2010-12-25

想定外のクリスマス。

メリークリスマス!
キリストの降誕を心から祝い、感謝します。


多くの方々から、お便りやカードをいただいていますが、
今年は諸事情で、私達のクリスマスレターは、年明けかな、という感じです。
失礼します。
ここで、ひとこと、ごあいさつ。
みなさんの祈りに支えられて、このようにクリスマスを迎えられることを、
心から感謝します。
これからも、どうかお祈りください。
そして、共に歩んでまいりましょう。


昨日の夜は子どもを入れて100人くらいの方々が来られて、
共にクリスマスを祝いました。


イブのために与えれたメッセージは、
「想定外のクリスマス」
昨日も想定外のことに振り回されながら、
自分がいかに「想定外」のことに弱い人間かということを思わされていました。
だいたい、与えられた時間と、「しなければならないこと」のバランスが悪すぎ。
というか、準備を着々を進めているタイプならいいんでしょうが、
(でも、その場その場で結構追われているような気もする・・・)
すべてがいっぺんに襲ってくる。
それで何とか、予定を決めて、こなしていくのですが、
時々、そこに「想定外」のことが起こる。
そうすると、「あああああ」とパニックになってしまうんですね。


いえ、だいたい「しなくてはならないこと」なんて何もなくて、
(イエスさま的には「ただひとつだけ」御言葉に聞くこと)
すべては、「自分で選んで自分に課している」んでしょうが、
昨日のポイントはそこにあるんじゃなくて、
そんな想定外のことにイライラしたり、怒ったり、
「どうして?」と神に求めたり。


クリスマスの時にも、
行き違いがあったり、渋滞にはまったり、事故にあったり、
人生の中でも、
病気や失業、夢見てきたことが失望に終わるようなこと。
「こんなはずじゃなかった」
「神さまを信じているのに」
「神様がいるなら・・・」
「どうしてこんなことが?」


でも、考えてみたら、クリスマスはまさにそんな想定外のことのど真ん中に起こった。


マリヤとヨセフの人生設計の中に、
処女懐胎やそれを受け入れる夫、ということは、
なかっただろうし。
「全世界の人口調査をせよ」との勅令もなかっただろうし。
ベツレヘムの村に行ったら、居場所がなくて、
赤ん坊を飼い葉桶の中に入れて寝かせるなんてことも、
たぶん、計画の中にはなかったんじゃないか。
「行けばなんとかなるだろう」って、
そんな感じだったのか・・・。
でも、「客間には彼らのいる余地がなかった」


でも、そんな想定外のことの中に、
神のメッセージが語られた。


「飼い葉桶の中に寝かされている赤ん坊こそ、救い主」これが、私達への「しるし」だ。


この救い主は、上から見下ろして、
「人間はおろかだなあ、お前たちをすくってやろう」と
自分は天の上にいて、下の愚かな人間を、
蜘蛛の糸で釣り上げるような方ではない。


溺れている私達のところに飛び込んできて、
私達の痛みや悲しみを知って、そこから救う方だ。


自分を与えて、
私達に命を与えるかただ。
そういう救い主だ。


そのメッセージは、「想定外」の事の中に、
語られた。


想定外のことを受け入れることは、
神の主権を認めること。
神の導きを信頼すること。
そこにも、神のメッセージが込められていることを、
信じること。


そう信じたら、
昨日起こった一つ一つのことも、
今週起こった一つ一つのことも、
平安の中に受け入れることができる。


感謝。


さて、明日は今年の最後の日曜日、
一年を振り返って、感謝の礼拝を捧げましょう。


そして、礼拝後、夕6時半ニューアーク発の飛行機で、
Equipper Conferenceに向かいます。


持ち物の準備、なんにもしてない。
6日間だから、洋服足りるかな?
最近、3−4枚を着回しているような気がする。
水着があると温泉に入れると、経験者から聞いた。
昨日の夜の段階で、327人の参加者がいるそうだ。


