2007-09-29

コンピューターに頼らない・・・

今日は朝からよく晴れて気持ちのいい一日でした。
今、夜の10時前ですが、15.5度。
明日の朝は8度くらいまで下がる予報が出ています。

またまた、涼しい格好をして寝てしまって風邪を引いたり、ということがありませんように。

実は、昨日の夜、突然、ラップトップの充電がストップ。
それから電池がなくなったら終わり、という状況になりました。

電源コードの問題かと思って、今朝になってから、近くのお店でコードを買ってきましたが、
それでも充電しない。
どうやら本体の問題ですね。
週末なので、カスタマーサービスに連絡するも、時間ばかりかかって、
来週の半ばくらいまで対応できないそうです。

いつも思っているのですが、
コンピューターに頼る生活も問題ですよね。
データの入っているやつが使えなくなると、
ほとんどの事がストップします。

ここらへんでアナログ中心の生活にシフトしていこうかと思わされています。

さて、そんなことで、早速今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書の8章を読みました。

「私は世の光である」というところですよね。
そして「真理はあなた方を自由にします」という言葉もあります。
そんな言葉がある中で、
でも、イエス様が本当に毅然とした態度で、人々と対決する所です。

その中で、今日心に留まったのは、
「まことに、まことにあなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
58節の言葉です。

壮絶ですよ。
この言葉も。
イエスはここまで言わなかったら、
どうなんだろうかと思います。
この「私はいる」が「I am」という、
神の名前につながる問題発言ですし、

アブラハムよりも前にいたなんて、
そんな事はとんでもない事でしょう。

いわなくてもいいのに、と思わないわけでもありません。
でも、イエスは堂々と言われた。
石を投げられようとも、
つばきをかけられようとも、
十字架につけられようとも、
はっきりと本当のことを語って行った。

そのイエスの強さを感じました。

そのイエスの強さについていきたいと思いました。
そのイエスの強さを分けていただきたいと思いました。

イエス様、
あなたの強さを思います。
あなたの強さを、ほんの少し、
私に分けてください。
そして、恐れることなく、
本当のことを語り続けるものとならせてください。

2007-09-28

ジャカルタに台風接近?

涼しくなることを期待した昨日の夜でしたが、
ばっちり天気予報は外れ、
雨が降らずに今朝になりました。

そして、今朝パラパラ、
夕方に、ザッと降って、雨は終わりました。
大したことはありませんでした。

9月は平年の半分以下しか雨が降っていません。

でも、夜になって本当に涼しくなってきました。
今、夜の11時で、16度。
夜中の1時ごろで15度。

明日は一日晴れて、最高気温は20度くらい。
最高の天気になりそうです。
我らがYankeesは今日もまさかの逆転負けで、
とうとうRed Soxに優勝を持って行かれましたが、
まあ、4-5月の悲惨さを考えれば、よくここまでがんばりました。

そして、何とかプレーオフ進出。
でも、4-5月に絶好調だった、同じNYのMetsは大変なことになっていますね。
今日も負けて、とうとうプレーオフ出場も果てしなく難しくなりました。

優勝を信じて楽しみにしていたちびっ子ファンを見ると、
ちょっとかわいそうになります。

まあ、私も子供の頃、絶対優勝しない近鉄ファンで、ほんと寂しかったですからね。
中学、高校くらいになったら、結構いい線行くようになって、
強いチームを応援することの喜びも覚えました。

1989年の優勝のときの新聞は今もとってあります。

さて、スポーツつながりで・・・

昨日の夜、読んでいた「キャプテン翼」というマンガに、
ちょっと「えっ」と思う記述が・・・。
え、まあ、このマンガ、サッカーのプレーを見ていると、
「ありえな~い」のばっかりなんですがね。
今回はそんなんじゃなくて、お天気系。


