2010-04-24

輝き。

今日はスカッと晴れました。
朝はやっぱり5度くらいでしたが、昼間はまた暖かくなりました。

でも、夜になってから雨が降ってきたようです。
明日は肌寒い雨。

雨の中心は今夜から明日にかけてのようですが、
火曜日くらいまですっきりしない天気になりそうです。

今日のJOYJOYシンガーズの練習は素晴らしかったです。
何が素晴らしかったかって、子どもたちの表情。
もう、なんども涙があふれそうになりました。

子どもたちは、力いっぱい賛美します。
本当に声を張り上げるようにして、
もちろん、音楽のことを言うならば、
張り上げない方がいい。
でも、あまり「指導」みたいなことをして、
あの輝きを失いたくない。
悩まされるところです。

私達が子どもたちに見習うこと、沢山あると思います。

さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ34:1−7でした。

「あなたは剣で死ぬことはない。あなたは安らかに死んで・・・」4−5節。

私達の命は主の御手の中にある。
そのことを改めて思わされました。

今朝、昨日のEarth Day、
DNAを調べるキットが安かったみたいですね。


DNAでいろいろ調べて、どんな病気にかかりやすいか、
どんなことに注意すべきなのか、わかることがあるみたいです。

これから研究を進めて行けば、もっといろんなことが見えてくるんでしょうね。

でも、それでも、私達の命は、神様のみ手の中にある。
主が与えてくださっている命を、
主が望まれるように生きていく、
そのように歩みたいと思います。

主よ、
あなたの与えてくださっているこの命に感謝します。
どうか、あなたの与えられている使命に歩ませて下さい。
あなたの与えられる使命に生きる者として下さい。

2010-04-23

理解を超えた大いなること。

今朝も、寒かったんですよねえ。
5度切りましたから。
それがちょっとしんどいかなあ、昼間そこそこ暖かくなるから、
余計、朝「カラダが冷える〜」って感じです。


今夜もまた冷えて、明日は晴れて暖かいでしょう。
でも、明日の夜は雨。そして火曜日くらいまで雨で、
肌寒くなりそうです。


その先もずっと見てみると、もう寒いのはないかなあと思ったのですが、
5月になっても、暖かい日と、肌寒い日が交互にやってきそうです。


あ、今日集会のあったお宅には藤の花が咲いていました。
早いですよねえ。まだ4月です。






昨日は久しぶりのJOYJOYキッズクラブでした。
先月は最近で最大の29人が参加したMaywoodでのキッズクラブでしたが、
今月はなんだか、みなさん花粉症の影響か、風邪が流行っていたのか、
ぐっと少ない12人でした。


でも、毎回子どもたちの一生懸命な姿には励まされます。


先日から読んでいるエレミヤ書。
日曜日からの32章では、「将来への投資」がテーマでした。
それは常識的に見たら、やめた方が良い投資であり、
70年先に返ってくる、ということを考えたら、
自分がいきている間にリターンがあるわけではない投資です。


ただ、神に従った投資であり、
また自分のための投資ではなく、次の世代のための投資です。


やはり、子どもたちのための働きがどれだけ大切だろうかと思わされます。


経済的な意味でも、また労力の面でも、
次の多世代のための投資をもっともっと主に導かれていると感じます。


さて、昨日、今日はエレミヤの33章。
「あなたの知らない、理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう」3節。

「日々のみことば」のところには、
「理解を超えた大いになること」とは「囲いがあって立ち入ることのできない」ところ、
という意味の言葉だと書かれています。

神様の世界は私達が知ることができない。
私達が自分から、そこに立ち入ることができない。
でも、主がそこを開かれるときに、
私たちはそれを知ることができる。


そのために私達に求められているのは、
「私を求めなさい」ということ。

「私たちは本来、神のみ思いを知ることができない」という主の前の恐れと、
「それを主は明らかにしようと、私達が求めるのを待っておられる」という確信と、
両方をもって、主の前に出よう。


主は待っておられる。

主よ、
あなたのみ思いを知らせていただけるなんて、
なんて素晴らしいことでしょうか?
あなたと時間を共にすることにもっと喜びを満たし、
あなたから、み思いを知らせていただける関係を築いていくことができますように。

いつも太陽が・・・。

昨日はここ数日の連日3-4時間睡眠がたたって、
「沈没宣言」もできずに、10時前にはもう夢の国に旅立っておりました。

そして、花粉症の真っ最中のカラダは、
朝起きたら、スカッと言うわけにも行かず、
グズグズです。

でも、嵐の時にも雲の上には太陽が輝いています。
そうなんですよね、忘れてしまうんですが、
今朝も「神様、勘弁してください」と祈ったのですが、
雲の上には太陽が輝いているんですよね。

Junさんのブログには、通称「お天気の歌」=「いつも太陽が」を聴かれた方の声が紹介されています。

Rainbow Music Japan Official Blog: いつも太陽が。

今日の一日のみなさんの歩みも主によって支えられますように!

