2009-09-19

Ichiroのサヨナラ2ラン。

すごかったですねえ。
我らがYankeesが、サヨナラ負けです。
2-1で勝っていて、9回のマウンドはマリアーノ。
2アウトまでは、とんとん、と行って、
そのあと、2塁打が出て、
バッター・Ichiro。
初球の内角のほとんどボール球を
右翼席にたたき込みました。
それまでIchiroは塁に出ても2回も牽制に刺されて、
「この2回のIchiroの牽制死が痛いですねえ」なんて、
解説者に言われていたんですが・・・。

いやあ、わからないですねえ。

こんな時、やっぱ「ハジがいたらなあ」とつい思ってしまいます。
野球一つでも、興奮をshareするヤツは欲しい・・・。

2009-09-18

健康であること。

今日は朝は結構冷え込みましたが、
いい天気で暖かくなりました。


明日も今日と同じようにいい天気になりそうです。
でも、明日の夜は本当に冷え込んで、
最低気温は一ケタです。
風邪など、お召しになりませんように。


昨日の午後、午前中の集会の後から、
体調がおかしくなり、
集会以外の時間はほとんど寝たきり。
今日の午後まで24時間食べられませんでした。
ほぼ2年ぶり。


やらなければいけなかったこと、
連絡したかった方々、
お会いしたかった方々、
いろいろあったのですが、
さすがに無理で、おとなしくしておりました。


今日も朝と夜と集会があったのですが、
余り食べられず、今夜皆さんが帰られたころ、
11時頃から急に食欲が帰ってきて、
今頃、ちょっと口寂しく感じます。


健康ってやっぱりいいですね。
昨日、「これ年取ってからやったら、ホントに死ぬかも・・・」と思いました。
与えられた健康な時間を本当に大切にしなければ・・・と思いました。


でも、出るモノが出て、24時間ほとんど何も口にしないでいたら、
70キロあって(BMI 25.1)で、やばいなあと思っていた体重が、
66.6まで落ちていました。
この調子で行けば夢の理想体重も夢ではない、と思っていましたが、
食欲が帰ってきたので、夢で終わるかなあ・・・。


でも、それだけいつも満腹状態だったんですよね、
本気でメタボ解消に取り組まなければ・・・。


さて、水曜日の聖書。
水曜日はエレミヤ6:16-30。


「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。」16節。


神の招きは今も開かれている。
そこに従うかどうか、
それに答えるかどうかが問われている。

既に招かれている。
尋ね求めなさいと言われている。
本当に単純なことなんだろうなあと思う。
難しくしているのは伝える方の問題なのであって、
神様の与えてくださる道は本当はわかりやすいんだろうと思う。

主が与えてくださる道、
主が導いてくださる道、
それを単純率直に語っていきたいと思う。
それが拒否されることがあっても、
掛け値なしにストレートに語っていきたいと思う。

主よ、
あなたの道を大胆に語る者にしてください。
あなたの道に歩む喜びを証する者としてください。
昨日、今日と3回の集会に来られた、
一人一人に神様が今も語ってくださいますように。

2009-09-17

霊的ER。

やはり牧師は自分のことに目が向くと余りよくないみたいです。
周りの人に心が向くときに、平安と力が与えられます。
そのように神様によって創られたみたいです。


午前中は久しぶりに我が家での集会。
小さな集まりだったのですが、
集った方々の内に、特別な祈りの課題を持った方が2人。
クリスチャンの方と、求道中の方。


祈り会のようでした。
霊的なER(Emergency Room)。


先日の修養会から不思議なことがたくさん起こります。
何も不思議なことではないかもしれません、
わたしたちが魂の病院としての教会を取り戻そうとするとき、
そのことを真剣に祈るときに、
主は人々を送ってくださるのだと思います。


9月15日(火)の聖書。
エレミヤ6:1-15。


「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」14節。

指導者達の責任がここで問われている。
自分の生活のことだけしか見ていない。
人々の人気しか興味がないみたい。
人々の霊的な状態には無関心。

そして、「民の傷を手軽に癒し、平安がないのに『平安だ、平安だ』と言っている。」なんて、まさに今の時代の霊的指導者達のことを言っているのではないかと思う。

おっと、他人のことだと思ったら、それはまた聖書の読み方が違う。
私はどうだろうか、私は無責任に平安を語っていないだろうか?
神の罪に対する厳しさをちゃんと語っているだろうか?
霊的に弱くなっている人々のために、
なすべきことをしているだろうか?

彼らが癒され、造りかえられるために
祈って、受け入れて、言うべきことを言って、
癒しと成長のために必死になっているだろうか?

