2010-03-13

停電中。

夜の11時です。
すごい嵐で、6時頃から停電中です。明日の時間(daylight saving time 始まります)では、もう12時ですし、起きててもできることが限られているので、もう休みます。

ではでは。

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外は嵐。

今や嵐といえば、お天気用語より、グループの名前になってしまいましたね。

今夜にかけて、嵐です。

さっき、停電しそうになりました。

明日のメッセージの準備中。@11am


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2010-03-12

休む。

はい、メールとかもフォローし切れていないのですが、とにかく、今夜はもう、やすみます。

明日、気持ちよく起きれますように。


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2010-03-11

神の言葉に本気になる。

昨日、今日と、それまでよりもちょっと肌寒い、
どよーんとした天気です。
で、今夜からこれが泣き出します。
月曜日くらいまでずーっと泣いているみたいです。


こっちも泣きたくなるような天気です。
そして、一回暖かいのを経験してしまうと、
ちょっとどんよりするだけで、肌寒く感じます。
来週は暖かくなるみたいです。
また楽しみです。


今日の祈り会もよかったです。
先週の土曜日は12人でしたが、
今日の午前中は5人。
まあ、BTとか行くと、3000人とかですが、
祈り会はやっぱり人数じゃあありません。


真実な交わりと、聖書の言葉に対する真摯な姿勢。
従おうという思い。そして、祈ろう、という思い。


でも、その祈ろう、というのも、
お勤めみたいじゃあもったいない。
主の許に安らぐ祈りです。
主の許にほっとして、ともに語り合うひととき。


もちろん、格闘するような祈りもあるでしょう。
でも、基本は主の許に憩うひととき。
そんなとき、心から感じます。「ぼかあ、しあわせだなあ」と。
今日の祈り会はまさにそんな祈り会でした。


そして、今日は神の言葉に自分の存在をかけていくリベカの姿から学びました。


神の言葉よりも世の常識や自分の好みを優先して
エサウを祝福しようとした夫イサク。
その頑固な夫に対して、自分が聞いた神の言葉を堅く握って、
ヤコブが祝福されるために、自分が呪われることさえも厭いませんでした。


自分も本当にそれほど、神の言葉に対して、真剣でありたいと思います。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ23:1−12。


「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。」5節。

人がどう思うかではなく、
自分が神様との関係をしっかり結んでいく。
神様との関係の中に自分の喜びを見いだして、
神様との関係の中に歩んでいく。

それが私たちの幸せであり、
私たちの祝福だと思いました。

人が見ているからとか、
人がどう思うかに振り回されることなく、
堅く立っていきたいと思います。

主よ、
パリサイ人のことを責めることは簡単です。
でも、自分も同じような弱さを持っていることを思わされます。
どうか、わたしも人の目を気にするのではない、
あなたと共に歩む喜びの中に生きる者とならせてください。

2010-03-10

お腹をこわしやすい血液型?

まだ5時ですが、夜帰ってから更新するパワーが無いこともあり得るので、
ちょっと時間ができた、今のうちに・・・。

うちの夫婦ですが、私は割合お腹をこわしやすい方です。
2007年の新年は上へ下への大騒ぎの中で新年を迎えました。

そして、その年は5月までの間に3回もお腹をこわしました。
でも、のんちの方は「ちょっと調子が悪いかな・・・」くらいのもんです。
(その代わり喉は私が強くてのんちが弱い、とかありますが)

まあ、体質なんだろうなあ、と思っていました。

でも、先日、冬の腹下しの原因NO. 1の「ノロウィルス」のことを調べようと、Wikiを調べていたら
「O型は罹患しやすくB型は罹患しにくい」だって。
えー?やっぱり?はい、私はO型で、のんちはB型。
他にも「あんまりお腹こわさない・・・」と言っておられたB型の方もおられたり、
「へえ、そうだったんだ!だからかあ。」と思い切り納得してしまいました。


「まあ、Wikiはよく不正確な情報があるからねえ」と思いつつ、
いろいろ調べてみましたら、要は、そんなセンセーショナルな調査報告があって、
いろんな研究がなされているようですが、
確かに小腸の腸壁にウィルスがとどまるための血液型抗原がある、というみたいですね。
つまり、ある特定の血液型の人にだけ感染するウィルスの型がある。
しかし、それはノロウィルスの主要な型の一つの話で、沢山ある型の中にはいろんなパターンがあるので、一概に言えない、ということみたいです。
沢山ある資料の中でわかりやすいのはこれかな。ラジオ用の原稿のようです。


でも、その資料とか読むと、研究のために、ボランティアの人たちにノロウィルスを飲んでもらう、ってすごいですよね。研究者の方々には申し訳ないですが、これだけは私はかんべんして欲しいです。とてもじゃないけどできません。研究のため、人々が助かるため、と言われても、できません。その苦しさをほんとに嫌というほど知っていますから。


