2009-08-29

光陰矢のごとし

昨日、今日とよく雨が降りました。
今夜、明日とちょっと蒸し暑いかもしれませんが、
明日の夜からぐっと涼しくなります。
いよいよ秋です。

前後しますが、アトランタでは、元NJにおられたご一家のお宅にお世話になりました。
日曜日はそこに若者達も集まり、楽しい一時。


このご一家、NJに来られる前はアトランタにおられて、
たった1年だけNJに住まわれました。
ですから、アトランタで会う方会う方、
「彼らがアトランタに帰ってきてよかった」と
口々に言われます。
こちらは、「アトランタに戻っちゃった」ですが、
確かに、アトランタの方々としては、
「帰ってきてくれた」ですよね。
そんな、みんなに頼りにされ、愛されているご一家です。


今回、そのNJの1年の中で生まれたのが、もうすぐ3歳になる女の子。
「この子を産むためにNJに行ったようなもの・・・」という感じですが、
NJにおられたときにはまだまだ教会ではおとなしく寝ているだけだったような記憶が。


その子が、今回はいろいろお話しをしてくれるし、とても楽しい子に化けてそだっていました。


帰り際には「さびしくなっちゃうから、帰らないで・・・」とサキの手を握って離そうとしないくらい、楽しく遊んでくれました。


お兄ちゃんももうKindergarten。
自分の子供がもう大学生になるのですから、しょうがないのですが、
本当に光陰矢のごとしです。


さて、8月22日の聖書。
22日は第2コリント12:14-21。


「ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。」15節。

これはまたすごいですね。
自分のすべてを人々のために、
そして、ただ、コリントの教会のために、
というよりも、その人々の魂のために。

これは確かにイエスが私たちのためにしてくださったこと。
だから、パウロはそのイエスの愛に応えて、
自分も人々のために、そうしたいと思ったのだろう。

ああ、このコリントの教会への手紙を読んでいると、
パウロの情熱を感じる。
パウロの愛を感じる。
対決するくらい大きな愛。
苦言を呈するくらい大きな信頼。
パウロは本当にコリント教会を愛していたんだなあと思う。

以前、コリントの教会への手紙を読んでいるときには、
「きついなあ」「ひどいなあ、この教会・・・」みたいなことしか思わなかったのですが、
今回読みながら、本当にパウロの大きな愛、
神様に与えられた深い愛を感じました。

私もそのような愛を与えて頂きたいです。

主よ、
感謝します。あなたの大きな愛に感謝します。
私にもこのパウロのような愛と、情熱を与えてください。
問題を持つ人を愛する愛を与えてください。

2009-08-27

父と母と子。

いえ、ウチの話じゃなくて、月曜日のパンダの話。


これがパパパンダ。


これがママパンダ


これが子パンダ。

アトランタの動物園。
Bronx Zooなんかに比べると、
とっても小さい。
そして、人が少ない。
駐車場が小さくて、「えっ」と思うくらい車が少ない。

経営努力が足りないといわれたらそれまでかもしれませんが、
お客さんが少ない分、パンダを見るときにもゆっくり見ることができて、
十分楽しませて頂きました。

今から30年余り前、東京は上野動物園でパンダを見たときは、
すごい人の多さで、遠くから、ちょっと見ただけでした。

今回、30年ぶりにパンダを見て、ゆっくりいろいろ見て、
写真もたくさん撮って、とってもミーハーですが、
楽しかったです。

ウチの親子の方は、というと、
さっき、私からの「業務連絡」的なメールに、ハジから返事が来て、
その最後に、「冷蔵庫のところに手紙置いておいたけど気がついた?」だって。


普通のレターサイズの紙1枚にびっしり文字の詰まった手紙。
私も、家族の中でなかなか面と向かって言いたいことが言えないですが、
あいつもそうなんですねえ。


はい、素直にうれしかったです。


いえ、内容はここでは公表しませんが、
結局、父と子、男二人水入らずのキャンプも実現せず、
NJ最後の夜も荷造り。
旅行中も、なかなかそんな雰囲気にならず、
最後まで、「ゆっくり話す」「一緒に祈る」ということができないでいて、
なんだか「こんなんでいいのかなあ」という気持ちでした。


