2008-09-27

策略と神の選び。

今日は、朝早く起きて飛行機でミシガン州アナーバーでのJ兄の結婚式。
アメリカ各地、また日本からも、多くの方々が祝福に来られた。

新しいご家庭に祝福を祈ります。

とここまで書いたら眠くなったので、ここまでで沈没。

またあしたに。

バブルシャワー。

これはあまりに個人が特定出来てしまうので、期間限定で。

ケーキ。

J兄結婚の誓い。

メッセージ。

開始。

品性。

また日付が変わってしまいましたが、
今、26日の夜。
26日の雨は朝のうちだけで、
午後はほとんど止んでいました。
今メリーランドからペンシルベニアに入ってきた雲や、
メリーランド沖の大西洋上の雨雲がどこまでこちらにかかってくるかによりますが、
このまま行けば、雨はたいしたことなく終わってくれそうです。


で、この低気圧の影響でVirginia Beachでは大変なこと が・・・。
車が砂に埋まっています。
雪に埋まることもたまにありますが、
これはちょっとレベルが違いますね。
これは車の持ち主は泣きたいですよねえ・・・。

26日の聖書。
26日はサムエル記第二14章21-33節。


「アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした。」33節。

朝も書いたのですが、
「なんだかなあ」という気持ちを引きずりながらです・・・。

このアブサロムの礼も王様の口づけも、形だけだったのでしょう。
次の節を読むと、アブサロムは早速勢力をつけ始めます。
一応これは「名誉回復」の儀式だったのかもしれません。

アブサロムも王を敬ってなんかいないし、
ダビデもアブサロムを受け入れているわけではない。

でも、一応形だけ・・・。

むなしい思いが湧いてきます。
こういうの、私も経験がありますが、
悲しいですよね。形の上では一つ区切りをつけたことになっているんだけど、
結局何も心開くことなく、何の解決もなく・・・。

そんなことを考えていたら、
先週からずっと語ってきた、
自分が人々に影響を受ける以上に
与えることができる者になろう、
そのためには外側ではなくて、
内側が、品性が整えられることが必要なんじゃないか、
その話が自分に問いかけてくるのを感じました。

自分の品性はどうなんだろうかと。
何をする、ということ以上に、
自分の内なる人が、自分自身が、
どんな者であるのか?

心に少しずつ光が当てられ、
取り扱われているのを感じました。

まだまだ始まったばかりです。
でも、主が取り扱ってくださることに、
心を開いて、委ねていきたいと思わされています。

主よ、
形だけはむなしいです。
どうか、心の通じる関係を与えてください。
私の中に、私の品性の中に、
そのような心が通じる関係を生み出せる
そんな品性を与えてください。
あなたが私の内側を取り扱ってくださることに、
心から感謝します。
どうか、これからも一歩一歩導いてください。





2008-09-26

個性満開。

昨日はまた沈没宣言もせずに早く休んでしまいました。
朝の旧約聖書の学びも、
午後のJOYJOYキッズクラブも、祝福された、いい集まりでした。
でも、それだけではなくて、ひとりひとりの心に聖書の言葉がとどまりますように。


今月のキッズクラブの工作はこれ。




さすが、クロッキー教室の成果が上がっていると思いませんか?
目の玉はビー玉。目の縁はペットボトルの輪切りです。


で、以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、
私は元々、動く工作、ゲームができる工作が大好きなのですが、
そういう工作の中には画一的にやらなければいけないものもあります。
みんなが同じ作品になってしまうもの。


だから、最近はこういう個性が出る工作がまた好きになってきました。


こんな感じ。




ほらね。いいでしょ。


これからもJOYJOYキッズクラブをよろしく!


