2007-07-28

繁栄の回復

今日も蒸し暑い一日です。
まあ、ほとんど一日教会で作業をしていましたから、
なんだか、暑かったのかどうかわからない部分もありましたが・・・。

今11時20分ですが、25度あります。
湿度が高いので、
何もしていなくても、
汗が出てきます。

明日、あさってと湿度が高い日が続きそうですが、
月曜日は温度自体はそれほどあがらないようです。
その後、湿度は下がっても、暑い日が続きそうです。

今年のJOYJOYキャンプは体力を消耗しないように、
注意しなければいけなさそうです。

そう、今日は一日JOYJOYキャンプの設営をしていました。
今年は教会のジムの中が研究室になります。
みなさん、なんかとても才能があって、
どんどん、雰囲気が出てきます。
こうやって準備をしていくうちに、
だんだん気持ちが乗ってきます。

でも、やっぱり、一番元気が出てくるのは、
子供たちがやってきてから。
あと、2日。
待ち遠しいような、
もう少し準備の時間がほしいような・・・。

泥縄で、準備しますし、
ラストミニットで気持ちが盛り上がってきます。

だから、たぶんもう少し時間をもらっても、
結局準備するのは直前なんでしょうねえ。
がんばります。

今日の聖書。

今日は詩篇の126篇を読みました。
「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、  
私たちは夢を見ている者のようであった。」
1節の言葉です。

繁栄を元どおりにされる、
それはなんだかわくわくしてくることですね。
主が私たちを栄えさせてくださる。

元のような元気を与え、
力を与えてくださる。

今日はこの御言葉をわたし自身への個人的な語りかけとして
感じました。
主がそのようにしてくださる。
涸れた川にも水があふれるようにしてくださる。

主がなしてくださる奇跡をもっともっと信じて、
もっともっと待ち望んでいきたいと思わされました。
この教会の主は神様で、
聖霊様が自由に働いてくださるのだと、
それを信頼して歩んでいくことの大切さを、
思わされました。

だから、大丈夫です。
主がおられるから、
主が私たちを守られ、
繁栄を与えてくださるから。

そう、外側の繁栄ではなく、
表面的な繁栄ではなく、
主が私たちのたましいにふれてくださるから、
それを待ち望んでいきたいと思いました。

主よ、
今朝の約束の故に感謝します。
あなたが私たちを豊かに取り扱い、
祝福を新たに満たしてくださることに、
心から感謝します。

明日の日曜日、
豊かに祝福された礼拝となりますように。
あなたの喜びのあふれる礼拝となりますように。

そして、JOYJOYキャンプを祝福してください。
楽しい中にも子供たちの心の深みにふれるひとときとなりますように。

2007-07-27

主の守りに囲まれて

今日も本当に蒸し暑いです。
今は、夜の10時半ですが、
25度。
でも、家の中は28度あります。

そして、今すぐそこまで雷雨が近づいていますが、
なんだかそこまできて、足踏みをしているようです。

なかなか降り出しません。
ん、今ちょっと雷鳴がしたような・・・。

明日も同じような蒸し暑い一日になりそうです。

JOYJOYキャンプは今年で12回目?
毎年、多くの方々のご奉仕で楽しいキャンプを持ってきました。
そして、多くの方々に好評頂いています。

とにかく楽しく、
子供たちの心に、
「教会はほかのどこよりも楽しいところ」
「でも、楽しいだけじゃない」
「神様の話が聞けるところ」
ということが心に残ってくれれば、いいなあと思ってやってきました。

もっと祈り深く、
もっと神様の話は熱く、
一人一人の心にふれるような働きができればと思います。
もちろん、「もっともっと楽しく・・・」(^_^)

いよいよ明日設営開始。

体力も大切です・・・ハイ。

さて、今日の聖書。

今日は詩篇の125篇でした。
「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」
2節の言葉です。

主がわたしを囲むように守られる。
このイメージはちょっと新しいような感じがする。
いつも、わたしの傍らで、励まし、
忠告し、支えてくださる主をいつも感じている。
でも、わたしを守るように、
山が取り囲んでいるように、
わたしを囲むように守ってくださるということは、
なんとありがたいことかと思った。

四方八方から攻められても、困ることはない。
主が支えてくださるから。
囲むように守ってくださるから。

主よ、
あらゆる困難の中で、
いろんな誘惑や、落ち込ませる力の中で、
あなたが守ってくださることに、
心から感謝します。

あなたを信頼して、冒険をすることのできる者でありますように。

11時10分前、雨が降ってきました。
ちょっと涼しくなるでしょうか・・・。

2007-07-26

主の御名

今夜3回目の更新。

JOYJOYキャンプのテーマは
「ワンダー博士の大冒険」

そして、8月9日からのミシガンバイブルキャンプのテーマは
「信仰による冒険」

おかげで、「冒険」についていろいろ考えさせられる今日この頃、
愛読しているブログの一つでも、
「冒険」という言葉が話題になっていました。

神様を信じているから冒険ができる。

さて、神様は、どんな冒険を私にさせようとしておられるのか、
最近はちょっとわくわくしてきました。

自分の確信を、大きな声の意見に譲ることもあって、
「これでいいのかなあ」と思うようなことも今まで多かったのですが、
これからはもっと自分の導かれていることについて、
確信を持って大胆に進んでいきたいと思わされます。

