2009-07-25

みっどらいふくらいしす・・・もっと。

今日は蒸し暑いです。
午後はずっと外だったのですが、
本当に暑かったです。


そして、夕方になって雨も降ったのですが、
それでも蒸し暑いです。


気温よりも湿度でしょうね。


今年の夏は楽な方でしょうが、
楽な分、ちょっと蒸し暑くなっただけでも、
かなりからだがつらいです。


明日もまた蒸し暑い日になります。
雷雨もありそうです。
というか、今夜のうちに雷雨になりそうです。


今日の午後は、私がアドバイザーをしている
JCFN-NYの集まり。
これは特に海外で信仰を持った方々が、
日本でも教会につながり、信仰を持ち続けるために働いている団体の、
NY支部。


実際のところ、今は、
若いクリスチャンの皆さんが互いに励まし合っている場になっています。
そんな集まりで、ある方がミッドライフクライシスをカミングアウト。
前から知っている方ですが、もうそんな年なんだ~、って感じ。
でも、お話を聞きながら、
この分野において、教会の持っている答えって、
ものすごく役に立つと思いました。


いろんな側面があると思いますが、
一つの大きなことは、自分の人生の先がある程度見えてくる中で、
若いときに見ていたような夢が実現しないことも、
同じくらいの年齢で活躍している人たちとは、
自分は違うのだという事実も、
受け入れなければいけない。


でも、その中で、主がわたしたちを愛し受け入れてくださっている、
というのは、ものすごい支えになるし、根本的な平安感、の土台になると思う。


もっともっと、この世代の男性と関わりを持つことの大切さを思います。
そのような場が与えられますように。


さて、7月21日(火)の聖書。
火曜日はテトス1:10-16でした。


「彼らの口を封じなければいけません。」11節。

これはすごい言葉ですね。
単に迫害する人、ではなくて、
似て非なるものを伝える人ですよね。
クリスチャンのふりをして、違う教えを伝える人。

その人達の口を封じなさい、だなんて。

火に油を注いでしまうような気もします。

どのようにして、口を封じることができるのでしょうか?
・・・わかりません。

でも、具体的にどういうことができるのか、ということよりも、
自分にそのような強さがあるか、
そのようなことをしようとする強さや確信があるか、
やはり問われているように思います。

なんだか、仲良し子よしでやりたい気持ちがあるんでしょうね。
波風を立てたくないと言うか、
でも、それが裏目裏目に出ることが多い。

主が与えられた責任をはっきりと果たす、
強さを与えて頂きたいと思いました。

主よ、
あなたの私に与えられた責任を果たさせてください。
そのために波風を立てないように逃げるのではなく、
間違いに対してはConfrontできる強さを与えてください。
そして、愛を持ってそれをすることができる者とならせてください。

2009-07-24

御言葉に生きる。

今日は夜10時頃に帰ってきた頃から急に雷雨。
かなり激しく雨が降り、雷が鳴っていました。
雨雲自体はそれほど大きくなかったので、
「え、そんなことあったの?」という方もおられたと思います。


日本の大雨も大変ですね。
山の遭難や、崖崩れなど・・・。
気象関係のお仕事をされている方々も、
ストレスのたまる日が続いていると思います。
自然の大きさに謙虚でありながら、
どこまでも正確な予報にチャレンジする努力が、
豊かな実を結びますように。


さて、7/20(月)の聖書。
月曜日はテトス1:1-9でした。


「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」9節。

この言葉は本当に心に響きました。
自分がちゃんと御言葉をもっともっと学ぶことの大切さ、
そして、励ましをする思いやりと愛、
そして、反対する人たちを正す愛と勇気。
主にある謙虚さと自信。

どうなんだろうか、
迷い、というのは一生なくならないのだろうか。
もちろん、イエスの十字架の救い、
神の愛、教会の大切さ、
それらのことは迷いはない。
でも、一つの「それは違うんじゃないか」と直感的に感じることについて、
上手に説明出来なくて、
今ははっきり「それは違うと思う」と言わない方がいいのか、
という迷い。

平安と確信の中で、「励まし」や「戒め」「矯正」、
そのような働きができる日が来るのだろうか?

