2010-11-20

冬支度。

今朝の最低気温は-1.1度。
この秋最低をあっさり更新。
紅葉もすっかり終わり、
落ち葉の片付けが大仕事です。
明日はThanksgivingの礼拝。
神様の恵みのあふれる日でありますように。

2010-11-19

冷えてるよ〜。

はい、ビールの宣伝みたいな題ですが、
そうじゃなくて、天気の話です。
今日は夜の12時前に氷点下になっています。
明日の朝の最低気温予想が0〜2度ですが、
もうすでにそれを下回って、-0.1度(11時50分)。
はい、明日の朝は、この秋最低更新です。


明日も晴れて、秋らしい天気になりそうです。


今日は、朝の祈りの中で、
自分がいかに人の言葉に振り回されやすいか、
それを思い知らされて、
それはどうしてかなあと思ったら、
祈りの中で、神さまとの関係がもっともっとしっかりしないと、
いけないんだなあということを思わされ、
それで「もっとあなたとの関係が強められますように、今日も沢山の方々にお会いしますが、あなたとの関係の中で、確信と平安を持って、お話をしたり、お話を聞いたりできますように」という祈りに導かれました。


そんな平安の中で、今日の一日は幸いな一日でした。


朝も、夜も集会があったのですが、
平安が自分の心を守っている、という感覚がありました。


毎日の祈りが祝福されますように。


あ、でも、今朝の祈りの時には、伏線があって、
昨日の夜、10時半に就寝。
それも、風邪薬を飲んで(風邪じゃないけど)、
しっかり7時間寝た。
ホントは5時間後の3時半に目が覚めたんですが、
薬のおかげで、そのまま眠れた。
ちゃんと寝ることが、朝の祈りの時の祝福につながる。
ほんとそう思います。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の20:1−16でした。


「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。私があなたがたの神、主であるからだ。」7節。

自分の身を聖別する・・・
その後に続くのが性の問題。

自己の経験からしても、
本当に主の前に聖別が問われるのは
性の問題だと思う。

いや、それだけではないと思うけれども、
でもとても大きな問題だと思う。

主に守っていただきたいと思う。
若い時には「結婚すれば」「歳をとれば」解決すると思っていた。
でも、たしかに結婚前とは問題は違うし、若い時とは違うと思うが、
やはり闘いはある。

主に守っていただきたいと思うし、
主の前に、自分を清く守りたいと思う。
こころと体を守っていただきたいと思う。

主よ、
あなたが守ってください。
私の思いと体を清く守ってください。

2010-11-18

主へのささげもの。

今夜、何げなく読んでいた記事にこんなのを発見。



ミスコン候補の女子大生へのアンケート。
「返信に困る男性からの携帯メールの内容」



返信に困る男性のメールは、「自分撮りの写メを添付してくる」「とにかく長文」が1、2位で票を集めた。3位以下は「質問ばかりしてくる」「日常の報告をしてくる」「甘えてくる」「難解な話をしてくる」「天気の話をしてくる」など。


最後の一つが気になった。


「天気の話」だとぉ??


わりーか?と反発しつつ・・・


内心かな〜りショック。


別に自分の子供の年代の女子大生にモテたいとも思わないが、これって、結構普遍的な傾向かと思うと落ち込む。やっぱり「天気の話」はダメ?


自分的には一番盛り上がる話なんですがねえ。
まあ、自分が好きだからと勝手に盛り上がるのは最悪なんでしょうし。
それなりに読めない空気読んでやっていこうと思いますが・・・。(苦笑)






でも、どんな反応があろうとも、
読み飛ばされようとも、
はい、ここでは天気の話をします。(上を向いてキッパリ)






ということで、今、夜の10時前で、外の気温は7.8度。
ちょっと雨が降っているのかな。


明日の朝は2度くらい。
昼間は晴れても10度以下の11月らしい天気になりそうです。


中期的にはやはり来週の木曜日くらいを境に、米国東部「冬に突入」のようです。
その前にはちょっとした「小春日和」もあるかも。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記19:19−37でした。


「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。」23−25節。


木の実がなっても、3年間はそれをとらないように、
多分それは、木の力を弱くしないためなんだろう。

そして、4年目。
待ちに待ったその年、
さあ、収穫できるぞ、という最初のものを、
主のもとに持って来なさい、という。

ゆとりがあるからではない。
自分が十分満たされているからではない。
たくさん食べた余りではない。

最初のものを主のもとに持っていく。

神さまを第一とすることの意味を思わされる。

すべての必要が神様から与えられるのだということを、
どこまで本気で信じているのかが、問われているのだと思う。

文字通り、そのような生き方をさせていただきたいと思った。

主よ、
私の必要をすべて満たすことができるのはあなたです。
この手ではありません。私の努力ではありません。
勤労ではありません。
あなたの恵みです。
そのことを本気で信じて、生きる者とならせてください。


