2010-08-27

直視。

今日も朝から快晴でしたね。
朝、とっても眠かったですが、
とっても、爽やかな朝でした。


昼間はちょっと暑くなりましたが、
それでも25度くらい。


でも、日曜日には暑くなりそうです。
予想最高気温は34度くらい。
湿度は上がらないようですが、
涼しさになれたカラダには、きついかもです。


今朝のニュースは日本で死刑執行室がマスコミに公開されたことが取り上げられていましたね。このようなことをすること自体にも賛否両論があるようですが、今回のように秩序正しく、何が起こっているかを知らせることは大切な事だと思います。というのは、いつも私たちはそういう現実から目をそらそうとするからです。裁判員制度が始まるときにも感じたのですが、私たちは、あまりに多くのことから目を逸らしている。逃げている。動物の命をいただくこともそうですが、その瞬間は他の人に任せて、自分は手を下そうとしないで、出来上がった肉製品だけ美味しくいただく。そこで命が犠牲になっていることはできるだけ考えないようにする。裁判も判決には関わろうとしないで「刑が軽い」とか平気で評論家のように言う。そういう声を封じるためにも、裁判員制度はいいことだと思う(なんて日本でもアメリカでも裁判員になる可能性のない立場にいるので、まさに傍観者的発言ですが・・・)死刑についても、刑の執行にはかかわらないで、「死刑にすべき」とか言う。自分がボタンを押す立場になったら、自分が判決を下す立場になったら、本当に苦しむだろうけれども、私たちは普通の時は、そういうことからは逃げて、傍観者として、好き勝手な評論をするのだ。


現実から、厳しい現実から、目をそらさないで、直視する、全てについて大切な事だと思う。そして、自ら、自分の判断に責任をもつ。「あの人がああ言ったから」とか、「状況が赦さなかった」なんて言い訳をしないで、自分の判断に責任をもつ。今日のニュースは本当に考えさせられるテーマでした。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記14章1−20節。


「祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。」14節。

ここは、「ひびみこ」の解説に「そうかも知れない」と思わされた。
つまり、耳と手と足とに血をつけられなければいけなかった。
耳と手と足とは罪を犯させるポイントなのでは?というのだ。

でも、自分的にはじゃあどうして「目」はないの?
「耳」より目の方がずっとずっと誘惑の入り込むポイントになりやすいと思うのだけれども
どうだろうか?「口」だって負けていないだろう。誘惑よりも攻撃になるかな。

でも、さすがに「目」に血をつけるのは衛生上よろしくないでしょう。
「口」もそうですね。

だから、目や口の代表として耳が選ばれたのかもしれない。

そして手や足は罪を犯させる道具。

その一つ一つがきよめられること、
主はそれによって私たちを守ってくださる。
私の耳や口や目や手や足、一つ一つの部分が守られて、
主のために用いられ、罪から離れていることができますように。

主よ、
あなたのきよめの御業を感謝します。
どうか、わたしのカラダの一つ一つの部分を守ってください。
あなたの喜ばれる器として用いてください。

2010-08-26

宣言の重み。

晴れました!
本当に気持ちよく晴れました。
朝もそこそこ涼しかったですが、
さすがに湿気が多くて、ジトッとしていましたが、
昼間晴れて、すっきりして、
空気も乾いた空気に入れ替わって、
夜の11時で19度。本当に気持ちのいい感じです。


明日の朝は13度くらいまで下がるそうです。
そしてこの後しばらく晴れ。
気温は日々高くなっていくみたいです。


さて、今日はさっそく「日々のみことば」。


この3日間は、レビ記の13章でした。


「祭司は彼をきよいと宣言する。」28節。

28節だけではなく、何回も何回も「宣言する」という言葉が出てきます。
宣言と実質では実質の方が先だと思います。
ここでも病気が治ったという事実が先にあって、
そこに「治ったよ」という宣言があります。

でも、その治った後の歩みの中で、
この宣言はとても重く、大切なことになります。

アメリカの歴史の中では独立宣言や奴隷解放宣言など大切な「宣言」があります。

「独立した」「解放した」と宣言したときに、
それに抵抗したり、「そんなの認めない」という勢力があっても、
そのように宣言されたことは大きな効力を持つのです。
人がどう感じようとも、その「宣言」こそが、今度は事実になるのです。

