2006-09-23

関東に帰っています

今日の昼頃、
名古屋駅で一人の方にお会いした後、
夕方からは関東。

なんだか、関西の方が、電車に乗っていても、
エキサイティングでしたねえ。
関東の方がみんなおとなしいのか、とも思いましたが、
私が関西に行くと旅行気分になるンでしょうねえ。
電車に乗っていても、
エスカレーターに乗っていても、
見るもの聞くものが新鮮ですから。

明日は朝7時からの礼拝に出席してみます。
あと6時間半?
11時からの普通の礼拝の時間は子供プログラムの見学です。
たのしみたのしみ・・・。

ゆっくり更新は日本時間の日曜日の夜か、月曜日の朝になりそうです。

ではでは。


2006-09-21

いのちのパン

大阪は金曜日の朝です。

今日は昨日よりもワンランク涼しくなって過ごしやすい日になりそうです。

今年は関西に今までで最長の4泊。
なにを隠そう、大阪生まれで4歳までこちらにいた自分、楽しく過ごしています。

エスカレーターに乗る時に、
「立つ」人は右側、
「歩く」人は左側、
というのもずいぶん慣れました。

東京は逆ですよね。
ついつい左側に立ってしまって、
周りの邪魔になっていることもあります。

時間帯によるのかもしれませんが、
東京よりもエスカレーターで歩く人が少なく感じます。

「関西の人の方がガンガン歩く」と思っておりましたが、
意外とそうでもないですね。
まあ元々「江戸っ子」はせっかちでしたから、東京の方がセカセカしているのでしょうか?

あと、高校の修学旅行の時の経験から、
「関西の人は電車に乗る時に、降りる人を待たない」
というイメージができあがっていたのですが、
どうしてどうして、そんなことはありません。
「△印1?8番のところで2列になってお待ち下さい」とアナウンスが入って、
みんなそこで待っています。
まあ、電車がホームに入ってくると微妙にその列が乱れるのは否定できませんが・・・。(^_^)
そして、みんなが降りるのを待ってから乗ります。
25年くらい前の記憶でイメージを作り上げてしまっていた自分に反省。

水曜日の聖書。
あと一歩で追いつくのですが・・・。

水曜日はヨハネによる福音書6章でした。
イエスが5000人の人々を5つのパンと2つの魚で養われたところです。

その後にイエスは「私はいのちのパンである」と言われました。

そしてこう言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」
54節の言葉です。

その言葉でつまずいた人々がたくさんいた、と書かれていますが、
まあ、確かにそうだろうなあ、と思います。

この言葉の意味を知らされている私たちは恵まれていると思います。

イエスの十字架の意味を知り、それを信じて、
それを自分の生きる糧として歩んでいる者は、
永遠のいのちを持っている、ということです。

聖餐式でもイエスのみからだであるパンを食べ、イエスの血潮であるぶどうジュースを頂きます。

でも、それだけではなくて、
その十字架の恵みを自分のものとして、
自分に与えられたものとして、
歩んでいくことの大切さを思わされます。
それを自分のうちで消化して、
それによって生きていく。感謝して生きていく。
その力であると思います。

何かをやりとげた達成感や、
目的意識よりも、
イエスの十字架の愛の大きさに感動して、歩んでいく、
それがイエスの肉を食べ、血を飲む、ということの意味です。

自分はどうだろうかと思いました。
やはりどこかで「達成感」で生きていたり、
「使命感」で生きていないだろうかと。

もちろん、それらも主が与えて下さることだろうけれども、
何よりも愛されている喜びに生かされていきたいと思います。

主よ、
あなたに愛されている恵みを感謝します。
イエスさまの十字架の恵みを感謝します。
何よりもそれを生きる糧に歩んでいくことができますように。

今日の一日の一つ一つの出会いを祝福して下さい。


起きて、床を取り上げて歩きなさい。

また「おおかみがきたぞー」少年の危機です。
結構眠いです。でも一言だけ更新。

今日は昼から神戸、明石方面を訪問しました。

明日、もう一度明石です。

関西最終日です。

とてもいい3日間でした。

何か、今まで「何か成果を」みたいな気負いがありましたが、
平常心で、いつものように主の恵みを楽しみ、
主の恵みを伝えたいと思いました。
いつの間にか成果主義になりかけていたように思います。

