2007-06-16

どんな状況でも神のそばに

今日は暑くなりました。
日陰だったら、それほどでもなかったのですが、
日差しが厳しかったです。

そして、午後は待望の雨。
雷も鳴って、5歳の娘が、ちょっとびびっていました。
おへそとられるかも知れないからって。
で「5歳の女の子のおへそが一番好きなんだって・・・」と追い打ちをかけておきました。
固まっていました・・・。

割合まとまって降ったと思います。
芝生も野菜も大喜び、って、結局水まきをしなくていい、自分が大喜び。

明日は暑い一日になるようです。
そして、午後は雷雨もあるかも・・・。
でも、「野外礼拝」は大丈夫です。

今日の聖書。
今日はちょっと6時すぎてしまったし、朝のうちにやることもたくさんたまっていたので、
久しぶりに家で聖書を読んで祈りました。

「私は悪の天幕に住むよりは むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」10節。

大好きな聖書の箇所の一つがこの84篇です。
今日は、その中の最後の方のこの言葉が心に留まり、祈らされました。

「住む」のと「門口に立つ」のでは全然違います。
でも、状況がどうであったとしても、
立たされるような、それも玄関先に立たされるような、
そんな状況であっても、
主と共にある、その歩みがどれほどすばらしいかと思わされました。

肩身が狭くてもいい、
物質的にきびしくてもいい、
ただ、主と共に歩むことができるのが、
一番の幸いだと思います。

明日の野外礼拝でもそのことを御分かちしたいと思います。
昨日も、今日も「行きますよ」という声を聞くことができて、
とてもうれしいです。

福音をお伝えするチャンスが与えられますように。

主よ、
今日もあなたが共にいてくださることに感謝します。
どうか、あなたと共に歩む喜びをもっともっと味わわせてください。
どんな状況でも耐える力をください。
神さまに従っていれば、万事は思い通りに行く、わけではない、ことを教えてくださって、
ありがとうございます。
万事が順調に進むことよりも、
あなたに取り扱われて、あなたにきよめられて歩むことを求めます。

明日の野外礼拝が、人々があなたのすばらしさを感じるひとときとなりますように。

2007-06-15

神の超越

今日も割合涼しい一日で25度くらい。
昨日みたいに肌寒くはなく、
日が照るとそれなりに暑いですが、
でも、日陰に入ったら、長袖が欲しいくらい。

とても気持ちのいい一日でした。
夜、今は11時半ごろですが、

17度くらいまで下がっています。

明日の朝はまた冷えるみたいです。


今、ラップトップのコンピューターを使っているのですが、
最近、ちょっといらいらすることが・・・。
その一つは、コンピューターの裏についているゴムの足。


こういうのが、私の今使っているのでは5個、裏についています。
こんなのあんまり気にしないものですが、
一個でも外れると、傾いてしまいますし、熱を逃がすのもあまりうまくいかなくなってしまうような気がします。
そして、何よりも、滑る。
ちょっとした部品なんですが、
大切な部品なんだと思いました。
その一つが紛失、そして、もう一つはすぐ外れる。
何とかならないかと思い検索。

laptop rubber leg でググると、売っていたり、オークションで出ていたりします。

でも、そんな中で、「取れた、と苦情を言ったら、タダで送ってくれた」という報告を見て、
早速カスタマーサービスとチャット。
これ、前にも使ったことがありますが、
電話よりもいいかも・・・。
発音が悪くて聞き返されることもなく、
向こうの発音がなまっていて、ききとれないという心配もなく、
待たされるのもあまり大変じゃないし・・・。

それが昨日のことだったのですが、
「すぐ送るよ~」との答えに、満足。
(まあ、保証期間中だったこともあるかも知れません)

そして、今日届きました。大満足。
そして、早速つけました。超大満足。

メーカーはDellですが、ちょっとしたことですが、
こういうことで、満足度は上がります。
ちょっとしたことが大切なんだなあと思わされました。

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の83篇を読みました。

「彼らが恥を見、いつまでも恐れおののきますように。
彼らがはずかしめを受け、滅びますように。
こうして彼らが知りますように。
その名、主であるあなただけが、
全地の上にいますいと高き方であることを。」
17-18節。