あってもなくても、
とにかく自分にできることは、
祈りつつ、御言葉を読むこと、御言葉に聞いていくこと。

主が愛と勇気と決断力を与えてくださいますように。

主よ、
私は迷ってばかりです。
どうか、御言葉によって、教えてください。
天からの知恵を与えてください。
そして、わかってもらう努力をする謙虚さを与えてください。
あなたが語ってくださったことについて、
大胆に、恐れないで語り、従っていく勇気と力を与えてください。

アレルギーと魅力。

今日は一日どんより。
そして、夕方には一時雨。
気温は高くなかったのですが、
湿度が高くて、もわっとした、
蒸し暑い・・・というのではなく、
でも、蒸し涼しい・・・というのでもなく・・・という感じかな。


でも、雨は東に行くほどひどかったようで、
夕方、のんちが帰ってくるときに電話くれたのですが、
のんちのいるところは「雨がひどい」って感じだったのですが、
こちらは全然大丈夫。


もっと東のQueensやBrooklynやLong Islandの方はひどかったようですね。
ちょっとお天気の方あまり注意深く見ていなかったのですが、
東海上に低気圧が発生して、かすっていったようです。


明日は天気も持ち直して、また蒸し暑い+雷雨のようです。


何日か前のコメントに
日本人は宗教アレルギーってこと、
書き込んでくださった方がおられますが、
本当にそうみたいですね。
難しいです。


でも、私は何を隠そう、果物アレルギー。
バラ科の果物がほとんど全滅。
http://ja.wikipedia.org/wiki/バラ科


うちの前に白樺科のOak Treeがあって、
その花粉症の関係で、食べられなくなってしまったようです。
http://allabout.co.jp/health/familymedicine/closeup/CU20030625/index2.htm


で、バラ科の果物は、
いちご、サクランボ、もも、プラム、梨、りんご、などなど、
いろいろあるんですが、みんな好きな果物です。
特にイチゴとももと梨。


で、アレルギーでのどがかゆくなったりするのですが、
どうしても、食べたいときがあります。
それくらい魅力を感じるときがあります。


そんなときは水を準備して、口の中にあまり長い時間滞在しないように、
さっと流し込みます。
そうしてでも、何としても、イチゴやサクランボを食べたくなる時があります。
(もちろん、ショック症状とかを経験したことがないので、できることですが・・・)


だから、宗教アレルギーも、
それに負けないくらい、教会が魅力あるところなることが、
一つ大切かなあ、と思ったんです。


今から2000年前の最初の教会も、そうでした。
教会の集まりに行くのは、命がけだったときもありました。
人々の理解はありませんでした。


でも、彼らは周りに合わせようとしませんでした。
何とかうまくやっていこう、とは思っていませんでした。
そうではなくて、ただ、自分たちが神様に与えられた喜び、
その救いの価値、それを大胆に生き、伝えていったのです。


命を失う人たちもいました。
でも、その時代の教会は何とか、生き延びるために、
妥協をしようとはしませんでした。


宗教アレルギー・・・というレベルではなかったと思います。


そんな時代を生き抜き、耐えたのではなくて、社会に影響を与え、
そして、300年の時間がかかりましたが、
ローマ帝国が国として、イエスを主としてあがめるようになりました。


自分はアレルギーあるけど、
それに負けないくらいの魅力がある、
そう人に言わしめるようなイエスの魅力を、
人々に表させて頂きたいと思います。


さて、7月19日(日)の聖書。
ルツ4:7-22です。


「彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。」17節。

ルツがボアズと結婚して、そこに生まれた子供が、
ダビデの祖父になったという。
マタイによるとイエスの系図の中にもルツが登場する。

ルツがナオミを慕って、その信じる神を信じて、
また、ナオミに仕えていった。
ボアズがルツの求婚を受け止めて、
でも、神にすべてをゆだねて、信頼して、
そして、犠牲を覚悟で、ルツを受け止めた。
その一つ一つの神への応答が、
神の不思議な導きへとつながっていった。

ルツ記の1章で、誰がそれを予想しただろうか?
ナオミが「神様は私にひどいことをする」といってたときに、
ナオミにはこの4章が予想出来ただろうか?

私たちは時間と空間に閉じこめられた存在。

見えないことはたくさんある。

だから、嘆くときもある。
でも、そんな時にも、ただ、主を信頼して、
歩んでいくときに、神がなさること、それを見させて頂きたい。

今も、私も、来年が見えない、再来年が見えない。
いや、明日も本当はわからないのだ。
だから、一つ一つのことに一喜一憂しないで、
神の御手を信頼して、歩んでいこう。

神様、
私にはあなたの計画がわかりません。
だから、時には「どうして!?」と思ってしまいます。
でも守ってください。
あなたを信頼します。
どうか、あなたのみこころを実現してください。
そのあなたの御業を見ることのできる者でありますように。
そして、そこに参加する者としてください。

2009-07-23

祈りが聞かれる?