ジャカルタに台風17号が接近?
赤道には台風は行きません。
シンガポールとか、絶対に台風はないでしょう
ジャカルタも・・・と思うのですが、
シンガポールが北緯1度なのに対して、ジャカルタは南緯6度。
ちょっと微妙ですが、
少なくとも台風17号は行かないでしょう。
南半球の場合、「台風」ではなくて「サイクロン」ですから・・・
さてさて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書7章でした。
38節もすばらしい言葉なのですが、
今日は30節の言葉が心に留まりました。
「イエスの時が、まだ来ていなかったからである」
時がある。
そのことを思わされました。
私たちの歩みにはいつも時がある。
神様の与えてくださる時がある。
それを信頼していくことの大切さを思わされます。
そして、イエスにとっての「時」とは、
あの十字架の時だった・・・。
時をどのように見ておられたか、と思わされました。
そして、私も時を見る目を与えてほしいと思いました。
もしも見えない時には、
神様を信頼して時を待つ勇気と平安がほしいと思いました。
主よ、
あなたが時を支配しておられることに、
心から感謝します。
あなたを信頼します。
どうか、時を見る目を与えてください。
見えないときも、あなたを信頼できますように。

2007-09-27

Love Language

暑いですねえ。
いやあ、今日も30度。
朝から20度くらいありました。
なんだか1ヶ月気候が戻ってしまったかのようです。

雷雨で涼しくなるという予報で、
楽しみにしているのですが、
まだ、雨雲はペンシルベニア州からニュージャージー州に入ってきていません。涼しくなったら気持ちよく眠れるのに・・・と思いながらいるのですが、この調子では、ここまで来るのは明日の明け方になってしまうかもしれません。

でも、とにかく、明日からは最高気温が20度くらい。
最低気温が10度くらいとなりそうです。
助かります。

掃除機の部品が届くのを心待ちにしている今日この頃ですが、
今日も、それは届かず、でも郵便受けには、ちょっとした包みが・・・。

何かなあ、と思い差出人を見ると、
「はは~ん、あれだなあ・・・そうだ、ほら、やったあ!」
中身は「愛を伝える5つの方法」という本。

訳者の方がNJに住んでおられる知り合いだったので、
送ってくださったのでした。

原書はThe Five Love Languagesという本で、
去年だったかな、英語で取り寄せて読んでみたのですが、
なるほど、と言うことがたくさん出てきて、
日本語で出ないかなあ、そしたら、教会で勉強会をしたり、
いろんなことができるのになぁ、と思っていた矢先、
千恵さんが訳しておられることを知って、
楽しみにしていたのでした。

その5つのLove Languageとは、
その人が愛を感じるポイントで、
「肯定的な言葉」
「クオリティ・タイム」
「贈り物」
「サービス行為」
「身体的なタッチ」
です。

それが一人一人違う。でも、みんなふつう、自分が思うことは他の人もそう思うと勝手に思いこんでいる。だから、たとえば、夫婦でそのLove Languageがすれ違ってしまうから、生まれる誤解がたくさんあるそうです。

なるほどと思います。

たとえば、私のLove Languageはどうやら「クオリティ・タイム」と「身体的タッチ」のようですが、
カミさんは「肯定的な言葉」かな。または「サービス行為」。たぶん。違っていたらゴメン。ていうか、ちょっとヤバイかも・・・。でも一応正解という前提で話を進めますね。

よく、結婚したばかりで、西武球場のお膝元、所沢に住んでいた時は、
(ちなみに近鉄ファンの私は野茂クンの投げる日をねらって、見に行きました)
カミさんは「ゴキブリが出るのが嫌だから」と、食べた食器はすぐ洗う、のが主義だったのですが、クオリティ・タイマーの私は「そんなのいいから、一緒にテレビを見よう」というノリだったのです。あのとき、一緒に洗うよ、と言っていれば、または、「休んでなよ、ボクが洗うから」と言っていれば、せめて、「ありがとう」と言っていれば、ちょっとは私の株は上がっていたでしょうが・・・。

と思って、さっきは洗い物もしましたが・・・ダメかな。

ま、とにかく、互いの違いを知って、認めて、そして、互いに相手のLove Languageを学ぶことが大切なんだそうです。

また日本語でじっくり学ばせて頂きましょう。

千恵さん、ありがとう!

さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書第6章。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」
27節の言葉です。

なくなる食物も大切です。
大切で、う~ん、切実です。
心がそちらに奪われる時も、今までの歩みの中で何回もありました。
なくて、心配で、どうしたらいいんだろうか、神様は与えてくださるとおっしゃっているのになぁ、という切実さです。

でも、それだけじゃなくて、
いや、それ以上に大切な食物があるって、
そちらの方に目を向けなさい、そちらを大切にしなさい、
そちらを一生懸命求めなさい、と主は言われたのでした。

まあ、確かに、食べるものがあれば、それでいいという、そんな存在ではないことはわかっているのですが、やはり、うっかりすると、大切なモノを見失ってしまうことがあります。

永遠のいのちに至る食物、神様の救い、それを本当に大切にしていきたいです。

そして、それを本当に多くの人々に伝えていく者でありたいと思います。大胆に宣言していく者でありたいと思います。

主よ、
あなたが与えてくださる最高のもの、
永遠のいのちに至る食物のすばらしさを、もっともっと深く経験させてください。他のものに心を奪われてしまうことがないように、私の心にいつもいつも経験させてください。
そして、そのすばらしさを大胆に伝える者とならせてください。

2007-09-26

すべては神様のおかげ?

今日はあつい!
言いたくないですが、暑いです。
朝19度。
最高気温は32度。
たぶんNYの方がちょっとましだったと思います。

そして、今、夜の9時半ですが、
まだ25度あります。
家の中は27度です。

明日には雷雨になって、
その後涼しくなるようです。

寒いのも嫌ですが・・・(日によっては足が冷えて冷えて、もうパッチの季節かと思います)、
暑いのも嫌です。気温に関しては適応範囲がめちゃくちゃ狭いです。

今日、弟のブログを見ていると、
こんな記事が出ていました。

牧師の息子で「直道」はうちの教会にもいますが、
もちろん、別人です。
でも、このヘルムートくんもよく知っています。
自分が大学生の頃、中学生でした。
その彼が、テレビのディレクターか・・・と感無量。
10年ぶりに親に会うなんて、親もいろいろ苦労しただろうなあと。

もうちょっと詳しく知りたいなあと、
そこで、「金スマ」「ヘルムート直道」で検索をかけました。
そしたら、出てくる出てくる。

とても多くの方々の心にとまった企画だったようですね。

何とか映像を手に入れたいです。

ある記事の中で、
彼が、「何でも神様のおかげにする親に反発して・・・」という表現がありましたが、
そうだろうなあ、と思いました。

でも、大人になってみると、本当なんですよね。
先日の礼拝でもお話ししましたが、
すべては神様が与えてくださっている。
自分で何かやっているつもりになっていても、
ホントはすべて神様が与えてくださっている。

たぶん、それは言われるとちょっとカチンと来る。
俺はこんなにがんばっているんだと。
だから、自分で気がつく時が必要なんだと思いました。

さて、今日の聖書。
今日はヨハネの5章。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
8節。

「直りたいのか?」というイエスの問いかけに対して、
「誰も入れてくれないんです」と、
ストレートに答えることができなくて、
半分いじけているのではないかという返事をする
この人に対して、イエスは、
スパッと「さあ、起きて歩きなさい」と言われたのです。

このことばが私に対しても、
なんだかいろいろ言い訳をしたくなる私に対しても、
語りかけているように感じました。

なんだかんだ言っていないで、
さあ、立って歩きなさい、と。

だから、勇気を出して行動をしたいと思います。
勇気を出して、踏み出したいと思います。

主が助けてくださることを信じて。
その力は主から来ることを信頼して。

主よ、
いろいろぐずぐず言う私に、
必要なことばをかけてくださってありがとうございます。
これから踏み出して行く、一歩一歩をどうか、
守り、祝福してください。
力の源があなたにあることを、
忘れることがありませんように。

2007-09-25

必要な時に必要なことが言えるか

今日も暑かったですね。
30度を超えました。

今、夜の11時前でまだ23度以上あります。
明日の朝は今朝までのように10度くらいまで下がることもなく、
18度くらいでしょうか。
明日の昼間は30度を超えるようです。

でも、それがピークで、木曜日は雷雨があって、
金曜日からはまた涼しくなるようです。

でも、例年の10月のはじめのように、
ぐっと冷え込むこともないようです。

これくらいがちょうどいいかな。

今日の午前中は
服部雄一著「ひきこもりと家族トラウマ」を読んで、
午後の集会では、
「境界線(バウンダリー)」を読んだのですが、
いろいろ考えさせられました。

両方に共通する問題・・・。

「本当の気持ちを言えない」ときに生まれてくる問題です。

傍若無人に何でも思ったことを口に出すのがいいとは思わないのですが、
思ったことが言えない関係、
特に「NO」が言えない関係は病んでいると思います。

言わせない人の問題か、言わない人の問題か・・・。

でも、私も思いました。
自分が「NO」が言えなかった経験はよく覚えている、
でも、自分が誰かに「NO」と言わせなかった経験は、
覚えていない、というか、
それよりも、そんなことに気がついていないのではないか、と。