主のために、また人々のために仕える者となりたい。

主よ、
あなたが私を仕える者として召してくださっていることに
心から感謝します。
どうか、人に仕える者にしてください。
無責任に喜ばせるのではなくて、
あなたにある、十字架にある喜びと癒しを与える者とならせてください。

悪をなす者のゆえに心を悩ますな。

主よ、どうか、心を守り、あなた以外のものに、心がとらわれることがないように守ってください。
今日も教会の一人一人を守ってください。サタンの攻撃や誘惑に陥ることがありませんように。

2009-09-16

怒っても・・・。

今日の雨は本当に大したことはありませんでした。
また明日は雨の予報でしたが、
今日になって、「曇りがち」程度の予報に変わりました。
でも、肌寒い日になりそうです。


週末は晴れて暖かいようです。


「怒っても罪を犯してはならない」
これも、先日の修養会の中で開かれた聖書の言葉ですが、
私も怒りやすいです。
今夜も、ホント怒らないではいられないことがありました。


聖書が「怒ってはならない」となっていたら、どんなにか、大変かと思います。
でも、「怒っても罪を犯してはならない」だから、そうだ、と冷静にさせられます。
だんだんだんだん、冷静になって、本当に冷静な対応をすることができました。


でも、主は私のためにどんなに忍耐してくださっているんでしょうか。
それを考えるならば、自分は恥ずかしい限りです。


「怒っても罪を犯さないように」守ってください、と、
「怒っても罪を犯さないように」警告してください、と、
祈らされるばかりです。


さて、9月14日(月)の聖書。
14日はエレミヤ5:20-31でした。


「預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」31節。

預言者が偽りを語り、祭司が勝手なことをして、
それが人々を喜ばせているという。

もしかしたら、預言者も祭司も、
人々が喜ぶことをしようとしていたのではないだろうか?
人々が喜ぶことを求めていったら、
偽りの預言であり、自分勝手な礼拝となった。

今、教会もMarketplaceの論理に動かされている。
人々が喜ぶ教会、人々が居心地のいい礼拝。
それが人々を引きつけ、それがいい教会だと言われたりもする。

その偽りを見破る人もいるだろう。
そんな教会は魅力がない、と言う人もいるだろう。
でも、「私の民はそれを愛している」とあるように、
多くの人々が、それに惹きつけられている。

いつもいつも主を見上げて、主から聞いて、
主の願われることを、主が命じられることを語る者でありたいと思う。
たとえそれが人からは不評であったとしても、
主の預言者として、歩ませて頂きたい。
人の知恵ではなくて、天からの知恵を頂いて歩んでいきたい。

主よ、
いつもいつもあなたに聞く者でありますように。
あなたの語りなさい、ということを、語る者でありますように。
あなたの導きに従っていくことができますように。
自分の言葉ではなくて、あなたの語りかけを頂いて語ることができますように。

2009-09-15

嵐の中で

今日もいい天気で暑いくらいになりましたね。
でも、この天気も今日まで。


今夜から雨が降りだして、
明日、あさってと降り続きそうです。


気温は低め。2日間は20度までも行かないのでは・・・。


さて、今日は午前中は集会で、
午後から夜にかけては、
いろんな方々の嵐の中でのサポートのために
メールや電話、訪問などなど。


嵐の中にいる方々のこと、
やはり神様が支えてくださるように祈らされます。
自分が支えようとする気持ちもあります。
でも、最終的にはその嵐の中で、
お一人一人に神様に出会って頂きたい。
神様が支えてくださることを知ってほしい。


嵐がなくなることも、過ぎ去ることも祈ります。
でも、嵐の中で支えてくださるお方を知ることができるならば、
それが一番の祝福だと思わされます。


日曜日の聖書。
日曜日はエレミヤ5:12-19でした。


「しかし、その日にも、──主の御告げ──わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」18節。

主がどうしても、痛みの中でも、裁かれることがある。
でも、それでも、主はことごとく滅ぼすことはなさらない。

その憐れみ、そのゆるしが、
どれだけ、私の生涯の中で、用いられただろうか?

本来、滅ぼされても何の不思議もないような状況の中で、
主がどれだけ、憐れみによって見逃してくださったことか。
そして、悔い改めに導いてくださったことか。

主の忍耐と憐れみの深さを思わされます。

主よ、
あなたの憐れみに感謝します。
あなたの憐れみがなければ、私はここにはいないということ、
それははっきりしています。
感謝します。
その憐れみを当たり前だと思ったり、
そこに甘えて、不遜な思いになることがありませんように。

やっぱり街がいいみたい。

下のエンパイアステートビルのライトの色ですが、
エンパイアステートビルのオフィシャルサイトを見ると、
黄色は「USOpen Tennis」だそうです。


ちなみに明日の夜は、
「国連総会」の青だそうです。


夕方まで、VIP-NYに行こうかどうか、
ちょっと迷いがありましたが、
メッセージも語られましたが、
一つのことを通して、行ってよかった、と思いました。
すべてが御手の中にあったんだと思いました。