同じレベルではないですが、イエスが十字架にかかったとき、
それはどんなに痛みであるか、どんなに苦しいことであるか、
どんなに深い孤独であるか、イエスは知っておられたことでしょう。
イエスはその苦しみを「杯を飲む」という言葉で表しています。


どんな思いをされたんだろうか、
そして、その杯を私達のために飲み干されたイエスの愛を思わされます。




さて、日、月と休んで、昨日、火曜日に読んだPurpose Driven Life。
16日目は「神の家族として愛しあうこと」がテーマでした。


心に残ったのは、「愛することは時間を使うこと、時間を共有すること」。
本当にそうだなあと思います。
与えられた限らた時間、どのようにそのために使うのか、
そのために犠牲にすべきものはなにか、
「広く薄く」か「狭く深く」か、
いろんなことを思わされます。


でも、時間を共有し、言葉に耳をかたむけること、
本当に大切な事だと思います。


さて、今日の聖書。
今日はマタイ22:34−46。


「ダビデはキリストを主と呼んでいる。」45節。

人々はキリストを「ダビデの子」と読んでいました。
ダビデのような救い主、ダビデのような力ある王、
彼らはそれを待ち望んでいました。

でも、イエスはダビデの子であるとともに、ダビデの主なのです。
ダビデのイメージに縛られることがない、
大きなお方なのです。自由なお方なのです。

イエスはいつもいつも私達の考えるイメージを超えておられる方です。
わたしを驚かせてくださる方です。
本当に自分がイエスを一つの型の中に、枠の中に
閉じ込めてしまうことがないように、
本当にイエスを主として、主と崇めて、
主として、従って歩んで行きたいと思います。

主よ、
あなたの力に感謝します。
あなたの見せてくださる奇蹟に感謝します。
あなたのことをわたしのちっぽけな頭の中の
イメージに閉じ込めてしまうことがありませんように。



マクドナルドの無線。

アイスは機械が壊れていたり、高かったり(ま、1ドルでも十分安いですが)、
いろんなトラブルのある、最近のマクドナルドですが、
NYにオフィスを持たない私にとって、ここでの無線LANがタダになったのはものすごいgood newsでした。
確か、今年の1月からですが、全米のマクドナルドで、今まで有料だった無線LAN接続が無料になりました。


今まで、図書館で無料で無線LANにつないでいましたが、
そこでは静かにしていなければならない(携帯に電話がかかってきたら、階段に出て話す)、昼寝ができない(うとっとしてただけで注意されたこともあり)、など、いろいろ不自由がありました。
あと、何よりも接続が不安定で、スピードも遅かったです。
もちろん、マクドナルドでも昼寝や携帯での通話がOKだとは思わないのですが、余り神経質になる必要はありません。
そして、接続もずっと安定しています。


これも、マクドナルドで祈祷会を持った後、そのままそこでつないでいます。
これからはJCCNJのNYOfficeはLex. Aveの45th Stにあるマクドナルド2Fになります。ヨロシク。


さて、ちょっと休んでいたPurpose Driven Lifeですが、先週の土曜日は15日目、「神の家族」について読みました。そう、2週目は神の家族であるクリスチャン同士の関係や教会のことがテーマになります。


「血縁関係の家族よりも、神の家族のほうが大切」


これはかなりセンセーショナル、というか、衝撃的な言葉ですね。
聖書の中でも、家族よりも神様を第一に、とイエスは言われています。
でも、また家族も大切。
でも、どちらかと言うと、私自身、「神の家族」の大切さをどれくらい伝えてきたか、
そのように生きてきたか、問われているように感じました。


そこら辺のこと、これからすこしずつ学んでいければと思います。


さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:23−33。


「聖書も神も力も知らないからです。」29節。

自分は知っているだろうか?
聖書も神の力も。
教会の人々に伝えているだろうか、
聖書を知ることの大切さ、
そして、神の力を知ることの大切さ。

神の力を知る。
これは本当に尊いことだと思います。
また、本当に謙虚にさせられることだと思います。
「神の力を知った」と言いながら傲慢な香りを放っている方がおられます。
正直、そのような言葉は信じられません。

神の力の前に、私たちは謙虚にならないではいられないのです。
砕かれないではいられないのです。

もっともっと聖書を知らせていただきたい、
そして、もっともっと神の力を知らせていただきたい、
そのように思わされました。

主よ、
どうか、あなたの力を教えてください。
どうか、あなたのみ言葉を教えてください。
そして、その前に砕かれた者となりますように。

2010-03-09

今どきの・・・かな?


