2010-11-16

いのち。

今日は朝と夜に雨。
今は夜の10時過ぎですが、しとしと降っている音が聞こえます。


この後、雷雨になるかもしれないそうです。
雨の量は大したことがなくても、
落ち葉で排水口が詰まっていたり、
路面が滑りやすくなったり、
この時期特有のトラブルがあるかもしれません。


そして、この後、来週前半まで、「秋」みたいですが、
Thanksgivingあたりから、「冬」になりそうな予報が出始めています。


さて、先週末から計画はあったのですが、
今夜、初めて豆腐を作ってみました。


というのは、下の娘が日本語補習校で、
「大豆が原料の食べ物がいろいろある」と習ってきて、
じゃあ・・・ということで、ほんとに大豆から豆腐ができることを、
一緒に実験してみたわけです。


以前、アトランタにいた頃、納豆をつくってみたことがあったのですが、
豆腐は初めて。たまたま「にがり」を数年前に頂いていて、棚の中にあったので(液体のヤツだったんだけどきれいな結晶が出来ていた)、やってみたわけです。


で、やはり最後ににがりをうって、固めるあたりのにがりの量と豆乳の温度の調節が難しかったですが、温度を上げてにがりを増やしたら、かたまりました(邪道かもしれないけど)。


で、娘に「写真撮ってお天気何とかに載せないの?」と催促され、撮った写真がこれ。


あんまりうまそうに見えませんが、どうしてどうして、うまかったです。
にがり増量で水にさらす前はちょっとにがりの味を感じてしまいましたけどね。


これは楽しいし、できたてがうまいので、ちょっと研究しようかな、と思ってしまっています。平気で4時とかに目が覚める今日この頃、豆腐屋でも始めようかと・・・。


さて、日曜日の聖書。
日曜日の朝は、レビ記の17:1−16を読みました。


「いのちとしての贖いをするのは血である」11節。

今、私たちは「いのち」について考えなくていい生き方をしていると思います。
肉や魚を食べる時にも、その命をいただいている、という感覚を持たないことが多いです。

聖書の時代には、その血を注ぎ出して、命をいただいている、と受け取ったり、犠牲の動物も、文字通り、自分の身代わりだったわけです。

また、人の生き死にの場面に出会うことも少ないです。

たぶん、なるだけ、見えないところに追いやられてしまっているのだと思います。
肉を食べるために屠殺する場面も、人がその人生を終えて、旅立って行く時も、私たちに見えないところに押し出されてしまっているのです。

仕方が無いといえばそうですし、私もそのような場面をたくさん見るべきだと思っているわけではないです。でも、それゆえに、命の大切さや、ありがたさを見失っていないかと思うのです。

イエスの十字架もそうです。

私たちの命の回復のためには、イエスの血が流されなければならなかった。血は命そのものだから、贖うことができる。

それなのに、イエスの十字架の恐ろしさ、痛み、苦しみは、後ろに追いやられ、ほかのこと、充実した教会イベント、マネージメントのよさ、いい音楽、本音トークができること、それらが教会の中心になり、力になり、活力の元になっていないだろうか?

いつもいつも、いつまでも、この十字架の恵みが中心。
そのことを忘れないでいたいと思います。

主よ、
イエスの血が流されたから、
私たちが救われていること、
心から感謝します。


どうか、どこまでもどこまでも、十字架のもとに救いがあり、喜びがあり、力があることを、忘れることがないように、そのことをいつもいつも伝えていくことが出来るように、守り、導いてください。


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