2008-07-19

賛美。

今日は本当に暑かったです。
昼間は36度。
そして夜になってもむっとしています。
今、夜の11時ですが、27.4度。

明日は32度くらいで、雷雨もあるかもしれません。
その後も今日ほど暑くなる日はちょっとないと思います。

でも、まだまだ夏です。

ずっとずっと書きたいと思っていたことは、
今週の初めに見た日本のテレビ番組のことでした。

1ヶ月くらい前に、東京で牧師をしている兄から、
この番組、いいから、見なさい、とメール。
そんなの初めてだったので、TVJapanの番組で、
うちでは見れないので、見れる方々に録画をお願いしました。
そして、「見よう見よう」と思っているうちに、
何週間かたったのですが、今週、時間を作って見ました。


NHKの番組なんですが、
韓国人のテノール歌手、ベー・チェチョルさんのことを取材したドキュメンタリー。

豊かな声量と広い音域に恵まれて、活躍を期待されていたオペラ歌手の彼が甲状腺ガンの手術で、声帯や横隔膜を動かす神経を切ってしまって、歌う声が出なくなってしまいます。しかし、彼が希望を捨てないで、歌う声を取り戻そうと周りの人たちに励まされ、手術を受け、リハビリを続けている様子が描かれていました。

ベーさんのことを支えて来た輪島さんが書いておられる文章はこちら


私自身が一番心を動かされた場面が、
声が出なくなって人前で歌うことをしなかった彼が、
少しずつ声が帰ってきたときに、
最初に歌うことを決心したのが教会。
子供の頃から親しんでいた讃美歌を歌うのです。


しかし、いろいろなことに胸がいっぱいになり、
所々、どうしても声が出なくなります。

そのときに、どこからともなく、賛美の声が上がってきて、
最後まで彼を支えるのです。


それを見ながら、教会が目指すべき賛美はこのようなものだと思いました。
自分自身にとって心からの賛美であり、
人々が自然と賛美を口ずさまないではいられないものであり、
そして、人々の支えで完成するものであること、
本当に大切だと思いました。


明日の礼拝でもみんなで共に神をたたえる賛美ができること、
心から楽しみです。


さて、今日の聖書。
今日はコリント人への第1の手紙10章14-22節。


「ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」14節。

この前後関係の中では、
この言葉はいわゆる「偶像」、
ふつうの「異教の神々」という意味でしょう。


でも、今朝は、私自身本当に神様を第一としているだろうか、
それを問いかけられたような気がしました。


私はいったい本当に神様以上に大切にしているものはないだろうか?
本当に神様を礼拝しているだろうかと。


今朝のところは、「あ、これだ!」と思ったものはありませんでした。
でも、どうかな、と思ったのは「自分」です。
やはり自分の夢、自分のこだわり、
そのようなものにとらわれていないだろうかと思いめぐらしました。


どこまでも、どこへでも、主に従っていきたいと思わされました。
それが自分の納得いかない、自分の願っていない道でも、
主がそれを導いておられると確信したならば、それに従っていきたいと思いました。


主よ、
私は本当にあなたを第一としているでしょうか?
私が捨てなければいけないもの、私がささげるべきものがあるならば、
それを示してください。
ささげる勇気と、従う勇気を与えてください。

2008-07-18

あちい・・・再来。

今日はホント暑かったですねえ。
36度くらい。
夜の11時になっても29度もあります。

明日も暑い一日になりそうです。

今日もいろいろ頭の中には巡っているのですが、
遅くなると明日に響くので、今日は早速聖書。

今日はコリント人への第一の手紙10:1-13でした。
「 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」11節。

ここで、私たちのための教訓がいくつか書かれていますが、
第一は偶像礼拝についての戒め
第二は姦淫についての戒め
第三は主を試みることについての戒め
第四はつぶやくことについての戒め


結構「自分は大丈夫」と思っていることが多いです。
でも、戒めである以上気をつけなければいけないんだと思います。


偶像礼拝も、姦淫も、主を試みることも、つぶやくことも、
そんなに簡単に自分がそんな罪に陥ることはない、
と思っている自分がいます。


でも、自分みたいなヤツがいるから、
「立っていると思っている者は倒れないように気をつけなさい」(12節)
とパウロは言わなければいけなかったんでしょうね。


また、今朝は「姦淫の罪」が聖書の中でも
何回も何回も取り上げられて、取り扱われていることについて
思いめぐらしていました。


どうしてなんだろうかと。

ニュースの中でも「レイプ」事件が取り扱われる中で、
「容疑者は同意の上であると、容疑を否認している」という言葉がよく使われます。
「被害者」の言い分と、「加害者」の言い分のどっちが正しいんだか、
判断に迷うだろうなあと思います。
それはとてもプライベートなものでしょうから。