足の写真なんて失礼しますが、
これはウチの末っ子の昨日の靴下のコーディネート。
今日なんてもっとハッキリ違うのを履いていましたが、
今、こいつは、毎日、靴下左右で違うのを履いています。


ちょっと前までは、
「暗いところで履いたら、違ってた、恥ずかしい!」って感じだったんでしょうが、
今は、結構そういうのがあるみたいです。


ちなみに、ウチの兄貴は、むかーしから、これをやっていました。
「間違い」じゃなく、「必ず片方だけ先に穴が開くけど、両方捨てるのは勿体無いから・・・」と言っていました。
時代の40年くらい先を走っている人でした。
すごい人だと思います。(色んな意味で・・・)


だけど、ウチの末っ子、上の二人とはちょと違ったものを持っています。
イマ風の子になるのでは・・・と楽しみと不安と。
神様がこの子に与えて下さった賜物が生かされますように、
親が親の考えた枠の中に閉じ込めてしまうことがありませんように。


昨日も、今日も暖かいです。
助かります。


日本はすごい大荒れみたいですが。


こちらの穏やかな天気も明日までで、
木曜日から月曜日くらいまで、またぐずついた天気が続きそうです。


さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:15−22。


「神のものは神に返しなさい」21節。

日曜日に「神様の準備したカスタムメイドの使命に生きよう」とメッセージで語ってから、
ずっと、自分の使命を思わされることが続いています。
主が私のために準備した使命。
主がわたしが生まれる前から、わたしのために備えておられる使命。
何だろうかと思います。

最近買った靴。
サイズもお店で測ってもらって、
「このサイズがいい」と言われたもの、
「この靴が今までよりも、『もっと歩きたい』という気持ちにならなかったら、30日以内だったら返品OK、全額返金保証」という靴。
本当に楽ですし、本当に「もっと歩きたい」と思います。

そのように、わたしにぴったり来る、
カスタムメイドの使命に生かしていただきたいと思いました。

神様のものだから、神様の願うような歩みをさせてただきたい。
それが自分にとっても最高の歩みだから。

主よ、
他の人のための使命ではなく、
他の人の真似ではなく、
ただ、あなたがわたしのために準備された使命に生かして下さい。
それを見極める目を与えて下さい。
人の言葉ではなく、あなたのみ言葉に聞いていく者とならせて下さい。

沈没。

追いついたばかりですが、
12時も回ったことですし、
沈没しておきます。

ではでは。

2010-03-07

マクドナルドのアイス。

今日の夕食は久々のマクドナルド。
ハジは遊びに行っちゃうし、
のんちはもう早く休んでしまったので、
ユキとサキを連れてDollar Menu狙いで行ってきました。

で、食後はアイスを食べるのが楽しみです。
元々、1個25セントだったと思うのですが、
いつからか、29セントになり、そして、今は39セント。
じゃあ、3人で1ドルちょっとだね、ということで、
今日も食べることにしました。

でも、悪いことに、
機械が壊れている・・・という返事。
しょうがない、と諦めたのですが、
どうしても諦められない末っ子がごねて、
もうひとつのマクドナルドへ。

私たちの町の周囲には、
ショッピングモールを別として、
17号線の北のほうに1軒あって、そこで食べたのですが、
4号線の教会のそばにも1軒あります。
そこに回ることに・・・。

でも、行ってみて、固まりました。
なんと、その店ではアイスが1ドル。
片方の店で39セントのアイスが、もう1軒では、1ドルですよ。
あり得ませんよね。
1ドルしかなかったら、「安いじゃん」と思うでしょうが、
25セントから始まって、39セントでも高い、と思っているんですから、
1ドルはないですよね。

みなさんだったら、どうします?

もう、ここまで来たら諦めきれなくて、
「一杯のかけそば」ならぬ、「一個のアイスクリーム」をしてしまいました。
はい、1ドル+TAXで1つのアイスを買って、
3人で回し食いしました。うーん、やっぱり一人1個食べたかったかな。

今日の礼拝も幸いな礼拝でした。
久しぶりに大学生も何人か帰ってきていて、
良かったです。

スペイン語しか話せない方も来られて、
ほんとに英語が通じない、
「ああ、もっといろいろな言葉が話せるようになりたい」と思いました。
でも、そんな中でも、同じ主を礼拝できるのは、不思議ですね。
スペイン語が話せる方々が何人かおられること、
本当に感謝しました。

さて、今日の聖書。
マタイ22章1−14節。

「そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」11節。

礼服の話です。
何週間か前の礼拝でお話しました。
たしか、日本から戻って最初の礼拝。
2月14日だったかな。

礼服は入り口に用意されていた、
でも、この人は敢えてその礼服を身に付けなかった。
どうしてだろうかと思います。
おそらく自分の準備してきた服で十分だったと思ったのでしょう。
自分のコーディネートに自信があったのでしょう。
準備された礼服を身につけなかった。

この「準備された礼服」はイエスの十字架による神の義。
それよりも、自分の義の方がいい、
自分の義で大丈夫、と思った人がいた。

でも、駄目だったんですよね。

主の与えてくださる義、
主が認めてくださること、
そこに感謝して、そこに生きて行きたいと思いました。

今日の礼拝でもそうでした。
ただただ、主の憐れみ、主の恵みの中で、
歩まされる幸いを感謝します。

主よ、
どうか、あなたの恵みの中に歩ませて下さい。
自分のコーティネートにではなくて、
あなたの準備された礼服を着て、
あなたのところに行くことができますように。