昨日の夜、早く休んでしまったのでわかりませんが、
起きたら雨が降っていました。
それも、かなりたくさん。


今は10時過ぎで小降りになっています。
この雨、日曜日くらいまで続くようです。
かなりまとまった雨になりそうです。


さて、昨日の聖書。
昨日はサムエル記第二4章1-20節。


「 あなたの家来ヨアブは、事の成り行きを変えるために、このことをしたのです。」20節。

昨日、今日と、私は「ここから主は何か私に語っておられるんだろうか?」というなんだか、わからない気持ちにおそわれています。ただ、お話として読むと、ふーん、っという感じなのですが、だから、そこから主が何か私に学ばせようとしておられるのか、私に語ろうとしておられるのか、よくわからないです。
たぶん、このブログがなければ、「わかんないなあ」で終わってしまうと思います。
いや、書きながらでも、「そうなのかな」という気持ちが全くないわけではありません。
そんな気持ちを引きずりながら、でも、書きますね。

私はこの最後の女性の言葉、ヨアブの意図を語る言葉、ちょっと違和感があります。

「ヨアブ将軍は心配してやったんです」
「ヨアブ将軍は一生懸命だったんです」
「ヨアブ将軍は王様のことを思って、国のことを思ってやったんです」
だから、王様、怒らないで。
だから、王様、みんなの気持ちも考えて。

そして、「成り行きを変えようとして・・・」と。

でも、成り行きは変わりませんでした。
アブサロムは王に反逆を試みるのです。

そう反対に、ある意味引き金を引くきっかけを与えてしまったんだろうと思います。

私たちの歩みの中にもあると思います。
「一生懸命やった」
「あなたのことを考えてやった」
「神さまのためにやった」
「教会のためにやった」
家族の間でもそうですよね。友人関係や、教会でも。
自分のこともそうだし、周りの誰かのことを言っていることもあります。

でも、そういう人間的事情が幅をきかせてはいけないんだなあと思います。

神さま、
昨日の箇所、そして、今日の箇所も、
あなたが何を言おうとしておられるのか、
とても難しいところでした。
でも、とにかく、人間的な思いとか
人間的な事情が幅をきかせてはいけないんだなあと思います。


どうか、私の心を守ってください。
私の一つ一つの判断、決断を守ってください。
いつもあなたの導きを見つめていくことができますように。

2008-09-24

NYレジスキャン泣き笑い。

今日はまた暖かかったですね。
スーツを着てNYを歩きましたが、
朝はちょうど良かったですが、
夕方は汗をかくくらい。


でも、この天気も今日まで。
明日は北東の冷たい風が強く吹き、
夕方からは雨です。
どうやらハリケーンの可能性はなくなったようですが、
かなりまとまった雨になりそうです。
特に明日の夜からあさってにかけてが大雨です。
ご注意を。


また土曜日の飛行機もたぶん大丈夫でしょう。


さて、下の写真に写っている爪切りですが、
2週間前にNYで買いました。
出先で、コンピューターに向かって仕事をしていたのですが、
爪が長くて、結構イライラしていました。
で、近くのDuane Readeというドラッグストアで探しました。
「マイ爪切り」として持ち歩こうかと思って、我が家にないようなのをさがしました。
そして、$1.99という値段が付いていたので、これがいいや、と思って買いました。
そして、お金を払って出たら、値段が$2.49で付いているじゃないですか!
「ラッキー!」と思いました。


だって、家の近所のスーパーだと、値段が間違って請求された場合には、
その一品はタダになる!からです。(ただし、10ドルまで・・・それでも大きい・・・)
何度、それでタダのものをいただいたことでしょうか。
「そんなことばっかりしているのか?」とあきれられないようにと、
あえて書かなかったこともあります。
それくらい、ちょくちょく多く請求されているんですよ、皆さん!