ねぶい。
もう日付が変わってしまった。
昨日は、暑かったです。
ホントはそれほどでもなかったのだと思いますが、
涼しさになれたカラダには暑かったです。


でも、夜は涼しいです。
明日もまた涼しくなりそうです。
午後から雨です。


このあと、ちょっと長いですから、「日々のみことば」が目当ての方は、
緑の字をぐーっととばして、黒字のところに飛んでください。


・・・では行きます。


先日のユースのキャンプではこんなことがあったそうです。
ナイトハイクの最中に、
一人の子のめがねのネジが落ちたそうです。
めがねのネジですよ。あの小さなネジ。
そして、真っ暗な中。
みんなで探したけど、見つからなかったそうです。
でも、その時、メッセンジャーの先生が、
「祈ろう!」と言って祈ったそうです。


そして、祈った後に探したら、何とそのネジが見つかった!というのです。


私もよく捜し物をして見つからないときには祈ります。
そして、祈った後、不思議に見つかることが多いのです。
たとえば、祈った後に、どこに置いたか、思い出すとか・・・。


だけど、そのめがねのネジには驚きました。


そんな話を週末に聞いた、一昨日の夕方のこと、
出かける前にシャワーを浴びようと、
ぎりぎりになってからシャワーを浴びました。
そして、シャワーから出て、めがねを掛けようとしたら、
つるが一つ取れてしまいました。
そうです、ネジが落ちてしまったのです。


でも、確かに今日はめがねがちょっと違和感あるなあ、って感じだったのです。


ネジが落ちてもすぐには外れない設計になっているみたいで、
ずっと前に落ちていたんですね。


それで、周りを一生懸命探してもネジはない。


途方に暮れました。
大体、元々、めがねがなかったら、何も見えないですから、
何と言っても、朝一番大変なのが「めがねをさがす」という作業なくらい、
目が悪いですから、途方に暮れるわけですよ。


で、出かける時間は刻々と近づいてくる。
出かけた先で合う予定だった人は、携帯忘れて外回りをしている、というし、
もう絶望的な気持ちでした。
セロテープでも貼って、出かけるか?
と思ったその時に、そのユースキャンプの出来事を思い出して、
お祈りしたのです。


「神様、ユースキャンプでは、
真っ暗なところでネジが見つかるようにしてくださったのですから、
私にもそれを経験させてください」と。


そして祈り終わったときに、思い出したのです。
自分は歴代のめがねを大体後生大事に持っている・・・ということを。


そう、前のめがねのネジがもしかしたら使えるかもしれない!


そして、また、めがねなしに昔のめがねを探す、という絶望的なことはすぐにあきらめて、のんちの助けを求めて、昔のめがねを発見。そして、ネジを見てみたら、何だか同じサイズっぽい。


その後、その昔のめがねを掛けて、精密ドライバーを捜して、
見つけた精密ドライバーで、昔のめがねからネジを外して、
今のめがねにつけてみたら、「おおおお!」と声を挙げたくなるほど、ばっちり。


無事、めがねを掛けて、出発。
いつもはバスを使うところ、教会の車でNYで行くことによって、
時間にも間に合うことができました。


「昔のめがねがあるじゃないか!」そのことを思い出させてくださった神様に感謝。
「車で行けばいいじゃないか!」と気持ちの切り替えを助けてくださった神様に感謝。
神様はすごい!と思っためがねのネジ事件でした。


さて、7月18日(土)の聖書。
ルツ3:14-4:6。


「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」6節。

この人が自分の相続地を損なう可能性があるとしたら、
ボアズはどうだったのだろうか?
ボアズは自分の相続地を失う心配はなかったのだろうか?

愛もそうだし、信仰もそう。
リスクを負うもの。

それができないのは信仰でもなければ、愛でもない。

リスクを負うことを恐れないようにしよう。
大胆にリスクを負おう。
それが自分にとって不利なことであっても、
神様に信頼して、従っていくときに、
すべては益に変えられる。
すべては益とされる。

それを信頼してリスクを負う者となろう。

主よ、
あなたを信頼します。
あなたを信頼してリスクを負うことを恐れない者でありますように。
主が守り、支えてくださることを経験させてください。
これからも、あなたのなさることを見ていくことができますように。

2009-07-22

日食ってすごい。

22日の日本はどうだったんでしょうか?
こちらは21日はとても涼しくて、
一日中20度以下。
一日雨が降っていました。
かなり本降りの時間が長くて、
場所によっては水が出たところもあるんでしょうね。


