2010-03-06

自分の考えではなく。

さて、今日の聖書。
やっと追いつきました。
なかなか追いつけないことが、ずうーっとストレスでした。
でも、ストレスを感じてるようじゃ、つまらないなあ、と思って、
もう、「日々のみことば」の「毎日」の部分を諦めて、特別に思わされたことだけを分かち合うべきか、とも思いました。でも、何とか追いつけたので、もうしばらくは、「毎日」にこだわってみようかと思います。

マタイ21:33−46。


「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。」42節。

神様は、常識を超えたことをなさる方。
私たちの考えとは違った考えを持った方。
だから、いつもいつも神様のお考えを求め、
いつもいつも神様の導きを待ち望みながら、歩んで行きたいと思いました。

神様を信頼して行こう。
わたしの考えを遥かに超えて賢いお方、
わたしの見えないものも全部見えていて、
導いてくださるお方。

だから、安心して、信頼していこう。
一生懸命にならなくてもいい。

主の導きに安心してついていこう。
本当に、そんな気持ちになった朝だった。

主よ、
わたしの考えと、あなたの考えが全然ちがうんですね。
どうか、あなたの考えを教えてください。
そして、あなたに従って行くことができますように、
あなたの導きに単純に信頼して従って行くことができますように。
あなたの平安に感謝します。

素直な心。

今朝は本当に空が綺麗だった。
ラジオでも言っていたけれども、
今日はとても空気が乾いて、澄んでいたそうだ。


朝、6時前、もう空は朝焼けで明るくなっていた。


でも、あと1週間でDaylight Saving Timeが始まる。
この6時が、1週間後には7時になるかと思うと、ちょっと寂しい。


今日も昼間は10度を超えたけれども、
明日はもっと暖かくなる。
朝は氷点下だろうけれども、昼間は12度くらいまで上がるだろう。


今日は教会での祈り会。
いつもは6時半から持っていたのですが、今日は9時半。
土曜日、補習校に送りにいかなければいけない人達のこともあり、
試しに時間を変えてみて、多くの方々が来ることができたのですが、
それを超えて、本当に主が語って下さった集まりでした。


「私たちがお互いに主が与えて下さった召し、使命を重んじることの大切さ」を思わされました。
自分自身、主から与えられた召し(Calling)に誠実に歩んで行きたいと思います。


さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ21:23−32。


「しかし、あなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」32節。

プライドの問題なんだろうか?
彼らが正しい、自分が間違っていたとわかっていても、
悔い改めることができない。

でも、この気持ちもわかるような気がする。
本当に彼らの方が正しいと思いながら、
取税人や罪人、遊女たちが悔い改めた後に、
今まで指導的な立場にいた彼らが悔い改めることができるだろうか?

でも、そこでできたなら、本当の悔い改めなのだと思う。

自分の立場とか、自分の経験とか、
そんなことにこだわっていないで、悔い改めるのは、
本ものだと思う。

自分が今まで「彼らは問題だ」と思っていた人たちが、
信仰の目んで自分よりも先に進んでいる、と思っても、
それをなかなか素直に認めることは難しいと思う。

やはり、ここでも、どこまで行っても、
主と自分との関係なんですよね。

そこで、本当に砕かれて、子どものようになって、
主の前に出る、そんな素直な心を持ちたいと思います。

主よ、
どうか、わたしのプライドを砕き、
幼子のような心であなたの前に出ることができるようにして下さい。
あなたとの関係の中に歩むことができますように。

2010-03-05

感じることよりも信頼すること。

今日のPurpose Driven Life。
14日目「神が遠く感じられる時」。


これはほんと、キモですね。


聖書の言葉、イザヤ書8章17節。
「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」


Rick Warrenは言います。
「神はあなたが神を感じることよりも、信頼することの方に関心を持っておられます。神を喜ばせるものは感情ではなく、信仰なのです。」
「あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えて下さったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」