あなたを第一とすることの意味を、そのまま生きる者とならせてください。

2010-11-17

隣人を愛しなさい、と。

今朝起きたら、すっかり雨は上がっていました。
そして、朝のうちにどんどん青空が広がって、
いい天気になりました。
風は強かったですが、私たちの住んでいるあたりは、
大きな被害はなかったようです。


夜になって、ちょっと冷えてきたかな。
でも、真夜中の12時頃で、9.9度。
明日の朝も4−5度ありそうです。


でも、来週に向けてだんだん冷えてきそうです。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の19章1−18節でした。


「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」18節。

これは新約聖書への引用で有名な言葉。
レビ記の中にあるんですよね。
意外かもしれないけど。

そして、イエスが「隣人だけではなくて、敵をも愛せ」と言われているから、このレビ記では「隣人」は「普通の周りの人」、または「なかよし」、のことだと思われている。

でも、前後を見ると、

人を中傷するな!
血を流すな!
心のなかで憎むな!
優しく戒めよ!
復讐するな!
恨みを抱くな!

・・・愛せよ。

となっている。

とすると、その隣人とは、「中傷したくなる相手」「仕返しをしたくなる相手」「つい、憎んでしまう相手」「戒める必要がある相手」「復讐したくなる相手」「恨みを抱いてしまう相手」なんですね。

イエスが言われたとおり。
自分に良くしてくれる人を愛するのは誰でもできる。
神の愛に捕らえられて、イエスの十字架によって救われて、
聖霊様に導かれている人は、

このような隣人をも愛することが求められている。
このような隣人をも愛そうと思う。
このような隣人をも愛する力が与えられる。
このような隣人をも愛する。

今、自分は「愛させてください」と祈るだけだ。

主よ、
あなたの愛を与えてください。
自分に良くする人だけではなく、そうではない人をも、
いや、そうでない人をこそ、愛することを教えてください。
愛する力を与えてください。
聖霊によって奇跡をなしてください。

2010-11-16

いのち。

今日は朝と夜に雨。
今は夜の10時過ぎですが、しとしと降っている音が聞こえます。


この後、雷雨になるかもしれないそうです。
雨の量は大したことがなくても、
落ち葉で排水口が詰まっていたり、
路面が滑りやすくなったり、
この時期特有のトラブルがあるかもしれません。


そして、この後、来週前半まで、「秋」みたいですが、
Thanksgivingあたりから、「冬」になりそうな予報が出始めています。


さて、先週末から計画はあったのですが、
今夜、初めて豆腐を作ってみました。


というのは、下の娘が日本語補習校で、
「大豆が原料の食べ物がいろいろある」と習ってきて、
じゃあ・・・ということで、ほんとに大豆から豆腐ができることを、
一緒に実験してみたわけです。


以前、アトランタにいた頃、納豆をつくってみたことがあったのですが、
豆腐は初めて。たまたま「にがり」を数年前に頂いていて、棚の中にあったので(液体のヤツだったんだけどきれいな結晶が出来ていた)、やってみたわけです。


で、やはり最後ににがりをうって、固めるあたりのにがりの量と豆乳の温度の調節が難しかったですが、温度を上げてにがりを増やしたら、かたまりました(邪道かもしれないけど)。


で、娘に「写真撮ってお天気何とかに載せないの?」と催促され、撮った写真がこれ。


あんまりうまそうに見えませんが、どうしてどうして、うまかったです。
にがり増量で水にさらす前はちょっとにがりの味を感じてしまいましたけどね。


これは楽しいし、できたてがうまいので、ちょっと研究しようかな、と思ってしまっています。平気で4時とかに目が覚める今日この頃、豆腐屋でも始めようかと・・・。


さて、日曜日の聖書。
日曜日の朝は、レビ記の17:1−16を読みました。


「いのちとしての贖いをするのは血である」11節。

今、私たちは「いのち」について考えなくていい生き方をしていると思います。
肉や魚を食べる時にも、その命をいただいている、という感覚を持たないことが多いです。

聖書の時代には、その血を注ぎ出して、命をいただいている、と受け取ったり、犠牲の動物も、文字通り、自分の身代わりだったわけです。

また、人の生き死にの場面に出会うことも少ないです。

たぶん、なるだけ、見えないところに追いやられてしまっているのだと思います。
肉を食べるために屠殺する場面も、人がその人生を終えて、旅立って行く時も、私たちに見えないところに押し出されてしまっているのです。

仕方が無いといえばそうですし、私もそのような場面をたくさん見るべきだと思っているわけではないです。でも、それゆえに、命の大切さや、ありがたさを見失っていないかと思うのです。

イエスの十字架もそうです。

私たちの命の回復のためには、イエスの血が流されなければならなかった。血は命そのものだから、贖うことができる。

それなのに、イエスの十字架の恐ろしさ、痛み、苦しみは、後ろに追いやられ、ほかのこと、充実した教会イベント、マネージメントのよさ、いい音楽、本音トークができること、それらが教会の中心になり、力になり、活力の元になっていないだろうか?