さて、今日の聖書。
今日は詩篇の124篇でした。

「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」
8節の言葉です。

どうして、ここで、わざわざ「御名」が出てくるんでしょうか。
別に「天地を造られた主にある」でいいと思うんですが、
どうして「御名」なんだろうなあと思いました。

ヘブライ思想を理解するためによく開く、
ペテルセンの「イスラエル」では、
「名前」という章が20ページにわたってあるくらい、
「名前」というのはヘブライ思想にとって大切らしい。

「名前」はたましいの一部であり、
たましい全体を特徴づける。

名前はすなわちたましいである。

名前が行動する。

そのような言葉が出てくる。

とにかく、
「神様ご自身」ということと同じであるらしい。

私を助けるのは、
私が助けとして信頼するのは、
この神様の御名なのだ。

この詩人もやはり敵の攻撃にさらされている中で、
主を信頼した人なんだなあと思わされました。

何を信頼しているのだろうか、私は。

主を信頼しよう。

主よ、
もう一度あなたに目を向けます。
今日もあなたに目を注ぐことを、
あなたを信頼することを教えてくださってありがとうございます。

もっともっと、ほかのものに、目を奪われないように、
私を守ってください。

神の御手に目を注ぐ

さて、JOYJOYキャンプまで、中3日。

いろいろ買い物をして、準備も進んできて、
あさって土曜日にはセッティングが始まります。

子供たちにとっての「楽しさ」
そして、神様の愛と救いのメッセージが伝わりますように。
続けて教会に行きたい!という子たちが起こされますように。

毎年、終わった後に、
「もっともっと神様の話をしたかったよね」と話し合います。

またゆっくり子供たちの心にもふれたかったなあ、と思います。

今年は楽しさに加えて、そのようなキャンプになるようにと祈っています。

さて、昨日、水曜日の聖書。
詩篇123篇。

「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、  
女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、  
私たちの目は私たちの神、主に向けられています。  
主が私たちをあわれまれるまで。」
2節の言葉です。

後半を見ると、この詩人は「侮られ」「あざけられ」ているのです。
その中で、神の御手に目を注ぐのです。

私たちは問題の中で、
問題にばかり心を奪われることがあります。
怒り、恨み、それに縛られてしまうことがあります。

でも、もしも、私たちがそこで、
神様に、神様の御手に目を注ぐことができたら、
どんなにか自由になることができるでしょうか?
どんなにか、縛られない生き方をすることができるでしょうか?

問題の中で、
問題を無視するのではなく、
でも、問題に縛られないで、
自由に生きることができる。
そのために、主がなさることに目をとめて、
主の御手に注目して生きていく者でありたいと思います。

主よ、
私もあなたの御手に目を注ぎます。
私がそこに焦点を当てる生き方をすることができますように。
問題の中で、
問題にとらわれないで、
自由に生きる者としてくださいますように。

主の家に行こう!

暑いですね。
蒸し暑いです。

33度くらいまで行きました。
夜の10時半で24度です。

あしたから、ずっと「一時にわか雨」の予報。

湿度の高い日が続きそうです。

3日分たまってしまいました。
まずは、火曜日の聖書。
詩篇の122篇です。

1節の言葉が心に響きました。
「人々が私に、『さあ、主の家に行こう』と言ったとき、  私は喜んだ。」

さあ、教会に行こう!
という喜びがあるだろうか。
義務ではなくて、
~しなければならない、ではなくて、
「さあ、教会に行こう!」という勢いが、
今の教会にあるだろうか?と思わされた。

そのような思いを与えて頂きたい、
そのような熱さを与えていただきたいと思いました。

今日も子供たちが
あと4回寝たらJOYJOYキャンプ!
と楽しみにしているのを見て、
そのような、わくわく感を教会全体に満たしていただきたいと思いました。

主よ、
「さあ、教会に行こう」という声を、
教会と、この地域の方々の中に満たしてください。
あなたがDrawしてください。
当たり前の「楽しみ」ではなくて、
「なんだかわからないんだけど、惹かれて惹かれて、教会に行きたいんだ」
そんな思いに導いてください。