でも、息子の方はこんなものを置いていっていたんですね。
完全にやられてしまいました・・・。


さて、21日(金)の聖書。
21日は第2コリント12:1-13。


「私が高ぶることがないように・・・」7節。

これですよね。これ。
神様はパウロが高ぶることがないように、
一つの肉体の弱さを準備された、といいます。
そして、それをあえて取り除かれなかったというのです。

それくらい、高ぶりは危険。
高ぶりから守られるためだったら、
弱さや痛み、失敗は祝福でもあるんですね。

私も本当にこの面での弱さを感じます。

その弱さをいつもいつも忘れないで、
高ぶりにとらわれていないか、
自分を振り返ることを忘れないようにと思います。

主よ、
私の心を守ってください。
私が高慢にならないように、守ってください。
どうか、私があなたの僕として、あなたの力を喜ぶことができますように。

無事帰宅、感謝。

今日のNJは涼しいですね~。
そう、午後3時過ぎ、無事、NJに戻りました。
1週間ぶりに家のドアを開けると、
すぐに空気の入れ換えが必要な状態でしたが、
この天気だったので助かりました。
感謝。


今夜は15度くらいまで下がるようです。


そして東海上のダニー君ですが、
強くもならず、西にも進まず、
大きな影響はないようです。


でも、西から進んでくる前線の影響で、
明日の午後から土曜日は雨のようです。


1週間かけて、息子をアトランタに送って、
アトランタや行き帰りにいろんな方々にお会い出来ました。
幸いな1週間でした。
お祈りくださった皆様、
迎えてくださった皆様、
これから、ハジと共に歩んでくださる皆様、
NJの僕らと共にこれからも歩んでくださる皆様、
心から感謝します。


ありがとうございました。


さて、聖書は8月20日(木)出発の日の分ですね。
またまた丸々1週間遅れました。


第2コリント11:16-33でした。


「 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」28-29節。

家族と共に過ごす休暇の始まりの日に、
この聖書の箇所が与えられたということはどういうことなのかと思いました。

普通の感覚だと、休暇は仕事のことをすべて忘れて、過ごすべき、
そのように思います。
でも、今回このように帰ってきてから振り返ってみても、
主がいつもいつも教会のことを忘れないように、
主を見上げ、家族と時間を過ごす中で、
また久しぶりにお会いする方々と幸いな一時を過ごす中に、
いつもいつも教会の一人一人のことを忘れないようにされていることを感じました。

視界からちょっと外しておこうとする自分がいても、
主がそれを赦されないことを感じていました。

わかりません。
何が一番正しいのか。
どのように休暇を過ごすべきなのか。
でも、わかることは、
今回、主が私が教会のことを忘れることがないように、
いつもいつも、思い出させてくださっていて、
それが自分にとっても、決して苦痛ではなかったということ。

もちろん、遠く離れているが故に、
面と向かって話せないもどかしさや、
オフィスに行って仕事ができないもどかしさも
感じていました。

自分の家のように資料がすぐ手にはいるわけではない、
もどかしさもありました。

その点でも、コリントから遠く離れながら、
でも、彼らのことが心にかかって、
一生懸命、牧会の手紙を書いたパウロ。
今と違って、手紙が届くまで、その返事が戻ってくるまで、
何日も、何週間もかかった時代。
そのパウロの思いを少し感じました。

主よ、
今も、教会の一人一人のことを、行き巡ってください。
どうか、あなたが一人一人に御言葉を持って解決を与えてください。
みことばによって平安を頂く経験をすることができますように。

15年ぶり。・・・23日(日)

昨日はシャナンドゥー・バレーで泊まりました。
今までの自分たちだと、遅くなってもいいから・・・
と一気にNJ走ってきたのですが、
今回は、「もう休もうか・・・」となってしまいました。
そして、お約束の、一人で朝早く目が覚める・・・と言うパターン。
そこで、久しぶりの本格的な更新。


今日は晴れるみたいですが、
東海上のダニー君の動きがどうなるか、気になるところ。
その動きによっては、明日~あさっては晴れるか、
はたまた強風を伴った冷たい雨になるか、
それとも熱帯性のなま暖かい、にわか雨になるか・・・。
要注目です。


さて、日曜日は15年ぶりにアトランタの郊外、
ノークロス教会の礼拝に出席しました。
牧師は新しい方になっていたのですが、
その日はたまたま、私が行っていたときの宣教師の先生。
15年ぶりにその先生を通して主が語ってくださるメッセージをお伺いしました。