いつもいつも、いつまでも、この十字架の恵みが中心。
そのことを忘れないでいたいと思います。

主よ、
イエスの血が流されたから、
私たちが救われていること、
心から感謝します。


どうか、どこまでもどこまでも、十字架のもとに救いがあり、喜びがあり、力があることを、忘れることがないように、そのことをいつもいつも伝えていくことが出来るように、守り、導いてください。


2010-11-15

「苦行」ってあり?

今日は午前中は雨が降ったりしていましたが、
午後には回復して、落ち葉集めができるくらい。


今夜はまた雨みたいですね。
でも、その中心は明日の夜のようです。
今週前半は冷え込みも弱く、過ごしやすい日が続くようです。


さて、土曜日の聖書から。
土曜日はレビ記16:23−34でした。


「あなたがたは身を戒める。」31節。

この言葉ですが、どんなことかなあと思いますが、
新共同訳では「苦行をする」と訳されています。

「苦行」って何なんでしょうかね。
これは「贖罪の日」についての記述の中の言葉。
そこ深刻さ、罪赦されることの大きさを、表しているのかと思います。
軽々しく考えられないこと、それを表しているのかと思います。

新約聖書になって、
イエスが十字架にかかり、救いの道が開かれたのですが、
その十字架の恵みも、簡単に軽々しく受け取られてはいけないのかと思います。

本当にどれほど大きな犠牲が払われているのか、
それを忘れないでいたいと思います。

主よ、
あなたの十字架の重さを忘れないようにしてください。
安っぽいものにしてしまうことがありませんように。
どれほど大きな犠牲が払われているのか、
そこをおぼつつ、礼拝を守ることができますように。

12時半だからねえ。

元気なんですが、まあ、この時間なのでもう休みます。
でも、本当に聖書には教えられることが多いので、
またゆっくり書きます。

一つ一つの出来事に感謝。

あ、そう、最近、また「何時に寝ても5時間で目が覚める」日々が続いています。
昨日も11時に休んだので、今朝は4時に目が覚めた・・・。

今夜はちょうどいいかも。

ではでは。

2010-11-12

明けの明星。

今朝は、6時ごろに、東の空に、金星が明るく輝いていました。
さすがにiPhoneのカメラでは・・・と思いながら、撮ってみると、
・・・ハハハ、わかるかな。



ま、わからなくもない・・・というところでしょうか。
ゴミが付いたのかな?という程度。


でも、ちゃんと写るんですから、ほんとに明るいんですね。
マイナス4等星くらいだそうです。


冷えましたが、ぎりぎり氷点下にならず。0.5度。
昼間は暖かくなりました。
夜はそこそこ冷えて、今9時半前で5.5度。


この先、週末は暖かな日が続きそうです。


さて、今日は早速聖書。
今日はレビ記の16章1−22節。


「わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。」2節。

「贖いのふた」とはイエスのことを予表するもの。
イエスの十字架を予表するもの。
そこにご自身が現れてくださる。

そう、神さまはいつも十字架の上にご自身をあらわされる。
その愛を知りたければ、十字架を見ればいい。
それなのに、いつの間にか、私たちは、
「物事の順調さ」に神を見ようとする。

たとえば、健康が与えられたり、
仕事が順調だったり、
子どもが願っていた学校に進めることの中に、
神様の祝福を見ようとする。

だから、うまくいかないと、
「神様の愛がわからない」となってしまう。

でも、聖書はそんなところに神の愛をさがすなよ、
と言っていると思う。

いかにも神さまが祝福してくださっている、
というところよりも、
神さまがおられるなら、どうして、というところにこそ、
私たちのちっぽけな頭で、一番「神さまらしからぬ」ところに、
ご自分をあらわされる。

十字架はその極致。

人々は「お前がそこから降りたら信じよう」とののしった。

そう、人間の常識では、
神だったら、神の子だったら、
そこから降りることができて当然だ、
いや、そこから降りるべきだ、
そんなところにイエスは行かれたのだ。

なのに、私たちはいつの間にか、
「トントン拍子に行く」
「うまく物事が進む」
ことのなかに、「神さま」を見ようとしていないだろうか?