また明日更新

今日(昨日)はNYの日で、
今さっき帰ってきたので、
更新はまた明日。

すべてが主に守られるように祈りつつ。

JOYJOYキャンプのTシャツも無事納品。

いよいよです。

2007-07-24

いつもいつも守られる方

今日は昨日とうってかわって、
いい天気でした。
夏の一日でしたが、
暑くて大変・・・ではなくて、
気持ちのいい一日でした。

30度くらいに行ったと思います。

あしたは、今日よりちょっと蒸し暑さがアップです。

Moon大使の証し、最終回です。

Moon氏が「大使」として初めて派遣されたのが、
ニュージーランドでした。

Moon氏は大使となるときに、「神の賜物を用いることができる所に送ってください」と
お祈りされていたそうです。
そして、確かに、そこでは神様のための働きが待っていました。
聖書の学び会のために、飛行機に乗って通う教会が与えられたそうです。

しかし、大使がニュージーランドに派遣されたのには、
神様にはもう一つ大きな目的があったようです。

そんな充実した奉仕の場が与えられながら、
何か喜びがなくなりつつあったそうです。
そこで、大使は祈りました。「どうしてでしょうか?」

そのとき
「私が一番大切にしていることをあなたは捨てた」
と語られたそうです。
それは「早天祈祷会」でした。
大使は中国で抗ガン剤治療をしているときに、
苦しくて眠れなくて、朝の祈りをやめていたのでした。

そのとき教えられたのは、
「あなたが何とかここまでこれたのは、
他の人があなたのためにとりなしの祈りをしていたからだ」
ということでした。

不安とおそれの中にいた大使は何とかして、
20年も前に聞いた、
「見えるものによって祈るからむずかしい、
聖霊が導くことについて祈ればいい」
ということを求めるようになりました。

20年前にはプライドが許さなくて、
どうしても「どういうことですか」と聞けなかったのですが、
このとき、大使は砕かれて、聞くことができました。
そして、「祈りの賜物」を持っている人に祈ってもらうことにしました。

大使は「私のプライドが砕かれるため、
地位も立場もすべてを捨てるために20年かかって、
それを神様が待っておられたのです。」と言っておられました。

その「祈りの賜物」を持った人に祈ってもらっている中で、
罪の告白と、人から受けた傷の癒しを経験することができて、
まさに、第一コリント2章9節の経験をすることになるのです。

「目が見たことのないもの、   
耳が聞いたことのないもの、   
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。   
神を愛する者のために、   
神の備えてくださったものは、みなそうである。」

それから、「御霊に導かれて祈る」ということがどういうことかがわかった。
といわれていました。

私はこのお証を聞いて、
本当に祈りたいと思いました。
私も祈りたいし、
「御霊に導かれて祈る」ということがどういうことなのか、
経験したいと思いました。

「証し」ってなんだろうと思います。

聞いた後に、「ああ、自分も同じように神様に取り扱われたい」「今すぐ、私も祈りたい」と思いました。
その後、どうしても話し合わなければいけないことがあって、
祈る時間は余りとれなかったのですが、
祈りたかったです。

聞いた人がそのように導かれるような証しを語る者、
聞いた人がそのように導かれるようなメッセージを語る者とされたいと思います。

さて、
昨日の聖書は詩篇の121篇でした。

主はあなたを守る方・・・の詩です。

「あなたを守る方は、まどろむこともない。」
3節の言葉です。

どうしても睡魔に勝てずにうとうとすること、ありますよね。
一生懸命、膝をつねったり、舌を噛んだり、
ほっぺたをたたいたり、ガムを噛んでみたり、
歌を歌ってみたり・・・。

でも、主はまどろむこともなく、いつもいつも私たちを守っていてくださる。

疲れることもなく、
休まなければいけないこともない、

いつもいつも、私たちに目を向けていてくださる。

私たちのことを心にかけていてくださる。

まどろむこともなく・・・。

いつでも。

主よ、
私たちの側で、
あなたのことが見えなくなることがあります。
あなたが守ってくださっていることを忘れてしまうことがあります。

でも、あなたはまどろむこともなく、
私のことを守ってくださる方。
信頼して、あなたに私の人生をゆだねます。
これから進んでいく道でも、
私に必要な訓練を与え、
いつも、いつでも、私とともにいてくださることを、
教えてくださいますように。

2007-07-23

主に呼ばわる

今日は昨日の予想通り、
冷たい雨でしたね。
気温は20度止まり、
一日雨が降っていました。

でも、これも今日一日。
明日はまたそこそこ暑くなりそうです。

雨も降りません。

それほど湿度も高くなく、
30度くらいの温度だと思います。

来週のJOYJOYキャンプは、
「暑い!」予想です。
今年は例年より2-3週間早いので、
暑いんでしょう。

今日は久しぶりに「献血」に成功。
2回続けて「成分献血」に失敗していたので、
今日は強硬に「whole blood」を主張して、
成功しました。

いやあ、あっという間。
成分献血は1時間以上かかりますが、
whole bloodの献血は10分くらい。
あと、成分献血は成分を取り除いた自分の血を戻すときに、
体が冷えるんですよね。
すごく疲れる感じがします。
whole bloodの献血はそういうこともなく、
「え、もう終わったの?」という感じでした。
よかったよかった。