感じ、感覚に振り回されるのではなく、
み言葉を信頼すること、み言葉に立つこと。
その大切さを思わされます。

今日の夜の集会で、一人の高校生が証をして下さいましたが、
本当に心を開いて、大切なことを分かち合って下さいました。
そこに、世代を超えて、通じるものを感じていました。

真実な証しは、心に触れます。
主の素晴らしさをあらわします。

さて、昨日、3月4日の聖書。
マタイ21:12−22。

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」13節。

主は私たちに祈りを求めておられる。
つまり、それは、私たちと語り合おうとしておられるのだ。

だいたい、祈りがお勤めや義務になってしまったら、
つまらない。つまらないというか、苦痛だ。

でも、本当は、それは恋人たちが語り合うようなものなんだ。
私たちが主との時を過ごすのは、楽しい一時、甘美な時間なのだ。

だから、一生懸命になるんじゃなくて、
主と共に時間を過ごすことを楽しみたい。
主と共に時間を過ごすことを喜びとしたい。
そこに私たちは招かれている。

主よ、
祈りの時を喜んでくださること、
あなたが祈りに招いていてくださることに感謝します。
明日の祈り会も、そのような楽しいひとときとして下さい。
あなたと時を過ごすこと、あなたの元でやすらぐこと、
それを味わうことが出きますように。

春休みだって。

今日も朝、チラチラ雪が降ってたけど、
昼間はまた暖かくなりました。

明日明後日共に、朝晩はちょっと冷えますが、
昼間は10度か、それ以上に暖かくなりそうです。

ハジが帰ってきました。
春休みだそうで。

14日まで10日間ウチにいます。
他の家族は休みじゃないんで、なんにも計画はないんですが、
まあ、とにかく、2ヶ月ぶりの帰宅なんで、歓迎です。

でも、春なんですよね。ほんとに。
南部にいると。

何度も書いているんですが、
自分がエモリーの学生の頃、
春休みにフロリダに行って、
帰ってくる時、アトランタは猛吹雪で帰れなかったんですね。
今から17年前、1993年のSuperstormの時でした。

アトランタを出るときは20度を超えていて、
レンギョウの黄色い花が咲き誇っていました。
もちろん半袖。
でも、4日後の帰りはフロリダ州内で氷点下。

春は時々、嵐が来ます。

さて、今年はどうなるでしょうか。

さて、3月3日(水)の聖書。
マタイ21:1−11。

「見よ、あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ロバの背に乗って。」5節。

平和の王として来られたイエス。
しもべとしてこられたイエス。

私も平和が必要だ、と思わされた。
まずは内的な平和。そして、周りの人々との平和。
イエスはわたしに平和を与えてくださる方。
本当に内なる平和を与えていただきたい。
そして、平和を周りの人々との間に与えていただきたい。

イエスはしもべとして来られた。
だから、私自身もしもべとならせていただこう。
自分自身、主からの平和をいただいて、
平和のしもべとして、仕えて行こう。

主よ、
あなたが与えてくださる平和について、
思いめぐらされました。
本当に私は内なる平和が必要です。
自分の魂の中に平和が必要です。
どうか、あなたの平和をいただいて、
また人々のところに平和を運ぶ者とならせてください。

2010-03-04

The Heart of Worship

たぶん、これが今日の最後の更新。


今日のPurpose Driven Life.
今日のもパワフルでした。


最初からいきなり先制パンチ。


英語だと、
God wants all of you. 
God doesn't want part of your life.
...
God is not interested in... the leftovers of your time and money.


最後のleftoverって「食べ残し」って感じですよね。
ま、「残りもの」の方がいいかな。


私たちはどこかで、時間やお金の、残り物を主に持ってくる、そんな気持ちのところがあるかもしれません。


違うんですよね。私たちの人生のすべてが神様のもの。


そして、極めつけが、最後の、The Heart of Worshipという歌が作られた、その由来について。





英語では、ここに詳しく書かれています。英語の分かる人は是非、読んでください。
http://www.crosswalk.com/1253122/


日本語で説明しているサイトを探したのですが、
見つからないので、ちょっと説明しますが、


ある時、この曲の作者であるMatt Redmanの属していたイギリスの教会のMike Pilavachiという牧師が、礼拝の行き詰まりを感じて、自分たちの方法をすべて止めて、礼拝の本質に戻ろうと一時期、バンドや音響システムをすべてストップして、礼拝を守る、と宣言したそうです。(Rick Warrenは歌うこともすべてやめたと書いていますが、実際はアカペラの歌が始まったようです)


