2009-06-06

ビデオ変わったねえ。

今日はいい天気で、ガレージセールをやっていたので、
ちょっと赤くなっているかも、
ちょっと顔がほてっているかも、
ちょっと腕がひりひりするかも。


昨日は集会の合間を縫って、
サキの学校のコンサートに行って来ました。


これはうたが終わって、「お父さん、お母さんたちのための写真ターイム!」ってやつ。
そんな気持ちを知って知らでか、子供たちはあっち向いたりこっち向いたり、
お父さん、お母さんたちは前の人の頭が入らないようにとカメラを高く持ち上げて撮っています。だから、どんなに自分が手をたかく上げても、誰か他の人の手が写真に入ってしまいます。


サキ、どこにいるかわかりますか?


サキは2年生だったのですが、
まあ、楽しかったのですが、
やっぱり1年生担当の先生がすばらしい。
JOYJOYシンガーズを始めようと思ったのも、
その先生の姿を見て影響を受けたのですが、
本当に子供たちが楽しそう。


サキに聞いても、その先生は楽しかったそうだ。


あと、今回目に付いたのは父兄のビデオの撮り方。
最近はコンパクトデジカメでも、立派なビデオが撮れる。


だから、コンデジをしっかりホールドしながら、
ビデオを撮っているお父さんお母さんがいっぱいでした。


その一方で、「ん?これは年代物だろう」という大きなビデオを使っているお父さんもいました。


そういえば、私がアメリカにきた17年前は日本ではもう「パスポートサイズ」の8mmビデオが主流でしたが、こちらでは、まだ肩に担いで撮る、VHSがそのまま入るビデオを使っている人がたくさんいました。それが、今や片手が当たり前、それにコンデジでビデオですからね。テープなんか使わないで、小さなカード1枚。そこにたくさんの情報が入って、頭出しも簡単。時代は変わりました。


さて、昨日、6月5日の聖書。
昨日は出エジプト記の28:15-43。


「主への聖なるもの」36節。

主への聖なるものとは、主のために取り分けられた、
特に主に使えるためにだけ、存在している者。

聖なる杯だったら、他のためには使わないで、
神様のためだけに使われる杯。

同じように、私たちも、神様のためだけに生きるようにと召されている。
私自身はどうだろうか?主のために生きているだろうか?
主のためだけに存在しているだろうか?
主のために、励んでいるだろうか?

主に対して、きよい、主に対して、真実な者とならせて頂きたい。

主よ、
どうか私の心をきよめ、
あなたに対して、聖なるものとならせてください。
人に対してではなく、あなたに対して、聖なるものでありますように。

2009-06-04

受けるよりも。




はい、また一つ歳とりました。
ここまで守られたことに、主に感謝。
多くの人に支えられてきたことに感謝。


今日はハジがどうしても動かせない用事があったので、
昨日、前夜祭ということで家族でお祝いをしてもらったのですが、
この風船、たぶん初めてだと思いますが、
ハジが学校の帰りに買ってきてくれました。


そんなことするヤツではなかったので、
とてもうれしかったです。


そんな中で心に響いてきた言葉。
「受けるよりも与える方が幸いである。」


与える者となりたいと思いました。
与える幸いをもっともっと経験させて頂きたいと思いました。


さて、今日の聖書。
今日は出エジプト記28章1-14節。


「アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。」12節。


アロンは12部族の名前の刻まれた石を肩当てにつけて、
それを身につけることによって、
イスラエルの民を覚えて神の前に出た。


私たちにとっては祈り。


そう、「万人祭司」ということがいわれるプロテスタントの教会で、
本当に一人一人が取りなし手として、
周りの人々のことを神様の前に持ち出して祈ることの大切さを思わされました。


そして、私個人に対して、主が語ってくださったことを感じました。
この使命、この働きをおまえに任せているのだから、
それをしっかり果たしなさい、と。


一人一人のことをいつもいつも名前を挙げて、
いつも名前を覚えて、
神様の前に出ようと思いました。


主よ、
一人一人のことを覚えて祈ります。
あなたが任せてくださった、託してくださった、
一人一人のことを覚えます。
どうか、主よ、今夜も一人一人を守り、支えてください。
導いてください。
慰めを与え、あなたに目を向ける時を与えてください。