「いい血だ」とほめられたヘモグロビン値は14.5
喜んでいて、帰って調べたら男性は13.8-17.2ということで、
結構低い方じゃん、と思いました。
女性は12.1-15.1
やっぱり男の方が「血の気が多い」人が多いのはここら辺もあるんでしょうか。

さてさて、Moon大使の証し、その6。

中国の勤務になったMoon大使。
そのころ、韓国の教会は北京には一つだけ。
何がうれしかった、って、
「祈り会から逃げることができる」のがうれしかったそうです。

そこで何ができるだろうかと思って始めたが
若者たちのためのBible Study。
韓国で毎日教会で聖書の学びをしていた中で、
自分が学んだことを中心にして、
「聖書の脈をつかめ」というコースを始めたそうです。

それが調子に乗ってきた頃に、
健康診断で「胃ガンの末期」と診断されたのです。

胃の80パーセントを切除しなければいけない。
そして、1年間のキモセラピーをしなければいけない。

手術の前に牧師が祈ってくれたそうです。
「この苦難は大変な祝福の始まりです」と。

手術は韓国でして、体力があるので、北京に帰って勤務をしながらキモセラピーを受けたそうですが、
本当につらかったそうです。「どうしたら耐えられるのでしょうか?」と祈ったときに、
「せっかく聖書学び会をしていなかったのか」と問われました。

そのときに心に響いてきたのが、エレミヤ書31章13節の
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」でした。

それから、まるでスポンジに水が入ってくるように御言葉が心に入ってくるようになったそうです。

本当にその苦難の時が、祝福の始まりとなったのでした。

つづく・・・。

さて、昨日の聖書。
昨日は詩篇の120篇でした。

「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」
1節の言葉です。

悪意を持った人々に囲まれている中で、
彼は主に叫びました。
主に呼ばわりました。

それに主が答えてくださったのです。

主が答えてくださる、
それはすばらしいことです。

でも、それと共に「主に呼ばわる」ということを考えさせられたのです。

自分は苦しいときに、まず「主に呼ばわる」ということをしているだろうか、
人の慰めや支え、理解を求めていないだろうか、
そのようなことを考えさせられました。

本当に主に呼ばわることを大切にしたいと思いました。

主に祈る。
祈りこそが解決の道であることを思わされます。

主よ、
あなたが私の主です。
あなたをいつもいつも第一とさせてください。
あなたをあがめさせてください。
苦しみにあったときに、
あなたからの解決を頂くことができますように。

2007-07-22

むなしいものから目をそらす

今日は、昨日までよりちょっと暑くなりましたが、
まだまだ快適な方です。
今は夜の10時半。22度くらい。
やはり夜が涼しいと助かります。

明日は東海上に低気圧が発達する可能性があって、
日本の梅雨寒の時のような涼しい雨になるでしょう。
かなり雨の量が多くなるかもしれません。

今日は日曜日で、Moon大使の話もちょっとお休み。

礼拝と、礼拝後の祈り会、
だんだん教会がどういうものかが、
現れてきていると思います。

祈り会っていく中に、
中身としての、実質としての教会の土台が作られつつあることを感じます。
もっと祈りあうような、また魂の底で触れあえるような、
交わりが広がっていくようにと思われました。

まだまだ始まったばかり。
これからです。

なかなか追いつきませんが、
昨日の聖書。

昨日は詩篇の119篇を読みました。
長い詩なので、少しずつ味わって、何日かかけて読もうかと思っていたのですが、
読んでいる中で、止まらなくなってしまって、いっぺんに読んでしまいました。

「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。」
37節の言葉が心にとまりました。

自分の目がどこに向いているか、
何を見ているのかと思わされます。

むなしいものを見ていないか、
神様をしっかり見つめているか、
人々を見ているか、
その心の中に心を向けているか、
問われているように感じました。

水の上を歩いたペテロのように、
イエスを見ているときには、
イエスを見つめているときには、
嵐は気にならないものでしょう。
でも、一度嵐に気をとられると、
嵐の方が怖くなる。
イエス様が見えなくなる。

だから、見るべきものを見続けていくものでありたいと思いました。
私の肉体の目も、心の目も、守られていくようにと祈ります。

主よ、
どうか、私の目を守ってください。
肉体の目を守ってください。
霊の目も守ってください。
あなたをしっかりと見つめつつ歩む者でありますように。