十字架のもとに行こう。
そして、自分自身も十字架を負って歩み始めよう。
そこに神さまがおられるというのだから。

主よ、
あなたが、イエスの十字架に、ご自身を現しておられること、
そこに気がつかせてくださってありがとうございます。
あなたの十字架のもとにやすらい、
自分の十字架を背負って歩む者であることができますように。

2010-11-11

葉っぱのフレディを読む。

今日はまたいい天気でした。
朝から晩までスカっと晴れました。


夜、冷えてきています。
今は夜の11時ですが、すでに2.5度。
明日の朝は氷点下ですね。


この秋最低の−0.2度を下回る可能性もあり!


さて、今日はMaywoodのJOYJOYキッズクラブ。
楽しかったです。20人余りの子たちが来てくれました。
そのなかの7割くらいが男の子。


そんな中で、今日は久しぶりに私が絵本の読み聞かせを担当しました。
今月は秋らしく「葉っぱのフレディ」。
子供たちは一生懸命聞いてくれました。


日野原先生が紹介してくださったということもあり、
日本では、クリスチャンの間でもかなり受け入れられている本であり、
またアメリカでも、Cokesburyなど、クリスチャン系の本屋でも売られています。


でも、今回、もう一度読んでみて、
聖書の死生観とどこまで一致するのか、いろいろ考えさせられています。


まあ、一番簡単なのは「聖書とは違う」と一刀両断してしまうことなんですが、それもいいのかな・・・というところもあり。


でも、今回もう一度英語で読んでみて、
それから日本語訳も読んでみて、
ずいぶん印象が違うことが気になりました。


私にとって決定的に違うな、と思わされたのは、


原作の
"Will we return in the Spring?" (春になったら、僕たちはここに戻ってくるの?)
"We may not, but Life will"(多分違うな、でも、いのちは戻ってくる。)
というくだりが、日本語訳では全くなくなってしまっているところです。


"may"と柔らかにですが、「輪廻」が否定されているのが、
日本では受け入れられないと訳者は考えたのでしょうか。


生かされている意味(木の全体像は、フレディが落ちていく時に初めて見える・・・)、みんな違う存在なのだ、死は恐れなくていい、というメッセージなどは、そうだなあと思いますが、やはり神のもとに行くのだという聖書のメッセージがそこに込められているかというと、違うなあと思いました。


今日はその後に「わたしがよみがえりであり、命である」と言われたイエスのことを話してまとめましたが、ちょっとこの後もこのテーマ、考えていきたいと思います。

昨日、今日の聖書。
レビ記15章。


「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」創世記1:27。

聖書の言葉は、今日の箇所ではないけれども、レビ記15章の面倒な一つ一つの戒めを読みながら、なんで、神さまは人間を男と女とに造られたのか、いろいろおもいめぐらしていた。人間に男と女がいるから起こることがこの世にはたくさんある。

人間に男も女もなくて、ただ「人間」だけだったらどんなに楽だろうかと思ったりすることもある。

でも、男と女とに造られたことが、「神のかたちに造られた」ことの意味だという解釈もあるくらいだ。

一つ思わされたことがあった。
女性は子供を産むがゆえに、自分のお腹を痛めるがゆえに、9か月間その一部として共に生きる。でも父親は違う。それをともに歩むけれども、やはり自分の一部ではなく、自己の大切な存在である妻の中に、自分とつながりのある命が宿る。でも、やはり、母親のように、その存在が自分の一部であるということはない。だから、子供との距離感が違う。見方が違う。本当に母の愛は偉大だ。父親である私にはどうにも太刀打ちできないほどの深いものを感じる。脱帽だ。でも、また神はまた違った見方をする父親という存在をもおいておられる。

女性に男性がいることによって、神は違った視点で物を見ることを要求しているのだと思う。
逆もまた真だ。

違った視線で見る人の存在をそこに与えておられるのだと思う。

男と女が造られた神秘。
また一つ一つ知っていきたいと思う。

主よ、
私を男性として作って下ったことに感謝します。
男性として与えられていることを、
積極的に行うものとなれますように。
そして、足りないものを、主に求める者とならせてください。


また、女性がこの世に与えられていることに感謝します。
もっともっと愛し、敬うことを教えてください。

NYはこの季節がいい。

日付が変わって、昨日の事でしたが、ミッドタウンのBryant Parkを通ったら、スケートリンクがオープンしていました。まだまだ真冬の寒さには程遠いのですが、こういう風景が、この街には似合うんですねえ。