教会の人々に対して、あなたがたは、礼拝の「消費者」ではなくて、「作り上げる者」です、そして、みなさんがどんな捧げ物を神様に持って来るか、よく考えてきて下さい。とお願いしたそうです。


最初は戸惑いと、沈黙があったそうですが、人々は心からの礼拝を捧げるようになってきました。そして、その中でMattの心の中に生まれたのが、この歌だったというのです。


すごい勇気ですね。そして、この名曲はそんな中から生まれたんだと知って、すごい納得です。


いつの間にか、音楽に酔いしれてしまったり、歌っている自分に満足していることはないだろうか、本当に礼拝をしているだろうか、本当の礼拝を捧げさせていただきたい、そんなふうに思わされました。


さて、3月2日(火)の聖書。
マタイ20:17-34。


「わたしが飲もうとしてる杯を飲むことはできますか。」22節。


主が負われた苦しみ。
自分は苦しみを敢えて自分で負うことがあるだろうか。
主に従って、苦しみを負うことをしているだろうか?


祝福はいただいている。
祝福に満たされている。


でも、主の苦しみと同じ苦しみを負うことをしてきているだろうか、
それを願っているだろうか?
それを逃げないで負ってきただろうか?


まっすぐな気持ちと、
まっすぐな態度を与えていただきたいです。


主よ、
どうか、あなたの通られたみ苦しみを、
私も通ることがあったときには、
どうか、あなたのみ苦しみを覚えて、まっすぐに逃げないで、進んで行く者とならせて下さい。あなたの助けを与えて下さい。

導かれたこと。

今日の午前中は、我が家での家庭集会。
ご都合の悪い方や、体調を崩された方などおられて、
小さな集まりでしたが、
クリスチャン以外の方々が3人来られました。
嬉しいです。
みなさん、「私のようなクリスチャンじゃない者が行っていいのでしょうか?」そう言われるのですが、私は、いつもいつも新しい方々が出入する集まりを持ちたいと思っています。いえ、私だけではなくて、教会はいつもそうですよね。


その中のお一人が言われました。
「私は何も知らないで、ただ、いくつかの候補の中で、名前がいい、ということで、今の町に引越してきた。でも、それはあなた達夫婦に会うためだったんだと思う」と。


一つ一つの出会いが主に導かれたものなのだと思います。
そして、私たちは神様の祝福を流す器なんだと。


この出会いにも本当に感謝しています。
そして、いつの日にか、「あ、でも、もっと言うと、神様に出会うためだったんですね」という言葉を聞ける日が来ることを祈りつつ。


さて、3月1日(月)の聖書。
マタイ20:1−16。


「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」14節。

私は確かに夕方来て、1時間だけ働いた者だ。
1時間だけ働いて1デナリ受け取った者だ。
そのことを本当にわかっているんだろうか?

いつの間にか、私は朝から働いている、
1デナリを受け取って当然だ、みたいなつもりになっていないだろうか?
とんでもない。
私は1時間だけ、働いて、
いや、主のお役に立つことなんか何も出来ないでいる者だ。
でも、主は豊かに与えてくださる。

そのことを、心の底から、ENJOYすることのできる者でありますように。
恵みを恵みとして、喜ぶ者でありますように。

主よ、
あなたの恵みに感謝します。
あなたの気前のよさに感謝します。
あなたが与えてくださる豊かさに感謝します。
どうか、それを心の底から、本当に底から、
感謝する者でありますように。

