2011-11-08

大きな犠牲。

今日はホントに暖かく、午後には20度Cを超えました。
明日ももう一日暖かい日が続きそうです。
木曜日はちょっと雨が降り、
金曜日はちょっと冷えそうですが、
その後は11月にしては穏やかな日が続きそうです。


1ヶ月くらい前になりましたが、
アシュラムの集いに参加してから、
ずっと感じている感覚なのですが、


自分はいったい、聖書を読む時に、
人に伝えることを前提に読んでいないか、
いつもそれを意識して読んでいないかと。


もっともっと自分で味わうべきで、
もっともっと自分の中で沈潜すべきなのに。


あまりにも人との関係の方に目がいって、
神様との関係を深く持っていないのではないだろうか、と。


このブログやTwitterやFBの方に何かをアップすることを
神様とのひとときを楽しみにしているよりも考えているのではないかと。


だから、ちょっと意識して、
もっともっと神様とのひとときを大切にしたいと思います。


さて、今日は早速今日の聖書。
今日はエゼキエル書の6章。


「こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす」12節。

この章は読んでいて、本当に恐ろしくなりました。
神様の怒りが注がれるとはこういうことなのかと。

でも、読んでいる中で、この怒りは今はどうなっているのか、
そのことを思った時に、それをイエスがあの十字架の上で負ったのだと、
気がつかされたのです。
イエスは大きな犠牲を払われたのだと思わされたのです。

この神の怒りは、新約時代の私たちにとっては、
イエスの上に注がれている。
100パーセント注がれている。
本当は私が受けるべき、私の上に注がれるべきものなのに。

そう思った時に、イエスが血の汗を流して「私がこれを避けることができれば・・・」と祈られたのが少しわかったような気がしました。あの十字架の上で「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫んだことも。

イエスはすべてわかっていた。
自分が十字架にかかるのは使命であることも、
そして、何よりも3日目にご自分がよみがえることも。

それでも、とんでもなく恐ろしかった。
叫ばないでいられなかった。

それはこの神の怒りがどれほど恐ろしいものであるか、
それを覚えた時に、そうだったんだと思いました。

まだまだ十字架の意味が分かっていない、
そんな自分を感じました。

主よ、
イエスの十字架の大きさ、重さを感謝します。
どうか、もっともっとそのことをわからせてください。
もっともっと深いところで味わわせてください。

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