今夜は、もう遅くなったので、また、明日。

2010-11-10

バスに乗り遅れて電線に文句を言う。

NY行のバスの時間をミスして、バス停で待っていたら、
また、神様のプレゼント。携帯カメラで撮ってみるのだが、電線がジャマだと文句を言っている自分。いつもお世話になっているのにね。

かなりワガママ。

あっと、バスが来た。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2010-11-09

朝の戦いは前の晩に勝負がついている。

ということで、
明日は朝から教会に行って、そのままNYに行く日なので、
今夜は早く休んでおきます。

いつだったかの学びの中で、
「次の日の朝の祈りの時のQualityは前の晩にもう勝負がついている」という文章を読みました。本当だなあと思います。

明日は朝7時半からNYのミッドタウンのマクドナルドで小さな祈り会を守ります。
Lexington Ave.の45th St.のところです。

多くの人々が生活しているマンハッタンの中で、
主の目がそこに注がれていることに感謝しながら。

2010-11-08

初sleet。

今朝は場所によっては雪も降り、
うっすら雪化粧したところもあったようですが、
こちらはほぼどんより曇り。
時々、雨が降ったり、時々「パチパチ」とsleetが降ったりしました。
このsleetというのは氷の粒で、雪よりも気温が高めでも降る場合が多いです。


明日からはしばらく暖かめの日が多いみたいです。
MY初雪はまだまだお預けのようです。


最近、こちらに滞在されて、教会に集っておられる方がおられるのですが、初めて来られたときに、「デンバーの修養会に先生が来たときに、私もそこに行っていたのです。」と言われて、「その時に初めてイエスの十字架の意味がわかったんです」と言われました。


それはうれしいですよねえ。今から9年前。まだサキがのんちのおなかの中にいた頃ですよ。
初めてJCFNに関わった修養会。
その時にお会いした方々の多くが日本に帰ったかな。
一緒にNYから行った人たちも誰が残っているだろう?
ん?もしかしたらみんな日本?
そして、天国に召されていった方もいる。


そこで時間を共有していたんですよね。
そして、一人の方がイエスの十字架の意味に目が開かれる。


それは確かに神さまのみ業。そう、人間業じゃあない。そこに関わることができたのは神様からのプレゼントだなあ、と思う。


これからも、たくさんの方々と「イエスの十字架の意味がはっきりと示された」という瞬間を共有させていただきたいと思う。


今夜はここで。

2010-11-07

S-Word

今日の朝はやはり霜が降りていて、
朝、車を出すときにカリカリ剥がした。

でも、まあ、気温は氷点下になっていなかったので、
楽でしたが・・・。

今日はいい天気でしたが、
明日は雨です。
東のほうから低気圧が西に進んできて、
もう、すでにボストンとかでは雨が降っていますが、
これが西に広がって来るようです。
そして、S-wordが天気予報に入っていました。
そう、午前中雨に雪が混じる可能性もあるようです。

でも、これからだんだん、「可能性」「混じる」から、
「雪だ!」という日が増えてくるんだと思います。

さて、今日の聖書。
今日は詩篇の98篇。

「主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。」3節。

この「真実」という言葉に目が留まりました。
ある英語の聖書ではindefatigable loveという言葉に訳されていました。
日本語にすると『疲れを知らない愛」。

神様の愛が疲れを知らない愛でよかった。
自分の愛は疲れることがある。

でも、この方の愛は疲れることを知らない。

この愛にどっぷりつかっていたいと思いました。
この愛の中に生かされている喜びを感じました。

主よ、
あなたの愛を感謝します。
あなたは私に対して疲れはててしまうことがない方であることに感謝します。
支えられます。励まされます。
あなたの愛の中に憩う者でありますように。

2010-11-06

神との関係に生きる。

今朝はギリギリ霜が降りるか降りないかという冷え込み。
車の窓の半分は凍って半分は大丈夫でした。


でも、明日の朝はバリバリに凍りそうです。


今は夜の10時半ですが、5.3度C。
明日の朝は0度くらいに下がりそうです。


それに今夜は一年で一回の、1時間長い夜。
明日の朝、ちょっとゆっくり休めるかと思うとホッとします。


そう、今朝はどういうわけか、目覚ましに使っているiPhoneのアラームが1時間早くなりました。朝の4時40分。「え〜!?」ともう一度寝ようかと思いましたが、予定の5時40分に鳴らなかったら、どうしようか、と気になって、もう眠れません。


