2009-11-05

自立。

元気なので、もう一つ。
先日紹介した「Ministry」第3号から。


記事の中で懐かしい名前を見つけました。
太田和功一さん。
大学の時に、大学を超えたクリスチャンの集まりで
お世話になりました。
個人的にもいろいろお話をするチャンスをもらいました。


今は特に牧師のためにサポートをする働きをされているんですね。
太田和さんのような方がそのような働きをされているのは心強いです。
このような働きの深さを思うと、日本はいいなあと思います。
アメリカはもちろん、もっと進んでいるのでしょうが、
日本語でそのようなケアをしてもらえる場はまずありません。
書きながら、そのようなことの必要を感じている自分が立ち上がることが必要なのか、と思わされています。


とにかく、記事で紹介されている氏の言葉。


「寄りかかる甘えの『依存』ではなく、誰にも頼らない『独立』でもなく、それぞれが自分の責任を負うという意味での『自立』を互いに支え合う、相互依存の関係。」


教会は「キリストのからだ」。


今まで、「自分と神様のとの関係」という言葉のもとに、
信仰があまりに個人主義的になっていたのではないかと思います。
もっともっと心を開いて、支え合う関係が必要なんですよね。
それも、土足で人の心に上がり込むようなのではなくて、
互いの自立を尊重しながらの、信頼関係の中の自己開示の関係。
信頼関係の中で、心の中に「お茶でもどうぞ」と相手を迎える。
そんな関係の深みへと導いて頂きたいです。


さて、10月31日(土)の聖書。
ユダの手紙17-25節。


「 疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」22-23節。

ある人々を「火の中から救い」
ある人々を「下着さえ忌み嫌う」
でも、どうやってそれを見極めるのでしょうか?

むずかしい・・・。

どちらをしても「これでよかったのだろうか?」と思うのではないだろうか?

ただただ、祈らされました。
見極める目を与えてくださいと。

事なかれ主義に陥ってしまうことがないようにと。

いずれに対しても「憐れみ」という言葉が出てきます。
いつもいつも愛を与えてくださいと。

主よ、
どうか、私に人を見る目を与えてください。
霊を見分ける賜物を与えてください。
そして、愛を持って、憐れみを持って、
人に接することができますように。
事なかれ主義や、逃げの姿勢に入ってしまうことがありませんように。
愛を持って真実を語ることができますように。


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