日進月歩だけど。


雪が融けて顔をのぞかせたのは、クロッカスだけではなくて、チューリップも。
そばにはリスがきれいに食べたどんぐりの殻が落ちていました。


でも、よく見ると、ピントがチューリップの芽にドンピシャじゃなくて、
後ろの木くずにあっています。


マニュアルでピントを合わせることのできるようなカメラではないので、
こういうのは難しいです。
ちょうど、ピントを合わせたいところに紙でも置いて、ピントを合わせるために半押しをして、そこでシャッターを押せばいい、というのを読んだこともありますが、今日はそんなゆとりもありませんでした。また今度試してみようと思います。


で、このカメラ、買ってからどれくらい経ったんだろうか、と思って、
調べてみました。


そしたら、4年半前。
もっともっと前かと思っていたのですが、
そんなもんなんですね。
最近は新製品の出るサイクルがとても短いので、
4年半前に買ったモデルがとても古く感じます。


今では、顔認識とか、笑顔認識とか、あるみたいですが、
もちろん、そんなのはありません。


ホント日進月歩ですよね。
どんどん新しい機種が出て、
安い値段で、ずっと性能のいいのがでているようでして、
「買え買え」光線を浴びまくっておりますが、
それに負けないように、と思いながら、でも、そのうち・・・と思いながら、
神様にお祈りしております。


2月28日(日)の聖書。
詩篇の86:8−17でした。


「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。」11節。

日曜日は、「主への降伏としての礼拝」に心が向いていました。
礼拝は主に降伏するものなんだ、自分の好み、自分の趣味、自分の気持ちの良さ、そういうものを礼拝に求めるのではない、主に降伏するんだと。

ですから、主の道を求めます。
主が与えられる道、私たちを遥かに超えた、知恵に満ちた道、
それを求めます。

主よ、
あなたの道を教えてください。
わたしの道ではなく、人々の求める道でもなく、
あなたの道を教えてください。
そこに降伏して、従って行く者でありますように。

ほらね。



今日も日中は気温が10度くらいまで上がって、暖かくなりました。
雪もどんどん融けてきています。
そして、庭の片隅で目を凝らすと、
毎年最初に花を咲かせるクロッカスが芽を出していました。


「クロッカス」でブログ内検索をかけてみると、
毎年、話題に出していますね。
だいたい、3月の中旬頃咲き始めて、下旬に満開になるようです。
さて、今年はどうなるでしょうか?


勢いで過去記事を読んでいたら、
2007年は3月16日に大雪。
まだまだ今年もわかりませんね。
はい、2週間予報では、ちょうど16-17日あたりに可能性があります。


さて、何とか追いつこうと思っていますが、
2月27日(土)の聖書。
詩篇86:1−7


「私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。」7節。

苦しみの中で、主に目を向ける。
順調なときもだろうけれども、
苦しみの中にあるから、
戦いの中にあるから、
私は主に目を向けないではいられない。

だから、苦しみも、わたしが主に目をむけるためだったら、
それはまた祝福だ。

かつて、中国のクリスチャンが言っていた、という言葉を思い出す。
「私たちへの迫害がなくなるように祈らないで下さい。私たちが迫害の中で、信仰を堅く立っていくことができるように祈って下さい。」

本当にそのとおりだと思う。
私もそうだ。
確かに苦しみの中で、「苦しみを取り除いて下さい」と祈らないではいられない。
でも、その中で、主を見上げることが出来るように、それを何よりも願っている。

教会の一人ひとりも苦しみが取り除かれるよりも、
その中で、神様の恵み深さをもっともっと味わうことができますように。

主よ、
苦しみの中で、あなたに目をむけることができますように。
そして、苦しみが取り除かれることよりも、
その中で、あなたとの関係がさらに深くされることを求めて行くことができますように。

2010-03-03

苦々しさを感じたとき。

もう一つ行きます。
昨日は帰ってきて、バダンキューだったので、
Purpose Driven Lifeはお休みしました。
今日もきつかったですが、何とか、読みました。