この詩も、また敵が恥を受けるようにという祈り。
ちょっと抵抗を感じたりする。
でも、この最後の言葉でノックアウト。

それは自分の復讐心を満たすためではなくて、
その人々が神さまだけがいと高き方であることを知るため、
つまり謙遜になるためだったのだ。

もしも、その恥を受けなかったら、
そんなことも知らないまま、自分のしたことの正しさを信じて、進んでいくのだろう。
でも、そうでない時には、自分の心を探られ、
何か間違っていたのだろうかと、自分に問いかける、
私たちはそのような者だ。

だから、この祈りも正しい祈りなんだと思いました。
正しい裁きの中で、
神の正しい裁きの中で、
私たちが自分の姿を省みることができる。

だから、恥を負うことは決して悲しいことではなく、
人が恥を負うようにと祈ることは、決して恐ろしい復讐の鬼の態度ではないのだ。
ただ、一人の人がそれによって神の前にへりくだることができるように、
祈ることの大切さをも思わされました。


主よ、
必要なら、私に恥をお与えください。
主よ、
もし必要なら、あなたに従わない人々に、
恥をお与えください。
それによってあなたの元に返ってくることができますように。
何よりも、私たちが「キリストの形がなるまで」整えられていきますように。

2007-06-14

顔を立てる

今日は本当に涼しい、というか、肌寒い一日でした。
特に午前中は体が冷えてしまうほどでした。

でも、明日からはまた、週末にむかって、
どんどん暖かくなり、
日曜日から来週前半は夏になるようですね。

今年も野外礼拝は大丈夫です。

昨日、突然、お誘いを受けて、
今日から、町のオーケストラに参加することにしました。
今日の夕方まで迷っていたのですが、
行ってみたら、

「やばい。はまってしまうかも・・・」と思うくらい楽しい。

23年ぶりにちょっとマジにトロンボーンをやるわけですが、
結構いけるかも。

惜しむらくは、日本を離れる時に、Bachの42B GLを手放してしまったこと。
今は学生用のを譲り受けて、使っています。
考えてみれば、学生の方がうまいのですから、「学生用」でいいんでしょうが、
本気で部活をやるような学生は、大体Student Modelは使いません。
一番いいのを買います。アルバイトしたり、生活費削ったりして・・・。

新しいのが欲しくなったらどうしよう・・・
って練習初日ですでに症状が少し出てきています。
eBayとかで検索を始めてしまっています。
でも、楽器というのは、「このメーカーのこの型番のがいい」というものでもなくて、一本一本、吹いてみないとわからないから、ネットオークションというわけにはいかないんでしょうね。

さてさて、
今日の聖書。
今日は詩篇の82篇を読みました。

「いつまでおまえたちは、不正なさばきを行い、 悪者どもの顔を立てるのか。」2節。

別に不正な裁きをしてはいませんし、
悪い人たちに接しているとも思いませんが、

「顔を立てる」という言葉に心が留まりました。

「あの人の顔を立てるとか」「あいつに顔をつぶされた」なんてことを言うことがありますが、
そういうことが心を支配してしまうことがあってはいけないですね。
そこまで行かなくても、実際に「配慮」という名目で、
そのようなことに気を遣う人がいい人、できる人、成功する秘訣、だったりすることもあります。
どうなのかな?と思います。

なぜなら、「顔を立てる」という言葉の背後には、
「本当ならば、重んじる必要がない、本質的なことを言うと、そんなことを気にする必要はない、でも人間関係を円滑に持っていくために、大切にしておこう、注目される役を与えよう、話を通しておこう」というような考え方があるからです。

本当にすべきことができない。
それは「恐れ」に縛られているからでしょう。

本気で大切にすべきことを、大切にする者になりたいと、
そのために神さま、力を与えてください、と祈りました。

主よ、
本気で大切にすべきことを大切にすることができますように。
「あの人の顔が立たない」とか、そんなことに振り回されない強さをください。
あなた御自身から力をいただいて、語っていくことができますように。
筋を通していくことができますように。