あと1週間足らず。
一つ一つの出会いが幸いなものとなりますように。

おっ、深夜の1時45分、テレビをつけると、
教育テレビで母校の制服。
理科の研究発表をしています。
僕らの頃はこんなのなかったなあ。
「パイナップルとトタン板と銅版とで電池を作る」ってやつです。

なかなかおもしろくて、寝るのを忘れて見てしまいました。
制服を着た高校生と、肩まる出しの司会者とがかなりミスマッチです。
でも楽しそうですね。
こういう授業をどんどんやって欲しいものです。

火曜日の聖書。
火曜日はヨハネによる福音書5章でした。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
8節のイエスの言葉です。

これは「直りたいのか」というイエスの質問に対して、
「私を水に入れてくれる人がいません。自分で入ろうとすると他の人が入ってしまうのです」
(池の水が動いた時にそこにはいると癒やされるという言い伝えがあった)
と泣き言を言ったこの人へのイエスの言葉です。

「さあ、立って歩きなさい」とイエスは言われたのです。

私たちも泣き言を言います。
泣き言を言わせて欲しい、場面もあります。

でも、イエスはそんな私たちに、
さあ。立ち上がりなさい、と言われるのです。

いろいろ事情はあるでしょう。
言い訳をしたくなるときもあります。

でも、それらを全部ご存じで、
「さあ、立って歩きなさい」
と言われるのです。

私にも言われているように思いました。
「さあ、立って歩きなさい」と。

主よ、
私もいろいろ言い訳をしたくなる時があります。
あなたのみことばに感謝します。
立って歩きなさい、と言われた時に、
「いや、神さまできません」なとど言わないで、
従っていくことのできる者としてください。

2006-09-20

霊とまこととをもって

「おおかみがきたぞー」の少年にならないように、
ここで更新しておきます。

NJは寒いくらいの夜になるようですね。
10度を切るようです。
今日の大阪は28度だそうです。
半袖でちょうどいい感じですね。
昨年まで3年連続で7月に日本を訪問しておりましたが、
今年は、体力的には9月で正解です。

いろいろ書きたいことはあるのですが、
また今夜ゆっくり・・・ということで。

月曜日の聖書。
ヨハネによる福音書4章を読みました。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」

23節のイエスの言葉です。

自分が神さまの前に出る時の姿勢を考えさせられる一節でした。
「霊とまこと」って何だろうなあ、と思います。
解釈でいろいろ問題があるかとも思いますが、
私は読みながら、自分の心がほんとうに主に向かっているだろうかと言うことだけを考えていました。

「礼拝」

牧師である私にとって、
礼拝は「説教を語る場」でもあります。

その中で、私は心から、真剣に、真実に、
主を礼拝しているだろうかと問われるような気がしました。

会衆の皆さんにとっては
「説教を聞く」ということが、礼拝の中の大切な要素ですが、
それが、「主への礼拝」となっているでしょうか?

今度の日曜日、
私は久しぶりに、メッセージもなく、何の責任もなく、
ただ、ひとりの参加者として礼拝に出席する幸いを経験します。

本当に久しぶりだと思います。
ゲストスピーカーが来られても、
9月3日のように、ファミリーキャンプで、司会や説教に当たっていなくても、
やはり何かの責任を持っていました。

だから、たぶん、8年ぶりくらいの経験だと思います。

本当に心から主を礼拝することを経験させて頂きたいと思います。
その中で、説教のご奉仕をしながら、でも、「礼拝者」としてそこに立つ、ことの
意味を考えてみたいと思います。

こころからの礼拝を主にささげる、
そのような説教者でありたいと思いました。

そして、その姿勢が教会全体に広がっていく、
そのような礼拝を守っていきたいと思います。

主よ、
礼拝の中心はあなたです。
いつもいつもそのように祈ってきました。
でも、今も本当にそうでしょうか?
私はそのように礼拝を守ってきたでしょうか?

どうか、私を「霊とまこととを持って礼拝する真の礼拝者」として下さい。

関西滞在中・・・

17日に追いついたのですが、
18日、19日と更新することができなかったので、
またちょっとたまってしまいました。

こちらは水曜日の夜。

木曜日の午前中は原稿書きの予定です。

午後から神戸、明石方面出動。

明日の朝、こちらもちょっと更新できるでしょう。

きっと。

ではでは。

2006-09-17

霊から生まれる者

月曜日の朝ですが、
一日一章追いつくために、昨日の夜に続いて更新。

心配されていた台風、確かに大きな被害が出ましたが、
九州以外は直撃を免れました。

土曜日の集会、
帰国後半年、1年半、2年半と3つのレベルの方々がおられて、
帰国後の心の動き、なるほど・・・と思わされました。

第1段階
日本のコンビニやスーパーや100円ショップに感動する。
帰国後の立ち上げのために100円ショップに50回くらい買い物に行ったという例もあり。
興奮して毎日のように買い物に行ってしまう。
24時間営業のスーパーなどもあり、
夜な夜な食品売り場を徘徊してしまう。
300円の社員食堂のランチだって感動する。
こんなに安く、こんなにおいしいものが食べられるなんてと、日本への帰国がうれしい。

