2010-03-04

導かれたこと。

今日の午前中は、我が家での家庭集会。
ご都合の悪い方や、体調を崩された方などおられて、
小さな集まりでしたが、
クリスチャン以外の方々が3人来られました。
嬉しいです。
みなさん、「私のようなクリスチャンじゃない者が行っていいのでしょうか?」そう言われるのですが、私は、いつもいつも新しい方々が出入する集まりを持ちたいと思っています。いえ、私だけではなくて、教会はいつもそうですよね。


その中のお一人が言われました。
「私は何も知らないで、ただ、いくつかの候補の中で、名前がいい、ということで、今の町に引越してきた。でも、それはあなた達夫婦に会うためだったんだと思う」と。


一つ一つの出会いが主に導かれたものなのだと思います。
そして、私たちは神様の祝福を流す器なんだと。


この出会いにも本当に感謝しています。
そして、いつの日にか、「あ、でも、もっと言うと、神様に出会うためだったんですね」という言葉を聞ける日が来ることを祈りつつ。


さて、3月1日(月)の聖書。
マタイ20:1−16。


「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」14節。

私は確かに夕方来て、1時間だけ働いた者だ。
1時間だけ働いて1デナリ受け取った者だ。
そのことを本当にわかっているんだろうか?

いつの間にか、私は朝から働いている、
1デナリを受け取って当然だ、みたいなつもりになっていないだろうか?
とんでもない。
私は1時間だけ、働いて、
いや、主のお役に立つことなんか何も出来ないでいる者だ。
でも、主は豊かに与えてくださる。

そのことを、心の底から、ENJOYすることのできる者でありますように。
恵みを恵みとして、喜ぶ者でありますように。

主よ、
あなたの恵みに感謝します。
あなたの気前のよさに感謝します。
あなたが与えてくださる豊かさに感謝します。
どうか、それを心の底から、本当に底から、
感謝する者でありますように。

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