だから、自分が気がついているよりも、
もっともっとたくさんたくさん、人にNOと言わせないようにしてきたのではないだろうかと。
そして、それが問題であること以上に、それに気がつかないで来てしまったことが問題であったのではないだろうかと。

自分の姿に気がつくのが成長の第一歩。
人が自分の領域に許可なく踏み込んできた時に、はっきりとNOといえる強さと共に、自分が無意識に人の領域に踏み込んでしまった時に、それに気がつく敏感さ、そして、それを認める勇気と謙虚さを与えてほしいと思いました。

さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書4章です。

とても好きな聖書箇所ですが、
また新しい気持ちで読みました。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」
23節です。

今日は、ここの最後のところの、
「父はこのような人々を礼拝者として求めておられます。」
ということばが特に心にとまりました。

神様は待っていてくださる。
私たちが礼拝をささげるのを、
形ではなくて、真実な礼拝をささげることを
待っていてくださる。

日々の祈りもそのような時となるように、
また日曜日の礼拝もそのような時となるように、
また10月から始めようとしている、平日の礼拝もそのような時となるように、
また日々の生活自体が、主への礼拝となるように、
いのります。

こっくりさんを呼ぶように、
霊媒師が死者を呼ぶように、
私たちの方が神様に「来てください」と呼ぶのではなくて、
神様の方が私たちを待っていてくださる。

感謝。

主よ、
あなたが待っていてくださることに感謝します。
日々の生活が、あなたと共に歩む日々でありますように。
どうか、礼拝の喜び、あなたがともにいてくださることを喜ぶ喜び、
それをもっともっと教えてください。

明日の1日もあなたへの礼拝となりますように。

明日は朝早く出て1日NYです。
一つ一つの出会いを主が祝福してくださいますように。

2007-09-24

私たちが受け継いだ信仰・・・

今日もまた暑くなりました。
朝は12度だったんですがね。
昼間は日に当たっていると汗ばむ陽気。

今は夜の10時で、16.4度。
明日の朝はまた10度近くまで下がるでしょう。
そして、昼間は30度近く。

いやあ、この寒暖の差はきついですね。

今日は2ヶ月に1回の地区の牧師会。
フィラデルフィアに行ってきました。

そこである先生から聞いた話。
先生が、ヨーロッパに研修旅行に行かれた時、
イタリアでカタコンベに案内されたそうです。


それは迫害にあっていた最初の時代のクリスチャンたちが、
身を隠して、礼拝をしていた、地下のトンネルだそうです。
そこでガイドさんが話してくださったこと。

そこでの合図が今もよく車のバンパーステッカーなどに使われている「お魚マーク」
「イエス・キリスト・神の子・救い主」の頭文字を取ると「魚」ということばになったことから、このマークが「自分はクリスチャンです」という暗号になったわけです。今はもちろん、暗号でも何でもないわけですが・・・。

当時の兵隊たちがそこに捜索にはいると、中でたいまつが消えてしまうこともあったそうです。
そして、何にも見えない中で、出口もわからないで、何日かたつうちに衰弱していく兵士たち、そのタイミングを見計らって、クリスチャンたちは、衰弱した兵士に水を与え、食物を与えて、世話をします。そのようにして、兵士たちに自分たちの伝えたいこと、自分たちの神様からもらった愛を伝えていったそうです。そして、軍事力も経済力もなかった教会が、何百年もかけてローマ帝国の中に静かに浸透していったそうです。

迫害の中で命がけで、「イエスは神の子、私の救い主です」ということを伝えていった信仰の先輩たちがおられたから、今の私たちがいるのに、今の私たちはいったい本当に同じ信仰を受け継いでいるのだろうかと思います。今のアメリカや日本の教会は「comfortableなこと」「世の中で認められること」を求めすぎているのではないかと思いました

「あなたこそ、いける神の子キリストです」という信仰告白の上に教会は建っている、と昨日の転入会式でお話ししましたが、そこに本気で生きていく教会を建て上げる責任を感じます。

さて、今日の聖書。
今日はヨハネによる福音書第3章。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3節のイエスのことばです。