持ち物リスト、どこにあるんだろ?
講師はネクタイしなくていいのかな?
寒いのかな?Tシャツかな?とか、なんにも調べてない。


Wifiはつなげる、という確認はしたけど。


あ、それで、青字はお天気ネタ。
なんでコレが青字かというと、


週末のstormがちょっと心配になってきたこと。


日曜日の午後から降りだして、
15−20センチ積もる、という予報も出てきています。


でも、私達にとって「想定外」のことも、
神さまの御手の中にあって、
神さまのメッセージが込められている。


そう思うと、平安です。


この平安が守られるようにお祈りください。


さて、今日の朝の聖書。
今日はヘブル人への手紙の11章1−12節。


「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」1節。

ここに出てくる、天地創造から、アブラハムまでの信仰の系譜、
じっくり読んでみると、
そこに出てくるのは、
神の御言葉への信頼、
そして、そこに従うこと、
そして、そのように行動すること、
そんなことを見て取れます。

そのように歩みたいと思わされました。
信じたら、そのように歩む。

そこに与えられる祝福もあるんだと思います。

新しい年に・・・なんて言わないで、
今日、今ここでの歩みから、
神を信頼して、
御言葉の真実を信じて、
そこに大胆に歩んでいこうと思います。

主よ、
私の信仰の歩みの守ってください。
想定外のことが、
多分、これから、私の人生の中に起こってくるから、
このようなメッセージを与えてくださったのだと思います。
どうか、そんな中でも、あなたを信頼して歩めますように。
平安の中で守られますように。


そして、あなたの御言葉の真実を、
信頼して、歩ませてください。


ひとり子イエスを与えてくださった、
その恵みに感謝します。

2010-12-22

与えられたものの中で。

NYCに来て、ミッドタウンのMCを仮オフィスに仕事中。
相変わらず毎日「平凡に」寒い日が続いています。
-10度に下がることもなく、+5度に上がることもなく・・・って感じ。


でも、この週末のstormの予報が騒がしくなってきました。
ある人は「superstorm」という使っている人もいました。
Superstormと言えば、1993年3月ですね。
アトランタに住んでいて、休暇中、フロリダに行っていて、
帰れなかったという経験をしました。


でも、「Superstorm」で自分のブログ内検索をかけると、
2009年2月にも「superstorm並か?」という予報が出ているんですね。


まあ、天気予報で食べておられる皆さんにとっては、
やはりどれだけ注目されるか、も大切でしょうから、
ちょっとでも、可能性があると、どうしても「superstorm並か?」と、
やってしまうんでしょうね。


今のところ、NY周辺では、日曜日から月曜日に雪になる可能性があります。


礼拝もあるし、またそのあとCAに飛ぶので、
個人的には大したことなく終わって欲しいところです。


そういえば、今、ヨーロッパでは大変なことになっていて、
今年の1月に洗礼を受けた、ロンドンに住んでいる方が、
家族のところに来るために土曜日に来ようと思っておられたのですが、
キャンセル続きで、明日(木曜日)来れるか?というところだそうです。


24日のキャンドルサービスに来れるように、
明日は無事飛行機が飛びますように。


いろんなコトがあったのですが、
まず、月曜日のおじさんは来ませんでした。


そして、Operation Santaの買い物は先週終えて、
今日、郵便局に祈りつつ出してきました。
この小包が一人の少女の喜びとなりますようにと。
でも、2週間前に書いたことの他にも、
いろいろ考えさせられました。


そして、今本当に思わされているのは、
もっと心に触れる働きをさせていただきたいという思い。


そして、先週末から、自分の失敗なんですが、
Macのトラブルで、んー、という感じ。


1年前に15年ぶりくらいのMac復帰だったので、
Fusion上にWinを走らせて、
いくつかのWinのソフトを使っているのですが、
そのWin上でUSBを認識しなくなってしまったんですね。
困るのはプリンタ。
Win上のPublisherを使っている文書とかを、
プリントしようとしても、Mac経由にすると1枚5分くらいかかる・・・。


と書いたところで、あ、PDFに変換してMacからプリントすればいい、と思いつきました。
そうだ!そうしよう。


Win上のUSBを復活させるのは結構手間がかかりそうなので、
来年になってからゆっくりと・・・。


ああ、晴れ晴れ。


でも、そんなことをしながら、
思わされたことは、
自分に与えられた時間は限られているということ。
そのなかで、それをどう使うかが大切。


でも、そう考えると、
例えばお金だったら「神さまは必要なものは与えてくださるから」と私たちは言いますが、お金も、体力も、能力も、記憶力も、理解力も、


「必要なら神さまが与えてくださる」という視点だけではなくて、
「神さまが与えてくださるものをどのような優先順位で使っていくか」という視点が、どれだけ大切かと思います。