12日目「神との友情を育む」というテーマです。


4つの秘訣が出てきます。
「正直になること」「従うこと」「神が大切にしているものを大切にすること」「神と親しくなることを求めること」


だそうです。


最初の神に対して正直になること、の中に、
「苦々しい思いを抱いたとき」というのがありました。
神への不信感を持ってしまうことがあるというのです。


そのようなときに、正直にその気持をもっていくこと、
ありのままを申し上げること、が大切だそうです。


自分はそうなりましたね。
元々は良い子でしたが・・・。


ありのままの気持ちを主に持っていく、
他の誰かになってしまうのではなくて、
自分のまま、主の前に出る。


人は「あなたはあなたのままであってはならない」というメッセージを送ってくることがあります。そういうメッセージばかりを受けていると、そして、それに応えようとしていると、それは本当に疲れます。ちょっとはがんばれるのですが、そのうち本当に疲れてしまいます。


でも、主は正直であるように、わたしのまま行くようにと招いていてくださるのです。


本当にありのまま、主の前に出る者でありたいと思います。


さて、2月26日(金)の聖書。
詩篇85:1−13。

わっ、急に詩篇、と思いました。
なんだったんでしょう?
イースターに向けた調整でしょうか?

「あなたはいつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。」5節。


ちょうど、今日のPDLとシンクしていますが、
神様に対してもストレートに気持ちをぶつけることができるって、すごいですよね。
それはやはり信頼しているから。

納得いかないときに、納得いかない、と言える。
それは、いつの日か、納得させていただけると信じているから。

主に対して、ストレートに語ろう。
主に対して、何でも祈ろう。

主はわたしの思いをわかってくださるから。

主よ、
あなたに求めます。
あなたがわたしの祈りを聞き、答え、納得させてくださることと信じて求めます。
また、あなたは最善の御業をなしてくださる方であると信じます。
どうか、わたしの目が開かれて、そのことがハッキリと分かりますように。

水漏れ。

今日、朝起きたら、まだ雨でしたが、
7時頃、教会から帰る道は雪になっていました。


でも、その後は大したことはなく、
今日も雪がグーンと減りました。
これで、この週末には雪がなくなるでしょう。


いよいよ、春へまっしぐらです。
きっと、たぶん・・・。


下の写真ですが、余りきれいではありませんが、
何かと言うと、キッチンの蛇口の一部です。


今回、日本から帰ってきて気がついたのですが、
蛇口の途中から水が漏れている・・・。
それも日毎に大きくなってきている。


見えます?




まだ、何とかシンクの中に水が入っているから、
そんなに気にならないのですが、
この先どうなるかわかりません。


意を決して、蛇口全交換。
シンクの下にもぐりこんで・・・
そのシンクは、ウチにおいでになったことのある方はおわかりでしょうが、
コーナーにあります。
シンクの下のスペースが本当に狭い。
それで真ん中には太い下水のパイプが走っている。


今日ほど、もっと体が小さかったらいいのに、と思う日はありませんでした。
十分小さいのですが・・・。
これ、普通の人はどうやって作業するんでしょうか。


買ってきた蛇口が不良品で、思いがけず時間がかかってしまいました。
簡単な作業なんですが、やっぱりプロのようには行きません。
何枚もシャツをビショビショにする悪戦苦闘の末、無事開通。
でも、無事に水がジャーっと出てきた時には、感動。


でも、明日の集会の前に無事修理が終わってよかったです。
明日の午前中の我が家での集会が、豊かに祝福されますように。


さて、2月25日の聖書。
マタイ19:23−30。


「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」26節。

人が救われること、
それは人の業ではない、神の業。
でも、しばしば私たちはそれを自分の力だとか、
熱心さだとか、勘違いすることがある。

主の業なんだ、
そこに私たちが同席させていただいているんだ、
主が一人の型を救いへと導かれるときに、
そこに一緒にいることができる、特権を与えられただけなんだ。

主の見方で問題を見、
主の願われることを願う者でありますように。

これからも、人々が主によって救いへと導かれて行く、
その場に居合わせる祝福を経験できますように。

主よ、
人の力ではどうにもなりません。
人が救われるのは、あなたの御業です。
どうか、あなたの御業を見る特権、
その場に居合わせる特権をお与え下さい。

2010-03-02

あれえ、また雪?