そして、その運命の5時40分。


鳴りませんでした・・・。


これはコワイですね。


ヨーロッパとアメリカとでの夏時間の終わるタイミングが違うがゆえにプログラムミスでこうなってしまったのだとは思いますが、もしも、間違えて1日早く夏時間が終る設定だったら、1時間遅く鳴ってくれるはずだったのですが(これも困るが・・・)、どういうわけか、1時間早く鳴ったわけだ。多分、シロウトのわかるレベルのバグではないのだろう。
それに、午後3時前のアラームはバッチリ時間通り鳴っていた。


なんだか、訳がわからない。


ま、とりあえず、しばらく他の目覚ましで起きることにして、様子見だ。


さて、今日は、「日々のみことば」の方ではなくて、朝の祈祷会で開いた民数記の20章1−13節から。


「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから・・・」12節。

この部分、かなりナゾだ。
だって、モーセは人々に「水がない」と責められて、
神さまから「岩に命じなさい、そうすれば水が出るから」と言われて、
でも、もうイライラしていたのかもしれない。
「なんで、自分たちがこんなことをしなければいけないんだ!」と
岩を2回、バンバンと叩いたのだった。

それで、神さまからこのような叱責を受ける。
おそらく、「自分たちが・・・」という軽率な言葉と
命じなさい、と言われたのに、叩いたことが問題なんだと思う。

でも、それはちょっと厳しすぎるのでは・・・という声もあった。

ですよね。厳しいです。

でも、注意深く読んでいると、
6節では、不平を言うこの民の前を去って、
神の前に行ってひれ伏している。

この態度は正しい態度だと思う。

人々から責められて、でも、すぐに彼らは神に向かって、神からの解決を受けようとする。

ところが、彼らは形の上では神の前に行ったけれども、心のなかには人々に対する怒りや自分がこんなにやっているのに・・・という気持ちなどいろんな思いが渦を巻いていたのだと思う。

だから、「なんで自分たちがこんなことを・・・」という言葉が飛び出してきたのだと思う。

だから「命じなさい」と言われたのに「2度叩く」という行為になってしまったのだ思う。

それを神は責められた。
ホントは神が彼らをリーダーとして立てられたのに、
いつの間にか、民との関係だけでモノを見るようになっていた。

そこに落とし穴があった。

結局、この民とモーセとの関係には、
神さまが出てこない。
直に要求と答えがぶつかっている。

振り返って、自分の心を覗いてみた。
ほんとうに自分の話だと思った。

自分も「みんなが言うから」とか、
「皆さんがそう思うなら」とか、
そういうことに心が向いていることがある。

違うのだ。

神さまが命じられることに従うのだ。
神さまが立たせて下さり、
神さまが使命を与えてくださるからでていくのだ。

責任転嫁をしてはいけない。

神さまが与えようとしている使命をしっかりと見据えて、
人のせいにしないで、信仰者として決断して進んでいく。
その大切さを思わされた。

主よ、
どうか、私が、いつもあなたとの関係で答えをいただいて、
あなたの与えられた使命に立って、
歩んでいくことができますように。


平安を与えてください。

2010-11-05

すげえな、神さま。

今日は一日どんよりでしたね。
夕方ちょっと日が差してきました。


でも、それと同時に冷たい空気がどんどん入っているんでしょうね。
今、夜の11時前ですが、5.3度Cです。
明日の朝は1度か2度。


今日はアトランタ郊外のNorcrossやStone MountainでもSleet(雨氷?いや凍雨の方)が降ったと、@BradNitzWSB(ch. 2の天気予報のおじさん)がtweetしていましたが、明日はこちらでもsnow showerあるかもですね。


さて、ここ数日の聖書から。
昨日は詩篇95篇でした。


「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」4−5節。

地の深み、山々の頂き、とは、当時の人々にとって、一番遠いところであり、一番神秘なところだったのでしょう。ですから、今日で言えば、宇宙の果て・・・ということになるのでしょうか?先日も書いたように、ほんとうに、宇宙の大きさってすごいと思います。またこの宇宙の歴史もものすごく長いです。その広さや長さを日々明らかにしてくれている科学者の方々に対して、今まで自分がどこまでちゃんと敬意を払ってきただろうかと、最近本当にそのことを反省させられます。

だから、本当にその世界を造った神さまに目が向くのです。

なんてすごいんだろうかって。

そして、毎日同じこと感じていますが、その神さまが私を覚えていてくださっていることが、なんという幸いだろうかと。

あのマリヤの讃歌も思い出します。

「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。力あるかたが、わたしに大きなことをしてくださった。」(ルカ1:48-49)

主よ、
最近教えてくださっている
この世界の大きさ、人間が作られるまでにあなたがかけられた時間、
それにほんとうに心が圧倒されます。
そう、あなたにとって、こんな大きな宇宙を作る必要はなかったかもしれないし、
人間を造るときにもチョチョイのチョイで造ることもできたはず。