健康もそう。
私たちは病気になったら、「癒されるように」と祈ります。
やはり、そのように祈るべきだと思います。
でも、私たちへの神さまの祝福は必ずしも健康の中にあるとは限りません。


1年、健康が守られたことを感謝しながら、
そんなことも思わされています。


つまり、与えられている健康の中で、
何をなすべきなのか?ということ。
責任というか。


さて、仕事に復帰です。

2010-12-20

与えられた時間の中で。

モバイル版も始めました。
モバイルで、いつものPC版を見たい方は、
一番下のほうの「View Web Version」からどうぞ。

ちょっと久しぶりの更新ですが、
やはり週末のStormの予報は2日前くらいになくなり、
実際、ほんとに大丈夫でした。
毎日平凡に寒いです・・・。


今度は次の土曜日、クリスマスデーあたりに雪の可能性が出ていますが、
ま、こちらも大丈夫でしょう。


あと、明日は冬至ですね。
そして、偶然だそうですが、
明日の未明には皆既月食があります。
東部時間で1時半ごろから始まって5時ごろに終わる。
その中の1時間半くらいが皆既食だそうです。
って、つまり自分がいつも爆睡している時間帯ですね。


お天気的には平凡な「晴れて寒い夜」でしょうから、
よく見えると思います。


夜中に目が覚めたら、西の空に注目です。
「皆既だったら何にも見えないじゃないの・・・」なんて
ツッコミは入れないでくださいね。
日食みたいに派手じゃないですが、
赤銅色に鈍く輝く月が見えると思います。


昨日は洗礼式がありました。
来週くらいにはお証しを教会HPで読めるようにしていただけると思いますが、
本当に神様が圧倒するように働いてくださったなあ、という方です。


2年前に初めて来られたときは、
サンクスギビングの愛餐会の終わりの方。
そして、そのあと、クリスマスイブに来られ、
礼拝にも時々来られ、
お子さんをJOYJOYキャンプに送られて、
それでお子さんたちが喜んで教会に集うようになられ、
そして、今年の東海岸の日系教会の合同ファミリーキャンプで、
本当に主に触れられました。


今回、いろんなことを考えさせられています。
祈りの大切さ、
自分はいつも「礼拝からおいでください」とお誘いするけど、
愛餐会の最後の方にちょっと来られるだけでも、
神様の恵みに少し触れることができる、
そこから始まる、ということとか。


感謝。


昨日のJOYJOYクリスマス、天気が大丈夫だったのですが、
期待していたほどたくさんの子供たちが来れなくて、
ちょっと残念でしたが、でも、楽しいひと時でした。


中高生たちの人形劇も、ほんと、よかったです。


写真は教会のHP(www.jccofn.org)から。


さて、今日は、さっき読んだ今日の聖書から。
ヘブル9:11-22


「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょうか。」14節。

イエスがその生涯をかけて、私たちのためにあがないをしてくださったことに感謝。
それは、決して、あの十字架の何時間かだけではなくて、
ずっとずっと「御霊によって」守られて、
神へのささげものとして、己をきよく守られたから。

その力が、私のうちにも注がれている。

読みながら、正直、「私は死んだ行いから本当に離れているだろうか?」と思わされたが、だとすると、それはまた希望だ。神様が私をまたこれからもきよめ続け、神様に仕える者と造り替えてくださるのだ。

この神様のなさることに希望を持ちつつ歩んでいこう。

主よ、
どうか、私をさらに死んだ業から解放してください。
わたしのこころをきよめ、
あなたに仕える者として整えてください。


「楽しみにしてます!」コールがなかったのでどうしようかと思ったのですが、それでやめた・・・というのはちょっと大人気ないので(すでにこういうことを言っている段階で大人気ない・・・)、アドベント聖書日課第4週をアップします。・・・が、まだアップしていないので、多分朝10時ごろまではリンク切れだと思います。それよりも後の時間帯でクリックしてください。

今日は朝8時に時々教会に寸借に来るおじさんとアポがあるので教会に居残り。「病院にいくのでお金貸して!」というけど、お酒やドラッグになるお金をあげるのは嫌なので、「じゃあ、俺が送っていくから・・・」と約束したんだよねえ。さて、おじさん、果たして8時に現れるでしょうか?

アドベント聖書日課第4週