「バスが遅れたことも感謝」って、
何に感謝すべきかわからないのですが、
とにかく、バスが遅れてくれたおかげで、
「すべてのことについて感謝しなさい」という聖書のみことばを
思い出すことができたから、感謝。


NYの街をバスターミナルから、日米合同教会まで歩いている間、
なんだか、ワクワクしている自分に気がつきました。
それは集会に行くのでワクワクしていたと言うよりも、
なんだか、しちーボーイの自分は、郊外がどんなに快適でも、
田舎暮らしにあこがれていても、
やはり、街が好きなんだなあと思いました。


たくさんの人が歩いている街、
路上駐車のために、一生懸命縦列駐車をする車、
違法駐車の車をレッカーする警察。
もう、そんなのを見ていると元気が出てくるみたいです。


そんなNYに導かれたことに感謝。
この街で伝道出来ることに感謝。


昨日、今日と暖かな日が続きました。
明日ももう一日いい天気で、暖かい日になりそうです。


さて、9月12日(土)の聖書。
エレミヤ5:1-11。


「彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく。」8節。

十戒の中にも、
「あなたの隣人の持ち物をほしがってはならない」とありますが、
その持ち物一覧の中には「妻」というのがあります。
もちろん、今の時代、「妻」を「持ち物」なんて呼んだら、各方面から厳しい批判を受けてしまいますし、私自身、そんなことを思ったこともないです。(念のため・・・)

でも、この十戒の最後の戒めの大切な意味は、
自分が与えられたものではないものを
ほしがってはいけない、ということだと思います。
その中には、財産もあれば、「妻」もあるんだと思います。

とにかく、自分に与えられたものに感謝すること、
自分に与えられていないものが、他の誰かに与えられていたとしても、
ねたみの心にとらわれないこと。
(ねたみの心を起こすな、というのはちょっと違うかも・・・起こってきても捕らえられないようにしなさい、という感じだと思う。)
そして、他の人のもので自分の心を満たそうと思わないこと。

本当に大切なことだと思った。
自分と神様との関係の確立が本当に必要。

あのヨハネが気になったペテロへのイエスの言葉。


「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」ヨハネ21:22

はい、私はあなたに従います。

主よ、
あなたが私に与えてくださっているモノ、家族、友人、教会、賜物、人生、それらすべてに感謝します。他の人を見ると、羨ましく思わないわけではありません。でも、その思いにとらわれることがありませんように、あなたが私与えてくださっている人生、あなたが私に与えてくださっているモノ、それを感謝して歩む者とならせてください。

2009-09-14

今夜は黄色。

エンパイアステートビルのライトは、
日によって色がかわります。

クリスマスの赤と緑、独立記念日の赤と青などはわかりやすいですが、今
夜は黄色。いったいどうしてでしょう?

混んでる。

VIP-NYの集会のためにバスでマンハッタンへ。
でも、橋の手前で混んでいて進まない。
もう、7時半。

全てのことについて感謝@クリスチャンスタイル
修養会の中での9/6朝の趙先生のメッセージ。

見失わないように。

昨日から今日にかけて、
本当に隙間がない2日間を走ってきました。
というか、もう日付が変わったので、
おとといから昨日。


素晴らしい一時も持ちました。
シンガーズの時は、ホント水を得た魚のような自分がいました。
昨日も、今日も、
多くの人々とお話しをさせて頂き、共に祈り、励まし合いました。


でも、やっぱり隙間を作って、自分を、また周りを見回してみないと、
大切なものを見落としていないか、ちょっと不安になります。


また「日々のみことば」で思わされたこと、
アップするのがたまってしまいますが、
夜寝ないとよくないので、
また夜が明けてから、周りを見回しながら、更新しようかと思います。


といいつつ、やっぱり1日分くらいはやっておこうかと思います。
9/11(金)の聖書。
エレミヤ4:19-31でした。


「あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。」30節。

いつもはちょっとだらしないくらい身だしなみに無頓着な者ですが、
時々、おしゃれでかっこいいオヤジを見ると、
ちょっと心が動きます。

着こなしのセンスのいい牧師の先輩を見ると、
見習ってみたくなります。

でも、そんなことに心を奪われていてはいけないんですね。
そんなことよりも、その内側にあるもの、
その人の内にある主に対する真実、
そこに働く神の力を見ていかないといけませんね。

新約聖書にも、「外側ばかりきれいになろうとするな、
内面を飾りなさい、内面を磨きなさい」と書かれています。

内なる人に心を配って、
内面が整えられ、主の香りを放っていく者とならせてくださいますように。

主よ、
どうか、私が外側に心を奪われてしまうことがありませんように。
心に内側に目を留め、心の内側が豊かな者となりますように。
それが外にあふれ出るような、働き人とならせて頂きますように。