2010-11-11

葉っぱのフレディを読む。

今日はまたいい天気でした。
朝から晩までスカっと晴れました。


夜、冷えてきています。
今は夜の11時ですが、すでに2.5度。
明日の朝は氷点下ですね。


この秋最低の−0.2度を下回る可能性もあり!


さて、今日はMaywoodのJOYJOYキッズクラブ。
楽しかったです。20人余りの子たちが来てくれました。
そのなかの7割くらいが男の子。


そんな中で、今日は久しぶりに私が絵本の読み聞かせを担当しました。
今月は秋らしく「葉っぱのフレディ」。
子供たちは一生懸命聞いてくれました。


日野原先生が紹介してくださったということもあり、
日本では、クリスチャンの間でもかなり受け入れられている本であり、
またアメリカでも、Cokesburyなど、クリスチャン系の本屋でも売られています。


でも、今回、もう一度読んでみて、
聖書の死生観とどこまで一致するのか、いろいろ考えさせられています。


まあ、一番簡単なのは「聖書とは違う」と一刀両断してしまうことなんですが、それもいいのかな・・・というところもあり。


でも、今回もう一度英語で読んでみて、
それから日本語訳も読んでみて、
ずいぶん印象が違うことが気になりました。


私にとって決定的に違うな、と思わされたのは、


原作の
"Will we return in the Spring?" (春になったら、僕たちはここに戻ってくるの?)
"We may not, but Life will"(多分違うな、でも、いのちは戻ってくる。)
というくだりが、日本語訳では全くなくなってしまっているところです。


"may"と柔らかにですが、「輪廻」が否定されているのが、
日本では受け入れられないと訳者は考えたのでしょうか。


生かされている意味(木の全体像は、フレディが落ちていく時に初めて見える・・・)、みんな違う存在なのだ、死は恐れなくていい、というメッセージなどは、そうだなあと思いますが、やはり神のもとに行くのだという聖書のメッセージがそこに込められているかというと、違うなあと思いました。


今日はその後に「わたしがよみがえりであり、命である」と言われたイエスのことを話してまとめましたが、ちょっとこの後もこのテーマ、考えていきたいと思います。

昨日、今日の聖書。
レビ記15章。


「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」創世記1:27。

聖書の言葉は、今日の箇所ではないけれども、レビ記15章の面倒な一つ一つの戒めを読みながら、なんで、神さまは人間を男と女とに造られたのか、いろいろおもいめぐらしていた。人間に男と女がいるから起こることがこの世にはたくさんある。

人間に男も女もなくて、ただ「人間」だけだったらどんなに楽だろうかと思ったりすることもある。

でも、男と女とに造られたことが、「神のかたちに造られた」ことの意味だという解釈もあるくらいだ。

一つ思わされたことがあった。
女性は子供を産むがゆえに、自分のお腹を痛めるがゆえに、9か月間その一部として共に生きる。でも父親は違う。それをともに歩むけれども、やはり自分の一部ではなく、自己の大切な存在である妻の中に、自分とつながりのある命が宿る。でも、やはり、母親のように、その存在が自分の一部であるということはない。だから、子供との距離感が違う。見方が違う。本当に母の愛は偉大だ。父親である私にはどうにも太刀打ちできないほどの深いものを感じる。脱帽だ。でも、また神はまた違った見方をする父親という存在をもおいておられる。

女性に男性がいることによって、神は違った視点で物を見ることを要求しているのだと思う。
逆もまた真だ。

違った視線で見る人の存在をそこに与えておられるのだと思う。

男と女が造られた神秘。
また一つ一つ知っていきたいと思う。

主よ、
私を男性として作って下ったことに感謝します。
男性として与えられていることを、
積極的に行うものとなれますように。
そして、足りないものを、主に求める者とならせてください。


また、女性がこの世に与えられていることに感謝します。
もっともっと愛し、敬うことを教えてください。

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