「聖霊の賜物と聖霊の実」の話でした。
先生自身が若い頃にある方に受けた質問がきっかけでした。
「わたしの教会の牧師はすばらしいメッセージをする方でした。
でも、ある時、礼拝に2人の警官が来られました。
私たちは、てっきり、この二人の警官も、私たちの教会の牧師のすばらしいメッセージを聞こうと思ってきたのだと思っていました。実際、その日のメッセージもすばらしいメッセージでした。でも、彼らは牧師のメッセージが終わった後、彼を逮捕して連行して行きました。
彼は自分が犯罪を犯していたことを知っていました。
そして自分が逮捕されることを知っていました。
そんな中で、彼はすばらしいメッセージを語っていました。
どうしてですか?
どうしてそんなことが可能のなのでしょうか?」


その時には、うまく答えられなかった。


でも、今は聖書から、またいろんな経験から、お答えすることができる、と次のようなメッセージをされました。


聖書には「聖霊の賜物」というものと「聖霊の実」という
聖霊様がくださる2種類のものが出てきます。


誰かが、私にプレゼントをしてくれたとします。
たとえば、「ベンツ」。
私がプレゼントしてもらったベンツを運転していたとしても、
そのベンツは私について何も説明出来ません。
私がどんな人間であるかということとは何の関係もありません。
そのベンツには価値があります。
そして、ベンツをくれた友人がどれくらい豊かな人かということもわかります。
そして、その友人がどれくらい私のことを大切に思ってくれているか、もわかります。
でも、私がどういう人間であるかということとは何の関係もないのです。


それが御霊の賜物といわれる、神様からのギフト、
すばらしいメッセージをするとか、
その人が手を置いたら、祈ったら癒されるとかという癒しの賜物とか、
そのようなものの性格です。


しかし、「実」は違います。
「実」は「木」がどんな「木」であるかを表すのです。
「木」だけを見ただけでは、どんな木かわからなくても、
「実」を見たときに、木がどんな木かわかります。
ぶどうの実がなっているときに、「ああ、この木はぶどうの木だ」と。


聖霊の実はそのようなものです。
愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制
そのような実を結ぶことを求めるべきです。


そのような内容のメッセージでした。


先ほどの牧師はすばらしい賜物が与えられていた、
でも、聖霊の実についてはあまりにも無頓着だった。


本当に私のために主が準備してくださったメッセージだと思わされました。


さて、8月19日(水)の聖書。
第2コリント11:1-15。


「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」2節。

ああ、このパウロの情熱。
このパウロの熱心さ。
どんな非難の中でも、「知るか!勝手にしろ!」を思わないで、
彼らを愛し、彼らをキリストの花嫁として整えるために、
熱心に力を尽くした。
議論をも恐れず、大胆に悔い改めを迫った。
そして、愛をもって彼らに尽くした。

その情熱を私も持たせて頂きたい。
その同じ情熱をもって人々に仕える者でありたい。

日曜日の礼拝の中で読まれた聖書、ヨハネの10章の「羊が自分のものでない雇い人は、狼がくるのを見ると羊を捨てて逃げ去る」という言葉を思い出させられました。

主よ、
わたしの愛を増してください。
もっともっと人を愛する者とならせてください。
もっともっと熱く人に仕える者とならせてください。
逃げ出さない愛を与えてください。

2009-08-26

もうすこし。

今朝、NCを出発して、
最初の2時間くらい、Blue Ridge Parkwayを走って、
景色を楽しんで、その後は普通の高速道路を走って、
今夜はNJまで5時間くらいの所まで来ました。

思ったよりも投宿が遅くなったので、
今日ももう一日、バケーションモードで更新はお休み。

では、また明日。

見晴らしがいい@blue ridge pkwy

更に北上中。

平均台付き

NCの山を北上中

2009-08-25

一言日記。

ただいま、かなり本格的にバケーションモードにつき、
一言だけ。

今日の午前中はとっても幸いな証しを伺いました。
編集してニュースレター掲載予定。

午後はプールでまったり。

今夜ははやくやすみます。

感謝、感謝。

日曜日も、月曜日も、
パンダのことだけじゃなくて、
たくさん感謝したいことがあるのですが、
もう日付も変わってしまったので、
また今日の夜にでも時間ができたら・・・。

今、North Carolinaのこのブログの愛読者の方のお宅~。

感謝にあふれて。