2011-07-16

天のFloodgate!

今日はまた暑かったです。
そこそこ湿度は低いんですが、
33度くらいまで上がりました。


でも、湿度が低いということは夜になるとそこそこ冷える、
ということで、今は夜の10時前ですが、
28度くらい。
まだまだ下がってくれないと・・・。


明日はもっと蒸し暑くなるようです。


さて、今日の聖書箇所ではないのですが、
おとといの聖書箇所、昨日のところで紹介した、
「神が天の窓を開いても・・・」という言葉ですが、


今日、マラキ書の3章の十分の一献金について書いてあるところを
英語で読むチャンスがありました。


日本語では「天の窓を開き」と訳されているところが、英語では「天のfloodgatesを開いて・・・」と訳されています。窓でもいいですが、floodgateはすごいですね。水をせき止めている水門を開いて、ああ「水門」だと違うんですよね、感じが。「floodgate」です。神様の祝福が「どおーっ」と流れてくる感じがしますよね。


今日は、そこを読みながら、
悔い改めさせられました。
本気で、神様をそこまで信じているんだろうか?
一生懸命計算をして、節約をして、なんとかやらせていただいている・・・みたいに考えていないだろうか?神様はfloodgateを開いて「どおーっ」と経済的にも祝福しようとしているのに・・・。


大胆にささげ、大胆に求める者であろうと思いました。


主よ、floodgateを大きく開いてください!

2011-07-15

大きく期待する。

前回更新したのが火曜日ですが、
翌日の水曜日に夕立があって、
そのあと、きれいな虹が出て、
そのあと、ぐっと湿度が下がって、
昨日、今日と、そこそこ暑いのですが、
朝晩涼しい、という夏らしくもあり、
寝苦しくはない、という「いいとこ取り」的な夏の日です。


でも、それも今日まで、
明日からはちょっとした熱波のようです。
熱波の中心はテキサスからノースダコタのあたり。
40度位の日が続きそうです。
(もう既に1週間以上続いているようです)


さて、昨日から今日にかけての聖書。
列王記第二の6章後半から7章を読みました。


「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」7:2

最近、他のところでも語られているのですが、
神様に大きく期待しなさい、と言われているように思います。

想定外・・・それは悪い方ばかりではなく、
神様が私たちに与えようとしてくださっていることにも、
同じように、私たちが限定することを警告しているように思います。

神様はもっと与えようとしているのに、
自分の方で、神様の力を、神様の豊かさを、
神様の気前よさを、制限してしまって、
ここまでは、さすがに与えてくださらないだろう、
と思っていることはないだろうかと思うのです。

この人も、敵の兵糧攻めの中で、食べるものが何もなくて、
自分の子供に手を下す人さえも出てくる状況で、
エリシャが「明日には食べ物が有り余っている」と語る預言を信じられずに、
「神だって、そんなことはできやしない」と口走った。
そんな彼にエリシャは「あなたはそれを見るが、その恩恵を受けることはできない」と宣告する。
そしてその通りになるのだ。

本当に厳粛な思いにさせられる。

主を信じよう。

そう思いながら祈った一日だけれども、
朝の祈りが一つ聞かれた、という連絡が夜に入った。

感謝。

主よ、
あなたの力を信じます。
あなたの豊かさを、あなたの全能を信じます。
どうか、あなたを信頼して歩むことができますように。
もっと祈り、祈りが聞かれる経験が与えられますように。



2011-07-12

主の導きが線につながる。

今日は本当に暑かったです。
36度か、37度か、ちょっと温度計が日が当たるところになってしまって、正確な最高気温が測れないのですが、とにかく暑かったです。
夜になって、気温も下がって、空気も乾燥してきて、だんだん過ごしやすくなってきています。夜の12時前ですが、25.7度。今夜は熱帯夜は免れそうです。