でも、あなたは時間と空間を使われた。


あなたの大きさを示すため。


そのあなたが私に目を留めてくださっていることに、
心から感謝。

2010-11-04

休暇中。

今日は一日雨でしたね。
冷たい雨でした。


明日はだんだん回復に向かいますが、
北西の風が強く、また寒いみたいです。


実は、今日明日私はお休みをいただきまして、
今日は2ヶ月半ぶりに、家族の休日が全員そろったので、
昨日の夜からちょっと遠出をしていました。


明日はのんちが仕事があるのと、
サキの補習校の宿題があるので、
私は在宅休暇です。


また、明日にでもまとめて・・・かな。

2010-11-02

大きな神さま



BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop今朝はこの秋初めての氷点下。
最低気温は-0.2度Cでした。
キーンと冷えた朝、祈りを終えて6:50頃に外に出ると、
薄暮(「薄明」ですよね、今気がついた[11/3 7:16am])の中、1/3くらいになった月が中空に輝いていました。


月から地球に届く光は1秒くらいで届いていると思いましたが、


先日は130億年かけて届いた小宇宙の光(というか電波というか)の記事を読みました。UDFy-38135539という小宇宙ですが、これは、今は、銀河系からどんどん離れているので、300億光年近く離れているそうです。まあ、本当に想像ができません。このとんでもない宇宙を造られた神が、私という小さな存在に目を留めていてくださることに畏れを感じます。


そして、聖書が言うように、この空の星も、すべて私達のために造られたとするならば、神の目的はどんなものだろうかと思います。130億年もの時間と、何百億光年もの広さを持つ宇宙を、この私達のために造られた。それは、なんのためだったのでしょうか?今日、思わされたのは、それは神の大きさを私達に示すためだったのではないだろうかと。少しでもだとすると、科学者は、神の大きさを少しでも明らかにしていく、という尊い働きを任されているんですね。彼らの努力なしには、ハッブルのような高性能の望遠鏡がなければ、私たちはこの神様の大きさを知ることができなかった・・・。


本当に畏れを感じます。
また科学者の真摯な努力に敬意を表します。


明日の朝も同じくらい冷えそうです。
今は夜の10時前ですが、3.3度C。


明日ももう一日晴れそうです。


あさっては雨みたいですね。


さて、今日の聖書。
今日の聖書は詩篇の93篇。


「大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。」4節。

そう、神の大きさを思うときに、
また自分の小ささを思わされる。
この大きな宇宙の中で、その小さな小さなひとつの星に過ぎない地球。
でも、その海の波にも飲み込まれる小さな自分。

でも、その小さな自分に主が目を留めておられることに、
本当に大きな感謝を感じる。
今日も覚えられていることに感謝を覚える。

このことにただ感謝しつつ歩んでいこう。

主よ、
あなたの大きさの前にひれ伏します。
そして、あなたが私を覚えていてくださることに感謝します。
あなたの大きさを、あなたの愛をもっともっと知ることができますように。

2010-11-01

納得いかない繁栄。

今朝、0度まで下がるかと思っていたのですが、意外と冷え込まず、2度止まり。でも、今夜は行きますよ。この秋始めての氷点下。今は夜の11時半ですが、すでに3度まで下がってきています。


明日も晴れ。寒い一日でしょう。


次の雨の可能性は木曜日。
ああ、子供たちも学校が休みで、私もお休みを頂いている日なのですが・・・。


さて、今日はおとなしく「日々のみことば」から。
この「日々のみことば」、11月号から、聖書箇所が読みやすくなりました。助かります。

その記念すべき最初の日。
ずっと列王記でユダ・イスラエル南北王国の歴史を読んできたのですが、今日から突然、詩篇です。

その詩篇92篇。
「悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと・・・」7節。

誰かのことを「悪者」と決め付けること自体気をつけなければいけませんが、どう見ても、「なんであの人が栄えるんだ」と思うようなケースがあります。

いや、妬みでそう思う時もあるでしょうが、
そうじゃなくて、「どうして?」と思うような場面もあるでしょう。

人を踏みつけてのさばっている人などがいるとやりきれない思いになります。

でも、そんな場合にも、私たちはそれに振り回されたり、囚われたり、する必要はないのです。神様はすべてご存知なのですから、神様はすべてを支配しておられるのですから。

そんなことにエネルギーを吸い取られてはいけないのです。

私たちはそんな中でも、主を見上げるところに招かれています。
主を見上げて、自分のなすべきことをしていくのです。

主よ、
あなたに従わないで、人を踏みつけて栄えている人を見ると、辛くなります。あなたが許しておられること自体に疑問を感じることさえあります。どうか助けてください。それに囚われないで、振り回されないで、ただ、あなたを信頼して、自分の使命を果たさせてください。


悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

詩篇37:1−8

2010-10-31

歴史を見る目。

今日は寒いです。
まあ、もう10月も今日で終わりですから、
寒くて当然といえば当然なのですが、
今は夜の10時で6.1度。
明日の朝は0度くらい、という予想が出ています。
Freeze Warning発令中です。


明日も晴れで寒いでしょう。


先週の後半、「日々のみことば」で列王記第一のアハブ王の時代を読みました。
そこで、ちょっと調べ物をしたくて、Wikipediaで「アハブ王」を調べると、先週末現在の記述で(これはいろいろ編集がされるので、またあとで読むと、違うことがまた書いてあるかもしれませんので、リンクは貼りません)、「旧約聖書に基づく事績」と「史実に基づく事績」という2つの項目が出てきます。そして、そこでは、まるで旧約聖書の記述と「史実」がまるで食い違っているかのような記述がされています。ものすごい違和感を感じました。


余り議論を巻き起こすことをこういうところで書くのは好きではないのですが、あまりに偏っていると思うので、思わされたことを書きますが、そういうのが嫌な方は読み飛ばしてください。


いったい、この項目を記述した方は歴史をどんなものだと理解しているんだろうか?
まるで一つの歴史観や世界観をもたない客観的な「史実」というものが存在して、それに対して、聖書は偏った歴史観で書かれているので、「史実」とは対立するかのような書き方だ。


しかし、そんな「史実」を私たちはどこにも見ることはできない。過去に起こった出来事が記述されるときに、それは必ず何らかの歴史観、世界観の中で書かれている。それがない「歴史」というものはこの世に存在するわけはない。確かに聖書は一つの独特の世界観を持って書かれている。アハブ王が神に従わないで、偶像礼拝を他国から導入したということに批判的な立場から書かれている。もちろん、それは「為政者にとって、どんな経済的な利益や軍事的な利益よりも神に従うことの方が大切である」という立場である。そういう視点で聖書は歴史を見ている。私もそうだ。それに対して、この編集者が「史実」だと言っている立場は「国の軍事的、経済的な発展」こそが為政者を評価する基準だという立場である。その2つの立場がぶつかっているだけなのに、その片方をあたかも客観的な事実であるかのような「史実」と呼ぶのはあまりに無邪気であるし、また不公平でもある。


ちなみに、聖書も、アハブ王が多くの功績を上げたことは決して無視はしていない。それを認めている。「アハブのそのほかの事績と、彼がしたすべての事と、その建てた象牙の家と、その建てたすべての町は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。」列王記第一22章39節。


でも、それは聖書にとっては大したことではない。ちょうど、この編集者が「イゼベルの祖国の宗教を持ち込んだ」ことを大したことではないかのように書いているのと何の違いもない。


歴史を見るときに、どんな視点で見るか、それは本当に大切な事である。


そして、それに負けないくらい大切なのは、自分がどのような視点で見ているかを忘れないことである。間違っても、自分の視点こそが「史実」を見る唯一の視点であるかのような勘違いをしないことである。そして、自分の視点では見逃してしまうことがあるのだ、ということをいつも忘れないでいたい。


もしかしたら、これは「歴史」だけじゃなくて、「人間関係」「政治」「科学」すべてを見るときに、いつも大切な事なのかもしれない。


ふう、疲れた。こういう文章を書くのは難しい・・・。


さて、いつものペースで「日々のみことば」から。
今日は列王記第一の22:41−53でした。


「彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。」46節。

この「神殿男娼」ってのはいったい・・・という感じがしますが、
聖書はそういう恥ずべき歴史も覆い隠さず書いているんですね。

でも、なかなか、一度生まれたものは取り除くことができない。

どんなにそれが神に喜ばれないものだと分かっていても、
そこに需要があり、そこに自分の身を売るものがいるときに、
そして、何よりも、甘い汁を吸う者がいるときに、
なかなか、それを一掃するのは大変なんだろうと思う。

アサ王はそれができなかった。

でも、アサ王の次のヨシャパテ王はそれを敢行した。

敢行する勇気と、それを達成させてくださる神。

私の心のなかも、取り除くことができないものはない。

主に求めよう。
主に期待しよう。

主が全てを取り除き、一つ一つのものをきよめてくださいますように。

主よ、
どうか、ヨシャパテ王の決意と勇気を与えてください。
そして、あなたが全てをきよめてください。