2010-04-21

存在を喜ぶ。

今朝も、寒かったです。
なんだか、ほんとに。


今夜はそれほどでもないようですが・・・。


明日は曇りですが、暖かく、雷雨もあるかも。


先日から、「理解されることよりも理解することを」ということを
思わされていますが、今日はまさに「ああ、このためだったのか」と思わされることがありました。
お話をしながら、「理解してもらおうと思うよりも、相手を変えようと思うことよりも、理解しよう」と思いながらお話を伺っていました。「互いに理解する」とか、「心が通じる」という所までは程遠いのですが、ああ、こういう事なんだろうなあ、お話をさせていただいて、一歩前に進んだような気がします。


愛されることを求めるよりも、愛することを学ばせていただきたいです。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ32章の最後、36-44節です。


「彼らをわたしの喜びとし」41節。

新共同訳ではちょっとニュアンスが違うのですが、
「主が私達を喜んでくださる」んですよね。

これはすごいなあと思います。

昔、ローマ人への手紙の5章11節にある「主を喜ぶ」ということばが、「どういう意味?」って感じでわかりませんでした。

「主がこういう事をしてくださったことを喜ぶ」とか、「主がこういう方だからそれを喜ぶ」とか、そうならわかるのですが、「主を喜ぶ」ってわからなかったです。

でも、最近「主の存在自体を喜ぶんだなあ」と分かり始めています。
それはまず、主が私のことを、わたしの存在自体を喜んでくださっている、とわかったから。

主がわたしを喜んでくださっている。
存在自体を。
だから、わたしも主を喜ぶ。

主よ、
今日も守って下さり、
私の心を支えて下さって感謝します。
一瞬一瞬、語ってくださっていますから感謝します。
どうか、あなたに喜ばれている平安の中で、
私達もあなたを喜ぶ者とならせて下さい。

2010-04-20

「男の料理なんて・・・」

今朝も寒かった。
4度くらいまで下がりました。


でも、昼間は20度を超えました。


明日は朝もそれほど冷えず、昼間も暖かく、
今週の中では一番穏やかな日かな、と思います。


父と娘ふたりの生活も今日まで。
「のんちさんがいなくて大変でしょう」と言われると、
まあ、ほんとうにそのとおりです。
つくづく感謝しなければと思います。


でも、でもですよ、まだ人間出来ていないですから,
どうしても、「結構頑張ってんだよ〜」って言っちゃうんですよね。
「そうですよねえ」で終わらせとけばいいのに・・・。


「料理も大変ですね」・・・これは1時間でも時間があれば、それは感じないです。
いつもはしないんですが、正直、好きなんでしょうね。
でも、自分でも余計だなあ、と思うのですが、
娘たちに「うまいよねえ」ってしつこい。


そう、やっぱり「おいしい」って言わせたいですよね。
反省。明日の夕食までは私の担当ですが、そのあとは、ちゃんと「うまい!」と反応する夫になろうとプチ決心。


ちなみに今日は一口ヒレカツ。




はい、うまかったです。


でも、「男の料理なんて・・・」ってのが幾つかありますよね。


たとえば・・・


1. それだけお金をかければ・・・


今日、Shopriteで、豚ヒレ肉、1パウンド1.99ドルでした。100グラム40円とか。それを1パウンドくらいだから、今日の夕食、しめて3ドルくらいかな。


2. それだけ時間をかければ・・・


まあ、そういう時もありますが、今日は準備30分、揚げるのに30分。5時半から6時に準備して、その後、一仕事して、8時から8時半に揚げている間に、ユキに味噌汁を作らせて、サキにサラダをつけて、ヒレカツ定食。


3. 肉ばっかり・・・


はい、お言葉通りです。
今日も、のんちが出発する前に買っておいてくれたナスをつかって、ナスの肉味噌炒めを作ろうと思って、買い物に行ったら、「ヒレカツ定食」になってしまったわけで・・・。さあ、ナスをどうしよう・・・。出る前に買ったのがそのままあったら、びっくりするだろうなあ・・・。


4. やりっ放しで片付けない。


はい、明日の朝やります・・・。


11日の「龍馬伝」から。


「男の人て、どうして熱くなるんだろう。みんな『日本を救いたい』と言うのに、自分の生き方はなかなか変えられない」


わお・・・これって、教会にそのまま当てはまる。


「クリスチャンってどうして熱くなるんだろう。みんな『神様のために』『日本を救いたい』というのに、自分の生き方はなかなか変えられない・・・」


「日々のみことば」は昨日書いた通り、32章全体を通して、
御言葉に従うこと、常識を超えて主を信頼すること、教えられています。

主よ、
愛されることよりも愛することを、もとめることできますように。
明日も、あなたがいつもいつも共にいてくださること、
私が気がつかない時も、あなたが共にいてくださることを、
忘れることがありませんように。

