2010-10-31

歴史を見る目。

今日は寒いです。
まあ、もう10月も今日で終わりですから、
寒くて当然といえば当然なのですが、
今は夜の10時で6.1度。
明日の朝は0度くらい、という予想が出ています。
Freeze Warning発令中です。


明日も晴れで寒いでしょう。


先週の後半、「日々のみことば」で列王記第一のアハブ王の時代を読みました。
そこで、ちょっと調べ物をしたくて、Wikipediaで「アハブ王」を調べると、先週末現在の記述で(これはいろいろ編集がされるので、またあとで読むと、違うことがまた書いてあるかもしれませんので、リンクは貼りません)、「旧約聖書に基づく事績」と「史実に基づく事績」という2つの項目が出てきます。そして、そこでは、まるで旧約聖書の記述と「史実」がまるで食い違っているかのような記述がされています。ものすごい違和感を感じました。


余り議論を巻き起こすことをこういうところで書くのは好きではないのですが、あまりに偏っていると思うので、思わされたことを書きますが、そういうのが嫌な方は読み飛ばしてください。


いったい、この項目を記述した方は歴史をどんなものだと理解しているんだろうか?
まるで一つの歴史観や世界観をもたない客観的な「史実」というものが存在して、それに対して、聖書は偏った歴史観で書かれているので、「史実」とは対立するかのような書き方だ。


しかし、そんな「史実」を私たちはどこにも見ることはできない。過去に起こった出来事が記述されるときに、それは必ず何らかの歴史観、世界観の中で書かれている。それがない「歴史」というものはこの世に存在するわけはない。確かに聖書は一つの独特の世界観を持って書かれている。アハブ王が神に従わないで、偶像礼拝を他国から導入したということに批判的な立場から書かれている。もちろん、それは「為政者にとって、どんな経済的な利益や軍事的な利益よりも神に従うことの方が大切である」という立場である。そういう視点で聖書は歴史を見ている。私もそうだ。それに対して、この編集者が「史実」だと言っている立場は「国の軍事的、経済的な発展」こそが為政者を評価する基準だという立場である。その2つの立場がぶつかっているだけなのに、その片方をあたかも客観的な事実であるかのような「史実」と呼ぶのはあまりに無邪気であるし、また不公平でもある。


ちなみに、聖書も、アハブ王が多くの功績を上げたことは決して無視はしていない。それを認めている。「アハブのそのほかの事績と、彼がしたすべての事と、その建てた象牙の家と、その建てたすべての町は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。」列王記第一22章39節。


でも、それは聖書にとっては大したことではない。ちょうど、この編集者が「イゼベルの祖国の宗教を持ち込んだ」ことを大したことではないかのように書いているのと何の違いもない。


歴史を見るときに、どんな視点で見るか、それは本当に大切な事である。


そして、それに負けないくらい大切なのは、自分がどのような視点で見ているかを忘れないことである。間違っても、自分の視点こそが「史実」を見る唯一の視点であるかのような勘違いをしないことである。そして、自分の視点では見逃してしまうことがあるのだ、ということをいつも忘れないでいたい。


もしかしたら、これは「歴史」だけじゃなくて、「人間関係」「政治」「科学」すべてを見るときに、いつも大切な事なのかもしれない。


ふう、疲れた。こういう文章を書くのは難しい・・・。


さて、いつものペースで「日々のみことば」から。
今日は列王記第一の22:41−53でした。


「彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。」46節。

この「神殿男娼」ってのはいったい・・・という感じがしますが、
聖書はそういう恥ずべき歴史も覆い隠さず書いているんですね。

でも、なかなか、一度生まれたものは取り除くことができない。

どんなにそれが神に喜ばれないものだと分かっていても、
そこに需要があり、そこに自分の身を売るものがいるときに、
そして、何よりも、甘い汁を吸う者がいるときに、
なかなか、それを一掃するのは大変なんだろうと思う。

アサ王はそれができなかった。

でも、アサ王の次のヨシャパテ王はそれを敢行した。

敢行する勇気と、それを達成させてくださる神。

私の心のなかも、取り除くことができないものはない。

主に求めよう。
主に期待しよう。

主が全てを取り除き、一つ一つのものをきよめてくださいますように。

主よ、
どうか、ヨシャパテ王の決意と勇気を与えてください。
そして、あなたが全てをきよめてください。

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