で、今回もいつものように「値段が違うんだけど」と申し出ました。
そしたら、「あっちの人に言って!」と、「あっちの人!」「あ、ホントだ間違っている!あっちの人に言って!」とたらい回し。で、何度も「ちょっと待って、ホントに間違っているかどうか、確かめてくるから!」って何回も繰り返され、20分くらいかかって、やっとお金を返してくれました。


でも、お金は返してくれましたが、
品物はくれません。
「それ、ちょうだいよ」
「え、あなた返品じゃないの?」
「違うよ、値段が違っていたから払い戻しして欲しい」


「だって、あなた全額受け取ったじゃない?」
「そうだよ」
「だったら、品物は返すのが普通でしょ」
・・・確かに、私もつい15年前まではそれが普通だと思っていました。
でも、私の「普通」は変わりました。


「スキャンが間違っていたら、タダでもらえる」
これが私の普通になっていたのでした。


で、「普通は、スキャンが間違っていたら、タダでもらえるでしょ」と答えたら、
レジのお姉ちゃん(おばちゃんかも・・・)、のたまわりました。


「タダなんてこの世の中にないよ」
そして、たたみかけるように、笑いながら、
「タダのものは天国行ってから!こっち側にはタダはないの!」
って、言うじゃないですか!
私も馬鹿にされて腹が立って、
「あんた以外の店じゃ、これはタダなんだよ!」と捨てぜりふを吐きながら、
でも、しっかり$1.99で品物を買い直して出てきました。


「ああ、なんで、あそこで、『この世でもイエスによる救いはタダだよ!』と牧師らしいことを言えなかったんだろう?」って後でちょっと自己嫌悪。


でも、本当は、他の店のこと、知りません。
Shopriteはタダになるし、アトランタ時代のKrogerもタダになりました。
でも、他の店は知りません。Duane Readeだめなのかなあ。


さて、2週間経過して今日の話。
カバンの中をどんなに探してもボールペンがありません。
これはまた困ったな、と、Staplesで買うことにしました。


で、私はボールペンMade in Japanがいい。
途中でインク切れするとすごい悔しいし、
(でもよく途中でなくすけど・・・)
書き心地もいい。
で、日本製を探しました。
そしたら、見つけました。
Zebraの4本で4.99ドルのヤツ。
まあちょうどいいな、と思ってレジに持っていくと、
なぜか、スキャンして出てきた値段は$0.50。


思わず、「え?」と声が出てしまいました。


・・・ああ、ばか正直。


で、お店の人も首をかしげて、
もう一回スキャン。
やっぱり$0.50。
「いいのよ」とお店の人も「OK!」。
もちろん、私もこの期に及んで「$4.99って出てたけど・・・」
なんて言い出してお店の人を困らせたりしません。

こっちの場合は、さすがに文句言いませんよ、私も。
単なる打ち間違いは、さすがに悪いので「違うよ」と申告しますが、
お店の人がOK出したら、感謝して頂くようにしています。


アメリカに来たばかりの頃、一生懸命、おつりが多すぎることを説明していたら、
「ああ、よくわからない、とにかく、自分が得するんだからいいでしょ!」とうっとうしがられましたので・・・。
でも4本で50セントは安いですね。もっと買っておけば良かった。
5番街と44丁目の角にあるStaplesです。


長くなりました。
さて、今日の聖書。

今日はサムエル第二13章23-39節。


「それから満二年たって・・・」23節。

2年間ですよ、2年間。
2年間、ずっと恨みを持ち続け、
復讐の機会をねらっていたんですね。

そんな時間の使い方ってあるだろうかと思います。
2年間を恨みと、復讐の思い、そのための計画に使ってしまったなんて。

この後、アブサロムは王に謀反を企て、最後は戦死するのですから、
何のために生きていたんだろうかと思います。

ああ、恨みに生きてちゃいけない。
恨みに大切な時間を奪われちゃいけない。
そう思いました。

いざ、恨みを持たなければいけないような、
そんな経験をしたら、こんな思いはぶっ飛んでしまうでしょうから、
だからこそ、普段のこんな時に、
恨みに大切な時間を奪われるのは愚かなことなんだということを、
心に刻んでおきたい、ちゃんと明言しておきたい、
そのように思いました。

神さま、
アブサロムが2年間も恨みを持ち続け、
復讐の準備をしていたかと思うと、ぞっとします。
どうか、私を守ってください。
アブサロムのように恨みに時間を奪われているときがあったら、
どうか、私の心に語ってください。
2008年9月24日に、恨みに時間を奪われるなんてもったいない、
とそう思ったことを思い出させてください。
私の心を守ってください。