今日は早速聖書のことばから。
今日は列王記第二の6章1-14節。


「ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。」5節。

水の中に斧を落とした人はどう思っただろうか?
自分の失敗だ。落ち込んだだろうなと。
それも借りたもの、人に迷惑をかけるのはつらかっただろう。

でも、今日の「日々のみことば」には
「主は人の失敗をも主の奇跡へと変えてくださるお方です。」と書かれている。

今回の修養会で、
「遠回りにも神様にとっては意味がある」
と語られた時にも、
自分の失敗とか、自分の足りなさ、未熟さで招いたことには、
なんだか、逃げ場を作っているように思えて、
あの経験にはどんな意味があるんだろう・・・そう思いながら、
なかなか納得できない自分がいました。

でも、今朝、思わされたのは、
私の弱いことは主が知っておられる、
そして、私の失敗も弱さも、主は奇跡へと変えてくださる。
主の力を表すポイントとして用いてくださる。

確かに、主は痛みの経験の中で、私を鍛えてくださり、
傲慢にならないようにと、守ってくださった。
そして、教会が教会となるために、
教会を整えてくださった。

でも、剪定を受けるブドウの木のように、
私たちは悲鳴を上げた。
あまりの痛みに、「やめてください!」と言いたいくらいだった。

これからもそういうこともあるだろう。
そして、その一部は、牧師である私が責任を感じないではいられないこともあるだろう。

でも、恐れない。

主はそこにも働いて、奇跡を起こしてくださるから。

主よ、
あなたが今朝語ってくださったことに感謝します。
あなたの約束に感謝します。
今までの歩みが、あなたの祝福の元に、
一つの線につながっていることに感謝します。
これからの歩みも、あなたに信頼します。
どうか、この線の延長に守り導いてください。

2011-07-11

4ヶ月。

4ヶ月が経ちましたね。
ということは、のんちを日本に送っていたのが、
これからは、あの震災から半分以下になっていくんですね。
ますます日本で起こっていることで知らないことが増えていくのかな。


今日はマンハッタンの教会で、
のんちの日本での活動の報告の時がありました。
15分バージョンから1時間バージョンまで、
今まで何回聞いてきたでしょうか?
(もちろん、いろいろ注文も付けてきましたが)
でも、毎回毎回、新しい話が飛び出してきます。


・・・あ、その話、初めて聞く・・・と思うような部分があります。


考えてみたら、2ヶ月いたんだからそうだよね、と思います。


だから、4ヶ月そこに歩んでいる皆さんのストーリーはどんなになるんだろうかと。


今も、twitter上の検索語は「山元町」のまま。
だから、時々そこを覗くと、山元町の情報が入ってきます。


そんな中で、今日、目に留まったのは「スコップ団」の働き。
どうせ地球のチリだからな

牧師的には「チリじゃねえよ、俺たちは神が一番情熱かけて造った作品なんだよ」とツッコミを入れたくなるのですが(実は昨日の礼拝説教のテーマ)、でも脱帽。


そしてこの動画。







でもね、ほんと、すごいな、と思う。
自分の神からの使命はここで生きて、ここで仕えることだと思っているけど、
やっぱり、なんだかんだ言って、痛みを負っている人たちと一緒に汗を流して、
涙流している人たちは、すごいなと。


いろいろ考える人も必要だろうけど、
やっぱり動いて、ホントに家の中ぐじゃぐじゃで、
どこから手を付けていいかわからない人の励ましになっちゃう人って、
すごいなと。


はちこさんも書いておられるけど、
やっぱり、まだまだ、まだまだ、やることがあるんだなと。
心を向けて、祈りを向けて、行動を起こしていくことなんだなと。


のんちも、今朝5時まで、日本に電話していたみたいです。
自分が活動してきた避難所とか・・・。


そして、いろいろ話をしていたみたいで、
一番の問題はハエと悪臭。
本当にひどいと言っておられたそうです。
既に梅雨も開けて、暑い日が続いているようです。


助けが送られますように。
そして、私たちにもなすべきことが示されますように。


今日は暑かったですね〜。
今、真夜中12時前で、28度もあります。
もしかしたら熱帯夜になるかも・・・。
この2時間でほとんど下がっていません。
明日も暑いみたいです。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第二の5章の15−27節。


