2011-12-14

「まことの光」

クリスマスまであと10日。
久しぶりにNYCに出てきました。
Thanksgiving後のクリスマス色一色のNYCに来たのは初めて。
いえ、月曜日も来たし、その他にも人を送ったりして来ているんだけど、
街を歩くのは初めて。

マンハッタンにはクリスマスの名所がいくつもあります。
その一つ、Macy'sの前を通り過ぎました。

ショーウィンドウの写真を撮っている人々、
買い物をしている家族。

クリスマスはすてきな季節です。

・・・でも。

やっぱり、考えないではいられません。
「神様はどうご覧になっているのかな」
「イエスの誕生を祝う、ということはこれでいいのかな」
・・・と。

そんな親父の小言みたいなことはこの際言いたくないのですが、
今日はちょっと考え込んでしまいました。
そう、どちらかと言うと、誰かに小言を言いたいのではなくて、
自分はどうすればいいのだろう?という自分への問いかけ。

ヨハネによる福音書1:9の言葉。
「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」

「まことの光」・・・イエスのことです。
まことの光である、イエスが来てくださった、それがクリスマスの意味だと言うのです。
よく、この「まことの光」という言葉は「まことではない光がある」ということを前提にしているといいます。
見せかけの光と言うか、光のように見えるもの・・・。

それは暗闇を照らすのではなくて、
暗闇をごまかすもの。
暗闇を暗闇でないかのように見せかけるもの。

大変失礼な言い方かもしれないのですが、
自分も商業主義に影響を受けていないわけではないのですが、
そして、家族で、このような名所を巡ったりすることもしてきたのですが、

このクリスマスの祝い方は、その「暗闇を暗闇ではないかのように見せかけける」ことをしていないか?と思わされたのです。

で、ここからがホントに自分に問われたことだったのですが、

「そんなこと言うなら、お前は何をしているんだ?」ということです。

街には「クリスマスにはイエス・キリストを!」とチラシを配っておられる方もいます。
でも、私はそれを見ながら、それに加わろうとはしませんでした。
たぶん、これからもみなさんが、NYCでチラシを配っている私を見ることはないと思います。

物乞いをしている人に話しかけることも、ホームレスのおじさんに寄り添ったりすることもしませんでした。

「もしも、お前が『まことの光』を持っている、知っている、というなら、お前はこのNYCで過ごす時をどのように送るつもりだ?」

今年のクリスマス。神様、あなたが与えてくださった「まことの光」を確かに誰かに届けることができますように。暗闇の中に歩んでいた人々に光が照った、ということが、このNYCの日本語を使う人々の誰かに起こりますように。私を遣わしてください。出会いを与えてください。ただ、待っているだけではなくて、出て行く者とならせてください。

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