メールで投稿。

携帯で写真を撮って、そのまま携帯からメールで日本語で投稿できる。
日本はあたりまえのことが、海外でも、できるようになってきた。
2年前に、実験して失敗したけど、
今回は大丈夫でしょう。

2008-09-23

どこに身を置くか。

今日はやはり朝は涼しかったですが、
昼間はまた暖かくなりました。
本当にぽかぽか陽気。


でも、長く続いたこのいい天気も明日まで。
朝は10度くらいまで下がりますが、
昼間は20度を超えて暖かくなります。
でも、木曜日からは数日ぐずつくようです。
特に、木曜日と金曜日は肌寒い雨になりそうです。


このあと、ノースカロライナ沖に低気圧が発生して、
北に上がってきます。
また今プエルトリコ付近にある雨雲が
この後北に進んで、熱帯低気圧になります。
それらが今週末にかけて、こちらの方に向かってきます。
その中の一つの可能性として、
熱帯低気圧がハリケーンに発達して北東部を直撃すると言うシナリオです。


そうでなかったとしても、かなりの大雨になるようです。


要注意です。


先日、ある方から、
「教会の祝福のために、牧師が養われて、満たされる場を持って欲しい」という話があり、
自分自身もその必要を感じているので、いろんなことを考えているのですが、
(アメリカには牧師夫妻を無料で泊めてくれるリトリートプログラムがいろいろあるんですね・・・)
今日の朝、「今日は火曜日だから、Brooklyn Tabernacleの祈り会に行こうか」と思いました。
思ったら、それに主が賛成してくださるかどうか、祈るべきだと思わされ、「主よ、この計画はどうでしょうか?」と祈りました。


そのときに、思わされたのは、「主はあそこに行かなくても、ここにもおられる」ということでした。
祈ることはそこに行かなくても、ここでも祈ることができる。
もちろん、自分の所属する教会の祈り会だったら、何も迷わずに行ったでしょう。
そこで、「ここで祈ったって同じさ」というのは言い訳でしょう。
でも、今問題になっているのは、「祈り会」で有名な教会の祈り会。
自分が責任を持ち、自分が教会員として支えている教会ではありません。


もちろん、何度もそこに行って、私は力が与えられる経験をしました。
ずれていたチューニングが戻される経験をしました。
でも、今日は、ここで祈り、家族と過ごしたらどうだ?と聞かれているような気がしました。
そこで、今日はBTの祈り会に行かずに、家で過ごしました。
どっちが良かったのか、わかりません。


主は決してBTの祈り会に行かなければお会いできないような方ではありません。
でも、そこに身を置くということを選ぶのも一つ大切なことだと思います。
どこに身を置くか、選ぶことも大切な責任だと思いました。


でも、私は今日の決断は正しかったんだろうと思います。


次の火曜日も、主に祈ってみようと思います。


さて、今日の聖書。
今日はサムエル第二13章15-22節。

「Get this woman out of here and bolt the door after her.」17節。

今日も英語の方なんですが、
この女を追い出して、扉に掛けがねをしろ!ということですよね。
その「bolt the door」というところまでする必要があったのでしょうか?
「もう誰も入れるな!」という感じですよね。

自分のしたことさえも閉じこめて、誰もそれにものを言わせない、というような勢いを感じます。

そして、本当にダビデもただ「怒る」だけで、
アムノンに対して、正しい処罰を下すことはしません。
おそらく、自分の過ちの深刻さを知っていたから、
アムノンのしたことも責めることができなかったのでしょう。

その中で、タマルが受けた屈辱。
彼女は兄のアブシャロムにも「黙っていなさい」と言われて、
寂しく暮らしたとあります。

どんなに悔しい思いがしただろうかと思います。
その悔しい思いを、恋していた頃のアムノンも、彼女を憎むようになったアムノンも、それを想像することなんかできなかったでしょう。
タマルの屈辱を、その恥辱を、アムノンは最後までわからなかっただろうなと思います。