2007-06-13

岩の上の蜜

今日はぐっと涼しくなりました。
ずっとNYだったので、NYのことしかわかりませんが、
どんよりとして、涼しかったです。

今夜、NJに帰っても、今、10時半で15度くらい。
あさは、12度くらいみたいです。
ちょっと極端ですね。

明日も20度くらいまでしかあがらない、涼しい日になるようです。

やはり、日曜日から暑くなるようで、
野外礼拝は暑さ対策が必要みたい。

今日、シカゴ郊外にあるウィロークリーク教会のビル・ハイベルスの「教会の再発見」を読んでいる中で、
今まで、自分は「いい人」「聖書をいいものだと思っている人々」が洗礼を受けるところまで導く、ということをしてきたように感じる。
彼がしてきたように、「無関心な人を熱烈なイエスの弟子にする」「無神論者を宣教師にする」という大胆な発想を自分はしてきただろうか、と。
そのことを祈ってきただろうかと。
つまり無神論者をゼロ、宣教師を10、洗礼を受けることを5とすると、
4から6に導けばいい、と思ってきたのではないだろうか?

大胆に求めようと思いました。
ただ、一人の人が洗礼を受けてそれだけで満足してしまうのではなく、
主に忠実な、教会を愛するキリストの弟子に育て上げさせてくださいと。

それも、必ずしも「教会の働きに理解のある人」だけではなく、
「え、この人が?」という人も主に導かれるように、祈ろうと思いました。

さて、今日の聖書。
今日も早く目が覚めた主に起されたのですが、
今日はNYに行く日だったので、シャワーを浴びたり身支度をしていたら、
6時をすぎてしまったので、教会で祈るのは断念。
代わりにバスの中で祈り、また7時半からの祈り会のあと、図書館で祈りました。


今日は詩篇の81篇を読みました。
「わたしは岩の上にできる蜜で、  あなたを満ち足らせよう。」  16節の言葉です。

最高の蜜は岩の上にできる。

ごつごつした、岩の上に。

整えられたテーブルの上ではない。
ごつごつした岩の上に最高の蜜はできる。

谷間に泉が湧くように、
岩の上に蜜ができるのだ。
それはやはり岩でなければいけない。
ふかふかのソファーであってはいけないのだ。

主が訓練を与えてくださるとは何という幸いだろうか?
私は傲慢だった。
伝道牧会がうまくいっているかのような勘違いをしていた。
いや、本当は何かが違うことはうすうす感じていた。
わかっていた。

だから、自分の責任ではある。

でも、主がこのような時を与えてくださって、
立て直しのチャンスを与えてくださっていることは、
また私自身が伝道牧会のなんたるかを学び直していることは、
本当にすばらしい恵み。

毎朝、「さあ、起きろよ、来いよ、一緒に時を過ごそう」と言ってくださる神さまがおられることに、
本当に心から愛されている喜びを覚える。

主よ、
今日の一日を感謝します。
あなたが今朝も招いてくださったことに、心から感謝します。
あなたと共に時を過ごすことのできる幸いを感謝します。
どうか、もっともっとあなたと共にある幸いを経験することができますように。

明日のJOYJOYキッズクラブでも、
大胆にあなたの愛のなんたるかを語ることができますように。

2007-06-12

主が育ててくださる教会

昨日の夜は暑かったですねえ。
今朝になってみると、結構涼しいのですが・・・。

そして、今日も暑くなりました。
30度くらい。
そして、午後からは時々にわか雨や雷雨。
そして、夜は昨日ほどではないですが、やはり蒸し暑いです。

明日あたりから、結構ドライになってくるようです。
明日のにわか雨の確率は30-40パーセント。
その後は10パーセントに下がります。
朝晩は涼しいくらいでしょう。

でも、日曜日、「野外礼拝」の時は30度を超えて暑くなりそうです。
屋根がありますから、大丈夫でしょうが・・・。

さてさて、今日は早速、朝読んだところから・・・。
「教会で朝、ゆっくり祈ろう」と思わされてからちょうど一週間。
今朝も、5時半に目が覚めて、感謝しつつ教会に行きました。

今日は詩篇の80篇を読みました。

「そして、このぶどうの木を育ててください。 また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。」14-15節。

このブドウの木は、この詩人にとってはイスラエルの民を指していました。
クリスチャンにとっては、これは「教会」を指します。

教会は神さまが育ててくださる。
そのことを思わされました。
そして祈っている中で、昨日ちょっと悶々としていたのですが、
力が与えられました。
そして、ただただ、主に「この詩人のように祈ります。教会を育ててください。あなたが植えてくださった苗です」という祈りに導かれました。

