2011-11-16

どこに祝福を求める?

また前回の更新から1週間経ってしまいました。
今夜もすべきことはたくさんあるし、
最近ちょっと朝きついので、早寝早起きに生活のリズムを戻したいし。


でも、今日はちょっと更新。


今日は一日雨。
ちょっとまとまった雨になりました。
あの季節外れの雪の日から、2週間あまり。
初めてのまとまった雨です。


明日もう少しぐずつきそうです。


その後、ちょっと冷え込みますが、
サンクスギビングまでというか、12月初めまでというか、
しばらくは基本的にはあまり冷え込まず、
過ごしやすい日々が続きそうです。


ここのところ、
礼拝で、アブラハムの生涯から、
神の与えられる祝福について、教えられています。
先日の日曜日は、
わたしたちに祝福を与える人はどんな人か、
それは、「祝福の源である神様に目を向けさせてくれる人」ということができると思います。
なんだかわからないんだけど、この人と話をしていると、いつの間にか、心が神様に向いていく。別に「神様が、神様が」というわけではない。聖書の言葉ばかりが口をついて出てくるわけでもない。


でも、なんだかわからないんだけど、その人と話していると、祈っていると、心が主に向いていく。多分、その人自身は意識していないんだと思う。そういうのとは違う。自然な感じ。


自分の今までの歩みの中で、そういう人たちが何人かいた。
そういう人たちの存在に支えられて、神様を近く知ることができるようになってきた。


自分も誰かにとって、そのような存在になったらいいな、と思う。


それとともに、最近思っていることがある。
それはクリスチャンは、聖書や信仰書以外の本をもっともっと読むべきだということ。


自分もなかなかゆっくりというのは難しいのだが、
信仰書と、カジュアルに読める信仰書以外の本を交互に読むようにと心がけている。
自分の場合は、本当にもっともっと読むべきだろうな。


不思議と神様はそういう人たちを通して、
神様に目を向けさせてくださる。


最近読んでいるのは、「がんばらない」
これはもうこの題が、脱力系の自分のツボにはまりましたね。
「いいねえ」
だから、古本屋の1冊1ドルセールで見つけたとき、迷わず買いました


でも、題は肩の力を抜いてくれる題だけど、
この本の中に出てくる人たちは、肩に力を入れないで、
でも、精一杯生きた人たち、生きている人たち。
題が想像させるよりも内容の詰まった本でした。


で、著者は今、原発の事故のせいで、メディアへの露出が今まで以上に頻繁になっている鎌田實先生。諏訪の病院の再建に尽力しつつ、放射能の問題に取り組んで、チェルノブイリの原発事故や、湾岸戦争の時に使われた劣化ウラン弾で、病を負った人たちのサポートをしておられます。


のんちが、今年の4月に先生の団体でボランティアをさせていただいたので、よけい親近感をもちました。


何度も何度も涙しています。


この本も、わたしにとっては、わたしに祝福を運んでくれる、そう、「祝福の源である神様に目を向けさせてくれる」本です。


いろいろ調べてみたら、この先生、「空気は読まない」って本も出しているんだね。ちょっとそそられる・・・。


さて、最近の聖書から。
エゼキエル書の8章、これは先週の後半に読んだところですが、
その中からこの言葉が心に留まりました。


「はいって行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ」9節。

エゼキエルもそうだったと思いますが、
わたしたちは人を悪く見たくはないものです。
まさか、そんなひどいことはないだろう・・・、
そう思います。

確かに、人を疑ってかからない方がいいことが多いです。
でも、しばしば、自分もそうなんですが、自分が見ていることさえも、
「そんなつもりではないだろう」「そこまでひどくはないだろう」と思ってしまいます。
そう思いたいのです。

そして、現実から目を背けてしまい、
見ていることさえも否定してしまって、
語るべき言葉を語らないで、
逃げてしまうことがあるのです。

だから、自分にとって、これは本当に大切なことだと思いました。
人々の罪の深さから目を背けない。対決することを恐れない。

現実を現実として受け止めて、
そのために祈り、とりなしをして、
そして、警告と福音を語る者とならせていただきたいです。

主よ、
助けてください。
わたしが現実から目を背けることがないように。
わたしが現実を否定してしまうことがないように。
そして、はっきりと恐れないで、聖書のメッセージを語る者とならせてください。