私たちの人生でもあります。
最後まで恥辱を感じるようなこと。
どこまでも屈辱を感じるようなこと。

ただ、主が正義をしてくださる。
最後にはすべては明らかにされて、
主は公平をしてくださる。
隠されていることで明らかにされないことはない、
と言われた主の言葉を信頼して、忍耐するのですね。

主よ、
あなたを信頼します。
タマルの屈辱を覚えるときに、
主よ、どうして、と思います。
主はどうして最後の瞬間にタマルを助けてくださらなかったのだろうかと思います。
主はどうして、もっとすぐにアムノンに正しい裁きを下すことをなさらなかったのか、と思います。
でも、私はそれでもあなたを信頼します。
あなたの正義を信頼します。
だから、私は自分の人生の中に、
納得いかないことがあっても、
主がいつも正義でいてくださることを信じます。
いつまでも隠されていることが明らかにされないことはない。
それを信じていきます。
忍耐を与えてください。

2008-09-22

What about me?

今日2回目の更新でやっと追いつきました。
ずっと遅れていたので、ものすごい気持ちがいいです。

今日の聖書はサムエル記第二13章1-14節。


今日は英語のNIVで、「What about me?」という13節のタマルの言葉が心に留まりました。

「わたしはどうなるの?」「わたしのことはどう思っているの?」ですよね。
アムノンはタマルのことなんか愛していませんでした。
自分のことしか考えていませんでした。
自分の満足のために、自分の欲望の実現のために、
策略を巡らして、自分より弱いタマルを手込めにしました。

そう、「おまえはどうなんだ?」と聞かれました。
こんな乱暴なことはしていない。こんな恐ろしい罪を犯してはいない。
それははっきり言えます。
でも、人を大切にしているか、本当に愛しているか、
と言われると、同じ穴の狢なんじゃないかと思います。

わたしは本当に人を愛したり、人を大切にしたり、してきただろうか?と。

数日前に水谷先生が、この聖書箇所を引用しながら、
男と女の違いを書いておられました。
http://blog.chiisana.org/?eid=905226

最後の方に「ファイト一発男のターゲットは美女やモテ女たち。」とあります。

なるほど、と思いました。
子供の頃から、美男美女がうらやましくてなりませんでした。
モテ男、モテ女との友だちの輪の中に入ったこともありましたが、
ここ一番での彼らとの落差は厳しかったです。
指くわえて見ていた方ですね。

こんなことを言っても、
「そんなことないですよ、いい線行っていますよ」なんて言われることはまずありません。
「中身で勝負ですよね!」と言ってくださる方もあまりいないかな?
せいぜい、「そんなこと言わないでくださいよ、蓼食う虫も好き好きですから・・・」と全くフォローになっていない慰められ方をするくらいです。

でも、この聖書の箇所を読んだり、水谷先生のコメントを読むと、
美男美女も、自分の内側をなかなか見てもらえなくて、
中身を見てくれようともしない、しょうもない人が周りに集まってくる、という悩みがあるのかと思います。

ある若い女優さんが以前言っていました。
ものすごい美人だし、決してスタイルも悪くないのですが、
いわゆる「出ているところ」が出ていない、ということを言いながら、
「それについてはコンプレックスがあるんですが、でも、かえって、わたしの演技自体に注目してもらえることになるから・・・」と。
まだ若かった私は「そんなもんかな・・・」と思って読んだのですが、
いろいろな悩みがあるんですよね。

私はいったい、人を本当の意味で大切にしているだろうか?
利用したり、食い物にしたりしていないだろうか?

