2008-09-22

はじめの愛。

今日も穏やかな一日。
昨日ほど暖かくなかったですが、
それでも十分。
今日は秋分の日ですから、
アメリカではFirst Day of Fall。
秋の始まりの日です。


8月頃から涼しくなって、
ずっと朝は15度、昼間は25度という感じできましたから、
急に「秋」と言われても、前から秋なのか、
夏の終わりだったのか、わかりません。
本格的に秋が深まっていくのは10月になってからのようです。


それから、週末にかけて東海岸をStormが北上してくるシナリオがあります。
これは今日の夕方のGFS。
土曜日の朝の予想図ですが、

「これはまずいでしょ」という予想図ですね。この朝、ミシガンに飛ぶ予定なのに・・・。
でも、お天気牧師のテーマソングのとおり、「晴れの日にも、雨の日にも」神さまを賛美したいと思います。


今朝、起きるのがちょっときつかったのですが、
起きてからは気持ちが前に向いていくのを感じました。


そして、賛美し祈っている中で、
3月だったでしょうか、朝教会で祈り始めた時の思いが帰ってくるのを感じました。
「あなたとのパイプを太く持ちたい」「あなたの思いを分かち合って欲しい」
ちょうど半年前だったんですね。
引き戻されました。


昨日までの毎朝も、主がそこにおいでくださって、
共に時間を過ごしてくださったことを感じます。
わたしがもう眠くて「主よ、うとうとしながらでもいいですか?」
と、祈るためにそこに来たのだか、居眠りをするために来たのだかわからない朝も、
主はわたしを喜んでくださったことを信じます。


でも、主はやはりみことばを語ろうとして
わたしを招いてくださっている、
心を備えて出るときに、触れて頂ける部分がある。


そのことを感じさせられた朝でした。


昨日、9月21日、日曜日の聖書。
日曜日はサムエル第二12章15-31節。


「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」23節。

昨日は教会のメモリアル礼拝だったので、
特にこのところが心に留まりました。
私たちがやがて彼らのところに行く。

故人は私たちの思い出の中に生きていく、とよく言われます。
それは一つの慰めです。でも、そこまでです。
神を計算に入れないと、そこまでが精一杯です。
でも、聖書はそれだけではないと言います。
主の御許に行くと。そこで死を超えたいのちを生きると。

だから、今度は私たちが与えられている使命を果たして、
故人の待っている主の御許に迎えて頂けるようにと思います。
(聖書にはイエスが再び来られる最後の日まで眠っているという表現と、召されたその日に主の御許にいるという表現と2種類があります。どちらでも大きな違いはないでしょうし、おそらく、その時点で時間を超える存在にされるのではと思います。)

そこで共に主を賛美することを楽しみにしています。

昨日も若くして主の御許に召された方のことを考えていました。
その方が召された後、ご両親が主を信じる者とされたのですが、
考えてみたら、彼女はご両親がクリスチャンになることを生きている間に知ることはありませんでした。
考えること、想像することも難しかったかもしれません。
この地上では、3人で一緒に神さまを賛美することもありませんでした。

でも、やがて天にてお嬢さんとご両親が共に主を賛美する、
そのとき、きっとわたしもその傍らに立たせて頂ける。
それだけでも、天国に行く価値がある、そのように思いました。
(もちろん、それだけではないですが・・・)

主よ、
あなたがいつもいつもわたしのことを
待っていてくださること、
心から感謝します。
どうか、この地上の生涯を守ってくださって、
あなたの御国に行くまで、支えてください。
楽しみにしています。
でも、この地上でも、もっともっとあなたと共に生きる喜びを教えてください。

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