2011-11-01

停電の中で。

お久しぶりです。
前回の更新から、今日までの間、
たくさんたくさん書きたいことがあったのですが、
あまりに早すぎた雪で、更新できないでいました。


予告通り、今、嵐が過ぎ去った後で読むと、本当に予告通り、
土曜日は大変なことになりました。


予想の積雪量は15-30センチ。
でも、実際は15センチと一番下の値。
でも、それで、この地域を混乱させるのには十分な量でした。


普段は15センチの雪なんて、屁でもありません。
もちろん、気をつけて運転しなければなりませんが、
普通タイヤで走りますし、すぐに除雪が進んで、何もなかったように
普段の生活を送って行きます。


でも、今回の問題は紅葉がまだ終わっていなかったこと。
例年よりも紅葉が遅かったようにも感じます。
まだまだ青々とした木々もありました。


そこに湿った重い雪が降ったのですから、
ひとたまりもありません。


それも予想では、もう少し遅い時間が深刻だと思っていたのですが、
2時頃、激しく雪が降っていました。


それで、私も車で5分もかからないところにある郵便局まで、
3時までの土曜日の受付が終わらないうちに・・・と走ったのですが、
家の前の通りを走っている時にも前で、後ろで、枝がドン、ドンと落ちていきます。
地面に落ちた枝をよけながら、また上から降ってくる枝におびえながら、
(一度は「ドン」と何かが落ちて来たのでびくっとしましたが、雪の固まりだけで、枝はなかったようです)
郵便局まで無事に着けるか・・・と思いながら走っていました。
後で考えてみると、月曜日に送っても別に何の違いもない郵便物だったんで、滑稽なんですが、なんだか、「命がけ」って感じでした。


びくびくしながら、後で考えてみれば停電直前の郵便局から帰ってきたら、ウチは停電していました。それから停電が50時間も続くとは考えてもいませんでしたが・・・。


落ちた枝や、倒れた木で、送電施設は寸断されて、
広い範囲で停電となりました。


ウチの庭の木の枝も、屋根を直撃しないか(実際一本屋根に乗っかっていましたし、何本ももたれかかっていました)と、それ以上に隣の家を直撃しないかとヒヤヒヤしました。

ウチの裏庭からの全景
よく見ると屋根の上にも枝が。

上の写真の右側のデッキの上に落ちた枝。
屋根の上に乗っている枝の何倍の大きさ。
今度は左側の隣との間の木。
この木の枝は隣の家にも何本も落ちていた。


昨日も枝の片付けをしていましたが、
雪の付いたままの枝はものすごく重かったです。
これだけ重くなったら、バキバキ折れるのも無理はないなあ、と思います。
そして、折れてくれたからこそ、幹ごと倒れることがなかったのでしょう。


でも、落ちる枝の中でのドライブは、ホントに「マジ怖かった」です。

前回のハリケーンアイリーンの時は、我が家は26時間の停電だったのですが、
教会は大丈夫で、電気が必要な時は教会に行けばよかったのですが、
今回は教会も電気がダウン。

ここら辺の暖房は燃料がガスだろうが、重油だろうが、電気がないと動かない。

で、教会も寒かったです。

礼拝は守りました。
電気が復活することを祈りながら。
でも、結局復活せず、子供を入れると40人以上の方々が集まりましたが、
ほとんどは自宅には電気があるし、自宅は暖かい、という方々、
でも、共に礼拝を守るために、電気が消えていて、寒いとわかっている教会に集まりました。(でも、ホントに寒かったので、同じことが次にあったら、「無理はしないでください」と言うでしょうね)

でも、その礼拝は「本当に礼拝になくてはならないものは何か?」が問われるひとときとなりました。

暗い中で、寒い中で、「週報」もない、楽器もいつもの半分以下、マイクもない、プロジェクターもない・・・そんな中で、でも礼拝を守っている、という実感はありました。

礼拝前の成人科の小さな集まりでも、共に語り合いました。
週報がなくても、楽器がなくても、礼拝ではある、
 でも、例えば、説教はどうだろうか? 

説教者がいなくても、聖書があれば、聖書朗読があれば、礼拝だろう。

 でも、旧約時代のように、聖書が与えられていなかった時代には、
礼拝は何だったんだろう。

神様の恵みと、応答としてのささげもの、いけにえ、献身、だっただろう。 

私たちにはイエスの十字架が、罪の赦しのために与えられて、
その前に献身をする者たちが集まる、
それが礼拝なのではないだろうかと思わされていました。

神がイエスの十字架を通して開いてくださった道。
神の私たちへの招き。
私たちの応答としての、神を神とする者たちの集まり、
それが礼拝の「なくてならぬもの」。 

「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」ローマ12:1

今回の礼拝でなかった「週報」も、電子楽器も、マイクも、プロジェクターも、すべて、もっと心からの礼拝を・・・という目的のために用いられています。でも、今回のように、すべてが取り除かれた時に残るもの、それに目を留めることが時々必要なんだろうなと思います。

1年半前にも書きましたが、Heart of Worshipという歌が作られた由来、思い出していました。

でもね、ホントにホントに寒かったので、
体調を崩した方はおられないかとちょっと心配です。
電気がなくても、何とかなりますが、暖かさは本当に必要です。

礼拝の後、停電しなかったお宅に呼んでくださる方があって、
お言葉に甘えて、お伺いしました。
心も体も暖まりました。

だから、改めて祈らされます。
これから寒い冬を迎える震災の被災地の方々の
心と体が守られますようにと。