されていった。
御言葉と賛美と祈りの中で。

私が知り合ったのは教会のメンバーの父親として。
だから、勢い、父親としての彼の姿が心に留まっている。
娘を思い、婿を思い、孫を思う父の姿。

でも、それはまた信仰者としての姿だった。
信仰者として、子どもたちに何を遺して行くのか。
自分自身の姿勢も正される。

「彼は死んだが、今も信仰によって語っている。」114節。

たまたま・・・いえ、主のお計らいによって、
日本にいて、ちょうど今日お伺いする予定だったので、
前夜式に出席できる特権に預かりました。


素晴らしい式でした。
また改めてお証しします。

127日水曜日の聖書。
マタイ11:11-19

「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」12節。

天国が激しく攻められている。
どういう事だろうかと思う。
でも、その後に続く言葉がヒントなんだろう。
激しく攻める者たちがそれを奪い取っている。

つまり天国に入ることに対するハングリーな気持ちだろう。
必死に求める思いだろう。
もっと目を開いてください。
もっと語ってください、触れてください、という思いだろう。

飢え渇きであり、貪欲さだと思う。
そう、物質的なものではなくて、
霊的なものに対する貪欲さ。

今日も、主の恵みを求めよう。
主の御業を求めよう。
主が用いてくださいますように。
私を祝福の基として、用いてくださいますように。

主よ、
私をあなたのしもべとして用いてください。
あなたの恵みに満たして用いてください。




2010-01-31

守られています!

日本はホンの1時間ほど前に2月になりました。
日曜日が終わったところです。

日本に着いたのが水曜日の夕方でしたから、
木、金、土、日、と4日あまりが過ぎました。

でも、なんだか、もう10日くらいがたったような気がします。

あまりにたくさんのことがあったので、
文章にまとめるのに、ちょっと時間がかかりそうです。

「日々のみことば」のアップもたまってしまいました。
明日から地方に回ります。
2月号を持っていくのを忘れないようにしないと・・・。

みなさんのお祈りに感謝します。