2010-11-12

明けの明星。

今朝は、6時ごろに、東の空に、金星が明るく輝いていました。
さすがにiPhoneのカメラでは・・・と思いながら、撮ってみると、
・・・ハハハ、わかるかな。



ま、わからなくもない・・・というところでしょうか。
ゴミが付いたのかな?という程度。


でも、ちゃんと写るんですから、ほんとに明るいんですね。
マイナス4等星くらいだそうです。


冷えましたが、ぎりぎり氷点下にならず。0.5度。
昼間は暖かくなりました。
夜はそこそこ冷えて、今9時半前で5.5度。


この先、週末は暖かな日が続きそうです。


さて、今日は早速聖書。
今日はレビ記の16章1−22節。


「わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。」2節。

「贖いのふた」とはイエスのことを予表するもの。
イエスの十字架を予表するもの。
そこにご自身が現れてくださる。

そう、神さまはいつも十字架の上にご自身をあらわされる。
その愛を知りたければ、十字架を見ればいい。
それなのに、いつの間にか、私たちは、
「物事の順調さ」に神を見ようとする。

たとえば、健康が与えられたり、
仕事が順調だったり、
子どもが願っていた学校に進めることの中に、
神様の祝福を見ようとする。

だから、うまくいかないと、
「神様の愛がわからない」となってしまう。

でも、聖書はそんなところに神の愛をさがすなよ、
と言っていると思う。

いかにも神さまが祝福してくださっている、
というところよりも、
神さまがおられるなら、どうして、というところにこそ、
私たちのちっぽけな頭で、一番「神さまらしからぬ」ところに、
ご自分をあらわされる。

十字架はその極致。

人々は「お前がそこから降りたら信じよう」とののしった。

そう、人間の常識では、
神だったら、神の子だったら、
そこから降りることができて当然だ、
いや、そこから降りるべきだ、
そんなところにイエスは行かれたのだ。

なのに、私たちはいつの間にか、
「トントン拍子に行く」
「うまく物事が進む」
ことのなかに、「神さま」を見ようとしていないだろうか?

十字架のもとに行こう。
そして、自分自身も十字架を負って歩み始めよう。
そこに神さまがおられるというのだから。

主よ、
あなたが、イエスの十字架に、ご自身を現しておられること、
そこに気がつかせてくださってありがとうございます。
あなたの十字架のもとにやすらい、
自分の十字架を背負って歩む者であることができますように。

2 comments:

  1. アーメン、アーメン!
    本当にその通りです!

    人々は「お前がそこから降りたら信じよう」というくらいひどい場所、
    それが十字架。
    そこが主のおられる場所。

    先生、ありがとうございます!

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  2. はちこさん、

    今朝のNJの明けの明星はほんとにもっともっと明るく感じました。

    私自身がイエスの十字架に神さまを知るまで、とても長い間、神さまは待っておられたと思います。いや、今も、すぐに「成功」みたいなことに神さまを見ようとします。教会イベントがうまくいく(=「たくさんの人が来る」「雰囲気が盛り上がる」など)ことで満たされた気持ちになったり・・・。でも、ホントは十字架のイエスにこそ、そこにこそ、神さまの愛が現れている、そして私たちを満たす泉があるんですよね。

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