昨日の、

「主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、 私たちの隣人らの胸に返してください。」(詩篇79:12)も、「胸に返してください」ですから、単なる復讐を祈る祈りではなく、人々が神を侮辱したのだから、それにふさわしい「罪の認識」を与えてください。ということなのではないかと思いました。

そして、とにかくリバイバル(信仰の復興)を祈りました。
表面的な元気さや、調子がよくいっている感覚よりも、
もっともっと大切な、神に砕かれ、神を信頼して歩み始める、本当に深いところまで取り扱われることが、
教会の一人一人の中に、そして、第一に私の中に起されますように祈りました。

今、私たちの教会は教会堂が与えられるように祈っていますが、
それはそのリバイバルの延長上にあるのだということを、思わされました。

主よ、
あなたを求めます。
聖霊様が私のうちに、
わたしたちのうちに、あふれてくださいますように。
どこの誰が見ても、ああ、あそこには神の特別な働きがある、と
見えるような、感じさせられるような、そんな教会としてください。

明日の一つ一つの出会いを祝福してくださり、
まず私が聖霊様に満たされ、その喜びと力をいただいて、
出て行くことができますように、助けてください。

2007-06-11

主の裁き

今日はまた蒸し暑かったですねえ。
朝のうちは涼しかったですが、
午後から30度を超えて、湿度も高くなりました。

雨もパラパラしか降りませんでした。
もっと降ってくれると助かるのですが・・・。

今夜は蒸し暑い夜になっています。
今10時半前で25度あります。

でも、間もなく雨が降ってくるようです。

明日もなんだか今日と同じような天気で、
蒸し暑くて、雨も降る、そんな一日になりそうです。

今日は、朝から成分献血に行ってきました。
花粉症の季節も終わって、薬も飲んでいないので、大丈夫。
そして、今回のおまけは前立腺ガンのマーカーの血液検査付き。
それはお医者さんに行ってやってもらえばいいから、
野球のチケットとかの方がよかったのですが、
まあ、おまけですから、しょうがありません。
何かがあった場合には、ここで見つけておけば、そんな感謝なことはないわけですし・・・。

最初に問診票があって、
いろんなことを聞かれます。
一つ一つ読んでいると、「ああ、これに当てはまる人は献血はできない、できる自分は何と健康に恵まれているんだろうか」と思いました。そしていつか、この質問でひっかかって、献血できなくなる時がきっとやってくる、だから、今のうちにやっておこう、そして、できなくなった時、また自分自身がどなたかの血をいただかなければいけなくなった時に、今まで、献血をしたくてもできなかった人々の痛み、受ける側に回った時の気持ち、それを謙虚に教えてもらおう、と思いました。

ちなみに前回2月にトライした時には、上手に血管に針が入らなくて、
結局両腕ともうまくいかなかった・・・と話したのですが、
前回の記録を見て、「まあとにかくやってみましょう」ということになり、
今回は血小板1ユニット、赤血球1ユニットに挑戦。

しかし・・・
今回は20分くらい進んだ(1時間かかる中で)ところで、やっぱりアウト。
どうやら、成分を抜いてもう一度血を戻す時に、静脈がその圧力に耐えられないとか・・・。
大丈夫か、自分の血管。

コレステロール値は超優良なので、動脈硬化の心配はあまりないのですが、
静脈の根性がない・・・というのは何なんでしょうか・・・。
ということで、1時間半使って、むなしく、ジュースだけいただいて、帰ってきました。

「次回からは『whole blood』にしてね・・・」と言われました。
whole bloodだったら、もう一度戻すプロセスが必要なくなるから、
大丈夫なんでしょうね。
だから、最初に「前回はうまくいかなかったんだよねえ」と言っておいたのですが・・・。
でも、成分献血の方がずっと効率がいいみたいです。だから、成分献血を勧められるんだと思いますが・・・。

ちなみにO型の血液の不足はcritialな状態だそうです。
よろしく。

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の79篇を読みました。

「主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、 私たちの隣人らの胸に返してください。」12節。

この言葉が「心に留まった」というよりは、「心に引っかかった」という感じでした。
自分はこういう風には祈れないなあ、と。
こんな風に、「7倍にして報いてください」なんて祈るなんて、とてもできません。
で、悶々としていました。
突き抜けない思いで、いました。