洗礼式の時に、私は必ず「子よ、しっかりしなさい、あなたの罪は赦されたのだ」と宣言をします。

それは悔い改めたら赦されると神が約束しているからです。

それを宣言する責任が洗礼を授ける者にはあります。

そして、その宣言は重く、本人がその後どう感じようとも、
「赦された」という事実は変わらないのです。

ですから、宣言をするときに、本当に重みを感じます。
それくらい大切な事だと思います。

その大切な働きを私たち任せてくださった主の信頼を、
裏切ることがないように、真実な歩みをさせていただきたいと思いました。

主よ、
あなたに代わって、罪の赦しの宣言をさせていただく幸いに感謝します。
あなたの信頼に感謝します。
どうか、真実な歩みの中に、
謙遜な歩みの中に、使命を果たしていくことができますように。

2010-08-25

筋。

今日も雨だった。
でも、明日は晴れるみたいだ。


そして週末に向かって、ちょっと暑くなってくるらしい。
とにかく青空が待ち遠しい。


民主党の代表選に小沢さんが出るんだって!?
それを鳩山さんが応援するんだって!?
よくわかりません。
この間、幹事長やめたばかりでしょう。
お金の問題で。
鳩山さんだって、ついこの間まで「菅さんを応援しますよ」と言っていたのに、今日は「小沢さんを応援するのが大義」だそうだ。
総理やめて、ますます言うことがコロコロ変わるようになってきた。


自分が遠く離れて生活しているからわからないのでしょうか、それとも日本にいてもわからないのでしょうか?


単に「強いリーダーシップ」を求めているのかなあ。


代議士さんたちにとっては「小沢さんは親分だから」なのかなあ。


筋通ってない。
わけわからない。


あんまり政治のこと書こうとは思わないんだけど、
文句みたいなことは書きたくないんだけど、
さすがに、今日はちょっとね。


さて、先週の「ひびみこ」(「日々のみことば」の略、念のため)から。


金曜日はレビ記の10章でした。
ここは、神様の命令に背いて火を焚いた祭司が、神様の火によって焼き尽くされてしまったところです。


「次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。『あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。』」6節。

実は一昨日牧師会をしたフィラデルフィアのブリンマーの教会でも
「ひびみこ」が使われています。
その牧師会で、ブリンマーの教会の牧師さんが言いました。

「人は傷つくときに、それによって免罪符を得たような気持ちになる」と。

つまり、誰かが傷ついたときに、
「傷ついた!」ということで、周りを動かし、
周りも、その人が「傷ついた」という理由だけで、
その人の言うことを聞き、それに振り回される。

でも、それは神の方法ではないと。

ここは厳しすぎるように見えます。

でも、筋がずれてはいけないのです。
誰かの痛みゆえに、筋が通らないことが、通ってしまってはいけないのです。

自分が傷ついたものであったとしても、
そこに立てこもってはいけない。

誰か他の人が傷ついたものであっても、
それに振り回されてはいけない。

とても、深いお話でした。

自分のよく自己憐憫に陥ることがあります。
自分が傷を負ったことに立てこもってしまうことがあります。

自分を見つめるのではなくて、
自分に必要な訓練を与え、導いてくださる主を見上げて歩みたいです。

主よ、
あなたの意図をしっかりと見極めることが出来ますように。
私たちの出会う出来事一つ一つの中で、
自分が決して「被害者意識」にとらわれてしまうことがありませんように。
そして、いつも、あなたが何を願っておられるのか、
見ていくことができますように。

2010-08-24

Warning!はありがたい。

昨日はNJを出る時には雨がザーザーだったのに、
途中、Newarkを過ぎる頃に晴れてきて、
フィラデルフィアでは完璧に晴れていました。


帰る頃にはあちらも雨が降り出しましたが、
この不安定な天気はNYから北東の方に広がっているみたいですね。


でも、これも明日まで。
あさってからはまた晴れます。


日本は残暑が厳しいようですが、
こちらは「暑い」と言っても、朝には20度に下がるわけで、
ありがたいことです。


先週の土曜日、NC州で、ある事件があって、
慌てていたとき、そこは州立公園内で25マイル道路だったのですが、
自然と気がせいていて、いつの間にかスピードが上がってしまっていました。


そこに、うしろから、サイレンが・・・。


はい、慣れ親しんだあの出来事です。


こういう出来事に出会ったならば、「ひたすら礼儀正しく」です。
(「親しげに明るく!」が通用した若い女性もおられることも知っておりますが、男性がやって通用するかどうかはわかりません)


「Yes, Sir.」の連発です。


でも、この時はそれに加えて、「この出来事で、とにかく、慌ててしまって、申し訳ない」と気持ちを表しました。


免許証を持っていったofficerが帰ってきたときに、
その手には、なんと!「おみやげ」がなかったのです!!!


