2017-03-02

レント(Lent)と一緒に春が来てしまった!?

今年は本当に暖かい冬で・・・と思っていましたが、
春一番に庭に咲くクロッカスの写真をいつ撮ったか、振り返ってみました。

2010年は3月17日。




2011年は3月16日。



2012年は3月8日。



2013年はなぜか花の写真がなく、3月20日に雪の中のつぼみ。



2014年、ぐっと花の数が減って、3月31日。



2015年、なんでかわからないけど、写真が見当たらない。
2016年、確か咲かなかった。栄養が足りなかったんでしょうね。

確か、2015年もかなり雪が多かったので、多分咲いても遅かったでしょうね。
去年はわからないけど。

そして、今年はこちら。20度Cくらいまで気温が上がった昨日、3月1日の開花でした。




何れにせよ、やっぱり今年は特別に早い!

春の訪れは早いですが、
イースターは、今年はとても遅くて、4月16日。
普通は春を待ち望む思いと、イースターを待ち望む思いが重なるのですが、
今年はレントに入るのと、春になるのが同じくらいの感じ。
お陰でレント(Lent)に入るのとクロッカスの開花が同じ日、という普通はありえない年となりました。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。」
マタイ福音書16:22

レントの期間の始まりに、毎年のようにこの聖書の言葉に引き寄せられます。
今年も、毎週金曜日の夜に教会で持たれるレント集会の準備をしながら、この聖書の箇所に導かれました。
「イエスこそ神の子キリスト・救い主だ」との信仰を持つようになった弟子たちに対して、イエスがご自分のこれから出会う苦難について話を始められた時に、ペテロがイエスに対して諌めるように語った言葉です。
「あなたは救い主なんだから、そんな苦しみなんかに合うわけがない」「そんな弱気なことでは困ります。あなたは私たちの希望なんですから」というような思いだったのでしょうか。

人々のイエスに対する期待と、十字架に向かっていくイエスの思いのすれ違い。人々の無理解の中で、一人十字架に向かっていくイエス。

では、私はイエスに対して何を期待しているのだろうか、そんなことも思わされています。「勝利」って何?「救い」って何?「祈りが聞かれる」って何?

あ、天気の話に戻ると、でも、今夜からぐっと冷え込んで、明日、明後日と冬に逆戻りしそうです。土曜日は一日中氷点下の「真冬日」かも。

やっぱり春が待ち遠しいですね。

2017-02-08

この冬、初めての本格的な雪、の予報。

久しぶりのお天気ネタです。

明後日、木曜日は雪になりそうです。
前にも思ったのですが、TV Japanで、日本の天気予報は丁寧にやるのですが、
NY・NJの天気予報を日本語で見ることはできないなあ、ということで、ビデオを作ってみました。

明日、暖かくなるので、「ほんとに雪がふるんだろうか?」と思われる方もおられると思うのですが、はい、降ります。

はい、こちら。



2017-02-02

嵐の中でも


 アメリカに新しい大統領が就任して10日間。「まさかそこまで・・・」と思われていた選挙公約が次々と大統領令として打ち出されて、危機感を覚えています。また、あの大統領選挙の後、あちらこちらの宗教団体に対する脅迫や嫌がらせが頻発していることに心を痛めています。日系のコミュニティーだから、キリスト教会だから、自分たちは直接影響を受けないから良かったとか、彼らの問題だ、と無関心でいてはならないと思います。聖書に聞きつつ、祈りつつ、ここに生きるものとして、なすべきことを見極めていこうと思っています。
 その一方で、社会がどのように変わっても、どのような時代がやってきたとしても立っていく土台を持つことの大切さを思わされます。振り回されない強さを持ちたいと思います。聖書が書かれた時代、権力者は横暴で、政治は信頼できず、権力者と民衆の両方からの迫害が厳しかったのです。その中で、どんな厳しい状況の中でも、堅く立っていくことのできる土台を聖書は示しました。私たちもこれからどんな時代がやってくるか想像もできませんが、どんな嵐が待っていようとも大丈夫、という土台をもって歩まなければ、そう思わされています。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」マタイ7:24-25