明日はずっと気温も上がり、
蒸し暑くなりそうです。


曇り時々晴れで雷雨もある、という不安定な天気になりそうです。


さて、日食の話ですが、
考えてみたら、太陽にすっぽり月がかぶさるって、すごいですよね。
太陽の直径が月の直径の約400倍で、
太陽までの距離が月までの距離の約400倍だから起る、
この不思議な現象。
これってすごいですよねえ。
その大きさがあまりにもぴったりだから、
時によっては月の地球までの距離の関係で、
太陽が月に収まり切らなくて「金環食」になる・・・。


また、それだけじゃなくて、
それが起っているところにまた知的な生物が住んでいて、
それを観察している、ってところがすごい。


子どもの頃、自分がおじいさんになった頃に、
日本でも皆既日食があると、科学漫画で読んだことがあります。


いつかなあと思って調べてみたら、2035年9月2日ですね。
あのころよりも海外旅行が当たり前になってきているので、
必ずしもあと26年待たなくてもいいかもしれませんが、
確かに70代ですね。
結構あのころから楽しみにしていました・・・
あれから、36-7年経っていますから、
あと26年なんてあっという間かも・・・。


でも、その前に、
3年後には5月20日に日本で金環食(太陽がわずかにはみ出る)、
8年後にはサキの16歳の誕生日にアメリカを横断する皆既食があります。
ちょっとそこら辺は見てみたいかな、と思います。


さて、7月17日(金)の聖書。
ルツ記3章1-13節でした。


「朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」13節。

この「主は生きておられる」というのは単なる慣用句で、
「主の前に約束しますよ」という程度の意味だった可能性もありますが、
でも、ここで、その親類がどのような答えをするのか、
それはボアズとルツにとって喜ばしい答えではないかもしれないけれども、
そこに神様の働きを見よう、という姿勢の現われでもあった、と読むことはできないだろうか?

この後に起ること、
彼らのできることには限界があった、
そのもっと近い親類がその役目を引き受けたら、
彼らは一緒になることはできなかった。

でも、彼らはそれをも主の御手にゆだねた。

その神への信頼。

自分の願い通りにならなくても、
そこに主の御手を見ていく信仰。
それを持たせて頂きたいと思います。

主よ、
あなたの御手を信頼します。
私の考えを遙かに超えたあなたのお考えを信頼します。
どうか、これからの歩みも、守り、導いてください。
自分の手の届かないところにも、
あなたの御手を見ていくことができますように。



2009-07-20

40年前の今日。

今日もいい天気でしたね。
それほど暑くもなく、
さすがに朝、芝刈りをしているときは汗だくになりましたが、
その後は、快適な一日でした。


明日は雨。
ちょっと芝生とか、渇き始めていたので、
ちょうどいいでしょう。
気温は25度止まりの涼しい一日となりそうです。


40年前の7月20日は人類が初めて月に降り立った日。
自分は6歳でしたから、幼稚園の年長さんですよね。
うーん、覚えていません。
その後、小学生の時に、月にアポロが行ったときは、
学校の先生がテレビをつけてくれたのを覚えていますが・・・。


あのころ、40年後は月に人が行くのは当たり前になっているのでは・・・
なんて思っていましたが、アポロが終わってから、月には行っていないんですよね。


昨日も、これから10年後どうなっているだろうか?
携帯電話なんて過去のものになって、
埋め込み電話になっているのかなあ、
なんて話をしていましたが、
意外と変わっていないのかも・・・と思います。
そして、それを期待しています。


そして、便利になったり、楽になったりすることがある中で、
いつも変わらないもの、いつも変わらないでそこにあるもの、
それこそを、大切にしていきたいと思いました。


さて、7月16日(木)の聖書。
木曜日はルツ記2:14-23。


「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」20節。

これはナオミが死別した夫や子供たちのことをさして、
こういっているのだろうなあ、と思います。

でも、これはナオミの境遇の中だけで真理なのではありません。
わたしたちすべてにとって「アーメン」のことです。

生きているものに恵みを与えてくださっている、
でも、それだけではなくて、もうこの世を去った人々のためにも、
主は恵みを注いでくださっている。
先に天に帰って者たちのためにも、
主は恵みを注いでおられる。

わたしたちは自分が生きて、子どもが大きくなるのを見たいし、
次の世代の人々が育っていくことも見ていきたい。
でも、それがかなわなくても、
そこには主の恵みが注がれている。