共に主に仕える。

朝は雨が降っていましたが、
午後には晴れてきています。
今日はこのままいい天気のようですね。


このあと、NYに行く用事があるので、
もしかしたら、更新の元気が残っていないかもしれませんし、
まだ1日ビハインドなので、ここで更新しておきます。


昨日、6月3日の聖書。
昨日は久しぶりに、朝6時に教会に来られた方がおられて、
二人で共に聖書を開き、祈りました。


出エジプト記27:1-21。
「あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。」20節。


オリーブ油を絞る仕事は、モーセが自分ではしなかった。
人々に語って、人々に命じて、もってきてもらった。
それも上質の純粋なオリーブ油。

人々が一生懸命純粋なオリーブ油を絞っている姿、
またそれをモーセや祭司が受け取って、
主の前にささげる姿。
とても美しく思わされました。

ある時には、何でも自分でやってしまおうという誘惑を感じます。
上手にお願いできない、上手に頼めなくて、
気を遣いすぎて、また本当には信頼すべきところで、ちゃんと人を信じていなくて、
何でも自分でやってしまおうという誘惑を感じるときがあります。

でも、共に主に仕え、共に主の前に出られたらどんなにすばらしいでしょうか?
そのような働き人にならせて頂きたいと思いました。

個人主義に陥ってしまわないで、
「人は人、私は私」というところに立てこもらないで
(もちろん、それは出発点として大切なことですが)
共に主に仕え、共に主の前に出る者でありたいと思います。

主よ、
あなたのこの命令に感謝します。
私一人ではなくて、
人々と共に、あなたの前に出ることができますように。
共に主の前に出る喜びを与えてください。

2009-06-03

心にかけてくださる主。

夜になって雨が止んだみたい。
ちょっと遅かったですが・・・。


あ、でも今レーダーを見たら、また降ってきていますね。
しばらく降らなかったので、恵みの雨です。


明日、あさってとぐずついた天気が続くようです。


私たちは誰かに自分のことを心にかけてもらっているのはありがたいことです。
互いに互いのことを心にかけています。
でも、人間同士、行き違いもありますし、
互いにあまり相手に期待しすぎるのもトラブルの元です。


ある時には人に失望することもあるでしょう。


でも、神様はいつもいつも私たちのことを心にかけてくださっている。


この間も中高生に話をしながら、感動していたのですが、
この大きな宇宙を造られた、今も、それを支配しておられる神が、
この小さな小さな地球のことをご存じで、
そこにいる68億人もの人々の中で、
私のことに目を留めてくださっている。


私のことを主は今も心にかけてくださっている。
私の名前をその手に刻み込んでくださっている。
あなたのことも。


感謝。


さて、今日2回目の更新。
昨日、6月2日(月)の聖書。
昨日は出エジプト記26:15-37


「その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。」33節。

この垂れ幕が、そのまま、神殿にも受け継がれ、
その仕切の幕が、イエスの十字架の時に、
上から下へ、まっぷたつに裂けた。

イエスの十字架によって私たちは、
神様の前に立つことができる。
至聖所に入っていくことができる。

イエスによらないでは、
このチャンネルを通らないでは、
神の前に立つことはできない。
至聖所にはいることはできない。

イエスを通って、イエスの十字架を覚えて、
神の前に立とう。
いつもいつも十字架に感謝して歩もう。
そして、大胆にこのことを伝えよう。
当たり障りのない、メッセージをやめて、
イエスの十字架によらなければ、解決はないのだ、ということをはっきり語っていこう。

主よ、
あなたの十字架によって生かされていること、
あなたの前に出られること、
あなたのいのちに生きることができることを、
心から感謝します。
いつもいつも十字架を通って行くことができますように。
十字架によって救いがあることを語ることができますように。

人に見えない部分が

さて、今日はまだ8時過ぎですが、
早めに更新。

今日は朝は雨。
昼間は晴れ間が出ましたが、
また午後から雨。


雨が降って欲しくない理由がありましたが残念。


ウェブブラウザー、IE、Firefox、Opera等、いろいろ使ってきましたが、
最近のお気に入りはChrome。
でも、昨日iTunesの更新の時に「Safariも入れるか?」と聞かれて、
いつもはNOなのですが、ちょっと「YES」を選んでみた。


そしたら、「使ってくれ~」と呼ばれているような気がして、使い始めてみた。
なかなか快適。そしてデフォルトのフォントも読みやすい。この更新もSafari。
リンゴ社製なので、遊び心も適当にあります。


サイトによってはIEじゃなきゃダメ!みたいなのもあってかなわないのですが、
IEは一番おもしろみがなくて、一番重く感じます。
ちょっとSafari使ってみようかという感じです。



さて、早速、6月1日(月曜日)の聖書。
月曜日は出エジプト記26:1-14。


「天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。」14節。

「日々のみことば」の左のページにこのような記述がありました。

第4の幕屋の幕は、じゅごんの皮でした。外観は黒っぽく、決してきれいなものではありませんでした。内側はきれいですが、外側は見栄えのよいものではなかったのです。イエス・キリストは「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」(イザヤ53:2)と語られます。私たちは、外見ばかりを気にしていないでしょうか。それとも心の内側からきよめられ、主の聖さを表しているでしょうか。