もしか冤罪だったら、「被害者」はホントは「加害者」で、
「加害者」はホントは「被害者」なんですから・・・。


いや、言いたかったのは、同意だったらいい、というのが
この世の法律の限界。(国によって違うでしょうが・・・)
それを神様は恐ろしい罪として取り扱われる。



やはり人格の深いところにまで関わる罪だからでしょうか。


主に守って頂きたいと思わされました。


主よ、
どうか、「立っている」と思っている自分を守ってください。
こんな愚かなこと、自分はするわけはない、
と思っている自分の心の隙にサタンが攻撃を仕掛けてくるでしょう。
どうか、あなたがその心の隙を守ってください。

2008-07-17

忍耐。

今日もまた暑かったですねえ。
35度までいきました。
そして、夜になっても、気温が下がるスピードは遅く、
9時45分で26度あります。

明日はまた今日以上に蒸し暑い日になりそうです。
英語ではoppressive heatといいますが、
英和辞典では「うだるような」という訳がありますが、
もともとの言葉は「うだる」というよりも、
「押しつぶされる」という感じです。

そんな暑さになりそうです。

先日のハミルトンの記事で、
おばあちゃんが対決したことが書かれていましたが、
それを読みながら、
先日、去年お会いした、ミシガンの中嶋先生のブログにあった、
「相手のことを本当に心配しているなら、ぶつかっていく」
という記事の中で紹介されていた、
"Caring Enough to Confront"という本を思い出しました。


早速、注文して買っていたのですが、
なかなか読めないでいたのを、読み始めました。


この著者のAugsburgerはうちの教会のある集会で読んだ、
「聞く」という本を書いた人。


その最初のところで一つの言葉が心に留まりました。


"I feel deeply about the issue at stake."



この言葉を反芻している中で、自分はこんな気持ちになったことが、
今までどれだけあっただろうか、と思いました。

そして、

「自分の深いところには問題を無視しようとする気持ちがある」
と気がついたのです。


「イエス様に目を向ける」といいながら、
実際はただ、問題を問題として見るのが怖くて、
逃げていただけなのかもしれない。
イエス様に祈りながら、問題に取り組んでいくのではなく、
ただただ、問題を無視しようとして来たのではないだろうかと。


そして、今日の午前中の祈祷会でも、
「忍耐」という言葉が話題になりました。

「暑さの中で忍耐する」「イヤなことが怒る中で忍耐する」
というときに、ただただ、文句を言わないで、黙っているというイメージがあります。
昔のCMの「男は黙って・・・・・・・」というヤツです。

でも、それが本当に聖書の言う「忍耐」なんだろうかと。

「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」という忍耐なんだろうかと。

ただ、問題を問題としないで、
それを無視して、それから逃げて、
ただ、じっと我慢している、
それが神様の私たちに望んでおられることなんだろうかと。


ホントの忍耐は、何だろうか、ちょっと宿題になっていますが、
神様の愛と真実を信頼して、試練の中でも、神様の答えを待ち望むこと、
それは単なる沈黙ではなくて、葛藤や、神様への訴え、格闘なんかも含むんだろうなと思います。


さて、今日の聖書。
今日はコリント第一の手紙の9章19-27節。


「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」
19節。


本当の自由を経験した人だけが、
本当に僕になることができる。
そんなことを感じました。


何かにとらわれているとき、
何かにこだわっているとき、
誰かの存在に振り回されているとき、
(それがポジティブでもネガティブでも・・・)

私たちは僕になることはできない。

本当にイエスによって与えられた自由をいつもいつも
確かに持っていたいと思いました。


そして、その自由をもって、
人に仕えていくものでありたいと思いました。


主よ、
あなたの与えてくださった自由を感謝します。
でも、時々、恐れが私を支配します。
時々、欲望が私を支配します。


神様、あなたの自由の中に私を守ってください。
そして、その自由をもって、
自由に仕えていくことができますように。

 