何年か前に、クリスチャンのスポーツ選手が、
いろいろなところに呼ばれて、クリスチャンとしての証を頼まれるんだけれども、
なんだか、自分の人生のストーリーがうまい具合に利用されているような気がする・・・と言っておられるのも読んだことがありますが、そのときに使われていた言葉が「exploit」つまり「搾取する」でした。

人を愛し仕えることを教えて頂きたいと思いました。

主よ、
愛することを教えてください。
あなたが私を愛してくださったように、
私も愛することができますように。
人の内側に目を留める者でありますように。

はじめの愛。

今日も穏やかな一日。
昨日ほど暖かくなかったですが、
それでも十分。
今日は秋分の日ですから、
アメリカではFirst Day of Fall。
秋の始まりの日です。


8月頃から涼しくなって、
ずっと朝は15度、昼間は25度という感じできましたから、
急に「秋」と言われても、前から秋なのか、
夏の終わりだったのか、わかりません。
本格的に秋が深まっていくのは10月になってからのようです。


それから、週末にかけて東海岸をStormが北上してくるシナリオがあります。
これは今日の夕方のGFS。
土曜日の朝の予想図ですが、

「これはまずいでしょ」という予想図ですね。この朝、ミシガンに飛ぶ予定なのに・・・。
でも、お天気牧師のテーマソングのとおり、「晴れの日にも、雨の日にも」神さまを賛美したいと思います。


今朝、起きるのがちょっときつかったのですが、
起きてからは気持ちが前に向いていくのを感じました。


そして、賛美し祈っている中で、
3月だったでしょうか、朝教会で祈り始めた時の思いが帰ってくるのを感じました。
「あなたとのパイプを太く持ちたい」「あなたの思いを分かち合って欲しい」
ちょうど半年前だったんですね。
引き戻されました。


昨日までの毎朝も、主がそこにおいでくださって、
共に時間を過ごしてくださったことを感じます。
わたしがもう眠くて「主よ、うとうとしながらでもいいですか?」
と、祈るためにそこに来たのだか、居眠りをするために来たのだかわからない朝も、
主はわたしを喜んでくださったことを信じます。


でも、主はやはりみことばを語ろうとして
わたしを招いてくださっている、
心を備えて出るときに、触れて頂ける部分がある。


そのことを感じさせられた朝でした。


昨日、9月21日、日曜日の聖書。
日曜日はサムエル第二12章15-31節。


「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」23節。

昨日は教会のメモリアル礼拝だったので、
特にこのところが心に留まりました。
私たちがやがて彼らのところに行く。

故人は私たちの思い出の中に生きていく、とよく言われます。
それは一つの慰めです。でも、そこまでです。
神を計算に入れないと、そこまでが精一杯です。
でも、聖書はそれだけではないと言います。
主の御許に行くと。そこで死を超えたいのちを生きると。

だから、今度は私たちが与えられている使命を果たして、
故人の待っている主の御許に迎えて頂けるようにと思います。
(聖書にはイエスが再び来られる最後の日まで眠っているという表現と、召されたその日に主の御許にいるという表現と2種類があります。どちらでも大きな違いはないでしょうし、おそらく、その時点で時間を超える存在にされるのではと思います。)

そこで共に主を賛美することを楽しみにしています。

昨日も若くして主の御許に召された方のことを考えていました。
その方が召された後、ご両親が主を信じる者とされたのですが、
考えてみたら、彼女はご両親がクリスチャンになることを生きている間に知ることはありませんでした。
考えること、想像することも難しかったかもしれません。
この地上では、3人で一緒に神さまを賛美することもありませんでした。

でも、やがて天にてお嬢さんとご両親が共に主を賛美する、
そのとき、きっとわたしもその傍らに立たせて頂ける。
それだけでも、天国に行く価値がある、そのように思いました。
(もちろん、それだけではないですが・・・)

主よ、
あなたがいつもいつもわたしのことを
待っていてくださること、
心から感謝します。
どうか、この地上の生涯を守ってくださって、
あなたの御国に行くまで、支えてください。
楽しみにしています。
でも、この地上でも、もっともっとあなたと共に生きる喜びを教えてください。

2008-09-21

神をさげすむ。

ああ、なんだか、思ったよりも早く眠くなってきました。


と書いてから、何度かうとうとしながら、試合を最後まで見届けて、
1時間以上経ってしまいました。無事7-3で勝ち。
まあ、よかったですね。
シーズン自体はちょっと残念な結果に終わってしまいましたが・・・。


大物選手による補強ではなくて、若手の選手の成長で来年はがんばって欲しいものです。


さて、今日最後の更新は
9月20日土曜日の聖書。
土曜日はサムエル第二12章1-14節。


「あなたがわたしをさげすみ・・・」10節。

誘惑に負けたダビデ。
自分を守ろうとして、罪に罪を重ねた彼が、
「神をさげすんでいる」と自覚していただろうか?