なるほど、と思いました。
聖書だけを読んでいると、そこまでは考えないのですが、
このように聞かれると、なるほどと思います。

そして、自分はやはり外側ばかりに陥っている者になってしまっているように感じます。
本当に人に見えない部分が主の前に整えられたいと思いました。

人に見えない部分で、主に対して真実な歩みをさせて頂きたいです。
それが力になり、喜びになり、勝利になります。

主よ、
私の心を守ってください。
人に見えない部分がきよめられますように。
人に見える部分に心がとらわれてしまうことがありませんように。

2009-06-02

最高のものをもって

さて、今日2回目の更新。

日曜日、5月31日の聖書。
日曜日は出エジプト記25:23-40でした。


「純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。」39節。

神様がどうして「純金」を求められるんだろうかと思います。
そんないい物を求めなくても・・・とも思います。
実際に、「神様ってゼイタクですね」という方もおられました。

でも、考えてみれば、
もしも神様のためにその金を使わなかったら、
何のために使うのでしょう。

もちろん、現代はいろんな電気製品にも使われているでしょう。
でも、この時代、神様のために使わなかったら、誰のために使うんでしょうか?

自分のため、人の飾りのためですよね。

自分のために使うか?神様のために使うか?
ってことでしょう。

最高のものだからこそ、主のもとにもっていく、
そのような生き方をさせて頂きたいと思います。
そう、すべては主のものなんですよね。

主よ、
すべてのものの中で、最高のものをあなたにささげます。
私にとっては何でしょうか?
私の中の最高のもの、
時間?情熱?
あなたにささげます。
あなたがあなたのご用のために用いてください。

Fairnessにどこまでこだわるか?

今日は朝から昨日よりも暖かく、
ちょっと蒸し暑いくらいの一日でした。
7時半頃から9時前(!)の暗くなるまで、
昨日の芝刈りの続き(裏庭はいつも後回し・・・)をしたのですが、
昨日よりも汗をかきましたし、
汗をかいたあとの爽快感も昨日の方が上でしたね。


明日は一日中雷雨の可能性です。


今日は、芝刈りをしながら、
Andy StanleyのLeadership Podcastを聞きました。
去年の10月6日のもの。


その中で、Fairnessにこだわりすぎることの問題が語られていました。
Fairnessにこだわりすぎるあまり、
「みんなにできないから、誰にもしない」ということを、
リーダーはしてはいけないと語っていました。


Fairnessは聖書的な概念ではない・・・とも。
Fairnessはエデンの園では存在したが、
人が罪を犯したあとは、Fairではあり得ないと。


確かに、自分もそのようなところに陥ることがあることを感じます。
Fairnessを重んじるあまり、「みんなに同じように接しないと・・・」と、
特定の誰かに必要な言葉や、助けをためらってしまうことがあります。


でも、神様はみんな一人一人違う存在として造られたのだから、
一人一人、必要も違うんですよね。


人の反応を恐れないで、
神様からの声を聞きながら、仕えていく者でありたいと思いました。


でも英語なので、ちょっと集中力が切れると、
すぐわからなくなります。
もう一回ゆっくり聞いてみようと思います。


さて、土曜日、5月30日の聖書。
土曜日は出エジプト記25:10-22。


「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」22節。

主が私たちに語られるのは贖いのふたの上から。
新約の時代に生きる私たちにとっては、
イエスの十字架から。

神様はそこから語られる。
十字架を通してだけ、
私たちは神の前に立てる。

「狭い門から入りなさい」とイエスは言われたが、
本当に狭い門だ。
「もっと広い心を持ったらいいのに」と言われそうだが、
ここにこだわり続けることの大切さを、
もう一度教えられた。

主がそこから語られるならば、
そこに注目しよう。
そして、十字架に聞いていこう。

主よ、
十字架の恵みに感謝します。
十字架から語られるあなたのみ声を聞き続けます。
そこに今日も注目します。
どうか、語ってください。



2009-06-01

繰り返し繰り返し

今日はホントに気持ちのいい日でした。
芝刈りをして汗をかいても、気持ちがいい。
最高です。


明日はちょっと蒸し暑くなるみたいですね。
雷雨の可能性も・・・。


サキがピアノを習いだして半年くらいかな。
ハジの方はな~んにも習わないで、
なんだか、自己流で器用にやってしまうんですが、
(もちろん、ちゃんとやった方とは全然違いますが・・・)
サキは意外と(というか、意外じゃないというか)、不器用で、
苦労して練習しています。


でも、決して練習が好きな方ではないので、
今日はちょっとハッパをかけました。
つっかえてしまうところを何回も何回も、
繰り返して練習するように、
できるまで、食らいついて練習するように。