 

2008-07-16

心のマッサージ。

今日もまた暑くなりました。
昼間は34度くらい。
夜になってずいぶん下がってきましたが、
夜の11時45分で23度。
まあ良しとしておきましょう。
明日はもう一段階暑く、もう一段階湿度が上がりそうです。
かなりきついでしょう。

今日もたくさん書きたいことがあるのですが、
また一つだけ。

今日、教会のメンバーの指導で「クロッキー教室」なるものがありました。
絵を描く集まりです。

私は自慢ではありませんが、子供の頃から、絵はダメダメです。
小学生の頃、図工の時間に、先生がまだ描きかけの絵を取って、
「はい、皆さん、よく見てください、これは悪い例です。なぜならば・・・」
と例に使われたことが何回あったことでしょう。
先生たちには打たれ強い、ちょっとこういうことに利用しても大丈夫な、
鋼の心の持ち主だと思われていたのでしょうか?
いつも生意気な奴だったので、いじめたくなったのでしょうか?
でも、やっぱり、それはきつかったですね。



中学の美術では筆記試験も点数に入ったので何とか挽回しましたが、
ホント、苦手意識の固まりです。
高校で美術が選択科目になったときにどんなに救われた気持ちがしたことでしょう。


ですから、ふつう、こういう教室があっても、
「自分には関係ない・・・」と思っていました。

でも、この教室を指導してくださるアーティストの方と、
そんな話をしている中で、
萎縮しないで、心の中にあるものを外に出す方がいい、
と思うようになりました。
そして、ちょっとやってみたい、そんな気持ちになっていました。


だから、今回、とても楽しみにしていました。


そして、今日、参加しながら、
心のマッサージを受けているような気持ちになりました。


「上手に描こう」「みんなに見られても恥ずかしくないものを描こう」と萎縮してしまっている心が少しずつほぐされて、「いいんだよね」という気持ちになっていました。


こういう心のマッサージ、
あちらこちらの分野で必要なんだろうな、と思います。
「隙を見せてはいけない、つけ込まれる」「こんな自分の姿を知られたら、みんなにどう思われるだろうか」そんなことで私たちはがんじがらめになっていないだろうかと思います。だから、それがほぐされて、「大丈夫じゃん」となることが大切なんじゃないかと。


私自身、いろいろな方々とお話しするときに、
いろいろな集会でお話しするときに、
そのような働きができれば、と思いました。


さて、今日の聖書。
今日はコリント第1の手紙の8章1-18節。

「 主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」14節。

伝道者の生活が教会に支えられるようにというのは主の定められたこと。
でも、パウロはここで自分の手で働いて生活の糧を得ていることも誇りに思っている。

考えてしまいました。
牧師は教会から与えられるモノだけで生活するのが本当の信仰なのか、
それとも、パウロのように自分で働いて、教会に負担をかけないことを誇りにすべきなのか。

結局ローマ人への手紙の14章にあるように、
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」
ということなんだろうと思います。

神様が自分に与えてくださっている使命をしっかり見据えながら、
その使命をしっかり果たしていきたいと思いました。
私は自立自活自給教会を建て上げることを、神様から示されています。
だったら、パウロの誇りとは違うけれども、自分の使命にしっかり立って、
教会を建て上げることのために用いて頂きたいと思いました。

主よ、
あなたの使命に堅く立つ者としてください。
周りの人の姿や、
周りの声に振り回されるのではなく、
あなたの与えられる使命に立つ者でありますように。

また、私を用いてください。
用いやすい器になるように整えてください。

2008-07-15

奇跡。

今日は朝は涼しかったですが、
昼間はやはり暑くなりました。
でも、ドライでしたね。
日が暮れたら、どんどん涼しくなってきます。

今は9時20分ですが、外は24.5度。
明日の朝は16度くらいの予報が出ています。

これから毎日、だんだん暑く、
だんだん湿度が高くなっていくと思います。
夏です。

いくつか書きたいことはあるんですが、
一つずつ。

昨日のジョシュ・ハミルトン。
もっといろいろ書いているのが、
こっちの記事

昨日のリンクはテキサスの新聞記事でしたが、
こちらはESPNで、本人の言葉が書かれています。

いくつかの心に残る言葉があるのですが、
これなんかは「おー」と思う言葉です。

Baseball is third in my life right now, behind my relationship with God and my family. Without the first two, baseball isn't even in the picture. Believe me, I know.」