今日も昼間は10度くらいまで上がって
暖かかったのですが、
夜になってちょっと冷えて、今11時過ぎですが、
 3.6度。さっき、車で帰ってきたのですが、
雨もパラパラふってきました。

そして、天気予報は以下の通り。

昨日は東にそれる、って言っていたのに、
「雪の心配は殆どない」とここで宣言してしまったのに、
今日は一転、やっぱり雪、だって。

まあそれほど積もる雪ではないようですが、
それだってどうなることか。
これで大雪なんかになったら、もう誰も信じられません!

10年くらい前のことでしたが、
「夜の間に雪が降るけど、大したことない」と言っていたイースターの朝、
起きたら15センチくらい積もっていたことがありました。
ですから、まだまだ何があるか分かりません。

さて、日曜日は休んだので、
昨日のPurpose Driven Life。

11日目。「神の親友となる」というテーマでした。
これは、御言葉と祈りの生活を勧めているところです。

この間の日曜日あたりに気がついたのですが、
この本って結局「信仰生活の心得」みたいな本ですね。
でも、それじゃあ、一部の人しか買ってくれないから、
人生の目的、というキーワードで信仰生活の心得をまとめてみた、
ということなのでしょうか。

でも、私などは、「信仰生活の心得」って言ってもらった方が、
すごく、すとんときますね。
「なんだ、この本は『信仰生活の心得』じゃないか」と思ったら、
いろんなことが「ストン」「ストン」と心に入ってきます。

でも、「ということは、自分の中で、『信仰生活を送る』ということが、『すべての人の存在の目的』と一つのことだ、ということが、ちゃんと消化されていないのかもしれない。」と思わされています。

これは、ちょっと課題です。

で、昨日のところなんですが、
座って、時間を決めて、祈っている、聖書を読んでいる時だけが、「祈りの時」ではない、ということ、これまた大切なことだと思わされました。

一瞬一瞬が御言葉を思いめぐらし、神に祈る、神とつながっているその時、そして、それは友達と時間を過ごすようなことだと。

本当にそのような一瞬一瞬となりますように。
特にパニックを起こすような出来事の中で、
神といつもつながっている者でありますように。

さて、2月24日(水)の聖書。
マタイ19:13-22。

「財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」21節。

手放すことですよね。
私も自分の教会のためには、思い切って捧げるけれども、
それはどこかでやはり自分の働きの一部、みたいなところがある。
でも、ここでは、「貧しい人に与えなさい」と言われている。

だから、本当に手放してしまうこと。
もちろん、自分が捧げたものが、正しく使われているかどうか、
それを確認したい、見ていたい、という気持ちもわかる。
でも、それでも、どこまでも手放してしまうことが大切なのだ。

自分の手の届かないところにも、喜んで捧げることが出来るか、
自分がその恩恵を受けないところにも、喜んで捧げることが出来るか、
私自身、まだまだ訓練を受けていないような気がする。

もちろん、今、自分が属している教会のために捧げるのが、
今のわたしの使命だと思う。
でも、その中でも、自分が大切にしているものを、
自分の手の届かないところに捧げてしまう、
そういうことを経験して、その中で、本当に恵みに感謝をして、
ひとつひとつのことを手放して行くことを学ばせていただきたい。

主よ、
私の人生はあなたのものです。
どうか、わたしのこだわりをきよめ、
あなたの自由な導きに従っていく者とならせて下さい。

2010-03-01

降伏する礼拝。

今日は久しぶりに昼間の気温が10度くらいにまで上がりました。
まだまだ一面の銀世界なのですが、もう3月、春ですね。
一気に雪が融けたようです。


明後日の雪は殆ど心配ないので、
この勢いで行くと、週末にはもう雪がなくなっているかもしれません。


さて、土曜日というか、土曜日は二人で話をしないで、寝てしまったので、
日曜日にもう一度読んで話をしたところですが、
40日のPurpose Driven Lifeの10日目。


