2017-01-19

「沈黙(Silence)」について。

最近、あちらこちらで話に出る「Silence」が近所の映画館でやっていたので見てきた。
責任のある立場にある者として、やはり思わされていることを分かち合ったほうがいいと思うので、8ヶ月ぶりにこのテーマについて更新。


 火曜日に「沈黙」を見た。そして、それを挟んで原作も読んだ。久しぶりに遠藤周作の本を読んだ。「沈黙」も何年ぶりだろうか?映画の方はそれほど心には響かなかった。この監督は遠藤周作が言おうと思ったことをわかっているのだろうかと思った。いや、わかっているからこそ、「これを日本の牧師たちにささげる」と出てくるのか?しかし、もし、わかっていたとしても、それは彼がこの作品をささげた日本の牧師の一人である私の心には届かなかった。ロドリゴの苦悩の描き方が納得行かなかったのだろうと思う。フェレイラの苦悩も。2時間40分という時間の限界なのかもしれない。
 その一方で、久しぶりに読んだ原作にはやはり心に響くものがあった。ロドリゴの心の揺れについての記述が、自分の心を見透かされているかのようだ。弱い者を見下すところ、自分は大丈夫だと思うところ、「自分は苦しむのはかまわないけれども、人々が苦しむのは耐えられない」と思いながら、実は「自分を派遣した本部はどう思うか」「宣教史の汚点になるのではないか」ということを考えているところ・・・。強く見えるロドリゴ、自分が強いと思っているロドリゴ、しかし、彼もやはり、自分が軽蔑しているキチジローと同じ弱い存在だということが見えてくる。「私はこの取税人のような罪人ではないことを感謝します」と祈っているパリサイ人の隣で「私はこのパリサイ人のような偽善者ではないことを感謝します」と祈っている自分を見るようだ。「私は遠藤周作のような半端なクリスチャンではないことを感謝します」と祈っているようだ。そして、ロドリゴが踏み絵を踏むときに、その踏み絵のイエスが「私はあなたの足の痛みがわかるから」と語りかける場面は、何度読んでわかっていても心に触れるものがある。それこそ、西洋のイエスと違う、日本のイエスだという、遠藤周作の主張にはある程度共感できる。というよりも、「西洋の切支丹の教え」が「デウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わなければならぬ」というものであることが問題なのだと思う。それは遠藤周作が感じた欧米のキリスト教であって、本当はそうではない、ということもできるかもしれない。しかし、私も、あのアメリカに来たばかりのとき、イエスが飼い葉桶の中に生まれたクリスマスの劇の最後に「勝利のキリスト」が出てきて、本当に戸惑ったことがある。神学校の授業で「日本に福音を伝えるためには、日本の文化をまず、キリスト教を受け入れやすいものに変えていかなければいけない」と言い放った自称「福音派」の学生もいた。そんな経験を思い出しながら読んでいると、この遠藤周作の描くイエス像、罪人の私達、弱い私たちを受け入れ、赦し、共に歩まれるイエスの姿は、本当に大きな慰めだ。「神は沈黙しておられる」と思っているときにも、実はいつも一緒におられる、私たちの苦しみをご存じで、まさにその苦しみの只中におられる、というメッセージは私たちに勇気を与えてくれる。私たちは、どこまでも私たちの痛みや弱さを知っていてくださるイエスに、もっと深く思いを巡らせるべきなのではないか思う。
 しかし、彼が描くイエス像に全く同意できるかというと決してそうではない。
 自分は今から30年以上前、大学生の頃、「悲しみの歌」に描かれている人々の姿に心震われた。ちょうど、正義感だけでは生きていけないことを思い知らされていた頃。そして、悲しい歩みをしている私たちを愛し受け入れてくださる遠藤周作が描くイエス像に魅力を感じて、彼の書いたものを読み漁った。しかし、あるときにやはり限界を感じて、パタリと読むのを止めてしまった。聖書が書いているイエスと遠藤周作が書いているイエスはやはり違うのだと。彼が描くイエスは私たちと一緒に泣き、痛みをわかってくださるが、それ以上何もできない、一緒にいてくださる存在でしかなかった。しかし、聖書のイエスはそこでは終わらない。イエスは復活して、今も生きておられるのだ。私たちに聖霊によって力を与え、立ち上がらせてくださるのだ。イエスを裏切ったペテロをイエスのために命を捨てる人へと造り替えたのだ。その復活理解が「イエスは弟子たちの心の中に復活した」という遠藤周作と私はぜんぜん違う。超越者でありながら、私たちとともにいてくださる神、その神を私は信じている。永遠の神であり、私たちのためにこの世界に飛び込んできて下さり、私たちの罪を背負い、しかし、死に打ち勝ち、今も生きておられるイエスを信じている。
 自分が同じようなところに置かれたらどうだろうか?そういうことも思わされる。最後の晩餐のとき「私はどこまでも着いていきます」と言い張りながら、いざという時にイエスを3度知らないと言ったペテロのように、自分の弱さを忘れないでいたいと思う。弱さをわかって受け入れてくださる主に感謝しようと思う。しかし、それとともに、私を超えた神の力を忘れないでいたいと思う。自分は弱い、しかし、神は必要な力を必要な時に与えてくださるのだ。
「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:38-39
 死の恐れを感じていた幼い日のコーリー・テン・ブーンに父親が言った言葉を思い出す。

「お父さんが、列車に乗る直前にお前に切符を渡すように、神さまは必要なときに勇気と平安を与えてくださるんだよ。だから、その時までは、今から起こっていないことについて、何も恐れる必要はないんだよ」