音楽はスポーツと同じ。
何度も何度も繰り返して、体で覚えるしかありません。
私もピアノは弾けませんが、
トロンボーンをやっていたときのことを懐かしく思い出していました。
バカのように、何回も何回も何回も、
体で覚えるまで、繰り返します。
お腹と、手と、口がタイミングを合わせて動くまで。


信仰も同じですね。
何度も何度も失敗して、
挫折して、
でも、何度も何度もチャレンジして、
体が覚えるまで・・・。
でも、信仰の方は、神様の力が注がれているから、
それが違いますが・・・。


教会もそうですね。
口と手とお腹のタイミングがずれて、
不協和音が出るときだってある。
音が出ないときだってある。


でも、失敗しても、あきらめないで、
投げ出さないで、
何度も何度も、互いを信じて、
チャレンジをする。
こちらも、頭であるイエスに聞く、
ということが大切なんですが・・・。


繰り返すこと、投げ出さないこと、
一度できたと思っても、すぐにできたつもりにならないで、
同じことを何度も何度も繰り返すこと。
今の時代忘れられてきていること、
取り戻したいと思いました。


さて、金曜日の聖書。
金曜日は出エジプト記25:1-9でした。


「すべて、心から進んでささげる人から・・・」1節。


日々のみことばの左側のページから。

私たちのものは、すべて主から与えられた「主のもの」です。そうであるなら、主は必要な時には、喜んでささげる自由も与えておられるのです。

「主のものだから、嫌でも出しなさい」じゃなくて、
「主のものだから、喜んでささげる自由も主が与えてくださる」ですね。

主のものをお預かりしていることは何と光栄なことでしょうか?
そして、その中から、自分が生きていくために必要なものを使うことが許されていることも、
そして、主のために思いっきりささげる自由も与えられていることも。

主よ、もっと喜んでささげることができますように。
ささげるときに与えられる祝福ももっともっと経験させてください。
そして、内側からあふれる喜びをもっと経験させてください。

2009-05-31

復帰。

ごぶさたしました。
復帰です。
昨日、今日と本当にさわやかないい天気でしたね。
明日も、もう一日とても気持ちいい一日になりそうです。


金曜日はPrivateで夜出かけていたのですが、
ハジが一つのscholarshipをいただいたので、
その授与式でした。


今回、行かせる大学は元々の授業料が300万円以上、
そして、寮費・食費を入れると500万円になってしまいます。
もちろん、そんな金額はどうにもならないので、
(もちろん、家庭によっては全然問題ないんだそうですが・・・)
奨学金をもらえることが、そういう大学に行く条件になります。
そうすることによって、公立よりも私立の方が自己負担が少ない、ということもあります。
(実際今回もそうでした)


今回、式に出かけながら、
「おまえ、人のお金で勉強させて頂いていることを忘れるなよ」と息子に語りながら、
ああ、自分もそうだったんだなあ、と自分がそのことを意識していなかったことを恥じました。
義務教育ももちろん、税金で勉強していたのですが、
高校、大学と公立、
神学校はもちろん、多くの方々の献金で支えられていたし、
留学のためにはたくさんの方々のサポートがありました。
そして、奨学金も頂きました。
それなりに自己負担もあったので、
「もっと出してくれないかなあ」と罪なことさえ言っていました。


自分も、子供たちも、多くの方々に支えられてここまで勉強することができたんだなあと思いました。


そして、特にアメリカではたくさんの方々が、
気前よく与えることをされます。
今回奨学金を出している方々も、そう感じました。
もちろん、日本よりも、そのようなことに対する税制面での配慮もあります。
しかし、それでも喜んで与える方々の多いこの国の強さを感じさせられます。


はい、私の分もしっかり勉強して頂きたいです。


さて、木曜日(5月28日)の聖書。
木曜日は出エジプト記24:1-18。


「遠く離れて伏し拝め。」1節。

本当はそうなんですよね、
神様の前に出るときに、
わたしたちは遠く離れて伏し拝むのが精一杯。
それでも恐ろしい、というのが本当。

でも、新約聖書を読むと、
その神が罪人を抱きしめる父であるとイエスは言われている。
本当ならば、近づくこともできない者が、
抱きしめて頂ける。

そのために払われた犠牲の大きさ、
注がれた愛の大きさ、
忘れないでいたいと思います。
どれほど大きな愛を注がれているか、
忘れないでいたいと思います。

今日の礼拝では賛美の中で、
感謝があふれてきました。
もっともっと感謝があふれますように。

主よ、
あなたの与えてくださった愛に感謝します。
その愛の大きさを忘れないようにさせてください。
日々、あなたの愛の大きさを思い出させてください。

たまっちゃいますが。

昨日、今日と、どうしても更新できませんでした。
明日の礼拝のためにお祈りください。
聖霊様が満たされるペンテコステとなりますように。