「あなたの言葉を信じましょう。verbal warningということにします。あなたの状況では、それは心配だろうけれども、子供たちがいたり、たくさんの人達が歩いたりしているところだ。落ち着いて運転して、しっかり制限速度を守りなさい」とお言葉をいただきました。


もちろん、答えは、「Yes, Sir!」です。


その後、めちゃくちゃ制限速度を順守しながら目的地について、
問題も無事に解決して、めでたしめでたし。


でも、本当に思いました。
あの時、警告をしてもらわなかったら、本当に慌てて、60マイルでも70マイルでも出していたかもしれません。そんなところに、誰かが道にふらふらっと出てきたら、取り返しの付かないことになっていたでしょう。だから、あそこで警告されてよかった、と。


人生の出来事もそう。
「警告」が鬱陶しく思える時もある。
やかましく感じることもある。
でも、それによって救われることがどれだけあるだろうか。


自分も勇気を出して、言うべきことを言わなければいけない、
そして、勇気を出して、警告を与えてくれた人々を大切にしなければいけない。
どっちも苦手だ。
でも、苦手であると言い訳をするのはやめよう。
自分が生き、また人をも生かすために。


そんなことを思わされました。
(でも、そこで「警告」ではなくて「おみやげ」を貰っていたら、そう素直に思えたかどうか・・・)


さて、ここ2週間の「日々のみ言葉」の中から。


レビ記8章、先週の火~水曜日のところでしたね。


「また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。」8章9節


「また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。」8章33節。

祭司として奉仕をすること、
そのために聖別されることは、本当に真剣なことだった。
それは時間もかかり、自分がどんな働きのために立てられているかを
真剣に学ばなければいけないことだった。

私たちの一つ一つの奉仕における真剣さ、
問われているように感じます。

自分自身の牧師としての使命、
その任命の重さをも思わされます。

そして、一つ一つの働きの奉仕者が、
自分の弱さを認めながらも、
そこに立てこもらないで、
主に使命が与えられたことを重んじで、
それに従って歩むような、
そのような教会となりますように。

主よ、
あなたの与えられた働きに忠実な者とならせてください。
真剣に受け取る者とならせてください。


あなたの警告、人の警告を素直に受け取る謙虚さを与えてください。

たまった。

JOY JOYキャンプ前から3週間くらい日常の働きから離れていたので、たくさんたまっていることがある。

今日も牧師会で、朝から、晩まででかけていて、いろいろ宿題をもらって、あっという間に、夜。明日からは、リズムを取り戻したい。

3週間前のリーダーシップセミナーで、学んだことのひとつ。

「成長して、順調に見える時も、問題が生まれ始めていることがある。」


そして、次の段階は、

「問題が表面化して来ても、それを否定する。」

本当に気をつけなければ・・・と思う。


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2010-08-22

2つの誕生日。

昨日はサキの9回の目の誕生日。
9年前、JOYJOYキャンプ「わくわくタウン」の終わったあと、
日曜日の奉仕を終えて、月曜日に買い物に出ていたのんちが出先で破水して、
火曜日の明け方に生まれたのを、思い出します。

その時も破水したときに「何か食べるものを・・・」と外に出ていた私のところに電話があって言われたのを(携帯電話あったんですね、その頃から)、

「大丈夫、僕さっき食べたから」

と、自分のことしか思いつかなかった自分。
ホントはのんちは出産に入るとなかなか食べられないから、
今のうちに体力をつけておきたかったみたいです。

それから9年、子供は成長しますが、自分はなーんにも変わっていないな、と思う今日この頃です。

そして、今日の礼拝では2週続けての洗礼式。
長く教会においでになっておられた方が、
先週の洗礼式をご覧になって、
どこまでも共にいて導いてくださる主に信頼して歩んでいく決心をされて、
洗礼を申し出られました。


多くの方々に祈られ、
たくさんの出会いが与えられて、
必要な言葉がかけられて、
聖書の言葉が与えられて、
今日の日が与えられました。


またこれからの歩みでも主が導いてくださることを信頼して。