神様一番、家族が二番、野球は三番。

神様との関係と、家族がなかったら、野球はあり得ない。
本当に彼自身の本音だよねえ。

昨日の記事の中にあったけれども、
おばあちゃんが対決してくれた。
「いつまで周りの人を傷つけるんだ・・・」
もちろん、それまでも対決してくれた人たちがいただろう。
でも、それがうまくいかなかった。
たまたま、このおばあちゃんの言葉が心に突き刺さったのは、
そこには神様のみ業があると思う。
でも、やはり対決することの大切さを思う。

悪魔におそわれる夢の話も印象的です。
おばあちゃんのところでまだ完全に解放される前に見た夢では、
悪魔はたたきのめしても、何度も何度も立ち上がってきたそうです。
そして、目が覚めても、おばあちゃんのベッドに潜り込まなきゃいけないくらい怖かった。
でも、その後、神様の前に降参して、解放された後の夢では、
自分の隣で、キリストが一緒に悪魔をたたきのめしていた。


「You can doubt me, but I swear to you I dreamed it. When I woke up, I felt at peace. I wasn't scared. To me, the lesson was obvious: Alone, I couldn't win this battle. With Jesus, I couldn't lose.」


1人では勝つことのできない戦い、でも、イエスと一緒だったら、負けることはあり得ない。


今回のことで、本当に多くの人が注目しているでしょう。
用いられれば用いられるほど、悪魔は攻撃してくるでしょう。


彼のために祈ることの大切さを思いました。


さて、今日の聖書。
今日はコリント第一の手紙8章。


「私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」1節。

正しいことが必ずしもいいことではない。
知識を持っていて、正しいことをすることよりも、
愛を持って、弱い人のこと考えることの大切さを思わされました。


自分も弱い人間です。

自分は強い者だと、傲慢になってはいけないと思います。
でも、信仰の弱い人の気持ちもくむ愛が必要だと思いました。

主よ、
信仰の弱さに苦しんでいる人々への
愛の配慮を忘れないようにしてください。
自分が正しいと思うから、いいんだというところに、
立てこもることがありませんように。

リンク修理

昨日のリンク、切れていましたね。
直しておきました。

改めて書きますが、
Josh Hamiltonの信仰による回復について、
書いている新聞記事。

http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/spt/baseball/rangers/stories/012708dnspowebrangersz.218a1b6.html

2008-07-14

再起。

今日は朝から雨。
昼頃には上がりましたが、
ちょっと湿度が高いのが残りましたね。
蒸し暑く感じました。

でも、夜の気温は11時前で21度。
昨日までよりずっとしのぎやすいです。

明日から晴れて、昼間は暑い、
夜はまあまあ、という日が続きそうです。

こちらは明日がメジャーリーグのオールスターゲームなので、
今日はホームラン競争。

アメリカに来て16年ですが、

初めて、ゆっくり座って見ました。


何よりもすごかったのがJosh Hamiltonという若い選手が、
1回目に打った28本。
10回凡打かファールを打つまでに28本のホームランを打ったわけですから、
すごかったです。
当たり前のようにホームラン。


もちろん新記録だったそうで。


プロに入ったのはドラフト1位指名だったのに、
契約金が大きすぎたのでしょうか?
それとも、怪我をしたりしてでいらいらしていたのでしょうか?

3年くらい前までは酒におぼれ、麻薬をやっていたりして、
人生を棒に振るところでした。


でも、再起して去年メジャーに上がって、
今年はオールスター。
Wikipediaによると、

その再起には「神のみ業」があり、
クリスチャンの信仰によって歩んでいるといいますが、
彼の信仰の歩みについてはまたゆっくり調べてみます。
Wikiで参考に上げられていた記事はこちら