わたしも同じような過ちを犯すときに、
それは「誘惑に負けた」という以上に、
「神をさげすむ」ことだとわかっているだろうか?

神さまを甘く見ていないだろうか?
「悔い改めれば赦して頂ける」と甘く見ていないだろうか?

このダビデの過ちのくだりは深く深く心を探られた。

主よ、
わたしの心を守り、きよめてください。
あらゆる誘惑や、あらゆる過ちから、守ってください。
思いっきり罪を犯し、思いっきり赦されなさい、と言う人もます。
でも、この取り返しの着かない罪、
人を傷つけ、深く深く痛めつけるような罪から、
わたしを守ってくださいますように。


あなたとの関係を壊し、
あなたをさげすみ、
あなたの御心を損なうような罪から守ってくださいますように。


あなたが赦してくださったことを感謝します。
でも、その赦しをないがしろにするような罪から守ってください。


きよめてください。
雪よりも白い心を作る、と約束された
あなたの力を見せてください。

Take Me Out to the Ball Game...

前のポストを書いている間に逆転しましたね。Yankees。
85年前に建てられて、ベーブ・ルースが最初にホームランを打ったこの球場。
さて、最後は誰でしょうか?


この間数えてみたら、NJに来て14年ですが、
たぶん、行ったのは7回かな?
松井のバットが飛んできたのはその2回目。
自分でお金出していったのは、半分くらい?
献血してチケットもらったこともあります。


今年はお誘いは2回ほどありましたが、
両方とも予定がどうにもならなくて、行けませんでした。


ああ、同点に追いつかれる・・・。


生まれて初めて野球を見に行ったときのことも思い出していました。
小学校3年生くらいだったか、後楽園球場。
ヤクルトー巨人戦。
新聞の勧誘でもらったか何かのチケットがあって、
住み込みで奉仕をしていた神学生と、兄と3人で行ったかな。
もちろん外野席。
神学生の方が大の長嶋ファンで「今回は長嶋の顔が見えないなあ。前に行ったときは内野席で見えたんだけど・・・」としきりに言っていたのを思い出します。
それ以来内野席はあこがれでした。
若松の初球ホームランをとても印象的に覚えています。
満員の観衆が「おー」とどよめいたのも・・・。


その後、もう一回くらい行ったかもしれませんが、
あまりおぼえていません。
東京ドームは一度も・・・。


大人になってから、アメリカに来るまではもっぱら西武球場。
近鉄が来る日をえらんで見に行きました。
それも野茂が投げる日をねらって・・・。


アトランタでのブレーブス観戦も楽しかったです。
あそこはヤンキースタジアムよりもずっと一体感があります。
確か、96年のワールドシリーズでは、NJに住んでいてもブレーブスを応援していたような・・・。


おー、5対3。


さて、9月19日金曜日の聖書。
金曜日はサムエル第二の11章14-27節。


「しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」27節。

最初の過ちのあと、
その結果がわかる形で残ることがわかったときに、
何とかそれをごまかそうとして失敗したダビデ。
最後の手段に出ます。

自分の手を汚さないで、彼を戦死させる。

24節の前半まではダビデの思い通りに事が運んでいます。
確かにダビデは自分の手を汚すことはありませんでした。
ダビデが夫を失ったあわれな未亡人を迎え入れるときに、
外面的にはすべてがうまくいったかのように感じさせられます。