「今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか」26節。

ナアマン将軍、エリシャ先生の言う通り、
ヨルダン川に身を7回沈めたら、
完全に病が癒された。

うれしくて、うれしくて、
エリシャ先生のところにたくさんの贈り物を持ってきた。
エリシャ先生は、それを受け取ろうとしなかった。
でもしもべのゲハジはそれを見て、「受け取ればいいのに」と思った。
そして、自分が受け取ろうと思った。

そして嘘までついて受け取った。
そしたら、ナアマンが癒された病までついてきた。
ゲハジはその病を負うことになった。

自分ってゲハジっぽいな、と思うことがある。
ああ、欲しいなあ、もらいたいなあと。

くれる、というのをなんで辞退するんだろう。
相手もがっかりすると思うけど・・・。

で、今日は自分の物欲を掘り下げることにしました。
自分は何でものが欲しいんだろうか?
注目されるため。楽しいことをするため。

そうやって、一つ一つはぎ取っていった時に、
何が残るかと言うと、やっぱり神様の御言葉に立つ信仰かな。

でも、やっぱり神様に物欲を取り扱っていただきたい。
思いっきり与えることを喜びとならせいただきたい。

主よ、
どうか、私の物欲を清めてください、
本当に必要なものをわきまえることができますように。
使えるお金をコントローする力も与えてください。



2011-07-10

御言葉に聞く!

今日はまたいい天気でした。
すかっと晴れて、でも夜はちょっと蒸し暑かったかな。
11時になって、24度まで下がって、楽になってきました。


明日、あさって、とだんだん蒸し暑くなっていくようです。
明日は34度くらい。あさっては、35度くらいの予報が出ています。


今日の午前中は牧師が先月末で異動されて、
次の牧師を捜している教会に招かれて、
礼拝のメッセージをさせていただきました。


朝、家を出るのも遅れて、昼、NJの教会への間も時間がなくて、
両方ヒヤヒヤしましたが、共に守られました。


そして、その午前中の教会、
牧師不在の中で、真実に忠実に礼拝を守っておられる皆さんに、
励まされました。


礼拝は、神様の前にひざまずくひととき。
神の前にひれふすひととき。
私はどんなに「新しい方々にとってのハードルを低く」ということを考えても、
その一線は守らなければいけないと思っています。
ときどきまるでテレビのトークショーを見ているかのような、
また、エンターテインメントを楽しんでいるかのような、
「礼拝」を見ることがありますが、
確かに、その努力や真剣さは尊敬しますが、
礼拝じゃないなあ、ショーだな、と思います。


もちろん、そういう集会があっていい、
そういう集まりがあっていい。
でも、「礼拝」は、集った一人一人が主の前に引き出される、
それが本当に大切だと思わされます。


2つの教会の礼拝で、そんなことを思わされていました。
そして、そのような経験をさせていただいて感謝します。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第2の5章1−14節。


「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」13節。

今日はこれを読む前に、
いろんなことを思いめぐらしていた。
そして、どこかで、自分の直感とか、
ひらめきとかを当てにしている自分を感じた。

でも、その時に、先週の修養会のテーマ聖句が心に響いてきた。
「私の思いはあなたの思いとは異なる。天と地ほどに離れている。でも、その天から地に雨が降って、実を結ばせるように、私の言葉もあなたのうちに実を結ばせる。」という言葉。

違うから、ちゃんと聖書を読め、と言われたように感じた。
自分の直感とか、ひらめきとか、
そんなものではなくて、御言葉に聞け、と。

そして、開いたらこの言葉が目に留まった。
プライド故に、エリシャの言葉を受け入れられなかったナアマン。
謙虚に水の中に身を沈めるようにと勧められた。

私も謙遜な者とならせていただきたいと思う。

主よ、
あなたの言葉にいつも聞いていくことができますように。
自分の考えや、直感的に思うこと、ひらめきとか、
それを頼りにするのではなくて、
あなたの介入である御言葉に語りかけに聞いていくことができますように。