まだちゃんと読んでいませんが・・・。



でも、私が今日本当に感動したのは、
彼のピッチャーを務めたClay Counsil 71歳の方。

彼が子供の時から、バッティングピッチャーをしていたと。


それが本当に彼のスイートスポットに投げるんですね。
どんどんホームランを打つから、
50球以上投げることになってしまうわけですが、
そこに愛を感じました。


次の世代のためにできることは何だろうか?
それを考えて、実行することの大切さを思わされます。


今日の聖書。
今日はコリント人への第一の手紙7章29-40節。


「しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。」33-34節。

パウロは結婚している男性は、神を喜ばせることと、妻を喜ばせることで心が分かれてしまう、と言うのです。

今までは、ふーん、まあ、そうだねえ。と思って読んでいたのですが、
今日は、ここを読んで、「いや、自分は結婚した男としてそんな板挟みになっているだろうか」と思いました。というか、自分は神様のことも、妻のことも、本気で喜ばせようとしているのだろうか。本当に自分が喜ばせようとしているのは自分なんじゃないか、と気がついてしまいました。というか、気がつかせて頂きました。

つくづくそう思います。
神様であれ、妻であれ、本気で喜ばせようとしたことがあっただろうかと。
何が神様が喜ばれることなのか、
何が妻が喜ぶことなのか、
本気で考えたことがあっただろうかと。

そして、それを本気で実行したことがあっただろうかと。

いつもいつも神様を喜ばせること、
妻を喜ばせること、
を考えて、
自分を喜ばせることを後回しにする、
そんなことを実行してみようと思いました。

できる、できない、疲れる、楽しい、
そんなことは実行してみてから、いえばいいこと。

とにかく神様の喜ばれることを求めよう、
とにかく妻の喜ぶことを求めよう、
そう思いました。

主よ、
今までずっとずっとホントは、
自分のことばかり考えてきました。
人の顔色を気にするときも、
その人のことを本気で考えていたというよりも、
自分がどう思われるかの方が大切だったんだと思います。

どうか、本気であなたが喜ばれることを求め、
本気で妻が喜ぶこと、
本気で教会のひとりひとりが祝福されることを、
求める者としてください。 






2008-07-13

まつり縫い。

今日は朝はなんだか涼しくて、
いいかなあと思ったのですが、
夜、教会から帰ってくると家の中がむっとする。

外も夜の11時前でまだ25度。
これから雨のようですが、
早く降ってきてほしいものです。

明日は雨のち曇り。
明日の夜あたりから湿度も下がって、
過ごしやすくなると思います。

今日、教会に行こうと思って、
ズボンをはこうと思ったら、
裾がほつれている。


自分は先祖代々由緒正しい短足の家系なので、
だいたい、どんなズボンでも20センチくらいは裾上げしてある。
ジーンズなどはウェストのサイズより、長さの方が短い。(ふつう?)

その裾上げしたところに、
足の爪とかが引っかかって
(ちゃんと靴下はいてからはけばいいのだが・・・)
だんだんほつれてくる。
一度ほつれると、足を入れるたびに、
なぜか、そのほつれた方に足が入る。
で、どんどんほつれて、今日はとうとう2センチくらいを残して、
ほとんど一周ほつれた。


で、必要は発明の母・・・ということで(ちょっと違うか)

で、小学校の家庭科以来の、ほぼ30年ぶり、うそ、33-4年ぶりの、
「まつり縫い」に挑戦。


言葉はわかるけど、やり方は忘れた。
でも、たぶんこうだろうなあ、と思いながらやった。
「これって絶対つっちゃっておかしくなるだろうなあ」と思いながら、
何とか一周。まあ、上出来。
我ながら、「お、ここまでできれば、もう一本!」
と、気をよくして、もう一つのズボンもやろうかと思う。
でも、そこで教会に行く時間。


ボタン付け以上の針仕事はしたことがないのですが、

ちょっとしたことも、妻の手を煩わせないでできると、
ちょっとうれしい。ちょっと自慢げ。

でも、針に糸を通すのが難しくなった・・・。

さて、今日の聖書。
今日はコリント人への第一の手紙7章17-28節。


「自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」22節。

自分は自由。
だから、キリストに救われて、
キリストに属する奴隷になった。
奴隷になったんだから、
自分の気の向くままに生きるんじゃないと思う。
自分の好きなことだけをしているんじゃないと思う。

主が導かれるところ歩むことが、
主に従うことが、
大切なことなんだと思う。

主に従うのは楽しいこと。
でも、きついことも、願わないことをするように導かれることもあるだろう。
そのことを逃げないで負っていくものでありたいと思いました。

主よ、
今日の一日も感謝します。
今日の出会いの一つ一つに感謝します。
どうか、私があなたの御声を聞いて、
それが自分の願いと違っていても、
従っていく、勇気を与えてください。
従うことの意味を教えてください。