最近、「新しく生まれる」ということに語られることが多いです。
新しい発見を与えられているように思います。

私たちはキリストを信じて、神の子とされた時に、
新しい父を持ち、新しい家族の中に生まれた。
新しいアイデンティティーを与えられて、
新しい者とされた、
そのことの大きさを思わされます。

今まで、自分は自分を生んで育ててくれた家族のことにこだわりすぎていたように思います。
もちろん、ありがたいことなのですが、
「新しく生まれた」ということは、何よりも、
神を「父」として新しく生まれたということなんですよね。

そっちの方が土台で、
そっちの方を土台として、
自分のこの世の家族との関係を捉え直していく、
そういうことなんですよね。

新しいアイデンティティー、感謝します。

主よ、
あなたが私を、キリストにあって、
新しく生まれさせてくださってありがとうございます。
あなたの子供とされていることを感謝します。
あなたに受け入れられ、子供とされていることを、
もっともっと味わわせてください。
その意味をもっと深くわからせてください。
新しいアイデンティティーを感謝します。

2007-09-23

アメリカに住むということ

今日はすかっと晴れたいい天気でした。
気候的にもちょうどいい秋の1日でした。
日本でいう秋分の日が、こちらでは秋の始まり。

火曜日と水曜日は夏を思わせるような暑さが来そうですが、
そのほかは過ごしやすい日が続くようです。

さて、今日は早く休もうかとしているところに、
息子の宿題、親への質問。
なんだか、直前にならないとエンジンがかからないのは親譲りのようで、
昨日もたっぷり時間があったはずなのに、
何もしてなくて、今頃になって、質問攻め。
移民の歴史なんだか、いろいろ自分の経験を話してほしいという。

「いつアメリカに来たか?」
「何のために来たか?」
「偏見を感じたことはあるか?」
「文化の違いで悩んだことは何か?」
「20世紀初めの移民とはどこが違うと思うか?」

なんだか、難しい質問ばかり。
素直に感じたことを話したら、
「パパの答えは複雑すぎ・・・」だって。

まあ、いろんな経験をしてきていますから・・・。

こちらに15年住んでいますが、
好きなところ、気になって、なかなか受け入れられないところ、
いろいろあります。
でも、そんないろんなことを平気で言えることこそ、
この国のいいところなんだろうと思います。

実は今日の礼拝後、教会でもある方とそういう話になりました。

アトランタの神学校で勉強していた時の話。
アメリカの学生たちに、日本でのキリスト教の受け入れられている
状況を説明してほしいと頼まれて、話したのですが、
「理論的に理路整然としているから信じられるわけではない」
「原爆を落とした国がキリスト教国であるということが受けいられにくい」
そんな話をありのまましていました。

その中の学生の何人かが、
「そういうことを言っている、日本の文化をまず変えなければいけない」
と言い出したのには、びっくりしました。

もちろん、そうではなくて、日本の状況を本当に理解してくださる方もおられると思います。
特に、そのような状況を理解してくださる多くの宣教師の方々によって、
神様に導かれた方々もたくさんおられることでしょう。

でも、本当にわかってほしいなあと感じます。
私たちの使命は、この国に住む日本語を使う方に、神様のことを伝えることと共に、この国の方々に、自分たちの立っているところ以外の違った視点に立つことも大切なんだという、そのことを知って頂くことでもあるのかと思います。自己の視点の相対化、つまり自分のものの見方が絶対的ではないんだということを知って頂くことなのかもしれない、そう思わされます。

さてさて、難しい話になってしまいましたね。
今日はヨハネによる福音書2章を読みました。

「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
10節のことばです。

主は最高の葡萄酒を取っておかれる。
最高の喜びを今も準備しておられる。

人間の力では作り出すことができない、
最高の喜びを、主は私たちのために取っておられる。

今までの喜びを遙かに超えた最高級の喜びを私たちのために、
取っておいてくださる。

それを本当に喜びに感じました。

ただ、2章読んだだけですが、
箴言から新約聖書に来ると、
「ああ、恵みの世界だなあ」と思わされます。

教会がそのような喜びにあふれますように。
私たちの日々の歩みが、そのような喜びにあふれたモノとなりますように。

主よ、
あなたが今の私のために
今まで取っておいてくださった、
最高の喜びを感謝します。
他のためには使わないで、
今まで取っておいてくださったことに感謝します。
どうか、あの水をくんだ僕たちのように、
単純にあなたのなされることを信頼して、
従っていくことができますように。