旧約聖書なので、イエスの「7たびを70倍するまで赦しなさい」という言葉を、知らない詩人が書いた言葉です。
だから、このような神の正しい裁きを祈る祈りが間違っていないのかも知れません。
ひどい目にあった人が、正しい裁きがなされるように祈るのは間違っていないのかも知れません。
また「自分」ではなくて、「神さま」を冒涜する人々に対してだから、こういう祈りをしていいんでしょうか?

どうなんだろうかなあ、と思って祈っていました。

その中で、どうつながるのか、まだ消化し切れていないのですが、
一つの聖書の言葉が心に響いてきました。

「絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」

あわてて、その場所を開いてみました。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」
テモテ第2の手紙の4章2-5節の言葉です。

しばらく時間をかけて消化していきたいと思いますが、
まず、自分は都合のよい話を語るのは止めよう、と思いました。
自分のつとめはそこにあると思わされました。
自分に対してもそうです。
自分に対して都合のよいところばかりを聖書の中から拾うことはすまい、と思いました。
都合の悪いことこそ、耳を傾けるべきだと。

主の裁き、正しい裁きを祈ろうと思いました。
そして、それ故に、自分も神の前に立つことができない故に、
キリストの十字架を信じることの大切さをもう一度思わされました。

主よ、
あなたの御言葉を私に語ってください。
自分に都合のいいところを拾うのではなく、
御言葉をそのまま受け取ることができますように。
そして、私が人々にとって都合のいい説教者になってしまうことがないように、守ってください。
自分の責任である、「責め、戒め、教える」ことから逃げない強さを与えてください。

2007-06-10

すべてを持っておられる主

今日は涼しくなりました。
夜になって、益々涼しくなって、
今11時過ぎですが、19度くらいです。
助かります。

明日はもうちょっと蒸し暑くなるでしょう。
雷雨もあるかも知れません。

今日はあさから、JOYJOYキャンプの作戦会議。
エンジンが掛かり始めたところでしょうか。
まだまだこれからです。
「ワンダー博士の大冒険」ですが、
その「大冒険」をどんな冒険にするか、大変です。

「ワンダー博士の実験室」にしておけばよかったと、
思いますが、それもちょっと「わくわく感」に欠けるかな、
ということで、「大冒険」にしたのですが、
かなり首を絞めたかも。
でも今までの経験からすると、直前にぐっと気持ちが盛り上がるんで、
それを期待しつつ。

今朝の聖書。
今朝は詩篇の78篇を読みました。

「神は荒野の中で食事を備えることができようか。 確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て  流れがあふれた。  だが、神は、パンをも与えることができようか。  ご自分の民に肉を備えることができようか。」19-20節。

これはイスラエルの人々が神を信じられないで言った言葉です。
「神さまにはここまではできるだろう、でもさすがにここまでは無理だろう」
なんてことを自分で勝手に決めていることがどれほど多いだろうかと思いました。

それも、「御心だけがなるから・・・」と自分の不信仰をごまかすために、
心の中で、言い訳をしていることもあるのではないだろうかと。

具体的なことを一つ示されました。
その具体的なことについて、
自分がいかにそれを願っていながら、熱く願っていながら、
「これは無理ですよね」と言っていることがあるかと、
思わされました。

御心でなければそれでいい。
ただ、単純に祈ること、願うことが大切であることを思わされています。
御心でなければ、その時に教えられることもある。
ただ、願うこと、熱く感じることを、主のもとに持っていこうと思い、
今朝は、そのような祈りを捧げました。
「主よ、あの土地を私にください」と。

主よ、
最高のものをください。
あなたのことを伝えるために、最高のものをください。
あなたのことを証するために、
あなたのすばらしさをまだ、それを知らない方々に伝えるために、
それをください。
それはあなたのものですよね。
あなたの御手の中にあるんですよね。
あなたにとってそれは難しいことではありませんよね。
それをください。
それが許されないなら、その理由を教えてください。
あなたを心から信頼しています。

今日、このことを教えてくださったあなたに感謝します。