たとえ自分が子供たちが小さなうちに、
また妻が困るだろうという状況の中で、
先に行かなければいけなかったら、どんなにつらいだろうかと思う。

でも、そんな中でも、自分が手を掛けることができなかったとしても、
自分が先に行かなければならなかったとしても、
その後は主が恵みを注いでくださる。

だから、わたしたちはすべてを主の御手にゆだねよう。
主が守り、養い、育て、生かしてくださるから。

主よ、
わたしたちの生き死にもあなたの御手の中にあることを信じます。
もしも、私が先に行かなければならなくなったとき、
残された者たちのことを心配しないですむことができますように。
あなたの御手が、導いてくださることを信じて、歩むことができますように。

縦列駐車。

今日もさわやかな夏の日でした。
夜になって涼しくなっています。
今、12時前ですが、20度を下回ってきています。
また、明日の朝は15度くらいになりそうです。
昼間は28度くらい。
雷雨の可能性もあります。


この後、今週はほぼ毎日「ところにより一時雷雨」です。
不安定な天気が続きそうです。
でも、今までよりも「蒸し暑い」不安定な天気になりそうです。


さて、18歳になってもう半年近くなるハジですが、
明日、運転免許の試験です。
17歳から取れる免許ですが、1年半も経ってしまいました。
半年間の路上練習で、もう安心して隣に座っていられるのですが、
問題は「縦列駐車」。
ここら辺は日本の免許の試験と同じです。


こちらではNYにでも行かない限り縦列駐車が必要な場面はありません。
ですから、「わざわざ練習する」ということになります。


今から24年前、私が日本で免許を取った時は、
「何本も立っているポールの何本目が後ろの窓のここに来たときに、ハンドルをいっぱいに切る」とか、応用の利かない教え方をされたので(車が変わっただけで、どうしていいかわからない+現実に路上駐車するときにはポールなんて立っていない・・・)、免許を取った後に、途方に暮れた経験があります。


こちらでは、親が教えるので、自分でもほれぼれするほど、上手に教えることができます。
きっと自分で運転するより、隣に乗って教える方が簡単だと思います。


今日は夜10時を過ぎて家に帰ってきてから、練習開始。
もうだいじょうぶ、というところまでやって、明日に備えます。


本人は晴れて免許が取れたら、一人でPrincetonまで(片道1時間半くらい?)行ってくるから!と申しておりますが、親は、それはちょっと心配。


やっと取れる免許、助かるような、怖いような・・・。


さて、7月15日(水)の聖書。
ルツ記2:1-13
「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主・・・」12節。

主の翼の下に避け所がある。
私の避け所もそうだ。
主のもとこそが、私の避け所。
わかっているのに、そうしていないときもあることに気が付く。

他のところに解決を求めないで、
神様の元に求めていこう。
神様の元で安らいでいこう。
そのように思いました。

問題が起ったときには、
意識して、主からの答えを待ち望みます。
自分の常識によって判断することがありませんように。

主よ、
あなたが私の避け所になってくださることを感謝します。
どうか、次に私に危機が訪れたときに、
そのことを思い出させてください。
他のものにではなく、あなたに助けを求めますように。


2009-07-19

あなたの神は私の神。

今日はまたスカッと晴れて、
湿度が下がった分だけ、気持ちが良かったです。
そして夜はまた涼しくなってきました。
今、夜の12時前ですが、21度。
明日の朝は15度以下に下がると思います。


そして、明日も30度に行かない、気持ちのいい一日でしょう。


さて、7月14日(火)の聖書。
火曜日はルツ記1:15-22。


「あなたの神は私の神です。」16節。

ナオミに襲ってきたのは、本人が言っているように、
苦しみ、痛みでした。
故郷から飢饉を避けて逃げてきたモアブの地で、
夫に先立たれ、そして、2人の子供たちにも先立たれたのです。

そんな不幸が立て続けに起こったナオミを見ながら、
ルツはその神を自分の神として受け入れようとしたのでした。

ルツをして何がそう言わしめたのかなあ、と思います。
3人の男手を天に召された神をどうして、「私の神」としようとしたのでしょうか?

やはりナオミの信仰者としての姿でしょうか?
ナオミがそんな苦しみの中で、それでも神を見上げて生きている姿が、
ルツが子どもの頃から見てきた神々を信じる人々と、
全然違ったのでしょうか?

素直に、「私もこういわれてみたい」と思いました。
「あなたの信じている神を信じたい」
そのようなことを言われてみたいと思いました。

でも、そのように言われることが目標なのではなくて、
やはり、この神様の許に帰る人が一人でも多く起こされますように、
そのように祈らされます。

主よ、
どうか、私をきよめ、私を用いてください。
あなたを指ししめす、あなたのすばらしさを表す器として用いてください。
あなたの素晴らしさだけがほめたたえられますように。