2017-01-24

「わが神、わが神、どうして」

先日、「沈黙」について感じたことを分かち合ってから、いろんなことを思わされてきた。一番感じているのは、「わたしはあのヨブの友人たちのようなこと言っていないか」ということ。ヨブは旧約聖書の中に出てくる、正しい人でありながら、苦しみの中を通る人です。彼は最初は「神が与え、神が取られるのだ、神は素晴らしい方だ!」と賛美をしているのですが、悲しみ、痛みの中で、「わたしは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのだろう」という思いが溢れてきます。その中で、友人たちは最初は黙って、彼に寄り添おうとするのですが、彼の余りの言葉に、因果応報の考えにとらわれていた友人たちは「神は何も悪くない、あなたがなにか悪いことをしたのじゃないか?」とヨブを責め始めるのです。

今痛みや悲しみの中にいて「どうして神は沈黙をしているのか?」と叫ばないでいられない人々に対して、わたしの書いたようなことはやかましい建前論になってしまっているのではないか。ヨブの友人たちのような間違ったことは言っていなかったとしても、単なる知的な議論が人を救えないことは何度も経験してきている。


そんな中で、私達の教会のウェブページに出てくる「証し」の一つをもう一度読む機会があった。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という言葉。イエスはこの言葉を十字架の上で叫ばれた。新約聖書の中の福音書にはイエスは自分が十字架にかけられ、その後、三日目に復活することを知っていて、預言している言葉がある。イエスは自分の使命を知っていた。十字架で苦しむけれども、三日目によみがえることも知っていた。でも、それでも、イエスは「わが神、わが神、どうして・・・」と祈られたのだ。復活があるからOKではなく、「大丈夫、復活するんだから」というのでもなく、復活があっても、「どうして・・・」と叫ばれたのだ。

私たちもそのように叫ばないではいられないことがある。復活がある。神の勝利がある。それを信じている。それでも、私たちの歩みの中には「どうして・・・」と叫ばないで入られないことがある。つぶやかないで入られないことがある。それを人は不信仰というかも知れない。しかし、イエスはそれをわかってくださるのだ。共に行ってくださるのだ。いや、先に行ってくださっていたのだ。そのイエスと共に歩むのが、私たちの人生なのではないか、今日はそんなことを思わされている。

2017-01-19

「沈黙(Silence)」について。

最近、あちらこちらで話に出る「Silence」が近所の映画館でやっていたので見てきた。
責任のある立場にある者として、やはり思わされていることを分かち合ったほうがいいと思うので、8ヶ月ぶりにこのテーマについて更新。