でも、最後の言葉で、これは良かった良かったですまないことがはっきりします。

神さまのみこころをそこなった・・・。

その深刻さを忘れないでいたいと思います。
神さまの御心を損なうこと、
その怖さを忘れないでいたいと思います。
間違っても、神さまが「いいよ、いいよ」で赦される方ではなくて、
「とんでもないこと」として受け取られること、
そしてその赦しのためには、神の子のいのちが必要だったことを、
忘れないでいたいと思います。

主よ、
わたしも罪をごまかすために、
もう一つの罪を犯すことはないだろうかと思わされます。
どうか、最初の罪に気がついたときに、
素直に、聖霊様に感謝して、
悔い改めることができますように。
聖霊様の声に聞き従う者でありますように。

ゆっくり。

昨日は1日いろいろあって、
夜の11時半には仕事がたくさん残っていたのですが、
ものすごい睡魔に襲われて、
そのまま沈没宣言をアップする間もなく、沈没。


おかげで朝は早く目が覚めて、準備をすませることができました。
そして、夕方6時にはすべてのプログラムが終わって、
家に帰ってきて、ほっとした時間を過ごしています。
ヤンキースタジアムのお別れ試合を横目で見ながら更新中。


4日分たまっていますが、一気に更新できるかもしれません。


今日はJCCNJ始まって以来の、
召天者のメモリアル礼拝。
いろいろ足りなさも感じましたし、
次はちゃんとこのようにしよう、
ということもたくさんありますが、
皆さんの祈りとサポートに守られて、
幸いな一時を持ちました。


教会の歴史の中で天国に召されていった方々は
教会員だけで10名。
そのほかの方々を含めると2倍くらいになるでしょうか。


大切な家族や仲間が、亡くなるというのは、
天国に召されると言っても、痛みや、
「どうして今?」と思わされます。


でも、主のなさることは今はわからなくても、
やがてその先に召された方々と共に、
すべてをクリアに見せていただける時を
待ち望みつつ、この地上で与えられた使命を果たさせて頂きたいと思いました。


今日は暖かい一日でした。
昼間はちょっと汗ばむくらい。
夜の9時でも、19度あります。


明日も晴れですが、今日よりは涼しくて22-3度だと思います。
back door cold frontというのが通るようです。
普通は寒冷前線は西から東に通っていきますが、
このback doorは北東の方から下がってきます。
たとえばボストンはこの時間15度くらいしかありませんが、
その空気がこっちの方に流れてくるようです。


さて、これは木曜日、9月18日の聖書。
木曜日はサムエル第二11:1-13。


「ウリヤはダビデに言った。『神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。』」11節。

これからしばらく、ダビデの大きな罪のところです。
あれほど神を愛し、神と共に歩んでいたダビデが大きな罪を犯します。
いろいろなことを考えさせられています。

木曜日は、この王宮でゆっくり過ごしていたダビデと、
最前線で戦っていたウリヤとの落差に目が留まりました。

「どうしてわたしが帰って妻と寝ることができましょうか?」
最前線で戦う者の緊張感。
仲間たちが今どうしているかを考えているウリヤに対して、
彼の妻の水浴びを見て、欲情を燃やし、自分のものにしたダビデ。
何という緊張感のなさ。

でも、先日もある方と話をしていてそんな話になったのですが、
最前線で戦っているビジネスマン、ビジネスウーマン、学生、子供たちに対して、
牧師の働きは最前線もないわけではないですが、
後方支援の働きだよなあ、と思いました。

その中で、緊張感を失っていることはないだろうか、
ダビデと同じ、または同じような過ちを犯す危険はないだろうかと、
思わされたのです。
最前線と同じ緊張感、最前線のひとりひとりをおぼえた緊張感を
持って歩ませて頂きたいと思います。

主よ、
このダビデの過ちを読むたびに、
それがダビデだけの問題ではなくて、
わたしもそこに陥るかもしれない弱さを感じます。
どうか、わたしを守ってください。
最前線に経つ日にも、
後方支援に回る日にも、
最前線の兄姉を覚えて、
祈り、共に歩む者であらせてください。