この日のポイントは、礼拝は「降伏」である、ということ。
2日前のポイントと似ているのですが、
自分の考え、自分のこだわりではなくて、
すべてを主の前に投げ出して、主を主とすること、
それが、礼拝の本質。


今、教会の礼拝について時間やプログラムを変えようとしている最中なので、いろいろ反省させられました。


そして、日曜日は降伏の礼拝を守りました。
そこに主の祝福がありました。
感謝。


さて、3月23日の聖書。
マタイ19:1-12。


「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは誰でも受け入れることができるわけではありません。」10-11節。

結婚って何だろう?
特にクリスチャンにとって結婚て何だろう?
体の関係を結婚の中だけに厳しく制限している聖書の鉄則に従って生きている中で、
「体の関係を持つために結婚する」という感覚に陥っていることに気がついた。

でも、それは結婚のすべてではない。
あまりに「結婚までは待つ」を大切にし、強調する中で、
(それは今でも間違いではないと思いますし、これからも次の世代に伝えて行くメッセージだと思っていますが)
特にクリスチャン男性にとって、
結婚の目的が「正々堂々と体の関係を持つ」事になってしまっているのではないかと。

だから、女性の気持ちが分からない。
妻を愛することがどういう事か、
結婚して何年も経ってから学ぶことが多い。

このイエスと話をしている弟子たちの感覚を笑うことなんかできない。
この時代はなんてひどい時代だったんだろう、ということなんかできない。

共に生きていく、神が結びあわせて下さった存在と共に生きていく、
それがどういう事なのか、もっともっと学ばせていただきたいと思いました。

主よ、
どうか、あなたが与えて下さった伴侶と、共に歩むことの意味を教えてください。
あなたの与えて下さった使命に生かして下さい。

2010-02-28

眠るのも礼拝。

結局、その後余り雪はふらず、
毎日、すこしずつ減ってきています。
でも、さすがに50センチ近く降ると、
時間がかかるだろうなあと思います。


春はまだ、もうちょっと先かな、と思います。


水曜日にまた雪の可能性もありますが、
今回は東海上にそれて行く、ということで終わりそうです。


えっと、一昨日のPurpose Driven Lifeは、9日目。
礼拝ということについて、もうちょっと掘り下げていました。


その中で、目が開かれたというか、
知っていたけれども、いつの間にか忘れてしまっていたこと。


「眠っている私たちも神様は喜んでくださる」


そう、遊んでいる時も、趣味に興じている時も、
オリンピックやフットボール、野球を見ている時も、
すべてが神への礼拝の時であって、
神様は、私たちが教会に座っていたり、
家族や友人に、聖書の話をしている時だけではなくて、
どんな時にも、喜んでいてくださる、ということ。


ちょっと最近、眠ることをちゃんと心から喜んでいませんでしたね。
神様が与えられた体、神様が与えられた時間、
喜んで、感謝して、歩ませていただきたいと思います。

さて、2月22日月曜日の聖書。
マタイ18:21-35


「7度を70倍にするまで」22節。

おお、2月22日に22節。
そんなことはどうでもいいですが、
イエスは「どこまでも赦しなさい」と言われたんですよね。
損だなあと思わないわけでもないですし、
反省しないじゃないか・・・と思わないわけでもないです。

そして、自分はどこまでも赦すことはできないなあと思います。

赦されたことを忘れているからでしょうか?
たぶん、自分のほうがましな人間だと思っているんでしょうね。
自分だったら、そんなことはしないと。
でも、結構やっているのかもしれない。

自分のことが見えていないのかもしれない。
自分がどれだけ主に赦されたのか、
それを忘れないでいたいです。
世の中の最悪のタイプの罪人だったのに、
赦されたことを、忘れないで感謝して歩んで行きたいと思います。

自分が傷付いたことさえ忘れてしまうほど、
主の素晴らしさを、主の愛を、主の恵みを、
味わいながら、歩んで行きたいと思います。

主よ、
あなたが赦して下さったことに感謝します。
人の事が見えなくなるくらい、
自分の傷に気がつかなくなるくらい、
あなたの愛に満たして下さい。