 火曜日に「沈黙」を見た。そして、それを挟んで原作も読んだ。久しぶりに遠藤周作の本を読んだ。「沈黙」も何年ぶりだろうか?映画の方はそれほど心には響かなかった。この監督は遠藤周作が言おうと思ったことをわかっているのだろうかと思った。いや、わかっているからこそ、「これを日本の牧師たちにささげる」と出てくるのか?しかし、もし、わかっていたとしても、それは彼がこの作品をささげた日本の牧師の一人である私の心には届かなかった。ロドリゴの苦悩の描き方が納得行かなかったのだろうと思う。フェレイラの苦悩も。2時間40分という時間の限界なのかもしれない。
 その一方で、久しぶりに読んだ原作にはやはり心に響くものがあった。ロドリゴの心の揺れについての記述が、自分の心を見透かされているかのようだ。弱い者を見下すところ、自分は大丈夫だと思うところ、「自分は苦しむのはかまわないけれども、人々が苦しむのは耐えられない」と思いながら、実は「自分を派遣した本部はどう思うか」「宣教史の汚点になるのではないか」ということを考えているところ・・・。強く見えるロドリゴ、自分が強いと思っているロドリゴ、しかし、彼もやはり、自分が軽蔑しているキチジローと同じ弱い存在だということが見えてくる。「私はこの取税人のような罪人ではないことを感謝します」と祈っているパリサイ人の隣で「私はこのパリサイ人のような偽善者ではないことを感謝します」と祈っている自分を見るようだ。「私は遠藤周作のような半端なクリスチャンではないことを感謝します」と祈っているようだ。そして、ロドリゴが踏み絵を踏むときに、その踏み絵のイエスが「私はあなたの足の痛みがわかるから」と語りかける場面は、何度読んでわかっていても心に触れるものがある。それこそ、西洋のイエスと違う、日本のイエスだという、遠藤周作の主張にはある程度共感できる。というよりも、「西洋の切支丹の教え」が「デウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わなければならぬ」というものであることが問題なのだと思う。それは遠藤周作が感じた欧米のキリスト教であって、本当はそうではない、ということもできるかもしれない。しかし、私も、あのアメリカに来たばかりのとき、イエスが飼い葉桶の中に生まれたクリスマスの劇の最後に「勝利のキリスト」が出てきて、本当に戸惑ったことがある。神学校の授業で「日本に福音を伝えるためには、日本の文化をまず、キリスト教を受け入れやすいものに変えていかなければいけない」と言い放った自称「福音派」の学生もいた。そんな経験を思い出しながら読んでいると、この遠藤周作の描くイエス像、罪人の私達、弱い私たちを受け入れ、赦し、共に歩まれるイエスの姿は、本当に大きな慰めだ。「神は沈黙しておられる」と思っているときにも、実はいつも一緒におられる、私たちの苦しみをご存じで、まさにその苦しみの只中におられる、というメッセージは私たちに勇気を与えてくれる。私たちは、どこまでも私たちの痛みや弱さを知っていてくださるイエスに、もっと深く思いを巡らせるべきなのではないか思う。
 しかし、彼が描くイエス像に全く同意できるかというと決してそうではない。
 自分は今から30年以上前、大学生の頃、「悲しみの歌」に描かれている人々の姿に心震われた。ちょうど、正義感だけでは生きていけないことを思い知らされていた頃。そして、悲しい歩みをしている私たちを愛し受け入れてくださる遠藤周作が描くイエス像に魅力を感じて、彼の書いたものを読み漁った。しかし、あるときにやはり限界を感じて、パタリと読むのを止めてしまった。聖書が書いているイエスと遠藤周作が書いているイエスはやはり違うのだと。彼が描くイエスは私たちと一緒に泣き、痛みをわかってくださるが、それ以上何もできない、一緒にいてくださる存在でしかなかった。しかし、聖書のイエスはそこでは終わらない。イエスは復活して、今も生きておられるのだ。私たちに聖霊によって力を与え、立ち上がらせてくださるのだ。イエスを裏切ったペテロをイエスのために命を捨てる人へと造り替えたのだ。その復活理解が「イエスは弟子たちの心の中に復活した」という遠藤周作と私はぜんぜん違う。超越者でありながら、私たちとともにいてくださる神、その神を私は信じている。永遠の神であり、私たちのためにこの世界に飛び込んできて下さり、私たちの罪を背負い、しかし、死に打ち勝ち、今も生きておられるイエスを信じている。
 自分が同じようなところに置かれたらどうだろうか?そういうことも思わされる。最後の晩餐のとき「私はどこまでも着いていきます」と言い張りながら、いざという時にイエスを3度知らないと言ったペテロのように、自分の弱さを忘れないでいたいと思う。弱さをわかって受け入れてくださる主に感謝しようと思う。しかし、それとともに、私を超えた神の力を忘れないでいたいと思う。自分は弱い、しかし、神は必要な力を必要な時に与えてくださるのだ。
「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:38-39
 死の恐れを感じていた幼い日のコーリー・テン・ブーンに父親が言った言葉を思い出す。

「お父さんが、列車に乗る直前にお前に切符を渡すように、神さまは必要なときに勇気と平安を与えてくださるんだよ。だから、その時までは、今から起こっていないことについて、何も恐れる必要はないんだよ」