2010-04-19

主のなさることすべてへの同意。

今朝は寒かったですが、昼間はいい天気で暖かくなりました。
明日はもっと暖かくなりそうです。


花粉の季節はもうすぐ峠を越えます。


大学時代の友人、25年くらい前に夜を徹して語り合った友人が、
今、大学生のクリスチャンの団体のための働きをしています。
最近、すれ違いで、なかなか日本に行っても会えないでいるのですが、
彼が自身のブログにこんなことを書いておられました。


「同意書から考えたこと」


考えさせられました。
私たちはいったい、神様に何を期待し、
どのように主を信頼しているだろうか。


自分の願いを実現するために主を信頼し、福音に同意しているのか?
自分は伝道者として、こんな言い方は本当にみじめで、プライドが許さないと言うか、使うこと自体に嫌悪感をおぼえるのだけれど、本当のところ、「牧師としての成功」みたいなことを期待してきたのではないだろうかと、主の与えられることは何でも受け取ろうとしてきただろうかと、問われたような気がします。


「自分に死ぬ」という言葉がありますが、
今、それが問われていると思いました。


さて、「日々のみことば」から。
昨日から、エレミヤ書32章を読んでいます。
実は昨日から始まって、明後日まで、ずっとエレミヤ32章です。
全部つながっている話なので、
昨日も、今日も、どうしてもその日の部分だけでやめられなくて、
32章全体を読んでしまいます。


その中で、昨日、今日と思わされていること。
「私は、それが主のことばであると知った」8節。

ユダ王国はバビロンに滅ぼされると、エレミヤは知っていた。
でも、そこで畑を買え、と言われた。
そんな無駄になるようなことを、そんな常識はずれなことを、
どうして主はお求めになるんだろうか、
そのようにエレミヤも思ったのではないだろうか?

でも、彼は、「それが主のことばであると知った。」
苦難に継ぐ苦難を経験してきたエレミヤが経済的に豊かな生活をしていたとは思えない。
でも、彼は身銭を切って、主に従って、その畑を買った。

今日の「日々のみことば」では、
「あなたは、主にささげた後、現実を見ながら、後悔することはありませんか」と書かれていました。

それで思いめぐらしていました。

右の手のしたことを左の手に知らせるな、というイエス様の命令に逆らってしまいますが、献金はいつも痛みがあったほうがいいと思っています。でも、2回ほど、痛みどころじゃない、「どうするの?」というささげものを主のもとに持っていったことがあります。でも、それがどのように用いられたかということがそれほど気になったことはありません。これは見栄もなく、肩に力も入れず、言いますが、それは本当に「主の導きに従った」という平安があるんでしょうね。主にささげたものは主にささげたもの、どのように用いられても、わたしが何かを言う必要はない、と思っています。そこは本当にそうなんです。そして、生活も日々守られています。

後悔しないでいられる平安を与えられていること、主に感謝します。

主よ、
あなたのみことばに従うことのできる平安を感謝します。
どうか、どこまでも、あなたに信頼して、あなたのなさることに、
身を委ねていくことができますように。
信頼することをもっともっと教えてください。

発作。

1週間前に検診のあった心臓の先生は、「君の心臓は大丈夫!50までは来ないでいいよ!」って言ってくれて、無事放免となったのですが、

時々、持病の「自己弁護」病と、「わかってほしい」病の発作がおきます。

普段は自分の家で発作が起こるので、
ま、ちょっとしたバトルになったり、
「困ったパパだ」という空気が流れるのですが、
他の人間関係でも、発作が起こることがあるので、参ります。

今日はフランチェスコの祈りと言われる「平和の祈り」を思い出していました。
Wikiを見ると、これはアッシジのフランチェスコ自身が書いたものではない、ということですが、まあ、よく「フランチェスコの祈り」と言われますよね。
その中で




ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。


という部分があります。

本当にそうだなあ、と祈らされました。
「理解されるよりも理解すること」。

「相手を『変えよう』と思わないで、『わかろう』としなさい」とも言われます。

そのように心に留めながら歩こうと思います。

でも、わたしだけではなくて、この祈りや勧めを作った人も、
そういう発作で悩み、苦しんでいたんでしょうね。


2010-04-18

一週間が守られますように。

教会の一人ひとりの歩みが祝福されますように。
明日も、主があなたとともにおられること、
あなたが気がつかないときにも、主は共にいてくださることを、
御言葉によって信頼していくことができますように。

職場でのあなたの一日が、学校でのあなたの一日が、家庭や地域社会、人間関係の中での一日が、守られますように。
理解出来ないこと、頭に来ること、がっかりさせられたり、傷つけられたりすることがあっても、そんな時にこそ、主が共におられることに目が開かれますように。

朝、セミナー参加のため日本に行っていたのんちから電話あり。
行く時とはぜんぜん違う、声の弾みようにこちらまで元気が出てきた。


弾む声は、また誰かを元気にする力がある、そんなことを思わされた。


主よ、
新しい力に満たし、新しい一週間を守って下さい。