第2段階
コンビニ、100円ショップなどに行くことに飽きる。
アメリカの天井の高さ、
空間の広さ、
人間関係のおおらかさなどが妙に懐かしくなる。
一番きつい頃。

第3段階
社宅に住めるのも、あと2,3年、ということもあり、
日本がどうとか、アメリカがどうとか、ということを超えて、
マンションを買わなきゃなあ、とか、
何だかとっても現実的な問題に取り組むようになってくる。

帰国されたたくさんの方々が、
このようなところを通って、
それと共に新しい教会に入っていくために闘いをおぼえて、
歩んでおられることを思うと、
どれほど祈りのサポートが必要かと思わされます。

日曜日の聖書。
ヨハネ3章でした。

6節の言葉が心に留りました。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

「肉」は自己中心的な生き方、ということがよく言われます。
じゃあ、「霊」とは何だろうか?
正反対だとすると「悔い砕かれた魂」ということができるのでしょうか?

確かに聖霊様の働きは、
「罪を示し、キリストを証しする」ことですから、
その聖霊様によって生まれた者、というのは、
砕かれた、整えられた者、と言うことができるでしょう。

自分はどうだろうか?
自分は自己中心的な歩みをしていないだろうか?
自分中心的な歩みで、人々を傷つけていないだろうか?

人がそのように歩んでいると気になります。
人がそのように傍若無人の歩みをしていると頭にきます。

でも、自分は本当のところどうなんだろうか?と問われました。

聖霊様によって歩みたい。
聖霊様によって砕かれた、御霊の実を結ぶ、
品性のきよめられた、
そのような者となりたいと思いました。

主よ、
私をきよめ、
霊によって生まれた者としてください。
聖霊によって私を取り扱い、
キリストの御姿を映す者としてください。
聖霊によって歩ませてください。

最高のものをとっておかれる主

日曜日の夜です。

今までで一番ゆっくりと過ごす夜です。

疲れもとれて、明日からの日々に備えられそうです。
感謝。

自分が4歳の頃から育った木場深川キリスト教会での礼拝でした。

例年、この木場深川キリスト教会での礼拝で、たくさんのNJの関係の方々にもお会いできるのですが、
今年は3連休の中日ということもあるのでしょうか、
ほとんどの方がご都合が悪かったようです。

それでも、ひとりの方がお母様と一緒にご出席下さいました。
お会いするのは4年ぶりくらいでしょうか?

幸いな再会でした。

また夕方にはもう一人の方が面談に来られて、共に祈りました。

今回の訪日のテーマは1週間ほど前の一日一章の言葉、

「私が来たのは、失われた者を捜しだして救うためである」

です。

いつもよりも少なくても、
ひとりでも、
神さまのところに導かれることを祈っています。

明日の夕方はまた東京での集会です。
そして、火曜日の朝出て、関西に向かいます。

土曜日の聖書。
ヨハネによる福音書の2章です。

心に留ったのは、
10節の料理長の言葉です。

「あなたは今まで良いものをとっておかれました」

神さまが準備してくださっているものは最高のものです。
世の常では、最初がいいもので、酔いが回った頃に、悪いものを出していたそうですが、
神さまは最後に最高のものを準備しておられるのです。

何だかわくわくしてきますね。

これから、神さまがどんなにすばらしいものを準備して下さっているかと思うと・・・。

考えてみると、私の人生ももう後半戦。
常識的に考えて、「今までの延長上」にこれからのものがあるのでしょうが、
神さまのなさることはそれを超えている、
最高のものをこれから準備しておられる。

それを大胆に求めて、歩んでいきたいと思いました。
楽しみに歩んでいきたいと思いました。

主よ、
どうかあなたの準備してくださっている最高のものを与えて下さい。
それを楽しみに歩んでいきます。

感謝します。

これから始まろうとしているNJの礼拝の上に、
あなたの祝福をいっぱいに満たして下さい。